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「社務所は我々神に仕える神職が普段つめている建物。お守りや神札を売りさば、いえ、授けるのは授与所という場所で行われ、そこかしこに設置されている小さなお社は浄環ノ神に関係する神様を祭る分社となっています」

 

 他の生徒たちと合流した後も、境内の施設案内は続いた。生徒の遅刻と屋代たちの騒動で時間を取られたせいか、実際に足を運ぶ余裕もなく遠目で観察するだけに終始したが、将来働く場所だと考えると奇妙な心地を覚えた。


「神職の仕事は境内の中だけでも、施設の清掃管理、お札授与など多岐にわたりますが、季節ごとの行事、年の節目に開催する祭事といった、外で行う催しも私たちの管轄です。決まったことを繰り返し行うだけ、というと簡単そうに聞こえますが、その決まり事だけでも多種存在するのです、覚えることも相応にあります」


 藤芽の声は決して大きなものではなかったが、生徒一人一人の耳に入っていく透明さがあった。藤芽の背を眺めながら、後に続いて歩く屋代はその声色に一人ごちる。


「ってことは、施設についても知っとかなくちゃいけないのか?」


 言って、その嫌な想像に首の後ろをこする。学校の勉強でさえついていくのがやっとなのに、そこに加えて建物、建築関連の知識すら必要になるというのか。日々各国の神々の関係性、祭事や儀式の手順といったものを、頭から湯気を出す勢いで詰め込んでは忘れていく屋代にすれば悪夢もいいところだ。

 現実逃避しかけた屋代の想像を、波嬢が笑い飛ばした。


「馬鹿ね、そんなわけないでしょ」

「確かに普段の清掃や建物の点検くらいはするだろうけど、補修や修繕といったことはすべて専門家に任せているはずさ」


 波嬢の言葉足らずの台詞に、すかさず東雲の補足が入る。

 隣に視線を向けた


「じゃあ、俺たちはそこまでしなくていいのか?」

「当然さ。素人の僕たちがすべてこなせるわけじゃない。提携している専門家が居ても不思議じゃないし、なんなら常駐しているところもあると思う」


 なるほど、と頷き、後ろを振り返る。藤芽がその身振りだけで案内した建物は、確かにどれも綺麗な外観をしていた。近づいてみなければ詳しくわからないが、少なくともひび割れて居たり、壁面が剝がれているといった損傷は見られない。そも神のいる神社でそのような状態になっているほうが問題だ。景観を整えることもまた重要で、神職だけですべてが賄えるわけもない。多くの専門家が関わり、初めて成り立っているのだろう。

 そんな、ある意味当たり前のことを感じ取った屋代は感嘆の息を漏らした。


「凄いな」


 子供のような感想であったが、その裏では実際多くのことを感じ、それらが集約された一言であった。


「ああ、僕らは普段神様に仕えるという大きな目標をもって学んでいるけど、神に関わるのは神職だけじゃない。というより、大きなくくりで見ればこの世に生きる全ての人が神様に関わっているといってもいいくらいだ」

「あ、そうか。祀るからか」


 征徒に指摘されて気づく。人は、個人的にしろ家系的なものにしろ、神を祀っている。自身が住む地域の神だから。あるいは生きる過程で力を貸し与えてほしいという思惑、神様に直接助けられて以来代々祀っている、なんて家もあるだろう。祀る神は誰かに強制されるものではなく、また生涯において一柱の神しか信仰できないわけでもない。なんなら一度に複数の神を信仰してもかまわない。

 むろん、早々に祀る神を替えていれば信仰心がない不忠義者として蔑まれてしまうし、神ごとに決まった祀り方、あるいは簡易な儀式を行う必要も出てくる。大抵は一柱、ないし人生の転機に差し掛かった頃に変えることが多い。そのための手続きが煩雑であるということから厭う人もいるくらいだ。


「まあ、僕らのような国は珍しい。なにせ、一つの国に百柱以上の神がおられるんだ。そのおかげで僕らには信仰対象を自由に選択できる権利が与えられている。世界を見渡してもこんな国はそうそうない」

