3-4

 神の悪戯は通常、それを引き起こした神によって様々な現象が確認される。夢を司る神ならば覚めない眠りを強制され、運命を操る神なら思わぬ幸運と不運に苛まれる。今回の場合、泥の眷族が暴れていることもあって大地か水を権能とする神様が関わっていると思われた。なので藤芽たち神職は水場の近くに陣を張った。町中に巡らされた水道を警戒するにはあまりに人手が足りず、大本となるような川や池といった場所を抑えにかかったのだ。

 屋代たちが配置されたのもその一つ。街からそう離れていない場所は閑静な住宅が並ぶ一角に構えられた公園だった。その中にどっしりと構えられた不純物のない池は、平時であれば絵になる美しさだが、人気がない現在ではどこか物悲しい。近くの人を無差別に襲う今眷族が現れる場所としては十分考えられるため、先んじて屋代たちは待ちかまえようと足を速めた。


「……これは」


 しかし、どうやら間に合わなかったようだ。到着した屋代の目に入ったのは、無残に打ち壊された遊具の数々。そのあたりの地面に転がっている握りこぶし大の破片は池を囲っていた柵の名残だろう。明らかに目減りした池の水位が、そこから何かが出ていったことを示している。引きずるような轍が引かれた地面を眺め、藤芽が眉を寄せた。


「へぇ。面白くなってきたじゃねえか」


 その光景に流堂は笑みを浮かべた。眷族を警戒するだけの退屈な任務かと思っていたところに、もしかすると戦えるかもしれないという楽しみができた、と。それゆえの歓喜に、同行する征徒は顔を顰めた。


「まだ眷族がどこかにいるかもしれません。慎重に行きましょう」


 境内で無駄に時間を消費したために間に合わなかったのではないか。そんな思考が脳に浮かび上がり、屋代は自責の念を抱いた。

 もはやどこが入り口だったのか分からないほど破壊された境界線を越えて、藤芽の後ろから公園内を索敵する。


「皆さん、警戒を。どこから眷族が出てくるかわかりません」


 注意を促してくる藤芽の言に、屋代は眉間に皺を寄せながら心を据える。油断すれば潰れた蛙のようになると、眷族の脅威を知っているからこそいつでも動けるように足に力を入れた。東雲たちと共に周囲を見渡すが、動くものはいない。風にあおられて転がる瓦礫の音以外ほとんど聞こえない状況に、流堂がぼやいた。


「どこにもいないじゃないか。まさか逃げ出した、なんてことないだろうな」

「それはありません。神の悪戯は、それがそんな形にせよ人に対して与えられます。今回は厄災としてですが、それでも対象となるのは基本的に人間です」

「それにしては静かすぎます。眷族の姿も見えません。もしかすると、逃げた人たちを追ったのではないでしょうか?」


 征徒の懸念に、藤芽は一つ頷いた。


「可能性は高いでしょう……。皆さん、ひとまず周囲の住宅に人が取り残されていないか確認しましょう。そののち、避難先に向かいます」

「今すぐ追わないのか?」


 もしも本当に眷族が人を追っているのなら危険すぎる。すぐにでも追いかけて眷族を倒すべきだ。屋代はそう疑問を上げたが、藤芽に首を振られた。


「万が一にも人が取り残されていれば眷族に狙われかねません。人々を守ることを優先します。それに、避難先にも神職が待機しています。仮に眷族がその場に現れても対処しているはずです」

「………ちっ」

「流堂。勝手な行動するんじゃないわよ?」

「は? お前に指図される理由はない」


 残念がった流堂にくぎを刺したのは波嬢だった。この場で唯一危機感もなく余裕さえ見せている流堂は、咎めるような目を向ける波嬢に声を低くした。


「別にアンタがやられようと構わないけど、今は全員で行動してんのよ。アンタが勝手に動けば必然的に金魚の糞が二つ動くでしょうが。行動を乱すなって言ってんの」

「ふ、糞ですと!?」「何てこというんだなこの女っ」


 波嬢の視線を受けて憤慨する取り巻き二人。だが、流堂は気にも留めない。


「それはお前たちのように一人で眷族を相手にできない場合だろう? 俺は違う。俺なら一人でも眷族を倒せる」

「………倒せる倒せないの問題じゃないでしょうが。動くなって言ってんの。いい? 理解出来たら黙ってなさい」


 まずい、と端で聞いていた屋代は冷や汗をかく。波嬢の口調がどんどん粗雑になっている。ただでさえ眷族を相手にするかもしれないと気を張っているところに、相性の悪い流堂がともにいるせいか、荒れていることがありありと伝わってくる。こんなところで喧嘩でもすれば大惨事だ。

