3-1

 あわただしい喧噪が響く。無秩序な会話が混ざり合い、意味をなさない騒音と化して周囲を席巻する。

 隣を歩く者がこぼした呟きは濁音の波に飲み込まれて誰にも聞こえず、子供の上げる甲高い笑声は老人たちの会話に塗りつぶされる。少し遠くから聞こえてくるのは自動車が地面を走る音だ。規則正しく振動する車体と、分厚いタイヤが地面との摩擦で悲鳴を上げている。それらの音に紛れるよう耳に届くのは動物たちの鳴き声。日が昇ってそう時間が経っていないからか、日の光を浴びて覚醒した己に歓喜する鳥たちが鳴いている。頭上を行き交う鳥類の下では、仕事に追われた人間が上からの汚物に怯えていた。

 自分と、その関係深い者たちだけで完結した音が無数に溶けて、一つの朝を作り出す。その一角で、屋代は噴水の縁石に腰かけながらファナディアを待っていた。


「祈りを大地に。願うは重なり。求めた理想を作り出す」


 待っていた、はずだった。

 おろし立ての服はこれといった特徴はないものの清潔感があり、普段は無造作な髪型は今日に限って櫛を入れられている。見苦しくない程度に準備さた屋代は、約束の時間に遅れないようにと30分以上も早くに到着していた。あとはファナディアが来るのを待つだけだった屋代は、しかし手持無沙汰だったためにいつもの行動を繰り返していた。


「鎖は束に。反響は無数に。光を逃さぬ牢獄となす」


 ぶつぶつと呟いて、その手を蠢かせる。屋代が言葉を紡ぐのに合わせ、十本の指が軟体動物のように形をとっていく。時折足を動かしては腰をひねる姿はいっそ不気味であり、周囲を行き交う人から怪訝な視線と気味が悪いものを見る目線が送られている。

 朝の喧騒に溶け込めず孤立してしまっている屋代は、そんな周りの反応に気づこうともせず自分の世界に没頭していた。

 頭の中で展開される想像の祈相術。何物も逃すことのない超重力の檻を妄想しながら、屋代の詠唱は最終段階に入る。


「殺さず、潰さず、傷つけず。囲い、留め、奪い、縛る。それは黒、無明の証。それは力、ひれ伏せさせる世界の威光」


 指の動きが加速する。絶えず結ばれる印は形を崩すことなく、僅かな誤差も許さないと屋代の眉間にしわが寄る。


「反する行為は是正せよ。万象全てが跪け」


 屋代の足が自然と動き出す。その場で立ち上がろうと力が入ってしまうのを、無意識にその場に縫い付ける。最後の一言、脳内で想像が暴れだし、その光景を幻視する。


「奈落の――」

「待たせた?」

「あぶぁっ!?」


 ふ、と耳元で吹きかけられた息に屋代の集中が切れた。首筋に得体のしれない感触が走り、思わず立ち上がってしまう。


「ご、ごめんなさい?」


 脳内で生み出さていた妄想が霧散した。

 慌てて振り返ると、待ち合わせ相手であるファナディアがいた。屋代の驚き具合に目を丸くしている。

 一体いつからそこにいたのか。脳内での想像に忙しかった屋代は首を撫でさすりながら眉を下げた。


「いえ、俺の方こそ。全然気づかず、すみません」


 妄想の中から現実に戻ってきた屋代はそう口にしながら腕時計に目を落とし、約束の時間前であることを確認。早めに来ておいて良かったと安堵する。


「何をしていたの?」

「……ちょっと祈相術の練習を」


 ファナディアの問いかけに、屋代は気まずげに答えた。

 祈相術、より正確に言えばその祝詞のか。こうして口にしていないと忘れてしまいそうで不安なのだ。一度で覚えられるような記憶力を持っていればよかったのだが、屋代は何百、何千と反復させることでしか記憶できない。

