2-5

「悪い、遅くなった」

「やっと戻ってきたわね。アンタ、いったいどこまで行ってたのよ」

 

 店の前で待っていた波嬢の言葉で時間を確認すると、ちょうど休憩時間が終わりを迎える頃だった。どうにも屋代が思っていた以上に時間が経っていたようだ。おかげで祈相術の練習もできずじまいで、体も休めるどころか体力を削るだけで終わってしまった。

 肩を落とした屋代に、波嬢の訝し気な目線が刺さる。


「ていうか、なんでアンタが神水持ってんの? まさかとは思うけど盗んだわけじゃないでしょうね?」

「……違う。商品運ぶのを手伝ったらくれたんだ」


 そこまで信用ないのか? いや、遅刻やら喧嘩やらと波嬢に迷惑をかけた自覚はあるが、だからと言って盗みをする人間だと思われているのか。

 そんな衝撃と共に体をよろめかせた屋代を見て、波嬢が鼻で笑った。


「冗談よ。舞の練習はしてこなかったの?」

「ああ。店でお客さんに捕まってそれっきり。ようやく荷物を運び終わって帰ってきたところだ」

「わざわざ休憩時間を削っての売上貢献、ごくろうさま」


 波嬢の言葉に手を振る。


「それで、東雲は? まさか客に捕まってるのか?」


 店の前にいた波嬢と違って、征徒はそもそも姿が見えない。どこにいるのかと周囲に目を向けるが、ほかの班に混じっているわけでもなさそうだった。


「アイツは、というかアタシたちは午後から店の中での接客だそうよ。なんでも外だ

 けじゃなくて中の仕事も一通り経験させるって言ってたわ」


 どおりで売り子の格好を辞めていたわけだ。

 朝のように商品を抱えていない波嬢の姿に納得しつつ、促された屋代は急いで店の中に戻る。もらった神水を飲むことなく休憩室に放り込み、一息つく暇なく陳列棚に。ちょうど、巫女の説明を受けていた征徒がこちらに気づいた。


「悪い。遅れた」

「いや、波嬢さんから理由は聞いたよ」


 征徒はそう首を振ったが、次いで眉をハの字に変えた。


「ただ、戻ってすぐで済まないんだけど、これから商品の受け取り作業があるそうだ。外から運ばれてくる商品を搬入させるから力仕事になると思うけど…」

「大丈夫だ。腕は全然疲れてない。すぐにやれるぞ」


 腕を回してそこに乳酸菌がたまっていないことを確認する。

 もし舞を舞っていればこうはいかなかっただろう。重たい箱を持ち運んだとはいえ、その疲れも落ち着いている。今からの重労働にも十分耐えられるはずだ。


「よかった。すでに波嬢さんが外で待っている。僕らも行こう」


 波嬢が外にいたのはそういう理由か。

 頷き、征徒の後に続く屋代だったが、そこでふと店の中を見渡して気づくことがあった。


「ちょっと待ってくれ。やけに数が少ないが、巫女たちはどこ行ったんだ?」


 店の管理者である巫女の数が明らかに少なかった。屋代たち実習生の数こそ変わっていないが、監督する立場であるはずの神職、巫女の数が減っている。今も征徒に説明していた巫女が別の班もとへ走っていった。よく見れば藤芽の姿もない。


「……それなんだけど。少し前から神の悪戯が頻発しているようなんだ」

「そうなのか?」


 全然気づかなかったと、屋代は瞬きを繰り返す。冴木と共に外を出歩いたが、そんな気配は微塵も感じられなかった。

 東雲は神妙な顔で頷いた。


「今朝話してた組合所属の神職はそのために来ていたんじゃないのか?」

「それだけでは手が足りないらしい。近隣の神社に所属している神職にも動員がかかっているようだ」


 今回の場合、それは浄環ノ神に仕える神職、藤芽たちにも適用された。ゆえに今、店を維持するための最低人数だけを残して、後は全員が神の悪戯を鎮めに行っているのだと征徒は言う。