 屋代と同じ危惧を、前を行く藤芽も抱いたのだろう。振り向いたその顔は厳しく、その心境を形作っていた。


「貴方たち、いい加減にしなさい。ここで言い争うなどっ、――避けなさい!」

「!?」


 悲鳴じみた警告。それを聞いた屋代たちが驚きで体を固めると同時、近くの民家から眷族が飛び出してきた。


「これは」


 一体、いや二体。まるで屋代たちを挟み込むように家を破壊しながら突撃してくる眷族に、その場にいた全員が目をむいた。


「逃げるんだ!」


 続いた征徒の大声に、屋代は硬直してしまった体を覚醒させる。驚愕から立ち直る暇もなく、聞こえた指示にただ従えと足を動かした。連続で立つ鈍い振動音は、そのまま眷族の重量を意味している。闘牛など目ではないほど遮二無二突っ込んでくる大質量を前に、屋代は傍にいた波嬢の手を掴んでもろとも横跳ぶ。


「はあっ!? ちょ――」


 波嬢から批難の声が上がったようにも聞こえたが、気にしている場合ではないと黙殺。

 眷族に巻き込まれた風が頬を撫でる感触に肝が冷える。このままでは踏みつぶされると二人して地面に転がった。


「――――~~!」


 さすがに巨体だとすぐには止めれないのか。勢いづいていた眷族たちは、池の周りを彩っていた木々をけり砕きながら、屋代たちの間を綺麗に駆け抜けていく。声はなかったが、地面をこすりつける泥の足が舌打ちのような擦過音を鳴らした。


「あ、ぶな」

「は、放しなさい! いつまで抱きしめてるつもりよ!?」

「ぐぼっ」


 右のアッパー。いつの間にか地面に押し倒していた波嬢から放たれた拳が屋代の顎を的確に捉えた。初撃を避けられたことに安堵していたから、不意打ちをまともに食らう。本日最初の負傷は味方からの攻撃であった。


「ふーっ、ふーっ」

「わ、悪い……」


 顔を赤く染めながら両腕で体を守る様は暴漢に襲われた少女のようであった。そんな場合でもないというのに手を上にあげる。


「大丈夫かい、二人とも!」

「東雲……藤芽さんもか」


 駆け寄ってきた征徒と藤芽に目立った傷もなく、無事な姿に安心する。


「動けるのなら今すぐ準備を! 眷族は私たちが引きつけます。その間に祈相術の準備をしてください!」


 確認もそこそこに、藤芽が構えをとる。見ると、通り過ぎて住宅に突っ込んでいた眷族が立て直していた。目のないのっぺりとした顔が、屋代たちをとらえるよう左右に揺れている。

 残りの巫女たちがもう一体の眷族を前に立ちはだかる。その後ろで、征徒が舞を舞うための場を作るため急ぎ地面を均した。屋代もすぐに飛びつき、瓦礫を遠くに投げ捨てる。


「くそっ、いったいにいたんだよっ」

「隠れていたようだけど……もしかすると僕らを待ち伏せしていたのかもしれない」

「待ち伏せぇ? そんなことあるのか……っ?」


 もちろん眷族にも独自の判断能力くらいあるだろう。しかし、征徒の言葉が正しければ、屋代たちが狙われたということになる。いや、この場所に来る神職を狙ったと考えるほうが自然か。二体の眷族、状況からしてこの場で生み出されたものが、逃げた人を追わず、邪魔になる屋代たちを待ち構えたことに戦慄する。神本柱か、眷族の思考によって行われたことか不明だが、一体でも持て余す存在が倍居るのだ。そう思うと体が震える。


