3-2
「この辺りでいいか」
家電量販店を離れた屋代は、足をのばして広場に来ていた。大規模な平地に作られた芝生の上に、いくつもの健康器具が立ち並んでいるここは、近所に住む人たちの憩いの場兼遊び場となっている。何をどう使えばいいのか見当もつかない器具が、雨風にも負けじとその身を空の下に晒して、老人や子供たちの遊び道具となっている。
「よしっ」
案内がてら体を動かしていたので、すでに全身が温まっている。昨日の傷の痛みもほとんどないので、これならいくらでも舞を見せることができるだろう。
「それでソーサーさん。俺は何を舞えばいいんだ?」
振り向き、長椅子に座るファナディアに尋ねた。青空の下で時折ズレる眼鏡の位置を直していたファナディアは、屋代に問いに瞬いた。
「何でもいい。けど、攻撃的な舞はダメ」
「そりゃ俺だってそんな危ない踊りはしないけど……」
要望は特にない、ということなのでしばし考えて、浄環ノ神に披露した舞を踊ることにした。あれならば完全に祈相術を発動させなくても、発動する兆しが視覚的に見える。
資格のない者が公共の場での術使用は禁じられている。これは動しきらなければ許容されることも意味していた。もちろん術にもよるが、他者に対して危険な術でもない限り比較的自由に踊れる。でなければ舞の練習など出来はしない。
「じゃあやるぞ?」
呼吸を整え、手足を構える。たった一人に注目されながら踊ることに若干の緊張を覚えながら、屋代は舞を開始した。
この術に祝詞はない。これは他の術とは違って誰かに捧げる術ではなく、ただ見せつけるための術だからだ。今の自分の成果を、実力を他者へと誇示するために生み出された。ゆえに屋代はそれを体現すべく、まっすぐに踊る。
手の振りが加速するたび、それまで聞こえていた喧騒が遠くなっていく。
足の運びが激しくなるたび、こちらを見ている視線を感じなくなる。
しなやかに、柔らかく。そうして時に鋭く全身を躍らせる。音楽など一切流れない無音の世界で、しかし完璧なリズムを持って舞い続ける。数秒たち、数十秒が過ぎ、そうして時間がたつごとに積もっていくのは――焦り。
踊りに不備はない。呼吸も乱れていない。なのになぜ、どうして己から光が出てないのか――!
屋代の中に雑念が増える。苛立ちから徐々に体がぶれさせていく。あのときと変わらない。征徒たちだけ輝くその端で、滑稽に踊り続けたあの時と。
周囲から向けられる嘲笑、罵倒。それに倍する己への怒り。
一歩分出すはずの足が半歩しか出せていない。手の振りが大雑把になってきた。指の形がずれている。
感情の起伏が体に伝わり、舞の形が崩れていく。己でも分かるほど基本となる型から外れだした瞬間、その足を止めていた。
「っ、はっ。ごめん、ソーサーさん。下手な舞見せた」
いつの間にか呼吸も忘れていたようだ。意識して息を吸い込んだとたん咽てしまう。
「もう一回躍らせてくれないか? 今度はしっかりやるから……ソーサーさん?」
顔を歪め、無様な舞に失望する屋代は再試行を要求するが、それに対するファナディアの反応がない。訝し気にファナディアを見やった屋代は、そこで彼女と視線があった。
「ううん。大体わかった。もう踊らなくていい」
「そう、か?」
分かったとは、いったい何をだろう。そう口にしようとして、しかし屋代は言葉に詰まった。ファナディアから送られてくる視線、その中に含まれる憐みの感情を確かに見て取ったがゆえに。
「こっちに来て休んで。ほら」
手招きされるがまま、ファナディアの隣に腰かけた。木製の長椅子が軋んで抗議の声を上げる。
「………」
心臓が嫌な音を立てている。
少女の隣に座っているというのに、なぜだがまったく嬉しくない。今すぐにでもこの場を離れたい衝動に駆られているのは、錯覚ではないはずだ。本当にこれで何かが分かったというのか。これまで原因不明だった屋代の不調を理解できたというのか。だとするならば、どうしてそんな目で屋代を見つめるのか。
あれほど望んでいたはずなのに、今は聞きたくないという思いが沸き上がっている。知ってしまえば後戻りができないと、心の底で耳を塞いでいたい衝動に駆られていた。
そんな屋代の心境など図らず、ファナディアは口を開いた。その声色に多大な悲嘆の色を乗せて。
「キミが術を使えないのは体質。だから今後も使えることはない」
「…………は?」
率直すぎる物言いに、屋代は何を言われたのか理解できなかった。体質? 一生使えない?
