2-2

「―――ゃ――しろ――やしろ――?」

「ん、」

 

 遠くから聞こえてくるような自身を呼ぶ声に、屋代は遠くで彷徨っていた意識を引き戻された。ぼんやりと宙を彷徨っていた視界が急に開け、目の前の光景を脳に伝えてくる。


「屋代、どうしたのです? 早く食べないと冷めるのですよ」


 畳敷きの食卓。テーブルにはまだ湯気が立ち上る白米とみそ汁、様々な総菜が用意されていた。それらが放つ魔性の匂いが食欲を刺激して、屋代の意識もはっきりと目を覚ました。


「あー、そうか。朝か……」

「何を寝ぼけたことを言ってるです? 今日も実習なのです、しっかり食べて栄養を蓄えていくのです!」


 ぶんぶん、と音が聞こえそうな大仰な動作で焚き付けてくる少女に苦笑を返す。

 ほんの数秒前まで脳裏で描いていた少女が目と鼻の先にいた。古めかしい白の割烹着を身にまとい、かつて屋代の手を握ってくれたその手にしゃもじを装備した姿で。それはまさに、誰もが思い描く親の形に沿っていた。

 見た目は幼い中学生、せいぜいが小学生程度の少女が着る服としてはいささか首を傾げてしまうが、少女の場合妙に似合ってもいた。だが、ある意味当然だろう。なにせ、少女はただの人ではないのだから。


「お代わりはたくさんありますよ。いっぱい食べるといいのです」


 そう言って、少女は体重を感じさせない軽やかな動きでさらに総菜を追加。二人分の食事とは思えない量の食べ物が溢れる。

 席に着き、自らも箸を構えて味を楽しみだした少女に、屋代は思いはせていた夢では伝えていなかった言葉を口にした。


「いつもありがとう、神様」

「? ふふ、なんです急に。そう真顔で言われると照れるのです」


 両手を頬に当ててだらしなく垂れてしまいそうになる顔を押さえた少女は、まぎれもなく神様、その一柱であった。

 そう、つい昨日見た、神秘的で浮世離れしていた浄環ノ神の同類。この国を治める無数の神に連なる存在。本来は御社殿を設え、神社の最奥で暮らし、人前にはめったに出てこないもの。接するためには、たとえ奉じる神でなくても一定の儀礼を示さなければならない天上の方。それが、何の因果か屋代と食卓を囲んでいる。


「う~ん、やはりあそこの野菜は当たりなのです。苦味の中にしっかりと甘みがあって、噛むほど美味しさが増していきます」


 その姿格好、そして口から洩れる呟きは主婦のそれだ。神という世俗から一線を引く存在が言う言葉では断じてない。

 慣れた手つきでご飯をほおばり、みそ汁をすする。そうして温かくなった吐息を漏らす様は神様とは思えないが、それでも少女が神であることに疑いようはないのだ。

 なぜなら。


「白穂神様(しらほ)。ご飯粒が頬に」

「ふ、ふぁっ!? ……き、気づいていたのですよ?」


 ……なぜなら、少女、白穂神は成長していない。初めて会ったのが屋代が6、7歳の頃だった。それから十年近く経っているのだが、彼女はあの頃の姿のまま、成長していない。これは全ての神に共通する話だが、神はこの地に降り立ってから天へ帰るまで姿が一切変わらないそうだ。年を取る生物とは違い、成長しない、ということはそれだけでも尋常な存在でない証左だろう。また、造詣が生身の生物とはかけ離れて美しい。もっともこれは神の証となるか疑問だし、神の中にも人とかけ離れた形を有する存在がいるため一概に言えることではないが、生物特有の生々しさを感じないことは共通している。そうであるようにと誰かに造形されたような、作り物めいた美しさを備えていた。

 とはいえ。


「もふもふ。うーん、炊く時間をもう少し短くするべきでした」


 ご飯を食べながらそんなことをのたまう存在を、果たして神様とみる人は何人いるだろう。

 そんな、神様らしくない神様と、なぜ屋代がこうして朝食をともにしているのかと言えば、端的に言えば神の養子として育てられているからだ。

 あの日、母に捨てられどこにも行く場所がなく、留まるべき場所さえなかった屋代を、勘違いとはいえ手を引いてくれた白穂神。屋代の事情を聴いて怒り泣くの百面相を披露した後、自らの子供として引き取ってくれたのだ。食べる物に困らず、住む場所もある。そうして確かな情をもって接してくれる彼女には感謝してもし足りない。足をなめろと言われたら両足なめても問題ないほどだ。屋代にとって、助けてくれた白穂様神は唯一あがめるべき神様だ。

 そんなことを頭の片隅で思い浮かべていた屋代は、急に笑みをこぼした白穂神に首を傾げた。  


「ふふふ、しかし感慨深いのです。あーんなに小さかった屋代がこんなに大きくなるとは。まさしくご飯パワー。食事はすべてを救うのです」


 まあ、全てとは言いすぎな気もするが、それまでまともに食事ができなかった屋代は、引き取られてから数日で体重が増加したという事実もあったので否定できない。総菜の苦味を噛みしめながら曖昧に頷く。