「上等よ、この前の復讐してやるわ」


 息を落ち着かせた波嬢が、屋代が平らにした地面に両足を乗せる。眉を吊り上げて構える手足は力が入っていた。


「復讐はともかく、僕らを狙ってくれるのはありがたい。住民を守りながらだと僕らだけじゃ戦うことは難しかった」

「へぇ、やる気じゃない?」


 波嬢が挑発的に口の端を持ち上げると、征徒も埃で曇った眼鏡を拭きながら苦笑した。


「やるさ。出ないと僕らが殺されてしまう。なによりこれは機会だ、ここで眷族を鎮められれば他の人の安全を確保できる」


 不意を打たれはしたものの、眷族を探す手間が省けたと捉えることが出来る。問題は、ここで眷族を倒せるかどうかだ。


「俺も囮になります」


 屋代は藤芽よりさらに一歩分前に出た。祈相術が使えない以上、後ろにいたところでやれることがない。屋代にできるのは、命を張って眷族の意識を集めることだけだ。


「それは――、いえ、そうですね。お願いします。私も隙を見て祈相術を使うので、その分負担が大きくなると思いますが」


 止めるべきか否か、藤芽は眉を寄せたが、屋代の無能を知っているだけに言葉を留めた。代わりに告げたのは、屋代にさらに負担をかけるものであった。


「大丈夫、やります」


 それを、屋代は受け入れる。もとより、征徒と波嬢だけで眷族を止められるとは考えていなかった。前に見た眷族よりも若干小柄であっても、強力な眷族を相手に、火力が足りない現状、正式な巫女である藤芽の力が不可欠だ。

 祈相術を使えなくてもやれることはある。屋代はそう自分に言い聞かせた。


「お二人は眷族を止める術を使って下さい。隙が出来次第私が鎮めます!」


 はい、という返事はなかった。すでに祝詞に入っていた二人は、視線だけで了承を伝えてくる。


「行きますよ!」

「っ」


 藤芽の号令。屋代は真っ先に飛び出す。もう一体の眷族のことは考えない。二体同時に相手を出来るわけがなく、あちらはあちらで対処してくれるよう願うしかなかった。


「海浪じゃないが、今度は失敗しない!」


 あの時のように下手は打たない。散乱し、荒れた地面に意識を割きながら、今度は屋代が眷族に突っ込んでいく。一歩、二歩と近づくと眷族も屋代に気づいた。彷徨っていた頭部がびたりと静止し、目のない顔が屋代に向けられる。


「――――!」

「それは前も見たぞっ」


 飛び掛かり。四本の足を軸にして空中に泥の体を躍らせ。質量を持って屋代をつぶさんとする攻撃。以前も恐怖させられた一撃を、汗を飛び散らせながら回避する。


「こちらを向きなさい!」


 いつの間に術を使ったのか。藤芽の手から冷気が放出された。型による舞がほとんどない、印と祝詞を組み合わせた簡易な術は、その規模こそ小さかったが効果は抜群だった。眷族の体の一部を氷結させ、自重によって本体から欠落させた。


「よそ見しないでください! まだ動きます!」


 その忠告は正しく、眷族は自分の体が欠けたことに頓着しなかった。大部分が残る泥の前腕が振り下ろされる。かろうじて残っていた木々がへし折られ木片が宙を舞った。

 屋代は両腕で顔を覆いながら、急いで距離をとった。

 もとより痛みを感じない泥の体、倒すためには形を保てないほど削るしかない。そのためにも囮の屋代はできる限り眷族の注意を引くしかない。


「―っくそ」


 当たれば戦闘不能に、悪ければ再起不能にもなりかねる眷族の一撃を、見開いた目を頼りに潜り抜ける。もとより一度は経験しているのだ。加えて。


「屋代!」


 征徒たちからの援護もある。髪を千切りとられるような荒い尻尾の動きを、操作された地面に助けられる。波嬢の放つ突風を追い風に足を加速させる。二人からの援護もあって、屋代は囮の役目を果たせていた。


「―――」


 屋代とは反対に、眷族には十分すぎる嫌がらせが降り注ぐ。征徒が引力を発生させることで動きを阻害させ、鬱陶し気に薙ぎ払われた眷族の腕を脇に逸らす。屋代という的を絞らせまいと、波嬢が風によって目測を誤らせる。無理に眷族を倒すのではなく、行動疎外と嫌がらせを繰り返すことで、眷族の意識から彼女を隠す。


「祈りを空に。願いは集い――」


 舞うのではなく、その場での簡単な足さばき。体全体を使った型ではない祈相術を唱える藤芽は、暴れる眷族から視線を逸らすことなく言葉を紡いでいる。しかし、眷族にそれを感じ取ることも、危機感を抱くこともなかった。白石が何をしているのか、たとえそれが分かっても屋代たちが近づけさせない。


「覚める空。積もる寂寥は粒となった降り注ぐ」

「――――!」


 眷族の大旋風。いい加減業を煮やしたのか、周囲ごと薙ぎ払わん尻尾の旋回を、征徒によって持ち上げられた地面を足場に飛んで回避する。轟轟と大気の鳴き声を耳にしながら、つかの間の浮遊感を体感する。