 とはいえ、いくら暇があったからといって人と会う前にやることではなかった。心の中で軽く反省する屋代を、ファナディアはまじまじと見つめて一言。


「熱心」


 感心だという情の込められた言葉に、屋代はかすかな笑みを浮かべた。


「約束の時間より早いですけど、さっそく行きますか?」


 頷いたファナディアを見つめ直した屋代は、ふと気づいた。


「ソーサーさん。眼鏡掛けてたんですか?」


 明るめの茶髪、どこかぼんやりした表情は昨日と変わらないが、今日のファナディアは眼鏡を装備していた。レンズが鋭角なそれは、どちらかといえば可愛らしい顔立ちのファナディアが掛けるに少々不釣り合いな物で、屋代は首を傾げてしまう。


「ん、これは伊達」

「あ、お洒落でしたか。それでソーサーさん、どこか行きたい場所ってありますか? 正直、自慢できるような場所はあまりないんですよ」


 屋代の住んでいる街は良くも悪くも特色がない。一通りの娯楽施設や買い物処はそろっているし、少し足を延ばせば動物園などもあるので、むしろ住むにはちょうどいい場所ではあるが、尖った施設、名物はなかった。強いて上げれば記憶のない神様が住んでいることくらいだ。自分も住んでいる場所であるため、ある意味遠慮のない屋代はそう断言できる。


「……行きたい場所、は特にない。ただ、ここの近くに滞在するから、便利な場所を教えてほしい」

「便利……。了解です。ひとまず歩きましょうか」


 一応、白穂神様からは、ここをぜひ案内するです! と食事処と甘味処を数件紹介されている。なので、軽く食べ歩きながら案内するかと、屋代は頭の中で地図を広げながら歩き出した。

 ◇


 この案内は、そもそもが屋代を助けてくれたお礼である。そこに何かしらの思惑はなく、意図するものもない。ただただ純粋に、命を救ってくれた感謝を表す行為だ。ゆえに、これは決して逢引ではない。好いたもの同士が行うような楽しむためのコミュニケーションではないのだ。

 そうだと分かっていても、屋代は落ち着かない気分を味わっていた。


「で、ここが街で一番安い店。日用品をまとめて買うならお得です」

「へぇ」


 屋代の言葉に、ファナディアは開けきっていない瞼の下で、そこはかとなく輝かせた目を店奥に配った。どこにでもありがちな、来店する人の目に留まるような配色が施された店は、やはり休日ということもあってか人が多い。狭苦しく感じるほどではないが、歩き回るには不便に感じてしまう。

 店の外から興味深げに商品を覗くファナディアの横で、屋代はむしろ周りの人の方に注意を引かれていた。


「………うぅむ」


 どうにも体が不安定だ。まるで地に足がついていないような、居心地悪く感じてしまう。普段、屋代も利用している場所なので案内自体は簡単だと、そう考えて来てみたものの、少女が隣にいる事実が屋代の考えを凌駕した。周囲から向けられる視線は最初、仕方がないものだと思っていた。珍しい顔立ちの少女が店にいれば目立つものだと、そう諦めていたが、よくよくあたりを観察すると、その中には微笑まし気な目線が混じっていることに気づいた。決して馬鹿にするようなものではなく、どこかニヤつくような気配に首をひねった屋代は、隣を通り過ぎた近所の奥様に頭を下げた瞬間理解した。

 これ、逢引と思われてんじゃないか?

 隣に少女を侍らせて歩いている己を客観視して、その現状に思い当たった。思わず頭を抱えて悶絶したくなる気持ち。引きつった顔は元に戻らず、屋代は何度も頬を揉み解すことになった。

 ありえないことではあるが、これがもし、本当に好きあった相手との逢引であれば屋代も臆することなく胸を張れるが、残念ながらこれはただの案内、恋も喜劇もない。勘違いされることに嬉しさを覚える余地はなかった。ふと隣を見れば、ファナディアは何も感じて居なさそうなのも拍車をかけた。自分だけが変に意識しているのも不毛であり、自意識過剰ではないか。