「…今までこんなことあったか?」

「ないよ。僕の記憶では一度もない。だから正直、緊張してる。曖昧なことは言いたくないけど、空気も悪くなっている気がする」


 東雲らしからぬ、しかし神職を目指すものとしての感覚が何かをとらえたのか。しかめ面で出された台詞は、屋代に不安を覚えさせる程度の効力があった。

 神の悪戯は起こりうる。その頻度は神によって異なり、地元住民に与える被害もその都度違っている。ゆえに明確なことは言えないが、神職が振り回されている事を鑑みるに良くない雰囲気だ。


「何が起きてるんだ……?」


 屋代が楽観視していたのは協会が動いでいるならじきに収まるだろうと考えていたからだ。しかし、収まるどころか騒ぎが大きくなっている。協会をして、人手が足りなくなるなど想定外だったのだろう。だからこそ急遽周囲の神職に応援要請が出されたわけだ。


「分からない。何とか収まってくれるならいいけど、最悪、実習の中止もありうる」

「……本当か?」

「これ以上悪化すればの話さ。とにかく僕らにできることは何もない。彼らの足を乱さないようおとなしく与えられた仕事をしていよう」


 勘弁してほしい、というのが屋代の素直な気持ちだった。このまま何の成果も出せずに中断されてしまえば成績不振で進級差し止め待ったなしだ。安全面を考慮して体は守られても屋代の未来が守られない。何としてでも続けたいというのが本音だが、それで生徒が怪我などすれば学校側の責任問題へと発展しかねない。どちらにとっても悪い状況になる。

 どうか一刻も早く騒動を収めてくださいと、屋代が神職たちに祈りを送ろうとして、ふと肝心なことを聞いていなかったことを思い出した。


「なあ、そもそも今回の神の悪戯って、いったい何が起きて――」

「嫌ああああぁぁぁアアアア!!」


 ――つんざく様な悲鳴が屋代の言葉を遮った。

 次いで何かを叩きつけるような音が聞こえた頃には、二人は走り出していた。


「東雲っ」「行くよ屋代!」


 一足飛びで扉に近づき、あけ放つと同時に外へと飛び出した。


「大丈夫かっ!? っな―――」


 そうして、広がっていた光景に大きく目を見開いた。

 怪物がいた。

 泥の怪物。舗装された固い岩盤を割り砕きながら、地面から這い出している。人間の等身以上ある太い四肢を持ち、その倍以上は長い尻尾を備えていた。体高だけで4、5メートルはあるだろう。目や鼻といった輪郭を持たない平らな顔を左右に振り回し、それに合わせて尻尾が商店街を撫でていく。


「ヒィ――」「おい、誰か巫女呼んで来い!」「どけ、危ないだろっ」「私の店っ」


 阿鼻叫喚とはこのことか。ただの土くれならば固くはあっても脆い。しかし、怪物は泥。大量の水を含んでいた。しなやかさと柔軟性を併せ持った四肢はそれだけで脅威であり、尻尾の一薙ぎで商店街に並ぶ店がひしゃげていく。店前の看板はたやすく宙を舞い、窓ガラスは風圧だけで粉々となる。いったいどれほどの質量を備えているのか、玄関口をたやすくぺしゃんこにする重さは容易に命を踏みつぶすだろう。その災害じみた光景に、屋代は頬を引きつらせた。


「これが神の悪戯――? 悪い冗談だろっ」


 それとも神にとってこれくらいは悪戯で済まされるのか? 倒れている人こそいないが、逃げ惑う人の中には血を流している者もいる。このまま放置していれば死人も出かねない。


「逃げてください、早く!」

「あの巫女は――」


 怪物を取り囲むように、神職が立ちはだかっていた。中にはさっきまで征徒と話をしていた、浄環ノ神に仕える巫女の姿もある。


「何してる、連携を崩すなっ」「うるさい、今やってるわ!」「逃げろ、早く逃げろ!」


 こちらもだいぶ混乱しているようだ。周囲の人に呼びかける声は怒声じみていて感情のタガが外れている。大きく見開かれた目は彼らの緊張を現わしており、荒く吐き出される呼吸は予断を許さない状況であることを伺わせた。