「離れなさい!」


 波嬢の警告。着地寸前に放たれた台詞に、屋代は歯を食いしばった。


「くぅのっ」


 地面に降り立った衝撃が全身を貫く。屋代の体重を受け止めた両足は大きなしびれに苛まれ、一呼吸反応が遅れてしまう。だが、それでもその場から少しでも離れんと無理やり足を動かした。なぜなら。


「霜の季節」


 藤芽の祈相術の効果範囲に入ってしまうからだ。


「――――――!!」


 眷族に声を発する機能はない。しかし、それは確かに悲鳴だったのだろう。頭上から降り注ぐ白い雪の粒、指先ほどのその塊が眷族の体に纏わりつく。胴、足、尻尾、そして頭部。それらを形作る水分が一気に凍結され、動きが鈍くなっていく。初めは一カ所だけ、しかし時間がたつごとに凍結部分は増えていき、気づけば全身へと広がった。


「お、おぉっ?」


 そんな体で動こうとすればどうなるか。その答えを示すように、眷族の尻尾がちぎれとんだ。固まり、凍り付いた四肢を無視して屋代を狙わんとする眷族だったが、その行動は自分の首を絞めていく。前に出さんとした足が半ばから折れ、剥離するように凍った泥が落ち、首を持ち上げようとすればその形のまま固着してしまう。

 そうして数分後、眷族は氷の彫像と化した。


「やった、のか……」


 呆然とした呟きは屋代のものか、それとも背後で踊り続けた征徒たちのものか。今にも動き出しそうな躍動感はそのままに、けれど体の大半を失った眷族が再び動くこともなく、どうにか鎮めることに成功したのだと実感できた。


「っ、もう一体の方を―」

「そ、そうだ。まだ居たんだ」


 せき込む藤芽の声に、屋代は感動を覚える暇を与えられなかった。すぐさま応援に行かなければと走り出す。

 だが、そこに見えた光景に足を止めてしまった。


「はははははっ、いいな、楽しいなぁおい!」


 流堂が踊っていた。ゲラゲラと、心底楽しんでいると体中で表して、瓦礫が散乱する地面で舞を舞っている。


「あれは―」「アイツっ」


 後ろから追ってきた征徒や波嬢も、流堂の姿に立ち止まった。たった一人、眷族の攻撃を躱しながら祈相術を行使する姿に目を疑う。


「さすが流堂様!」「だなっ、そこなんだな!」

「ふははははは」


 笑声が響く。本来囮の役目をこなすはずの巫女を放って、ただ一人きりで眷族を相手にしている流堂。すぐにでも助けに行かねばならないはずの状況だったが、屋代はその場を動けなかった。なぜなら、流堂は間違いなく眷族と渡り合っていたからだ。


「貴方たち、何をやっているのですか!」

「す、すみません」「コチラの話も聞かずに前に出てしまってっ」


 傍観者になり果てている同僚を𠮟りつけようとした藤芽だったが、話を聞くうちに黙り込んでしまった。巫女たちの制止を振り切り飛び出したという流堂に厳しい目を送る。


「戻ってきなさい! 一人では危険すぎます!」

「…………」


 藤芽の声は聞こえているはずだ。だが、流堂は黙殺した。振り向きさえしない。まあ、眷族と相対しているときに顔を逸らせば危険ではあるが。


「藤芽さん、援護しますか?」


 眉間に皺を寄せた征徒の問いかけに、藤芽は一瞬迷ったのちに首を振った。


「いえ、彼は私たちを気にせず戦っています。こうなると連携も何もありません。無理に術を放てば彼に当たる可能性もあるでしょう。それに―」

「このまま鎮めちゃうかも、てところかしら」


 藤芽の言葉を途中で拾った波嬢がそう言った。その顔は不満をありありと載せ、今にも噛みつかんばかりに歯を鳴らしている。

 流堂は屋代たちを顧みていない。だがそれは、その必要がないからともいえた。


「祈り――」


 流堂の声が届く。走りながら、だからだろう。流石に途切れており上手く意味を拾えなかったが、それは確かに祝詞であった。


「祈相術を……」


 逃げながら祈相術を使っている。いや、正確には使う準備をしている。屋代のように躓くこともなく、乱れた足場でありながら、なおも舞を舞っているのだ。眷族の尻尾をしゃがんで避ける時も印を崩さず、振り下ろされる足の一撃を横跳びで交わしながら祝詞を唱える。それは、ある意味神職にとっての理想形だろう。回避と祈相術の同時行使。眷族を倒した藤芽でも援護がなければ使えなかったそれを、まだ十代半ばの流堂がこなしている。


