2-1

 夢の中で意識に目覚める、そんなことを幾度となく経験した。


「――あんたなんて生まなきゃよかった」


 夢の中で母が言った。顔の作りが判然としない、まるで子供の落書きで塗りつぶされたように真っ黒な顔面、しかしその言葉だけが明瞭に聞こえてくる。声色に込められた生理的嫌悪をこの上なく伝えてくる。

 夕暮れ時、日が沈みだす。赤く染められた世界の中で、それまで繋いでいた手を振り払われた。


「―――――」


 その時の屋代は泣いていただろうか。それとも黙っていただろうか。我ながら記憶力に乏しい頭は自分の言動さえ覚えていなかった。ただ何となく、向けられた敵意だけを感じ取っていた気がする。

 母は世間的に見れば褒められた存在ではなかった。屋代が従わなければ平気で殴り、我儘を口にすれば部屋から放り出す、何もしていなくとも目に映ったからと癇癪を起されたこともあった。普通の母親を知らない屋代には比べようもなかったが、しかしそれが一般的でないことだけは理解できた。

 父はいない。生まれてからそれまで、屋代は父親というものを見たことがなかった。まだ幼かった頃の屋代は父という存在そのものを知らず、親と呼称するのは母だけなのだと思っていたくらいだ。近所の公園で父親というものを教えてもらえなければ、おそらく知る由もなかっただろう。

 どうして父が傍にいなかったのか。母の口から語られたことがなく、知る術さえ持たなかった屋代では想像するしかないが、おそらく深い理由はないだろう。実は名家の隠し子だとか、秘められた出生が、などというものではない。順当なところでいえば離婚か、はたまた不幸にも死別したか。

 いや、それも違うかと、今になって回想する。


「どうして私だけ」「違う、こんなはずじゃなかった」「お前のせいだ、お前が居なければ!」

 

 父を口汚く罵り、疲れ果てるまで暴れていた母の痴態を思い起こせば、おそらくそう褒められた道を歩んでいなかったはずだ。

 神によって人は豊かになった。食うに困ることはほとんどなく、暖かな寝床にも事欠かない。だが、全ての人間が救われるとは限らない。神によって生活が保障されたとしても、不幸や不満はどこにでも湧いてくる。人が理性と感情の生き物である以上、そうして何億という群れ社会を形成する以上は、そこに必ず軋轢が生まれる。特に屋代の住む国は比較的信仰も緩く、ある程度自由があった。それらを飲み込んで一つの国を成しているからには、まったく違う主張は反発しあい、時には暴力をもって相手を否定することになる。母にそれほどの信仰心があったとは思えないが、きっと彼女なりの理屈をもって生きていたはずだ。その結果として伴侶を持たず古びた部屋の片隅で暮らすことになっていても、それはきっと、母が自ら歩んできた道なのだ。不平を漏らしても、不満を抱いても、受け入れなければいけない現実だった。

 しかし、母はそれが出来なかった。他者を恨み、周囲を嫉み、幸せを渇望した。そうした憎悪は衝動と化して常に屋代に向けられた。生傷は絶えず、血を流したことも一度や二度ではない。そんな屋代だから、物心つく頃には理解していた。

 すなわち、この世に自分の居場所がないということを。

 同年代と遊ぶことがなく、接する機会さえ乏しかった屋代にとって、母一人が世界の全てだった。たとえ母から与えられるものが暴力と深い拒絶だとしても、母から離れるという選択肢を思い浮かべられなかったほどに。けれど、そんな思いも擦り切れていった。

 どんなに強い感情も、どんな深い感動も、ほんの些細な出来事で変わる。あるいは、長い年月を得ることで起伏がなくなっていく。感情は決して永遠ではない。覚えた感動は永続せず、二度三度と続けば色あせていくものだ。


「――――これで清々するわ」


 だからこそ、母から手を離されたときに感じたのは、悲しみでもなければ解放感でもなかった。ただ捨てられたという事実だけである。

 未練なく去っていく母の背を追いかける気にはならなかった。泣き叫び、足に縋りつくことさえしなかった。きっともう、屋代の方にも母への情愛が無くなっていたのだろう。小さくなっていく赤の他人を、見えなくなるまで眺め続けた。

 そうして、屋代は一人になった。

 いや、もしかすると初めから一人きりだったのかもしれない。本当ならば子供の世界を作ってくれるはずの肉親が、屋代の存在を全否定していたのだから、生まれた瞬間から世界に居場所などなかったのだ。

 では、兄弟もなく友人もなく、頼れる大人もいない幼い屋代が次に何をすべきか。

 この時は―――確か、何も思いつかなかった。

 寝床を確保する、食料を探す、あるいはどこかに頼んで保護してもらう。今であれば考えつくそれらの行動を、当時の屋代は何一つ考えなかった。ただ呆然と夜に沈みだした世界を眺めていた。

 彼女が現れたのは、そんな時だった。


「むむ、何をそんなに泣きそうになっているのです。お腹でも空いているのですか?」

 