「押さえつけろ!」


 一人の神職が叫んだ。見ると、彼の周囲には蛇のような形を模した水が揺蕩っていた。飛来する瓦礫を避けながら泥の怪物に近づくと、その足をからめとるように体を巻き付ける。そのまま縛り上げようとしたのだろう、屋代の目には、水の蛇が身を縮めようとする動きが見て取れた。しかし、結果は無残だ。自らの四肢を縛ろうともがくモノのことなど眼中にないのか、まるで意に介した風もなく腕の一薙ぎで水の蛇は四散してしまった。


「ああっ」


 隣で呆然と立ち尽くす征徒が短い悲鳴が漏らした。

 自身の祈相術を簡単に破られた神職が、立ち直る暇も与えられず怪物の尻尾に吹き飛ばされた。避ける暇なく無防備に受けてしまった神職は、風に飛ばされる紙風船のごとく宙を飛翔し地面に叩きつけられた。慌てて近くの仲間が駆け寄るが、その彼もまた飛散してきた瓦礫に頭部を打ち叩かれ昏倒してしまう。

 彼らから流された血が地面を赤く染める光景に、屋代はようやく我に返った。


「――――っ!」

「屋代!?」


 気づけば、征徒の制止の声を振り切って走り出していた。時折飛んでくる瓦礫を冷や汗交じりに避けながら、倒れた神職たちに急いで駆け寄る。


「大丈夫かっ? 意識はあるか!?」

「ぅ……」


 続く言葉はなかった。けれど、呼吸があることを見て取った屋代は後ろから追いかけてきた征徒を振り返った。


「この人たちをあっちに逃がそう!」

「この状況で動かすつもりかい!? ああけど、ここに放置するわけにもいかないか……!」


 征徒の葛藤は数瞬にも満たないものだった。屋代が神職の上半身を持ち上げるとすかさず足を支え、二人で協力しながら運び始める。

 そうした屋代たちの行動に気づいたのだろう。これまで怪物にのみ視線を向けていた残りの神職たちが礼を言うように頷いた。


「何としてでも眷族を止めろ! これ以上好き勝手に暴れさせるな!」


 神職姿の男、神薙が発破をかけた。悲壮感に満ちていた彼らの表情が、僅かだが上を向く。祝詞を唱え、あるいは舞を踊りながら、怪物から一定以上離れないよう周囲を回り続ける。

 そんな神職たちの頼もしい姿を横目に、もう一人の神薙も運び終えた屋代は一息ついた。


「はぁ、はぁ。ここまで運べば大丈夫だろう」


 慣れない動きに汗が噴き出る。体を流れ落ちる嫌な感触に顔を顰める余裕さえなく、遠くで暴れる怪物を注視した。


「なああれって眷族だよな?」

「……ごめん、あんなに巨大な眷族を見たことがないから確信を持てない。けど、おそらく眷族で間違いないと思う」

「そうか……」


 ズレた眼鏡の位置を直しながら、顔を憂慮に染める征徒に、屋代も顔を苦くして怪物を、いや眷族を観察する。昨日見たような人間大の眷族ならばまだ幾分受け入れられたが、あそこまで巨大になると恐怖が先に立つ。暴れているという現実も相まって、神が生み出したモノだと理解しても感情が荒だってしまう。


「これが神の悪戯だっていうのか……」


 神の悪戯を見たことはなかったが、明らかに度が過ぎている。大神に押さえつけられて、神としての権能を振るえない悪神が、その鬱憤を晴らす目的で振りまかれる災いを神の悪戯と称するように、本来ならもっと小規模かつ危険も少ないはずだ。普段の悪戯が人の命を考慮するのは大神の罰を恐れるためだが、今回の悪戯にはそれがない。人死が出ても、いや、神職が居なければ確実に誰かが死んでいただろう。それほどまでに過激で容赦のない攻撃である。


「止められるんだよな……? その、神職なら一度や二度収めたことくらいあるんだよな?」


 今も必死で眷族を抑えようと奮闘する神職たちの後姿を見守る屋代の声色は、自分でも気づかない程度に希望的観測が含まれていた。征徒は答えを考えるように眉を寄せた。


「……神の悪戯を収める方法、それも神本柱ではなく眷族が相手なら二通りある。一つは悪戯を引き起こしている神を探し出して辞めさせること。もう一つは騒ぎの元凶を諫める、つまり眷族を倒すんだ。大抵はこの二つ目を達成した後に原因である神を探して罰している」