「流堂君……」「ちっ」


 征徒が大きく目を見開き、波嬢が苛立たし気に足踏みする。二人とも、同時行使がいかに難しいのか理解できるだけに、流堂を見直さざる負えなかったのだ。とはいえ、流堂も不慣れなのだろう、屋代から見える流堂は大量の汗をかき、舞の型もぎりぎり保っているという風であった。それでも、型の範疇であれば祈相術は発動する。


「はっ、消え失せろ!」


 轟雷一砲。

 流堂の手から放たれた黒い雷は、その電圧を物語るように眷族の顔面を焼き切り、体の半ばほども飲み込んだ。空気を叩くような爆音が鼓膜を揺らす。反射的に耳を塞いだ屋代たちの目の前で、首から上を失った眷族がただの泥になって崩れた。


「………」


 その威力に、屋代はおろかその場に居た全員が息をのむ。あの波嬢でさえ、無意識に足を震えさせていた。無論、神職全体を見渡せば今のと同等以上の祈相術を使える者はいるだろうが……。


「は、この程度かよ。まあそこそこ楽しめたぜ」

「さすが流堂様です!」「こ、これ、お水なんだな」


 取り巻き二人に称賛され勝利の余韻に浸る流堂を、屋代は呆然と眺めた。

 その脳裏には、いつだったか白石が言っていた言葉が再現されていた。


「眷族を相手にできるのは特別な武器を持つか、それとも天才か」


 眷族を一人で倒しきった。それはまさに、白石の言う通り才能に裏打ちされた実力であろう。これまでさんざん吐いていた大言が決して嘘や偽りでもなかったことを証明した瞬間だ。


「はっ」

「!? アイツ!」


 屋代たちの方を見て、勝ち誇るように、あるいは見下すように笑う流堂。その視線は、お前たちとは違うのだとはっきり嘲笑していた。そんな目を向けられた波嬢は、当然頭に血を登らせたが、その足を前に進ませることはできなかった。


「っっぅ」


 悔し気に歯ぎしりするだけで止めたのは、彼女の自制心の賜物だろう。覆しようのない結果を目の前で見せつけられたのだ、何も言えなかった。

 眷族は倒しきった。待ち伏せされ二体を相手にしながら大きな怪我もなく切り抜けられたのは、まだ学生である屋代たちをして快挙といえる。だがしかし、この場にいる者たちが纏う雰囲気は微妙なものだった。


「俺は……」


 目の前で繰り広げられた戦いに、先ほどまで感じていた高揚感が過ぎ去っていた。眷族を鎮めた、少なくともその一助になれたことで覚えた確かな充実感。祈相術を使えなくても、もしかすると神職就けるのではと思ってしまった自分を自覚した瞬間、屋代は足の力が抜けてしまった。


「こんな」


 流堂の性格など認められるものではないが、繰り広げられた戦いは屋代の理想そのものだった。敵の攻撃を避けながら、祈相術で反撃する。それは、屋代がこうしたいと考える戦闘態勢で、絶対に不可能な戦い方だ。


「あぁ……」


 屋代は貢献した。眷族の注意を引きつけ見事に助力してのけた。評価されることに間違いはないが、では、一人で戦い勝利した流堂はどうだろう。独断専行、周りに迷惑をかけて勝手な行動をとった。許されることはないが、怪我もなく眷族を退けてしまった。結果が良ければそれでよいなどといわないが、それでも称賛される成果だろう。

 羨ましいと、そう感じた屋代の心は折れた。

 己に実現不可能なことをやってのけた同級生に、この時確かに屋代は膝をついたのだ。


「藤芽さんこれからどうしましょう。他の場所に救援に向かったほうがいいでしょうか?」


 心のうちで静かに崩れ落ちた屋代に気づかず、征徒は眼鏡の位置を直しながら藤芽に訊いた。


「……いえ。順番が違ってしまいましたが、人が残っていないか確認しましょう。今の戦闘に巻き込まれていないとも限りません。早急に見回りを行いましょう。ただ、これ以上この場に眷族がいるとは思えませんので、手を分けます」