「どうしたの?」

「い、いえ。なんでもないです」


 至って平然としたファナディアを少々恨めしく思う。周りからの目も屋代の思い違いであることを祈りながら、頭を振って‏切り替えた。


「次は大型量販店に行きますか? 必要になりそうな家電は一通りそろいますよ」

「うん」


 足を進め、清掃された路地を抜けていく。

 屋代も何度か足を運んでことがあった。安くて丈夫な製品を主としている場所だ。もっとも、神職を目指すようになって休みの日も遊びに出かけることがほぼなくなったので、最後に行ったのは何年も前のことだが。

 まだ潰れていないといいけど、と失礼な考えを浮かべた屋代。後ろからついてくるファナディアが小首を傾げた。


「どうかしましたか、ソーサーさん」

「うん、しゃべり方。もっと普通でいいよ?」

「……何かおかしかったですか?」


 恩人に対してはできる限り丁寧に接しようと決めている屋代は、不自然なところでもあったかと瞳を揺らした。


「そうじゃない。けど、話しにくそう。もっとくだけて。そのほうが私も聞きやすい」

「……了解しま、じゃ、ないか。まあ、ソーサーさんが言うならそうするけど……嫌になったら何時でも言ってくれよ?」


 ファナディアからの要望に対し、意固地になるわけでもない屋代は素直に頷いた。自分でもやはり気を張る必要があるしゃべり方より、こうした気軽な口調のほうが楽であった。

 屋代の態度がほんの少し軽くなったことに、ファナディアも口の端に笑みを浮かべる。


「この辺りは道が少し複雑になってるけど、慣れればわかりやすい。ほら、あそこに家。門柱に飾られてるのは万来猫って言って、どこかの神の眷族なんだが、いい目印になる。それに隣の食事処は老舗だな。俺も白穂神に連れてきてもらったことがある」

「ほぅ」

「この辺は特に食事処が密集しているんだ。仕事帰りの人が良く立ち寄るそうだ……見たことはないけど」

「ふぅむ」

「店はこの道を行った先に、ほら、もう見えてきた」

「へぇ」

「……あの、聞いてる?」


 先ほどから、何とも曖昧な返事しか返ってこないファナディアに不安になる。やはり女の子らしく案内するのはもっと遊べるような場所のほうが良かっただろうか。しかし、そんな場所に心当たりなどなく、また知っていても案内できる自信はなかった。便利な場所、という要望に応えようとした結果の選択だったが、失敗している気がしてならない。

 これが本当の逢引であれば間違いなく不合格を言い渡され、明日には破局を迎えるだろう道を歩む屋代は、つと後ろを振り返った。


「ん、大丈夫。ちゃんと聞いてる」


 本当に? ならどうして明後日の方向ばかり見ているの? そう聞きたくなるほど、ファナディアはこちらを見ていなかった。今も屋代への返事もそれなりに、周囲を観察するようにせわしなく首を巡らせている。何がそれほど気になるのか、屋代から見れば平凡で変わったところのない景色にしか見えないが、しかし、外国というのであればその反応は正常だろう。国を出たことのない屋代では実感できないが、近場への旅行でさえ見たこともない景色を目の当たりにすると、心躍るものだ。彼女もそれに近い感慨にふけっているのかもしれない。

 そんな風に無理やり自分を納得させた屋代だが、そういえばと思う。


「ソーサーさんって、和国語上手だよな」

「この国に来ることが決まった日から勉強した。可笑しなところがあったら教えて」

「全然、問題なし。むしろ違和感なくて気づかなかった」


 そう言って肩をすくめた屋代を見たからか、ファナディアは笑みをこぼして歩みを再開させた。

 慌てて彼女の前を歩く。


「ここが目的地。この辺りじゃ一番大きいところだ」


 そうして到着したのが、広大な敷地を持った家電店。駐車場だけでも何十台分と確保され、本店にたどり着くまでにさらに歩かなくてはならない見るも巨大な建物だ。


「ついでだし、少し中でも見る?」


 屋代の問いかけに、大口を開けていたファナディアが再起動を果たす。


「さっきのお店もそうだったけど、建物全体が大きい、というか……なんだか、うーん平たい?」


 言葉に困りながらのファナディアの感想に、屋代は首を傾けた。改めて店を眺めれば、なるほど確かに、ファナディアの言う通り店全体の奥行は深い。端から端まで歩くだけでも一苦労だろう。しかし反面、建物自体が2階建て程度の高さしか持ち合わせていない。ファナディアの目には、その半端な構造が奇妙に映るようだ。