 ああ、今聞いても随分的外れな第一声だ。

 驚いた屋代が振り向いた先で、彼女は使命感に満ちた顔で仁王立ちしていた。腰まで伸びる黒い髪、幼い屋代が見上げる程度の低身長と未成熟な肢体。なのにどこか貫録を感じさせる佇まいというちぐはぐな印象を持った少女。目を丸くした屋代に自信たっぷりに頷いた。


「見たところあまり食べていないようですね。何か事情を抱えていそうですが、何はともあれまずはおなか一杯ご飯を食べなさい。食べればどうにかなるものです」

「ぁ、ぇ?」

「親はどこです? 子供にご飯を与えないなど言語道断、この私がビシッ! と説教してやるのです」


 知らなかったとはいえ、親に捨てられたばかりの屋代にそれを聞くのは、彼女も随分酷である。実際、彼女の勢いに何も口にできなかった屋代は目を白黒させた。


「あ…う」


 それにしても、もう少しまともな反応をできなかったのか。言葉を詰まらせて体を振るわせる様は、まるで好きな相手から話しかけられて固まってしまった少年のようだ。夢なのだから、せめてそのあたり融通を聞かせてほしい。


「むむむ? どうしたのです、そんなに固まって。緊張することはないのですよ? 貴方に怒っているわけではないのです」


 両手を腰に当てていた少女は、屋代の態度に慌てて手を振った。


「むしろ少年が怒るべきなのです。ご飯たべさせろーっと。たとえ子供に非があっても、ご飯を食べさせないなどしてはならないのですから。虐待、ダメ絶対!」

「あ」 

「というか、よく見れば随分と汚れているような……これはもしや私が思っている以上の事が起きているのでは?」


 ころころと表情を変えていた少女が眉を寄せて難しい顔となった。だがそんな事よりも屋代は、胸の内で収まるような感覚を覚えていた。

 怒っていいのだと言われて、何か、腑に落ちた気がしたのだ。


「怒…る」


 呟き、屋代は地面に視線を落とした。顔を歪め、それでも感情一つ動かなかったが、その様子に気づいた少女が慌てた。


「ど、どうしたのです? お腹が減ったです? はっ、まさか、怪我してるですか!?」


 一大事ですーっ、と屋代の体を触り始める少女。その遠慮のない間のつめ方は、初対面の相手にするそれではない。思わず体を固くした屋代に気づかず、労わるように優しく触れられた。


「ん、ん、」


 全身を撫で回されるという初めての感触に、屋代は戸惑った。体に触れられることは、殴られるということ。憎悪で固く握りしめられた拳で痛みを与えてくる行為。それが普通で、当たり前だった。

 けれど、少女の手は違った。母のような痛みはない、触れる手の平は柔らかく、屋代を慈しむように優しい。自分以外の手が自分に触れている。それが妙に心をくすぐり、屋代の胸の内から何かが込み上げてきた。


「はわっ、やはりどこか怪我を!? 母親さーん、父親さーん、いないのですかーっ?」


 鼻がかゆくなった時のように、屋代は何かを吐き出そうしたが、それに気づいた少女は大慌て。右を見て、左を見てそこに誰もいないことを確認して盛大に目を回す。


「くぅっ、し、仕方がないです。親には後で説明することとするのです」

 

 そうして、少女は躊躇なく屋代の手を取った。


「あ」

 

 少女の手に触れることに、何故か罪悪感を覚えた。屋代の手はお世辞にも整っているとはいいがたく、栄養失調ゆえに色艶を失った手は子供のものとは思えないほどひび割れ、爪は白く濁っていた。そんな醜い手が、少女の傷一つない綺麗な手に包まれた。遠慮、あるいは申し訳なさか。屋代にとって未知の情動は、少女の手を握り返すという行動には繋がらず、力の入っていない指先はピクリとも動かなかった。


「さあさあ、早く病院に行くです。腕が確かなお医者さんを紹介するですよ。あ、でもしっかり歩けるです? 私、こんな姿なので背負うのはかなり難しい……いえいえ、最悪引きずってでも連れていくので心配には及ばないですが」

 

 だというのに、少女は屋代の手をより握ってくれた。決して痛みを与えないよう柔らかく、けれど離さないように深く。その温かさに触れて、屋代を見つめる瞳に拒絶感もなくて。

 その時感じた、泣きそうになるほどの何かを今でも覚えている。

 張り詰めていた何かが、ゆっくりとほぐれていく感触が鮮明に思い出せる。


「怪我を診察してもらったらついでにご飯も食べるのです。魚、お肉、野菜とごちゃ混ぜ料理処ですが味はぴか一、食べたらきっと感動間違いなしなのです!」

 

 先導しながら、少女の目が優し気に微笑んだ。


「あ、そういえば、まだ名乗っていなかったです。私は――」


 このあと、診察に行った先で医療の神から人さらいだと騒がれ、弁明に励むことになる少女と。

 その少女に救われた、屋代の始まりの夢だった。

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