「で、実際の勝率は?」

「…………眷族も生み出した神によって力の強弱は違ってる。だから一概に言えるのものではないけど、そのほとんどが大人数の神職による連携で収められている」


 つまり、今回は難しいということか。見る限り、泥の眷族に対応しているのは片手指にも満たない神職たちだ。また、今回の眷族は度を越えた凶暴性を発揮している。直接的に眷族を討伐することがもっとも単純で分かりやすいとはいえ、戦力で押されている現状を考えれば、犯人ならぬ犯神を探し出すほうがまだマシかもしれない。


「そんなっ」


 だが、どうやらその時間も残っていないようだ。

 征徒の愕然とした声に導かれそちらを見ると、眷族と戦っていた神職が追い込まれていた。屋代では使えない多くの祈相術を組み合わせて戦っていた彼らは、しかし、そのほとんどが負傷していた。服が破け、その下の柔肌から流れた血で赤く染めている。手足が動かなければ舞を踊れず、祈相術を使えない。それはつまり、眷族に対抗する術が無くなることを意味していた。


「――っ」


 歯を食いしばることを止められない。今ここで飛び出しても、祈相術を発動できない屋代では役に立たないどころか足を引っ張るだけ。だからこそ、何もできない己にただ腹が立った。いっそ祈るような思いで屋代が見つめる中、恐れていたことが起こってしまった。


「あぁっ」「!」


 眷族の尻尾が大旋回、神職たちを薙ぎ払った。

 それは、疲れを知らない眷族と人間の差。体力という限界。足元が不安定の中で走り回り、舞い続けた神職たちが体をふらつかせた隙を、眷族は見逃さなかったのだ。

 地面に、あるいは崩れかけた店の壁に打ち付けられた彼らは、そのまま力なく手足を投げ出した。


「……………行くしかない」

「正気かい屋代!?」


 驚愕する征徒に、屋代は深く頷いて呼吸を落ち着ける。


「あの眷族に容赦がないのは東雲も見てただろ? 今行かないとあの人たちが殺される。それに、誰かが囮になってないと逃げた人を追いかけるかもしれないだろ」


 観察していて分かったことがある。それは、あの眷族が執拗に人を狙っているということだ。明らかに近くにいる人を対象にしていた。建物の破壊が控えめなのも、あの場にとどまっているのもそれが原因だろう。理由は定かでないが、それならば祈相術を使えない屋代でも囮になれる。


「な、ば―馬鹿なことを言わないでくれ! 死ぬかもしれないんだぞ!?」


 驚きすぎて声が裏返った征徒につい噴き出してしまう。


「俺だって死にたくないが……けど、俺は神職を目指してるんだ。神の眷族が人を襲っていて、そんな状況で動かないなんてこと出来るか?」


 少なくとも屋代には無理だ。死ぬつもりはないし、そも命を晒すことに抵抗もあるが、何より重要なのは白穂神に恥じない行動をとれるかどうか。彼女に仕える者として在れるのか否かだ。


「ふーん。相変わらず心構えだけは大したもんね。けど、いくら囮になるって言ってもアンタ一人じゃたかが知れてるわよ」

「波嬢さんっ!?」


 と、いつの間にか近くにいた波嬢に征徒が肩を震わせた。屋代はどこにも怪我のない波嬢に安堵した。


「良かった、無事だったか」

「はん、まだ学生のアタシは戦わせられないからって逃がされたのよ。でも、今ならそうも言ってられないでしょ? どのみち襲い掛かってくるならこっちからやってやるわよ」

「なんだ、やるのか?」

「むしろあたしの台詞よ、それ。アンタは眷族の周りを走り回って気を引き付けてなさい。その隙にアタシがでかいのを入れてやるわ」


 自分が主力で屋代はその引き立て役だと、そう断言する波嬢に苦笑が漏れた。戦力的に見ても当然の配置で、一人より二人のほうが時間を稼ぎやすいのも事実だ。屋代としても心強い。


「ま、待ってくれ二人とも。冷静になるんだ! 僕らはまだ祈相術を扱う資格を持っていない。それに、ここ以外でも神の悪戯は発生していたんだ。そちらを対処している神職たちがもうすぐ来てくれるはずだ。キミたちが危険を冒す必要はない!」