余計な言葉が取り除かれた説明を、どうにか咀嚼しようと努力する。
「え、は、ちょ、ちょっと待ってくれ。体質? いや、言ってる意味が良く……」
見ていただけだ、ファナディアは。触れもしないのに、まして検査したわけでもないのに屋代の身体機能を把握したというのか。それで今後も術が使えないと言われて、素直に納得できるわけがない。
「……ん。ごめんなさい。順番に話す」
屋代の混乱ぶりに、ファナディアは落ち着いて聞いてほしいと前置きする。
「術が発動する原理を知ってる?」
「……決まった型を踊ったり祝詞を唱えること」
「それはあくまで発動する条件。術として発現させる燃料はどこから来ると思う?」
知らない。聞いたこともなかった。おそらく征徒はおろか学校の教師すら把握していないだろう。祈相術とはそういうものだと、幼い頃から教えられていた屋代は、それを疑うことなく信じてきた。しかし、言われてみれば確かにそうだ。無から有は生まれない。たとえ神様でも、操ることはできても生み出しては居なかったはずだ。
何も答えられない屋代に、ファナディアは掛けている眼鏡に触れた。
「これはちょっと特別。普通の目には見えないものが見える」
掛けてみてと、眼鏡を渡された屋代は戸惑いながら受け取った。普段眼鏡をかけていない屋代をして、特別何か変わったところは見当たらないが、ファナディアのまっすぐな目に促されてしぶしぶ耳に引っ掛ける。すると、硝子一枚隔てた景色が一変した。
「これは――」
光の世界。そうとしか形容できない景色が広がっていた。色とりどり、指先分もない光の粒が無数に立ち上っている。下から上へと、空気に押し上げられるように。ゆっくりと地面から放たれた光は空へと昇っていく。
それはとても幻想的な光景で、屋代はしばし祈相術のことさえ忘れて見入ってしまった。茫然と輝く世界に口を開けていたが、ふと視界の端に子供が映り驚愕する。
「子供の体からも光が……」
それは地面から放出される光と比べてあまりに淡く、量もごくわずか。しかし、確かに子供の体から光の粒が漏れていた。いいや、子供だけではない。目を向ければ、量も色もまるで違うが広場にいる人すべてから光が放たれている。
「これは一体何なんだ」
屋代は、毛筋たりとも光のない己を見下ろして呟いた。
「それが術の燃料。私たちは魔力って呼んでる」
「魔力?」
目を向け、屋代と同じく一切光のないファナディに戸惑う。
「型や歌でその魔力を術に変換する。それが祈相術の原理」
「だけど、人から洩れてるぞ?」
「それが正しい。人や他の生物はすべて、魔力を生み出す。けど、それを体に留める機能はない。だから生み出した端から外に漏れ出ていく」
「ちょっと待ってくれ。俺やソーサーさんにはその魔力、ってやつが見えない。これは―」
血の気が引く。嫌な予感に震えが走る。ファナディアの視線の意味を理解してしまう。
「…うん。それが本題。私は別の理由で魔力を外に出してない。けど、キミは違う。ただ魔力を作る機能が低い」
「作ってない、わけじゃなくてか?」
屋代は意識せず喉を鳴らした。祈相術を使うための燃料、魔力と呼ぶそれが全くないという最悪の結果が脳裏をよぎる。
「それはない。どんな生物も必ず魔力を生成している。ただ、そもそも術として使うには人が生来持つ魔力では足りない。だから大抵、術になるのは周囲に漂う光の方。自分が生み出す魔力は、いわば呼び水。周りの人たちから放出された魔力を自らのもとに集め、術に変換して放つのが術の正体。キミの場合、この呼び水となる魔力がない。生成していないのではなく、単純に放出できるほどの量が作られていないだけ。これではいくら舞を踊っても術にはならない」
「ま、魔力の量を増やせば――!」
「それは無理。体調によって多少の増減はあっても根本的な生成能力は生まれ持ったまま変わらない」
なんだそれは。では屋代は、この先、永遠に祈相術を使えないということか?
「はっ、はあっ」
呼吸が落ち着かない。心拍数が上昇し続け、首筋に汗が浮き出てくる。
確かにこれまで、どんな祈相術の型を踊っても発動しなかった。声が枯れるまで歌ってもただ歌唱しただけで終わった。そのすべての原因が、魔力が不足していたから?