「白穂様には本当に感謝してます。どこの誰ともわからない俺を引き取って、しかも育ててくれて」

「むふー。何を今更。むしろ私のほうが楽しい位です」


 起伏の乏しい胸を張り、満足げな息を吐く白穂神だが、屋代は当初彼女のことを神だと思っていたかった。というか、思い浮かびなどしないだろう。世間からほとんど隔離されていた屋代であったが、それでも神とは神聖で、不可侵で、人が容易に触れていい存在ではないことは知っていた。そんな相手がまさか少女のような姿で、それもごく気軽に話しかけているなど考えつきもしなかった。

 白穂神が神だと知ったのも、実のところ屋代から問いかけて判明したことだ。始めはごく小さな違和感を覚え、何年たっても見た目が変わらない少女を訝しみ、ついに覚悟を決めて何者なのかと訊いたところ。


「――あれ、言ってなかったです? 私は神の末席に身を置いてるのです」


 と、至極あっさり答えが返され、思わずへたり込みそうになった。やっぱりそうなのかという納得と、そんな相手を気軽に話していたのかという恐れを抱いた。同時に、その軽い返答から大した秘密ではなかったのだと分かり安堵した。


「というか硬すぎるのです。いつもいつも言ってますが、様付けなんて必要ないのです。もっと、こう、親し気に呼んでも構わないのです」

「さすがにそれは――」

 

 先とは一転して唇を突き出して不満を現わす白穂神には申し訳ないが、いくら屋代であっても恩人であり敬愛すべき相手にため口など言語道断である。足を向けて眠れないほどの相手なのだ、白穂神様は。

 屋代は味付けの薄いみそ汁をすすりながら笑みをこぼしたが、誤魔化されないぞと言いたげに白穂神が身を乗り出そうとする。今となっては完全に身長が逆転し、屋代の胸にも届かない白穂様の頭がずいっ、と迫る。


『―――本日の情報は以上です。続きましては一週間分の天気予定をお知らせします』

「むむむ?」


 さっきから流れていたテレビの声に釣られて動きを止めた白穂神は、畳の間には似つかわしくない現代利器をじっと見つめた。


『本日、明日と晴れが続くでしょう。しかし3日目の午後からは曇りがちになり、5日の夜から雨が続きます。7日目で雨が上がり、晴れとなる予定です』

「また雨なのです? 冬に近づいているとはいえ、洗濯物が乾き難くなってしまいます。まったく、この国の神は何をやっているですか……」


 白穂神が大きくため息を吐き出して嘆く傍ら、屋代も実習について思いはせた。

 事務所内での書類仕事もそうだが、屋外での実習も多いはず。そうなると必然的に雨の中で活動することになってしまう。特別雨が嫌いというわけではないが、やはり憂鬱な気分だ。なにせこの天気予定は絶対に外れない。

 予報ではなく、予定。あらかじめ決められている。


「……俺たちの国は特に環境を変更させやすい場所にあるから、仕方がないかと」


 この国は神によって治められている。それは何も、人間社会のみをさしているのではない。最も根本的な部分として、神は環境そのものを司っているのだ。水の流れ、大気の影響、はるか宇宙から降り注ぐ様々な有害線の緩和など、それら全てを神は操っている。考えたくないことだが、もし神が権能を振るうのを辞めてしまえば、水はすぐに汚れ腐敗するだろう。風は二度と吹くことがなく、気圧の変化は改善されない。外を出歩けば多くの有害物質にさらされてしまうはずだ。生物が生きる環境を整えているのが、神様という存在なのだ。

 そして、それは屋代の国に限った話ではない。この星にある大小様々な国で神は同じことを行っており、多くの種を助けている。だからこそ問題も起きてしまう。

 つまり、それこそ環境の取り決め、予定なのだ。一つの国が水不足に陥ったとして、ではその国だけに雨を降らせていればいいというわけではない。神も万能ではなく、雨など降らせるには元となる水分がどうしても必要となってくる。世界規模で見た場合、一つの国が独占し続けていれば他所の国に雨を降らせることができず、結果作物が枯れるようなこともある。風で海を荒らし、あるいは海流そのものを操れば漁獲量も大いに変わるだろう。

 このように、世界的に見て自国のみの利益を追求しようとすると、必ず別の国に不利益が生じてしまうのだ。そうなったら、かつて国同士で争った大戦の二の舞になる。国同士の争う事態を避けるためにも、国の頂点、責任者間の取り決めが重要になってくる。そうして定められるうちの一つが天気、すなわち雨風の状況だ、

 あまり芳しくない天気模様は、その分各国と調整したが故なのだろう。


「はぁ。私に力があれば洗濯物など一瞬で乾かしてみせるのですが」


 自分で口にしながら肩を落とした白穂神に、屋代はなんと声をかけていいのかわからず沈黙してしまう。

 安易な慰めを口に出せないのは、屋代もまた白穂神にそのようの力がないことを知っているからだ。では白穂神がどんな権能を司っているのかと言えば、実のところ屋代は知らない。そして、当の本神さえも知らなかった。