「それは仕方がない。基本的に俺たちが利用する建物は神様の御社殿より高く作っちゃいけないからな」

「御社殿? 神殿のこと?」

「ソーサーさんの国ではそう呼ぶのか? まあ、そうだな。神様の家を見下ろすことは人間に許されないって、理由らしい。おかげでこうして無駄に広くなってる」


 横に広がるばかりで一向に高く建築できないからか、余分な土地などほとんどない。いずれ周囲に存在する孤島を開拓しなければいけなくなるだろう。

 買い物するにも不便だと、そう愚痴る屋代にファナディアは納得の息を漏らした。


「私のいた国だと神殿自体山の上にあるから。神様は人と離れた場所にいらっしゃるのが当然」

「へぇ。やっぱり国によって違うんだな」


 そのあたりは完全に国柄、というか神様事情によるものだろう。狭い国土の中で多様な神様が存在している屋代の国では、どうしても神様と人の生活距離が近くならざる負えない。一方で広大な土地を持つ大陸の国々だ、面積に余裕があるから物理的に神様を祀ることができるわけだ。建築物一つ取っても神様に伺いを立てる屋代たちと違って、平地であれば気兼ねなく高い建物を建てられるというわけだ。


「いいな、それ。一回見てみたい」


 神様を見下ろしたいわけでは断じてないが、雲に近しい場所から見下ろす景色はどんなものだろうか。そもそもそんな建物を建てるとはどんな建築技術を使っているのか分からない。想像すらできない未知の景色に屋代は目を輝かせた。


「国に来る機会があったら案内する。今日のお礼」

「いやいや、お礼にお礼で返されたんじゃ礼にならないから。まあ、ありがたいけど」


 ファナディアからの提案に苦笑で返し、屋代は止めていた足を進めた。店の大きさと比例するような、人が横並びですれ違える扉を潜り抜ける。温度調整された室内の空気が屋代たちを包み、軽快な音楽が出迎えた。


「あっちから行こう」


 ファナディアを引きつれて店内を一周する。定番の冷蔵庫、室内温度調節器といったものから、普段持ちが可能な携帯端末まで電化製品であれば雑多に集められた中は、天井から流される陽気な音を合わさって心を浮きだたせた。購買欲を持っていない屋代でも何故か無意味に値段を比較したり機能性を見たりしてしまう。色が違うというだけでも別商品に見えてしまうのは、それだけ普段関わりないからだろう。巨大冷蔵庫を眺めていた屋代は、つい楽しんでいる己に気づきはっとした。慌ててファナディアを探せば、屋代とは別の商品を興味深そうにつついていた。

 そうして店内を見て回ること実に1時間。歩き続けた屋代たちは休憩用に設置されている椅子に腰かけていた。


「で、どうだった。ちょっとは案内になったか?」

「楽しかったよ」


 そう口にするファナディアはお世辞を言っているようには見えなかった。とても年頃の少女を楽しませる場所ではなかったが、彼女なりに楽しみを見いだせたようで何よりだ。案内した甲斐もあるというもの。


「これからどうするか……ソーサーさん、何か希望はあるか? 俺としては案内できる場所は大体回ったから、後は白穂神様一押しの甘味処でも紹介しようと思うんだが」

「うん、私はそれでいいけど………でも、いいの?」

「何が?」


 疑問の意味が理解できず問い返した屋代に、ファナディアは少し躊躇いがちに続けた。


「忙しくないの? 明日も実習だよね? お礼ならもう十分だから、この辺りで解散していいよ?」


 なんだ、そのことかと屋代は肩をすくめた。


「平気だって。今帰っても祈相術の練習くらいしかやることないから。ソーサーさんに恩を返すほうがよっぽど大事だ」

「祈相…、今日あったときもやってたね」


 屋代の顔が引きつる。何もやましいことはないのだが、見られていたとなると気恥ずかしさを覚えてしまう。いや、衆人観衆の中であることを忘れて熱中していた屋代が悪いのだが。