「ふん、何言ってるんだか。そこに本物の信仰心が伴ってなくちゃ意味ないのよ。まっ、その点アタシは完璧だけど? なんせ千年以上一つの神を信仰している家なんだから!」


 見事な自慢顔を披露する波譲。誇らしげに張られた平均的な胸が揺れる。


「確かに百年、二百年と信仰心を保ち続けることは難しい。波譲さんの家のように千年単位で信仰を続けている家はほとんどないはずさ……厳しい話をすると、そもそも家を存続させることが難しいとも言えるけど」

「あーなるほど」

 

 それもそうか、と、征徒の言葉に屋代は頷いた。そのあたり、成人にも達していない屋代は実感が薄いが、何代も家系を繋いでいくという難しさはなんとなく想像できた。


「神様は不死の存在じゃない。地上で命を落として天に還られた神が、再び地上に降りてこられるまで同じ神を信仰し続けることは難しい。それが孫、ひ孫の代ともなると、話に聞くだけで見たことのない神を祀り続けることになる。並大抵の心では耐えられないはずさ」

「ま、そこもアタシの家が優れてる点よね。なにせ仕えてこの方、一度たりとも天に還られたことがないんだから」


 この国が始まって以来、幾度となく大きな戦いが起こっている。それらを乗り越えて地上に顕現し続けているとなれば、なるほど波嬢の誇らしげな表情も分かるというものだ。


「波嬢さんの家が祀る神もそうだけど、ほとんどの人は有名な神を信仰する傾向にある。これは神々を祀るならより長くその恩恵にあやかりたいという想いからだと思う」

「この国を統べる大神様か、その下で神々を統率する三大上位神あたりが定番でしょうね」

「やっぱりそのあたりが有名か………ん、つまり浄環ノ神は、その、なんだ。あまり知られてないってことか?」


 屋代として少々複雑な話であるが、神のように人は霞を食べて生きられるわけではない。家族や生活のため、神の庇護を得たいという気持ちは馬鹿にしていいものではないが、だからこそ人気がない境内を見るに、浄環ノ神はあまり信仰されていないということだろうか。声を潜めた屋代の疑問に、征徒は首を振った。


「まさか。水に関連する神はどんな性質であれ重要な存在さ。事前の話だと浄環ノ神は下位神と言ってたけれど、信仰者が少ないなんてことはないはずだよ。というか、たとえ信仰者が多くても神社に参拝する人はそう多くないよ?」

「……そうなのか?」

「どうして知らないんだい……」


 嘆息する征徒に、屋代は愛想笑いを浮かべた。


「あー、神社に行く理由がなかったっていうか、必要ないっていうか……」


 屋代とて神を祀っている。しかし、対象としている神は少しばかり特殊な存在であるため、神社を持っていないのだ。なので神を祀り始めてから今まで、神社に足を運んだことがほぼない。。そのせいか、参拝客イコール信仰者の数だと思っていた。


「アンタと同じよ。ほかの人たちだって日常的に参拝する理由がないってだけ。島国っていったってそこそこ広いんだから、遠くに住んでる人もいるし、無理して参拝する必要なんてないのよ。要は心持。言霊、儀式、家で簡単にできる作法にだって、真摯な思いを込めていれば立派な信仰なんだから」


 参拝すること自体が信仰に繋がるわけじゃないわ。

 そう言って目を細める波嬢は、さすがに古い家の出だけのことがあり、言葉には実感がこもっていた。


「はい、まさにその通りです」

「うわっ」


 どうやら話に夢中になりすぎて声が大きくなってしまっていたらしい。いつの間にか傍に立っていた藤芽の存在に目を丸くする。


「そちらの彼女が言ったように、参拝という行いは重要ではありますが必要なことではありません。まだ神社などなかった時代では生涯、自宅に飾った神棚に手を合わせたという人もいたそうです。最も大切なのは日々の感謝、それを伝える行動です。そしてそれを正しく神に伝えることが神職という存在なのです」

「は、はい」


 まずい、どこまで話を聞かれていただろう。神に対して失礼なことを言っていたという自覚がある屋代は、頬を引きつらせながら背中に汗を流した。神を侮辱する気などなかったが、しかし、自身が仕えている存在を、信者が少ないなどと言われて苛立ちを覚えない神職はいまい。屋代とて、たとえそれが事実であっても胸にくるものがある。