 波嬢の参戦の言葉に面食らった征徒が慌てて言葉を挟む。行く手を遮るように前に立ちはだかった。


「そいつらが来るまでの時間を稼ぐ必要もあるから、なおさらアタシらがやらなくちゃいけないんでしょ。ほら、眷族もこっちに突っ込んできそうよ。そこどきなさい」


 ぐっと征徒の腕を押しのけて前に出る波嬢につられて、屋代も足を出す。身を案じてくれる征徒に感謝しながら通り過ぎようとした。


「――………正しい………の…っ分かった。僕も、やろう。ただ、するのはほかの神職が救援に来てくれるまでの時間稼ぎだ。絶対に無理はしないと約束してくれ」

「東雲……!」


 そうして3人は駆け出した。


「屋代は眷族の周りを逃げ回るんだ。無理に攻撃しようなんて思わないでくれ。とにかく一秒でも長くこの場に眷族を縫い付けておくんだ!」

「おう!」

『祈りは炎、願いは剣――』


 征徒の助言を受けた屋代は二人よりもさらに早く加速する。すでに祝詞の詠唱に入っている波嬢の声を背に受けながら、屋代の足は一足飛びに眷族へと近づいていく。

 当然眷族も屋代に気づいた。目のない頭を左右に振り、何かを探すような動作を繰り返していた巨大な怪物は、はじかれたように顔を屋代に向けた。目も鼻もなく平らな顔面は、けれど機械のような無機質な視線を感じさせる。


「よくも店を壊してくれたなこの野郎!」


 とはいえ、それで足を止めはしない。実習を台無しにしてくれた恨みを込めて、足元の瓦礫を投げつける。


「―――――」


 当たり前だが損傷なし。まるで無傷。効果という意味ではまるで無意味な行動で、投げつけた分だけ体力を消耗した屋代だったが、少々のうっぷん晴らしになったので良しとする。


「よっ、っ、は」


 眷族の動きは早くない。むしろ鈍重である。普段から祈相術のためにと、舞いの練習をしている屋代の体力と速力があれば逃げ切ることは難しくない。気を付けるべきは、周囲の物を巻き込んで一切を薙ぎ払える尻尾の動きと、その巨体を生かした突撃だ。あまりに接近しすぎているといざというとき避けられない。眷族との間合いを意識する。


「ふ、ふ、」


 飛んでくる瓦礫が頬をかすめた。振り落とされる四肢が起こす風に髪が揺れる。擦りつぶそうと迫る巨体を間一髪ですり抜ける。

 自らの命が脅威にさらされる。感じたことのない緊張が、屋代の心臓を早鐘のごとく脈打たせた。ただでさえ見上げるほどの巨大さ、人とはかけ離れた異形の存在であり、その体を支える足がかすりでもすれば、人の命など軽々と砕けるだろう。そんな相手に自ら近づき逃げ回る屋代は何なのか。己の夢に準じたい馬鹿か、何も考えていない阿呆か。ともすれば零れかける自嘲を飲み込んで、屋代は足を回し続けた。


『―烈火のごとく猛り狂え――避けなさい! ―焦熱一閃』

「!」


 声が届くよりも先に、すさまじい熱気が背中を炙った。それまでの暴力とは違う脅威に全身が泡立ち、即座にその場から飛び退る。瞬間、屋代の横を炎が翔けた。煌々と燃え盛る炎、それが剣の形を成して、下から掬い上げるように振り抜かれる。


「っ」


 炎剣は、持ち上げられていた眷族の足裏を切り裂いた。決して浅くはない、剣として凝縮された炎はその高熱により確かな傷をつけ、しかし勢いを止めることは叶わなかった。痛みを感じていない眷族は傷など意に介することなく、驚異的な自重をもって足を振り下ろす。