「ま、まあな。神職になるには祈相術を使えないと話にならないからな」


 昨日の眷族との戦いでそのことをより実感した。祭事などの政はもとより、ああした神の悪戯を鎮めるには並みの人間では不可能であることを。祈相術を操れなければ簡単に命を落としてしまう。死にたがりではない屋代は、なので内心焦っていた。


「……うーん」

「な、何?」


 まじまじ、と角ばった眼鏡の奥、ぼんやりとした瞳が見つめてくる。体の奥、心の中までのぞき込まれているような違和感に屋代は身じろぎした。


「あ、そ、そういえば。昨日のソーサーさんの動きはすごかったよな。波嬢の言葉じゃないけど、あれってどんな術だったんだ? よかったら教えてくれないか」


 ふと気になっていたことを口にした。波嬢も聞きたがっていたことだが、ファナディアの身体能力、それを支えた術についてだ。屋代の場合は自分の目で見たのではなく、体感しただけだが、それでも彼女が屋代を助けてくれた瞬間の動きは常人離れした物だった。明らかに体の構造上不可能な動きであり、それを成せたということは何らかの術を使っていたのだろう。未だに一度も祈相術を使えたことのない身だが、知っておいて損はない。もし教えてもらえるなら後で波嬢にも教えられる、と皮算用をする屋代に、訊かれたファナディアは困った風に眉を寄せた。


「あれは――、マネできるものじゃない。私が教えられるものじゃない」

「そんなに難しい術なのか? それともやっぱり神様から賜る秘術?」

「ん……ごめんなさい」


 勢いこんだ屋代だったが、申し訳なさそうにするファナディアを見て、慌てて体を引く。


「こ、こっちこそ悪い。つい勢いで……」


 謝られるとこちらの立つ瀬がない。昨日の波嬢の二の足を踏んだ屋代は自己嫌悪する。せっかく先ほどまで穏やかでいられたのに、空気を悪くしてしまった。祈相術が絡むと自制できない己に自嘲する。

 深くため息をつく屋代に、ファナディアは雰囲気を整えるためか買って来たジュースを一口すすった。


「そこまで術、祈相術っていうの? を使いたいの?」

「え、まあそうだな。正確に言うと神職に就きたいんだ」


 この場合神職イコール祈相術を使える、なので、間違いではないが。


「ソーサーさんもそうなんじゃないのか? 神様に仕える人。俺はそれになりたい」


 てっきり魔法使いとは神職のことだと思っていたのだが。

 屋代の答えに、ファナディアは感心するよう頷いた。


「昨日も言ったが、俺は神様、白穂神に拾われたんだ。といっても孤児だったわけじゃないぜ? 一応生んだ親は居たんだが捨てられただけだ。理由は知らない」

「…………」

「そのこと自体は大した問題じゃないんだ。初めから俺の居場所なんてそこになかったし、情愛なんてものもなかった」


 暴力を、罵倒を。あらゆる痛打を与えてくる相手に対して、どうして情を抱けようか。親子という関係は、血のつながりとは絶対でもなければ完全でもないことを知った。


「そんな俺を救ってくれたのが白穂神様だった。俺が居てもいい場所を与えてくれたんだ。本当に感謝しかない」

「……それがどうして神職を?」


 助けてくれた、救ってくれた、屋代に居場所を与えてくれた。そんな存在である白穂神に感謝することはごく当たり前であったが、それがなぜ神職に繋がるのかと問うファナディアに、屋代は首筋をさすった。


「白穂神の記憶がないって言ったろ? そのせいか神様たちの中でも白穂神の扱いって結構微妙なものなんだ。自分の御社殿を持てない、とか神様たちの会合に参加できない、とか。本神は気にしてないって言ってるけど、やっぱり寂しそうなんだよ。だからさ、他の神様が認めるくらいの何かを成せたなら、白穂神も神様たちの中で居場所ができるんじゃないかって考えたんだ」