 笑顔で、とても不自然なほどの笑顔で顔を近づけてくる藤芽に若干恐怖する。助けを求めるように二人を見るが、知らぬ存ぜぬと目を逸らされた。

 動揺する屋代をじっと覗き込んで数秒、藤芽は表情を改めた。


「ふふ、別に怒ってはいませんよ? 事実として、おっしゃる通り、浄環ノ神は下位神。神々の中では最も低い位であるので信仰される方の数もそう多くはありません。ですが、だからと言って侮っていい存在ではありませんよ?」

「も、もちろんです」


 何度も首を縦に振って肯定する。


「それに熱心な参拝客もいらっしゃいます。ほら、今まさに御社殿で参拝されている人とか」

 

 藤芽が指し示した先には大きな建築物があった。手前に賽銭箱を構えるそれは、境内で最も大切な場所、すなわち神の住む御社殿である。落ち着いた色合いに染められ、華美ではないが丁寧に誂えられた装飾品で飾られている。伝統的な木造で建築されているため大きさに比して頑丈であり、おそらく建てられてから百年以上経過しているのにまだまだ現役である。当時の職人たちが丁寧に作り上げた作品のごとき佇まい、これまで案内された手水舎や建物とは比較にならない巨大さと相まって、屋代は静かに息を飲んだ。

 そんな御社殿の前で、着物姿の老人が合掌していた。


「ふーん、綺麗ね」


 背筋を伸ばし、真摯に両手を合わせる老人をそう評するのは波嬢。ゆったりと余裕のある着物が風に揺れ、きっかり二秒後に顔を上げた老人は、そこで初めて屋代たちに気づいたようで瞬きを繰り返した。


「こんにちわ、冴木(さえぎ)さん」

「ああ、これは藤芽さん。お勤めご苦労様です」


 そんな老人、冴木に、藤芽は親し気に挨拶を交わした。


「お知合いですか?」

「知り合い、というと語弊がありますが、最近よく参拝にこられている方です」


 征徒の問いかけに、藤芽は微笑みを浮かべながら頷いた。一方で、僅かな困惑を顔に滲ませたのが冴木である。


「こんなに大勢の人が参拝に来られるとは……。見たところ学生さんのようだが、ここに用がおありで…?」

「彼らは国立神職養成学校の学生さんです。本日からウチで実習を受け持つことになりました」

「そ、そうなのですか。あの有名校の学生が……」


 目を丸くして呟く冴木。そして、少しばかり遠くに視線を向けた。


「時代も変わりましたか……、昔は一部の家系だけが神職に就けていたのが、今は一般生徒が学校に通い実習まで受けられるようになった。私も老いるはずです」

「あら、連日参拝に来られているのに何をおっしゃっているのですか。まだまだこれからじゃないですか」

「はっはっ、いやいや。これでもだいぶ無理をしているのですよ。一時は立つことさえままならず、こうして歩いていられるのは良き出会いによる結果です」


 そう言って朗らかに笑った冴木は本当に嬉しそうだった。台詞通り、その良き出会いに感謝しているのだろう。


「藤芽さん、そろそろ時間が」

「あ、そうですね。すみません冴木さん、話し賭けておきながら申し訳ありませんが、我々はこれで失礼いたします」

「はい、お仕事頑張ってください」


 そう言って終始穏やかな態度を崩さず、冴木は屋代たちが歩いてきた道をさかのぼるように鳥居に向かって歩いて行った。着物の裾をなびかせるその後姿を眺めながら、屋代はそっと目を細めた。老体と言って差し支えない冴木でも、長い石階段を上って参拝に来ているという事実が、どれだけ神を慕っているのか現わしているようだった。いつか彼のような、いいやそれ以上の者たちを呼び集められる地位や名誉を手に入れたい。どの神社にも負けない素晴らしい神社で神様を祀りたい。そうした願望を胸の内で蠢かしていると、ふと征徒が首を傾げているのに気づいた。


「どうした東雲、気になることでもあったか?」

「いや、先ほどのご老人、どこかで見たような………」


 不思議そうにしているのは征徒だけではなかった。ふと周りの引率教師を見ると同じような顔をしていた。何かが喉に詰まったような、曰く言い難い表情であったが、しばらくしても何も出てこず、大きく息を吐くにとどまった。