「あぶなっ」


 ごっ、と叩きつけられた地面が眷族の足の形に凹む。その深さを目撃した屋代の顔が引きつった。

 一呼吸もその形を維持できずに霧散した炎剣。慌てて火の粉を払いながら、後方に叫ぶ。


「波嬢、もっと威力は出ないのか!?」

「これが精いっぱいよ! 文句言ってないで逃げ回りなさい!」


 応えもまた怒声に近い。すぐさま別の祈相術を発動すべく舞い踊りだした波嬢に次の文句を飲み込んで、屋代は猫パンチのごとく横から迫る泥の足をしゃがんで避けた。

 だが、それがいけなかった。狙ったわけではないだろうが、しゃがんだ勢いで瓦礫の隙間に足が捕られてしまった。


「―――」


 気づいた時には遅かった。陰った頭上に顔を上げると、泥の眷族の腹が見えた。

 押しつぶされる。

 そうと理解した屋代だったが、足を引き抜くまでには数秒有する。屋代の脳裏を焦りが埋め尽くす。足を引き抜くというごく単純の作業さえ、思考から飛んでしまう。ぺしゃんことなり臓物を吐き出した己の姿を幻想し、胸中に怖気走った。


「屋代!」


 だが、現実はそうならなかった。遅れて発動された征徒の祈相術が屋代を救う。

 まるで波打つように地面が蠢くと、何本もの円柱が生み出され、眷族の腹を打ち据えた。体が泥でできている眷族には大した損傷にならないが、その大部分を宙で受け止めたことで屋代が逃げ出せる時間ができた。慌てて足を抜き出し、その場を離れる。


「助かった!」

「礼はいいから眷族から目を離さないでくれ! もう支えきれない!」


 征徒が言った瞬間、地面から生えていた円柱に罅が入っら。予想たがわず根元から折れ、縫い付けられていた眷族が地面に返ってくる。

 眷族は頭を左右に振り、何かしらの感覚器官をもって屋代を再びとらえると、疲れを知らない体を動かし襲い掛かってきた。まるで休憩を挟んでくれない相手に、屋代の額から汗が流れ落ちる。


「今何分経った―…?」


 あるいは何秒か。あわよくば一矢報いてやろうなどと考えていた屋代だったが、すでにそんな悠長な思考は放り出していた。一歩手間取れば命を失う環境に、そこに身を置くという未知の緊張と恐怖に、屋代の頭は熱を帯び続けている。浮かれたような浮遊感と、当たられてることへの危機感を内包しながら走り続ける屋代の視界にふと、少し離れたところで歌い踊る征徒たちの姿が入ってきた。


『色づく焔は咲き乱れ――』『命を支える大地こそが不朽の財……』


 波嬢は優雅さの中に鋭さを。征徒はあえて遅く動くことで重厚さを見せつける舞。

 それぞれが祝詞を口ずさみながら踊ることで、定められた祈相術が発動する。


『大火連咲!』『不地縛』


 一抱えほどもある火の塊が数十も生まれ、確実に眷族を削っていく。流石に無視しきれないのか身をよじって避けようとする眷族だったが、続いて発動された征徒の祈相術が逃走を許さない。意図的に陥没させた地面が眷族の四肢をその場に留めおく。今度は眷族のほうが逃げられなくなり、結果波嬢が放つ火の爆発をその身で受け止めるしかなくなった。流石に再生能力などないのだろう、泥が飛び散り、その体積を目減りさせていく。


「――――」


 怒りに震える咆哮はない。眷族は決められた手順を守るように、自らの負傷を最小限に抑えるべく身を丸くする。どんどん削られていく泥の肉体、動けない眷族はそれでも身じろぎ一つしなかった。そうして波嬢の攻撃がやむのを待って、足を引き抜くと屋代を探すために頭を振り回す。

 征徒たちは息を整えながら、噴き出す汗を拭うこともせずに再び舞を再開する。光が収束し、祈相術の兆しが現れだす。

 まさしく神職の花、まだ学生であってもそこには確かな彩があり、輝く未来を感じさせるものがあった。それを見た屋代は――嫉妬してしまった。


「――っ」


 食いしばった奥歯が嫌な音を立てた。

 分かっている、分かってはいるが、しかし心がささくれ立つのを止められない。なぜあそこに己がいないのか。舞を踊り、様々な事象を操っていないのか。

 征徒は必死だ。波嬢は真剣だ。さっきまで戦っていた神職たちは本気だった。自分たちの役割を果たそうと矜持を抱いていた。そんな彼らに嫉妬すること自体が間違いだ。理解している、けれど止めることも出来ない。汗水たらして走り回り、眷族の攻撃に悲鳴をこらえて逃げ続ける。これもまた立派な役割分担だと、そう自分に言い聞かせても誤魔化せない。