祈相術を使えない理由が知りたかった。知れば、きっと対処法があると信じていた。しかし、これはどうしようもないだろう。だって根本的な問題だ。屋代が屋代である以上、解決のしようがない。肉体の機能として不完全だったというだけ。治そうにも、悪い部分がないのだから手がつけられない。
「う、うそだ……。何かの冗談なんだよな…?」
そう言って笑い飛ばしてほしい。そんな、何の事件性もなく解決策もなく、ただただ致命的な欠陥があるなんて、質の悪い冗談だと言ってくれ。
そう願う屋代の目の前で、ファナディアは無常に首を振った。
「残念だけど真実。目に見えるものがすべて………ごめんなさい」
最後に加えられた謝罪の言葉が、申し訳なさそうなファナディアの表情が、より一層致命的だった。
「違う、……ありえない」
ありえなくはない。これが現実だ。
屋代の呟いた台詞に、頭の中で理性が反論する。ファナディアが嘘をついていると、そう喚き散らすことは簡単だった。人の理を捨てて感情を爆発させて、狂気の赴くままに混乱することは至極楽だった。これまで聞いたことは嘘で、屋代に神職を諦めさせるための、ファナディアの作り話だと断ずることも出来た。
けれど、目に映る景色がそれを許さなかった。
「幻覚、いや妄想だ……」
縋るように手を伸ばせば、ほら、光を掴むことができない。触れられず、温度さえ感じない。匂いもなく、音も聞こえない。ただ目に見えているだけだ。眼鏡をはずせばまるで見えなくなる光など、幻覚の類いである可能性が高い。よくできた仕掛けでも施されているのだ。でなければ、どうして今まで誰も知らなかったというのか。有史以来、祈相術の仕組みを解明した者がいなかったはずがない。それでもこうして世間に知られていないということは、ファナディアの話が一般的ではない、妄言であると言えるだろう。あまりにも辻褄があっていようと、きっとこれは、ファナディアが仕掛けた悪戯だ。
「ソーサーさんのあの動きはどう説明するんだ……!」
屋代と同じように魔力を一切外に放出していないファナディアに問い詰める。もしも術が魔力によって支えられているのなら、異常な身体能力を発揮したファナディアのことをどう説明する。まさかあれも生まれ持った身体機能とでもいうつもりか。
「…ちょっとした理由から外に出せないだけで、私の精製能力は常人をはるかに超えている。それが体の内側に留まっているからこその動きで……キミの場合は、それも見込めない」
ファナディアの断言に、空虚な笑みが浮かぶ。
「は、はは」
気の毒そうに見つめてくるファナディアに腹が立つ。そもそも、可笑しいじゃないか。もし仮に、ファナディアの言う通り術が魔力をもとにしているのだとすれば、どうしてそれを彼女が知っているのか。確かにこの眼鏡があれば知覚できる。だがあくまで光が見えるだけで、それが何を意味するのか分からないはずだ。まさか一から彼女が研究して、などということないだろう。口ぶりからしても、他人から教わったように聞こえた。その真実を知る彼らは何者なのか。
「――――」
分からない、知らない。あったばかりのファナディアのことを屋代は何一つ訊いてはいない。
これまではそれでよかった。彼女は屋代を助けてくれた恩人で、それ以上である必要性がなかった。しかし、こんな突拍子もない現実を知る彼女が誰で、一体何をしている存在なのか。それによって、この話の信憑性も増すというもの。
「い、や」
いいや、ちょっと待て。認めるのか? 彼女の話が真実だと。一度気づいたきっかけは、屋代の安い誤魔化しを簡単にはがしていく。
ここで重要なのはファナディアの話が事実であるか否かだけ。そして、屋代の頭はすでに真実であると結論づけている。何故ならここでファナディアが嘘を吐く必要が全くなく、屋代を騙してもなんら利益がないからだ。彼女の話に矛盾がなく、ただの凝り固めた作り話にはない現実感が存在しているからだ。
「う、あぁ」
思考が空転して、脳の奥が痛みを上げる。
祈相術が使えない。それはつまり神職になれないということで。
神職に就けない。それはつまり、白穂神様に何も返せないことを意味していて。
「あ。おぅぇ」
込み上げてくる吐き気を抑えようと口元を覆う屋代を、ファナディアはいっそう目じりを垂れ下げて見ている。いやだ、そんな目で見ないでくれ。必死で否定しようとする感情を、圧倒的な現実が押しつぶしてくるじゃないか。目の端に浮かぶ涙がやけに熱い。