「つまり実績?」

「そうだな。実績だ。白穂神が権能を忘れてしまってる以上、あの方自身で事をなすことは難しい。だから俺が実績そのものになればいいって、そう思ったんだ」


 幸い、といっていいのか。白穂神は国立神職養成学校の校長という地位を持っていた。そうであるなら実績を出すのはひどく単純、より多くの生徒が神職に就くことだ。だからもし白穂神が別の場所で務めることになっていれば、屋代も神職は目指さなかった。


「もちろん、だからって簡単なことじゃないのは分かってる。俺一人だけ神職に就けばいいわけじゃないし、就いたところで下っ端のままじゃ意味がない。偉くなって上位神、いや、史上初めて大神に仕える神職になることで、自分の価値を高めなくちゃいけないんだ」


 それがどれほど無謀なことか。少なくとも眷族から逃げ回ることしかできない今の屋代では絶対に不可能だと言い切れる。それでもあきらめきれない、諦めたくはない。


「俺が白穂神様の居場所を作りたいんだ」


 いずれ叶う、なんて曖昧な願いに縋っているわけじゃない。ただその道しか見えていないから、それ以外のすべてを閉ざして走る。そうしなければ、屋代では走り切れないほど険しい道なのだ。


「……そう。貴方はもう居場所を手に入れたの」


 黙って話を聞いていたファナディアが呟いた。その目はどこか遠くを見つめるような凡庸とした瞳で、目の前にいる屋代を通して別の者を見ているようだった。小さく聞こえた声色には、懐かしさすら滲んでいた。

 屋代はそんなファナディアの呟きに空咳を一つ。語りすぎたと自制する。


「って言っても、現実は上手くいってないけどな。祈相術も一度だって成功したことがない」


 変に暗くなるのを嫌い、冗談めかしながら真実を告げる。自分で口に出しながら落ち込む屋代に、それを聞いたファナディアが不思議そうな顔をした。


「……一度も? それは変」 


 まるで未知の言語を聞いたような、きょとんとした反応を前に、屋代は困り顔になった。


「嘘じゃないぞ? 本当に、これまで一度も使えた試しがない」


 情けない事実を何度も口に出すことになるとは、と頭の片隅で嘆きながら、屋代は言葉を重ねた。恩人に対して嘘は吐かないと誠実に告げる。

 そんな屋代を見つめ、ファナディアは止めていた呼吸を再開してジュースを一息に飲み干した。


「信じられないけど……そっか。なら、術が使えるようになりたい?」

「まあそりゃ……でも、原因がさっぱり分からないからな。今のところどうしようもない」


 屋代は首を横に振った。せめて原因さえわかれば対処の使用もあるのだが。

 そんな屋代に、ファナディアは眼鏡を端を光らせる。


「…なら一度舞を見せて。もしかすると何かわかるかもしれない」

「まあ、見せること自体構わないけど……」


 果たしてそれで何か分かるのか? 屋代はそう心の中で唸った。

 ファナディアを馬鹿にするわけではないが、これまで誰にも分からなかったものを、昨日今日あったばかりの少女が突き止められるとは思えなかった。ましてや外から見ただけでは舞の型を矯正することくらいしかできないのでは、と。

 そこまで考えて、しかしと反論が浮かぶ。外から来たファナディアだからこそ、屋代たちとは別の視点から物事をとらえられるのではないか。屋代が初めて見る術を持った少女に舞を披露することは、少なくともマイナスにはならないはずだ。何か新しい発見があるかもしれない。

 これからの予定を棚上げして、屋代は結論を出した。


「分かった。なら今から行こう。ここから少し遠いけどいい場所がある」


 善は急げとばかり席を立つ。

 期待はしない、出来そうもない。これまで分からなかった屋代の不調、その原因を見つけられるとは考えない。どれだけ願っても術を使えない現実が横たわるだけだ、

 そう自分に言い聞かせる屋代だったが、その内で心拍数のあがった心臓がやけに熱く感じられた。

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