 祝詞を唱えることなく、祈相術も発動させられない己が憎くて仕方がない。今の自分を、どうしようもない醜態を晒している愚図だと貶められている気さえしてくる。幻の嘲笑が耳奥で響くたび、足が重くなっていく。


「あっ」

 

 だから、足元を疎かにした。

 障害物があると見えていても、避けようという認識が追いつかなかった屋代は、受け身を取ることも出来ず体を地面に投げ出してしまった。鼻を強打し、全身を瓦礫の山にぶつけながら、慣性の勢いそのままあちこちを強打した屋代の頭に空白が生まれた。

 失敗した。

 その言葉だけが口の中で溢れた。晒した隙が見逃されるはずもなく、屋代の視界一面に頭を振り乱しながら突っ込んでくる眷族が映った。


「………」


 遠くで征徒の表情が歪んだのが見えた。焦る気持ちとは裏腹に、まだ発動段階ではない己を悔やむ波嬢が舌を鳴らした。

 二人の援護が間に合わないことを悟った屋代は、ただ茫然とした。


「―――あ」


 これで終わり? ここで、こんなところで死ぬというのか。

 まだ何も成せていない。神職に就き白穂神に恩を返せていないどころか、何一つ彼女にもたらすことが出来ていないまま命を終える。そんな逃れようのない未来が訪れる。


「あぁ――」


 だめだ、いけない、その先だけは受け入れられない。家族からも捨てられた屋代に居場所をくれた彼女へ、一つでも多くの物を。

 心は拒絶する。感情は否定する。目の前の現実を認めたくないと頭は暴れ続けている。だというのに、刻々と視界に広がり続ける眷族を前に、屋代の体は遅々として動かない。自身でもじれったくなるほどゆっくりとした動作は、屋代をして間に合わないと確信を抱かせるものだった。


「とーう」


 そんな気の抜けるような声を聴いた。同時に、全身を奇妙な浮遊感が襲った。


「え、は―?」


 おかしい。眼前から眷族が消えた。いいや、それだけではない。これまで見えていた地面や瓦礫の山もすべて視界から無くなっている。代わりにその目に映る景色は青色。たなびく雲の白色と見事な共演を果たす透ける青空だった。

 混乱、困惑。

 今の自分がどこにいるのか、どうなっているのか分からない。理解の追いつかない屋代に拍車をかけるように、空との距離が離れていく。これは、つまり。


「落、ち――」

「落ち着いて」


 別の意味で血の気が引いた屋代の耳に声が聞こえた。身を固くした屋代を安心させるように肩も叩かれるが、残念ながら言葉とは裏腹に落ちる速度は変わらない。このまま激突することと眷族に弾かれることのどちらが苦しいのだろう。気を遠くした屋代の危惧は、しかし意外なほど柔らかな衝撃に裏切られた。


「着地」

「助か、った……?」


 零れた声がやけにかすれていた。一瞬で干上がった喉が痛みを訴えるが、むしろ痛みを感じられることが生きている証である。なぜ自分が生きているのか。置き去りになっていた思考が徐々に回転しだし、自らの現状を把握しようと状況を認識し始める。


「もう、大丈夫」


 再度耳元で聞こえる少女の声色に、助けてもらったのだとようやく理解する。まだ浮遊感の残る体を持て余しながら頷いた。


「あ、ありがとっ、ておわ!?」


 声のしたほうを振り返ろうとして、予想以上に近しい少女の顔に驚く。目と鼻の先にあった、具体的に言うと少し動かせば少女の唇に触れてしまえそうな距離に、お姫様抱っこされているらしいと気づいた屋代は目をぎょっとさせた。大慌てで離れようと体を揺らすが、少女は両腕はピクリともしない。まるで鋼鉄に支えられているような力強さで屋代を抱えている。


「? はい」


 屋代の慌てぶり理解した少女が解放してくれた。ようやく自分の足で地面を踏むことができた屋代は、そのまま数歩少女から距離を取った。若干赤くなった頬を誤魔化すように深呼吸を繰り返す。