「…………俺が、祈相術を使える可能性は?」
「ない、と思う。少なくとも私は知らない」
ならばもしかすれば、ほかの人に訊けば分かるかもしれない。そんなろうそくの火にも劣る期待は、外に吐き出されることなく口内で溶けて消えた。
ただ項垂れるしかなくなった屋代を、ファナディアは沈黙を持って見つめ続けた。
◇
「どうしたのです屋代。疲れましたか?」
「………………え」
そんな言葉を掛けられて、屋代ははっと我に返った。まるで長い悪夢を見ていたかのように早鐘を打つ心臓。目の前にいるのが白穂神様だと理解した屋代は、一瞬息を詰めた。
「今日はソーサーさんの地元案内お疲れさまでした。精の付くものをたくさん用意したのでお腹いっぱい食べるといいです」
そういった白穂神に導かれるように目を向ければ、テーブル上に並べられた料理の数々が屋代と対面を果たす。レバニラや鉄分豊富な内臓系中心の夕食は胃を刺激する匂いを漂わせている。一日中歩き続けていた体が疲労の感情が浮かべた。
「あ…い、いただきます」
「はい、どうぞ」
白穂神に断りを入れて箸を掴むものの、屋代の顔に安堵や喜びといったものは出てこなかった。いつもであれば幸せと感謝の喜びで満たされる心が、うまく動いてくれない。
「………」
屋代は味の分からない米を嚙みしめながら、自分はどうやって帰ってきたのかと頭をひねった。広場でファナディアに祈相術の仕組みを教えられてからというもの、記憶が曖昧だった。あの後も地元案内を続けた気もするし、何も言わずその場から逃げたような覚えもある。屋代の意識上では、ファナディアの前で舞を踊ってから自宅に帰りつくまでの行動が把握できていなかった。一体何をしていたのかと思い返して、自らの体にある欠陥を認識してしまい思わず箸を噛んだ。
「むむ? やけに元気がないようですが……何かあったのです?」
苦い顔つきになる屋代を、対面にいる白穂神は見逃さなかった。首を傾げる神様になんて答えたものかと、柔らかなお茶で喉を潤しながら考える。
――――俺の体に欠陥があって祈相術が一生使えない。だから神職にもなれないってさ。
そう口に出したならば、屋代自身が憤死しかねない。心の中でそう思った今でも、奥歯をかみしめないと顔に出てしまいそうになる。
「白穂神に教えてもらった場所を案内できずに終わったから、それがちょっと心残りで……」
そうして選んで台詞は、誤魔化すような言葉だった。実際、記憶している限りでは白穂神に紹介されていた店舗に行けずじまいだった。
屋代の話を聞いた白穂神はきょとんとした顔をして、次いで苦笑した。
「なんです、そんなことだったのですか? 気にしなくて構わないのです。次の機会、があるかわかりませんが、ファナディア・ソーサーさんもしばらくはこの国にいるでしょうから、また会えた時にでも案内してあげればいいのです」
「……そうですね」
でもあの店のお餅を食べてもらえなかったのは残念ですねー、と呑気な感想を漏らす白穂神。手作りのおかずに舌鼓を打つ姿を眺めながら、屋代は、彼女とは逆に、ファナディアとは会いたくないと心の底で念じていた。会えば、何を言ってしまうのか自分でも分からなかったからだ。祈相術を使えない理由が知りたいとあれほど口にしておきながら、いざ対処のしようがない欠陥であると分かるとその恨みを他者にぶつけようとする。浅ましい性根は、もしかすると生みの親譲りかもしれない。
「………」
さっぱりとした味付けが特徴の野菜を口に入れ、米で無理やり流し込む。まるで砂を噛むような触感だけを覚えながら、屋代は自己嫌悪で一杯になった。
「屋代。本当に、今日は何があったのです? さっきから変ですよ?」
そして、いつもと違う様子の屋代に、白穂神が気づかないはずもなく。心配そうに顔を覗き込んでくるその目から逃げたい衝動に駆られてしまう。
「……、ちょっと歩き疲れただけなので…、大丈夫、明日には元気になってます」
明日、と自分で口にしながら笑ってしまいそうになった。明日もまた実習がある。神職に就くための大事な過程だ、しっかり一歩ずつ踏みしめなければならない。そう、神職になるために。