 次のすべき行動を考えながら、藤芽はほかの巫女に指示を出す。この場の眷族を退けたからと言って安堵するにはまだ早い。ひとまずの脅威が居なくなったことで弛緩しかけている空気を、やるべきことを提示して引き締め直した。

 見て回るべき順序を思索し、どこをどう確認していけば早く効率が良いかと周囲を見渡して。


「…………無様」


 そう声を掛けられるまで、その存在に気づかなかったことに瞳を大きくした。


「浄環ノ神?」

「え!?」「なんでここに?」


 その神は屋代たちがもともといた公園内にたたずんでいた。未だ滾々と地面から湧く池の上に立つ神秘の存在が、音もなく屋代たちを見つめていた。

 これには鼻高々となっていた流堂といえど目を丸くする。前触れもなく現れた神様を前に胸を張り続けることはできず、その顔を不快気に歪めながら屋代たちのもとに戻った。


「浄環ノ神、なぜこのような場所に? それにお供は? まさかおひとりでいらっしゃったのですか?」


 自らが仕える神の唐突な出現に、藤芽は困惑を隠せなかった。ざわつく巫女たちも、姿勢を正すことも忘れてお互い顔を見合わせている。


「…………」


 浄環ノ神は答えない。まるで海の中にいるように髪が宙を揺蕩うに任せ、感情のない瞳で屋代たちを見定めている。


「神よ、なぜお答えいただけないのでしょうか。今この時も他の場所で多くの神職たちが眷族を相手に奮戦しています。我々もすぐに助けに向かわねばなりません。どうかそのお心内を聞かせてください」


 忙しいからここに来た理由を早く教えろ、という意味を実に丁寧に包装した藤芽の台詞である。実際、こうして神様と対面している時間が惜しい状況だ。何の理由もなく様子を見に来ただけであればお引き取り願いたいところである。


「状況把握」

「畏まりました。巫女の一人を残しますので、彼女からここで起きた仔細をお聞きください」

「イナ、不要」


 藤芽の提案を即座に退けた浄環ノ神は、首を巡らせると壊れた眷族に視線を向けた。藤芽によって凍り付いた彫像、流堂により崩壊した眷族をじっと見つめた。


「……では神よ。私から一点、お尋ねすることをお許しください」

「藤芽さん?」


 この状況で神に訊くこととはなんだ。屋代は訝しく呟いた。


「神よ。状況を把握するために足を運んだということでしたが、一体それは誰の状況を確認するためなのですか? 我々巫女ですか? 預かっている実習生たちですか? 巻き込また市民の安否ですか? それとも」


 一拍置き、藤芽はこれまでの真面目な表情を変えることなく告げる。  


「それとも、やはり、この一連の騒動を仕掛けた者として眷族たちの状態を直接見るためでしょうか」

「はあ!?」「一体何を言ってるんだ?」「どういうことよ……」


 藤芽の放った台詞は、屋代たちが予想出来ないモノだった。騒動を仕掛けた、つまりこの眷族が各地で暴れている神の悪戯を起こしているのが浄環ノ神であると、藤芽はそう指摘したのだ。


「この数日、貴方様の様子がいつもと違っていることには気づいていました。それが気まぐれによるものか分かりませんでしたが、今朝の、ここに来るよう私たちへ下された指示と待ち伏せ、そして眷族の姿を見て確信にいたりました……神よ。どうかお答えを。なぜこのような所業を成されたのでしょう」


 驚愕に体を固まる屋代たちをしり目に、藤芽はあくまで丁寧に、神職としての礼儀を崩さず神に問いただした。激昂しているわけでもなく、糾弾しているわけでもない。あくまで神に仕える者として、その真意を尋ねていた。

 そうして訊かれた神の返答は短い。


「不浄、許サジ」

「……浄環ノ神。貴方様は穢れを嫌い、水の濁りを正す存在。ならばこそ、このような人の命を奪わんとする暴行はやめるべきではないでしょうか」


 もしも藤芽の言う通り、この神の悪戯を仕掛けた存在が目の前の浄環ノ神だとすれば。ここで説得できれば各地で暴れる眷族を収めることができる。もうこれ以上傷を負う必要もなくなる。屋代はそのことに気づき、自然とかたずをのんだ。藤芽が真剣なのも当然だ。今ここで、浄環ノ神を納得させられれば、一連の騒動も収束されるのだから。