「白穂神様、何か思い出せたことはないですか?」

「…なーんにも、です。まあもう二百年以上思い出せてないですし、大したことはないのです、きっと」


 白穂神はそう言って、テレビを見ていた目を食卓に戻した。食事を再開した様子は落ち込んでいる風に見えなかったが、それでも口端に浮かんだ笑みが寂しげに見えた。


「………」


 白穂神は記憶障害、いわゆる記憶喪失の状態にある。屋代も初めに聞いた時には驚いた。漫画などではよく使われる設定だが、しかしそれが身近な存在、それも完全不変の神に起こるとは想像したこともなかった。彼女以外に聞いたことはない話だが、事実として白穂神は己が神様であるという自覚以外を覚えていない。自分がどんな権能を持っていたのか、またどこにいたのかも。神様として何をしていて、どんな人たちに崇められていたのか、全て忘れている。

 そんな彼女だからこそ、神々の間での扱いはひどく微妙なものだ。白穂神が神であることは、他の神々も認める事実だ。しかし、同時に彼女は何の権能も持たない。神としての特徴はあっても力がないゆえ、社会における役割を担えない。

 言い方は悪いが、人でいうところの落ちこぼれ。あるいは役立たず。大地に栄養を送ることも、風を操り大気を流動させることもできず、神々の住居兼力を振るう場としての神社を持てない下っ端。

 だが、人から見るとやはり彼女は神なのだ。どれだけ力がなくともその権威は絶大で、崇めるべき対象となる。だが神社を持てない彼女を正式に祀ることはできず、また社会において何ら貢献を果たせない。蔑ろにされないまでも、まるで腫物を扱うように丁寧に接されてきた白穂神は、結果、定住地を持つことなく各地を歩き続けた。住む場所を定めたのは屋代を引き取ったからだ。

 そこでもまた一波乱あったそうだが、つまり屋代が何を言いたいのかというと。白穂神は神様としての居場所を持っていない、ということだ。かつて、人でありながらどこにも身の置き場がなかった屋代のように。


「―――――大丈夫です。白穂神様なら必ず思い出せます」

 

 だから屋代は、神職に就きたい。白穂神の居場所を作りたい。自分を救ってくれた神様に寂しい笑顔を浮かべてほしくないから。

 そんな決意のこもった声色を受けた白穂神は、何度も瞬きをして、頬を緩ませた。


「ふふ、ありがとうございます」


 そうして話が一区切りついたところで、食事が終わりを迎えた。用意されたすべてを平らげて膨れ上がった胃袋を抑えつつ、屋代は引きつった笑みを浮かべた。


「ご、御馳走さまです。いつも通り旨かったです」

「はい、お粗末様です」


 いつも以上に動かないと体重が増えそうだ。

 重くなった腹を抱えながら、屋代は食器を片付ける。ご機嫌な様子で温かいお茶を飲む白穂様を横目に、畳の様式には似つかない洗練された型の洗い場で食器を洗う。

 そんな屋代に声が飛んでくる。


「あー、と、ところで、昨日の実習はどうでしたか。怪我とかしてないです?」

「………うん、怪我はしてない、ですね」


 白穂神の心配に、屋代は思わず声を震わせた。

 うん、怪我はしていない。しかし白穂神の言葉をきっかけとして脳に再生された己の醜態に顔を暗くする。眷族に水をぶっかけられ、衆人環視の中で祈相術を発動できなかった。自らの情けなさに涙が流れそうだ。

 白穂神に見られてなくてよかったと、そこだけ安堵していると、さらなる言葉が投げられた。


「あまり無理はしちゃだめなのです。安全第一、命あってこその人生なのです。世間では神職こそ人が就ける最も尊い職などとも言われますが、実際はそんなことないのです。神様を支えるなんてよく言ってところで、結局は神の尻拭いをしているだけで、危険だって当然あるのです。屋代にはもっと危険の少ない職業に就いてほしいのです……」

「すみません、それは出来ないです」

「はあ、どうしてこう頑固に育ってしまったのです。まったく」


 むしろ白穂神に育てられたからこそ、などというのは野暮だろう。それに、危険云々をいうのなら神職だけが危ないわけではない。どんな職業であれ大なり小なり危険は付き物だし、極論するなら生きている限り命を失う危険は常にある。こうして食器を洗っている今でさえ、天文学的な確立によって空から隕石が降ってくるかもしれず、突然の病で倒れる可能性もある。

 だからこそ、一分一秒を惜しんで白穂神のために生きたい。少しでも恩を返したい。その願いを口には出さず、苦笑だけを返した屋代は洗い終えた食器を棚に戻して、脇に放置していた鞄を掴んだ。


「そろそろ行きます。帰りは昨日と一緒で、そう遅くはならないと思います」

「む、仕方がないのです。私も今日は早く帰れるはずですので、夕飯は準備しておくのです……ところで、今日は何をするのです? 祭事? それとも水の神なら穢れ払いとかです?」

 白穂神の問いかけに、屋代は視線を彷徨わせながら記憶をたどる。

「たしか、今日するのは」

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