「………そう、なのです? でも無理はダメなのです。もし体調が悪いのなら休むべきです」
「……休む?」
いつの間にか俯けていた顔を上げて、白穂神の顔を見つめる。不安そうに眉を寄せる様は、屋代の体を心配するがゆえだった。
「そうなのです。一日くらい休んだってかまわないのです。ながーい人生、そうそう急いで体を壊しては元も子も無くなってしまいます」
「明日は実習が……」
「……屋代が神職になりたいと思っているのは十分知ってるのです。でも、倒れてしまえば本末転倒。一日参加しなかったからといって、必ず進級できないわけでもないです。それに、明日の実習はすこし、いえ、だいぶ辛いものになる予定なのです。疲れた状態で参加することは私個神としても同意できないです」
そういった白穂神は、珍しいことに立腹している様子だった。基本的に温厚で、たとえ相手が人間であっても対等に接しようとする白穂神が、僅かなりとも怒りを現わすなど、屋代の境遇を知ったとき以来だろうか。それほど明日の実習内容に納得していないのか、とぼんやり思考するが、具体的な内容は思い出せなかった。
「とにかく。今は体を休めるのです。体調を整えて次の機会に備えておくことも重要なのですよ?」
労わりに満ちた白穂神は声は、一人の人として、そして養子として嬉しいものがあった。屋代を案ずる気持ちは、普段であればそれこそ頬を緩めて明日も頑張ろうと、そう決意できただろう。この神様のために、居場所を作って見せると奮起したはずだ。
「――――」
だが、今の屋代にとってそれは逆効果だった。
なるほど、白穂神の言う通りなら明日の実習は厳しいものになるのだろう。前日に体を痛め心身喪失気味の屋代ではとても乗り切れないものが待っているのかもしれない。休むことで確かに不利益は生じるが、最悪の場合、一年留年するという手もある。無理をするよりも安全策をとるべきだ。
「…っは」
なんだそれは。自分の考えに乾いた笑みが浮かぶ。白穂神にも言葉を返せない。
一年どころかこの先一生神職に就けないことが確実になったのに?
白穂神はきっと笑って許すだろう。むしろ危険が多い神職よりもっと安全な将来を進めてくるはずだ。いつも屋代の身を心配してくれる白穂神、だから、苛立ちを覚えてしまった原因は屋代にある。
「俺は……」
少しでも恩を返したかった。救ってくれて、居場所をくれた白穂神に何かをしてあげたかった。必ず成ろうと決意した。それが難しいと分かった今でも、その気持ちに嘘偽りはない。本心から役に立ちたかった。
だというのに、休んでもいいと言うのか、白穂神は。屋代に、この欠陥品で祈相術が使えない無能に。それはつまり、屋代が必要ないと言っていることと同義ではないか? お前は何もしなくていいと、そう見切りをつけられたのではないか――?
「明日の実習は参加します。絶対に、行きます!」
「わひゃっ」
机に手を付き立ち上がる。まだ中身の入った食器がいくつも倒れ、調理された食材が零れ落ちる。しかし、頭に血が上った屋代には何も見えていなかった。そのの険幕に驚き、体を逸らした白穂神だけを凝視する。
まるで、睨みつけるかのように。
「俺は神職になります、必ず!」
成らなければなれない、役に立たなければならない。でなければ、また捨てられてしまう。胸の中で渦巻く恐怖と不安、何も返せない己への怒りが渾然一体となる。
屋代のその追い詰められた顔に、白穂様はただこくこくと頷いた。
「は、はいです……」
白穂様の顔に怯えが走ったのを見て、屋代は我に返った。と、同時、手に触れる料理の温かさに後悔が襲ってくる。
「俺――」
何をしているのだと、慌てて手を放す。しかし、覆水盆に返らず、一度落ちた料理が元に戻ることはなく、多少原形をとどめる姿が余計に痛々しく見えた。
「す、すみません―――」
料理を拾わなければ。いや、その前に怯えさせてしまったことを謝らなくては。威圧するような態度はあまりに無礼だった。だが、それもまた屋代の感情が起こさせた行動で、間違っているわけではなく。
「―――部屋に戻ります」
「屋代っ?!」
どうすればいいのか分からなくなった屋代は、そのまま逃げるようにその場を後にした。後ろから聞こえてくる声に背を向けて。
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