「イナ」


 しかし、神とは人の上位者にして己に忠実な存在。


「不浄、ソハ人ナリ」


 その思考も思惑も、人のそれと一致しない。


「………………」


 放たれた言葉を理解するのに数瞬。瞼を開閉させる。呼吸を挟み、そうしてようやく浄環ノ神の言葉を飲み込んだ時には盛大に顔を引きつらせた。


「人そのものが穢れてるって言いたいのか? な、なあ、どう思う東雲?」

「………」

「海浪?」

「……アタシに訊かないでよ」


 顎が外れんばかりに口を広げて呆然とする征徒は答えてくれず、波嬢も心なし顔を青ざめさせている。今、屋代の聞き間違いでなければ、神が人を否定したように思うのだが。


「…、神よ。だからこそ、この蛮行を成されたと? 貴方様が思う穢れとは人間そのものであると?」

 

 藤芽の声も震えていた。今まで仕えていた相手から突如として裏切られた。それも、人間では太刀打ちできない絶対存在である神からの絶縁状だ。その恐怖と絶望は筆舌しがたく、いっそ気絶したくなるほどであろう。


「しかし、貴方様はこれまで我々に寄り添われていました。その生活を支えるため、人里離れた場所ではなく人の中にそのお社を置いてくださいました。なぜ今になってそのようなことをおっしゃるのでしょう。我らに落ち度があり、お怒りであるというのであれば、どうかお言葉をいただきたい。貴方様を失望させてしまった罪は我ら巫女に。市井の者たちには慈悲をお与えください」


 これがただの神の悪戯ではなく、人社会を見限った神の行動だとすれば、過激すぎる眷族の行動も納得はいく。だが、神一柱が離反を望んだところで叶うことは難しい。この国にいるほかの神々が、特に、人の保護や慈善に熱心な神が、浄環ノ神を許さない。神の悪戯程度であれば人が対処すべきだと手を出さなくても、神本柱が出てくるとなれば話も違ってくる。遠からず、ほかの神によって粛清されるだろう。

 屋代であっても分かる理屈を、浄環ノ神が理解していないとは思えなかった。首筋に流れる汗を手で拭いながら、浄環ノ神の反応を伺う。


「ソレ――……」

 

 神の動きが止まる。唯一周囲を認識していたその目が一点に固定され、体が微動だにしなくなった。完璧に整いすぎた容貌と相まって、まるで彫像のようだ。


「人ノ中デ在レバ効率ヨク排除可能?……否。脆弱ナ肉体、命ヲ奪ウ事ハ容易イ。サレド、何故今……」

「いかがされました。浄環ノ神?」

「……ソ、レハ」


 何かを応えようとして、しかし次の言葉が出てこない。人と違って口の動きが確認できず把握しずらいが、どうにも言葉に詰まっている様子だった。それはまるで、矛盾を指摘されたような、己の行動を顧みて自ら不信に陥った人そのものだ。


「やはり、記憶の一部を変えるだけではその点を付かれた際に弱くなる、今後の課題ですか。………まあ、今後などあるか分かりませんが」

「誰ですか!?」


 誰何の声が藤芽から上がる。いつの間にか、浄環ノ神の近くに二人の人間が立っていた。

 一人は白髪交じりの老人。年季の入った顔には皺が走り、まさしく年老いた表情ながら、その立ち方は堂に云ったもの。背筋の通った姿勢とその着物姿に、屋代は見覚えのある名前が思い浮かんだ。


「冴木さん? どうして貴方がここに……」


 藤芽の疑問の声に、名を呼ばれた冴木が肩をすくめた。


「少し彼に用があったもので。申し訳ないが時間をいただいてもよろしいかな?」

「……俺に? いや、そもそも」


 どうして今ここに冴木がいる?

 冴木に視線を向けられた屋代は訝しく呟いた。ここは戦場だ。各地で眷族が暴れ、住民の避難指示も出ている。そんな中で、わざわざ命の危険を冒してまで屋代を尋ねにに来た? 可能性自体を否定するつもりはないが、あまりに考えづらかった。


「っ、いけません。神に近づかないでください!」

「何をそんなに慌てているのです? 神は私を守護してくださる大事なお方。何ら危害を加えられることはありません。そうですよね、神様?」

「…………我ガ信徒カ」

「な!?」


 気軽に、それこそ街中で偶然出会った古い友人に語り掛けるような態度で浄環ノ神に語り掛けた冴木に、浄環ノ神が応えた。停止していた首が回り、冴木の存在をしっかり認識したうえで。その一人と一柱の様子に藤芽が目をむいた。