「アンタが助けてくれた、んだよな…?」


 疑問形になってしまったのは、少女が屋代よりも小柄な体格をしていたからだ。肩まで伸びた髪とどこかぼんやりとした目つきから、とても屋代を抱えて眷族から逃がしてくれた人だと思えなかった。


「神職、じゃないですよね?」


 神職が着るような袴などではない、ごく一般的な服装。しかし、雰囲気とでもいえばいいのか、少女の纏う空気に独特な気配を感じた。眷族が暴れている中で屋代を助けてくれた行動といい、一般人とはいいがたかった。


「ん? 私は魔法使い」


 眠たげな眼の少女は、薄い胸を張ってそう答えた。心なしかその表情は、えっへん、とでも付け加えたくなるほど誇らしげに見える。


「まほうつかい……」


 一瞬、少女が何を言っているのか理解できなかった


「そう」


 魔法とは、祈相術の別の呼び名なのか? 当たり前だが屋代たちの国で術と呼んでいても、ほかの国では全く別の呼称を使われている。その点を考えれば、少女のいう魔法使いとは、神職を指すのかもしれない。

 と、そこまで考えた屋代は、少女の正体よりも優先すべき事項があることを思い出した。


「て、そうだ、眷族はっ? 東雲たちはどうなった!?」


 命を拾ったことへの感謝もそこそこに、屋代は目を血走らせて周囲を見渡した。眷族から逃げられたことは素直に喜ばしかったが、そのせいで眷族を見失ってしまった。囮になっていた屋代が居なくなったことで、征徒たちが標的になっているかもしれない。祈相術を発動できていなかった二人だから、もし狙われていれば非常に危うい。

 そんな危機感を募らせる屋代に、少女は感情の読めない瞳を瞬いた。


「大丈夫、もう終わってる」

「終わって……?」


 どういう意味だと問い返そうとした屋代へ、答え代わりとばかり少女が指を突き出す。指し示されたその場所を振り向くと、何人もの神職の姿が映った。


「救援か……」


 それは待ち望んだ光景だった。他の場所で神の悪戯を鎮めてきた神職たちが、泥の眷族を抑えている。宙を走る雷が前肢を吹き飛ばし、水の鞭が尻尾を縛り上げ、土の枷が胴の動きを固定する。そうして無防備になり振りまわすことしかできなくなった眷族の頭を、灼熱の剣で一刀両断。波嬢が見せた祈相術に勝る火力は眷族の抵抗などモノともせず、その頭を落としきった。

 ついに活動を停止させ、大量の土砂を残して崩れていく眷族に、神職たちの歓声が上がった。

 見事すぎる連携、よどみのない作業だ。


「――――」


 彼らとて少なからず疲弊していたはずだ。それでも速やかに眷族を倒せたのは、駆け付ける間に眷族を弱らせていた存在がいたから。その立役者となった二人は今、神職たちに称えられていた。


「ね…?」

「はい……いえ、すみません。助けてもらってありがとうございました」


 少女の声に、屋代は眼前の光景から目を離せないまま生返事する。命を助けてくれた相手に失礼なことだと、頭の片隅で理性が非難しているが、それ以上に胸に穴が開いたような空虚さがあった。

 征徒は顔を赤く染めて照れるように笑っている。不機嫌そうな波嬢は、もしかすると最後まで戦うことができなかったことへの不満があるのかもしれない。それでも褒められることは満更でもないのか、少し嬉しそうだ。そこにいる全員が協力して倒せたという事実に、皆が笑みを浮かべていた。

 そこに、屋代の居場所はなかった。


「………」


 囮となったから時間が稼げたんだと、そう言いだす気にさえなかなかった。その囮役とて満足にこなせず、最後には見知らぬ少女に救われた屋代にとって、その言葉を口にしたが最後、とてつもなく惨めな思いを味わうだろう。そんな思いをするくらいならば、口をつぐんでいたほうがましである……ああ、だというのに、食いしばった歯が軋んでいる。握りしめていた拳から力を抜けない。

 悔しいという嘆きだけが頭の中でに木霊した。

 見知らぬ少女に助けられた屋代と、奮闘を称えられる征徒たち。あまりに違いすぎる温度差に、屋代は震えを止められなかった。

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