「はい。貴方の唯一の信徒である冴木です」

「何用、ダ。別ノ用がアッタハズ」

「ええ、そちらは滞りなく終わりました。あとは詰めを行うだけ。それに最後は直接この目で見たいものでして」


 浄環ノ神は人を見限ったのではなかったのか。だからこそ、眷族を暴れさせ人の命を狙ったはずだ。先ほどまで屋代たちに向けられていたものは友好とは程遠く、感情こそ分からなかったが、言動が何よりも害意を現わしていた。にもかかわらず、冴木への態度はなんだ。唯一の信徒? ではここにいる藤芽たちは信徒ではないというのか。


「くそっ、わけ分からん。どうなってるんだよ」


 喉奥から呻きが漏れる。状況が変化しすぎて頭が追いつかない。


「………冴木さん。どういうことです。なぜ貴方が浄環ノ神の隣に立っているのです? 唯一の信徒ですって? 何を馬鹿なことを言っているのですか!」


 藤芽の激昂は道理であろう。巫女である藤芽たちを脇にして、唯一と、神自身が認めた事実を受け入れられるわけがない。

 だがもしも、これが偽りではなく真実であるとするなら。人間を敵として認識した浄環ノ神の信徒であるのであれば。それはつまり、冴木もまた屋代たちの敵ということになるのではないか。


「おやおや、そう怒鳴っては体によくありませんよ? とはいえ、ええ、理解できます。自分の認められない現実を前にして我を失ってしまう気持ちはよく分かりますとも」


 巫女たちの怒りを受けても、冴木は飄々とした顔を崩さない。


「なのでお答えしましょう。貴方の目に映るすべては現実です。浄環ノ神が人類の敵になったことも、その神の信徒である私も」


 そこでふと、冴木が苦笑をにじませた。


「いえ、やはり意図して間違ったことを口にする気になれませんね……。訂正しましょう。私こそが人を脅かした、そのための計画を立ち上げ神を唆した張本人です」

「…………」


 誰も、何も口に出来ないでいた。本気の怒気を纏っていた藤芽でさえ、何を言われたのか咄嗟に判断できなかった。

 征徒が眼鏡の奥で瞼を瞬いた。


「……何を言っているんだ、貴方は」

「おや、理解できなかったかな? 嘘偽りなく、こうして浄環ノ神の操って眷族を暴れさせているのはこの私、冴木の意思によるものだ。浄環ノ神は汚れ穢れを浄化する権能ゆえに、多少なりとも人に対して思うところはあっただろうが、人を殺めるほどの行動を起こさせたのは私なのだよ」

「………………冗談でしょ」


 そう言った波嬢の声に力はなかった。征徒も、藤芽も、あの流堂ですら絶句している。取り巻き二人が腰を抜かしてへたり込んだ音が周囲に落ちる。

 今言われた台詞の意味は、それほどまでに大きい。


「神様を操ったとでも言いたいのか……?」


 屋代の唇が震える。笑い飛ばそうとして、けれど顔が引きつったように変わってくれない。

 無礼千万、不敬の極み。あまりにも突飛な言動、世迷言も甚だしい。頭の中でいくつもの否定が生まれ、冴木を罵倒する。神が当たり前の上位者として存在する今の社会で、その言葉はあまりにも信じがたいものだった。


「信じられないのも無理ないでしょう。ほんの少し前の私も、今のキミたちと同じ反応をしましたよ」


 懐かしいと、目を遠くに投げながら冴木は微笑んだ。その態度、言動は至って正常だと肯定している。


「事実に勝るものはなし。私の言葉を信じられなら、彼女を見てもらった方が早いでしょう」


 そうして、それまで一言も口を開かず冴木の陰に隠れていたもう一人の人物が歩み出てきた。見るからに小柄で、まだ子供といってもいいほどの背丈をしたその人物は――。


「な、んで」


 屋代の喉が干上がった。

 その人が、いや神が、ここにいるはずがない。幻覚を見せられているのかと己を疑う。しかし、いくら瞬きしても目元をこすっても、その存在は消えてくれない。口の中で強く舌を噛んでも、痛みを発するだけで終わってしまう。

 頭を振り、目を閉じて、それでも一向に視界に映る神様の姿に屋代は呟いた。


「白穂神、様……」

「―――――」


 屋代の養母にして記憶をなくした神がそこにいた。

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