「さて皆さん、お待たせしました。これからいよいよ御社殿の奥、神がおわす本殿へと入ります。心の準備をしっかりしてついてきてください」

「いよいよか」


 ついに神との謁見だ。通常、このような機会でもない限り、神と対面することは難しい。せいぜい祭りの時などで遠目に見るだけだ。緊張を覚えざる負えない。

 藤芽に先導される形で御社殿へと足を踏み入れる。外観とは別にした簡素な作り、装飾の類いもほとんどなく、必要な物を必要な場所に配置しているというふうであった。それでもやはり神がいる場所、本殿へと続く廊下からして様子も違っていた。靴を脱いで素足で歩く木の廊下は磨き抜かれており、鏡のように屋代たちを映している。埃一つとてない状態は普段の藤芽たち巫女の努力を現わしており、窓ガラスに映る庭には見事な水流が流れている。清涼な木の香りに包まれると、屋代の背筋も自然と伸びて―――。


「え、水が流れてる?」


 ぎょっと、目を剝いて見直すが、その存在が消えることはない。位置でいうとちょうど御社殿の裏、屋代たちが入ってきた真正面からでは見えない場所に、ため池があった。いや、本当にこれは池なのか?


「なんだあれ……」


 屋代の視線をたどって同じものを視界内でとらえた征徒が一つ頷いた。


「凄いものだよ、あれでこの地域一帯の水を賄っているんだから」

「賄うって……え、ここ一つで全部の水を汲み上げてるのか?」

「正確には浄化している、かな。僕も本で読んだだけだから詳しいわけではないけど、池の中には何体も眷族がいて、この一帯から送られてくる汚水を分解、浄化しているんだ」

「あれが何体も?」


 征徒の言葉に顔が引きつる。また水をかけられてはたまらないと、窓に近づけていた顔をひっこめた。


「そうして綺麗になった水をあそこにある鉄管を通して供給しているんだ」


 御社殿に来るまでに利用した手水舎、その水を彷彿とさせる綺麗な色だ。池の表面で風に揺られるそれは、屋代が見ている間にも増減を繰り返している。絶え間なく排出されてくる汚水を、おそらく別の場所で回収しており、眷族によって汚れを取り除いて再利用できるように循環させているのだろう。

 征徒の解説に、喉奥で唸った。


「なるほどな、水の神が重要だって言われるわけだ。下位神だろうがなんだろうが、人には関係ないな、これ」


 神々の中でも一番格下、などと定められていても、人には到底及ばない力を前に屋代の口から感嘆が漏れる。その呟きが聞こえたのか、波嬢が目を細めた。


「当たり前でしょ。というか、人が神を測ろうとすることこそ烏滸がましいわ。分かってるでしょうけど、そもそも下位だとか上位だとか、人が神を理解しやすいよう区分しているだけだしね」

「……そうなのか?」

「授業で習った……」


 征徒のジトッとした視線を身をよじることで回避する。


「……さすがに神の位は知ってるね?」

「ま、まあそれくいらいは。大神、上位神ときて、中位、下位神だな」

「そう。大雑把な区分ではあるけど、基準となっているのは主に、権能の効果範囲と出力だとされてる。司る権能は関係ないんだ」


 今現在、この国で広く知られている神々を大別するための基準がある。これは神への尊敬、不敬に関係なく、単純に学術上必要な区分けとされており、現に神もこの基準を策定する際に協力している。人間にだって正式名称がつけられる程度には、学びの上で分類は必要なのだ。


「つまり、より広い範囲で力が及ぶようなら上位、狭い範囲でしか影響を与えられず効果も薄い神なら下位に分類されるわけだ」

「そういうことさ。もっとも、狭い範囲と言っても街の2、3なら影響圏内とされているし、中位以上となればその力も範囲も段違いだ。操る権能によって範囲も多少増減するだろうけど、少なくとも近隣都市を丸ごと収められる。上位神にいたっては小国すら掌握できると言われるくらいだ」

「…………本気で?」

「マジ、よ。さらに上の大神様は一個の大陸規模で影響を及ぼせるんだから………まあアタシ自身見たことないけど」

 

 しかし、神が協力して作り上げた基準だからそれなりに信憑性はある。

 征徒の言葉を引き継いでそう締めくくった波嬢の顔はふざけているように見えなかった。波嬢の家は古くから神に仕えていることもあり、彼女自身、神の権能を間近で見て育ったはずだ。その波嬢が真剣な表情で口にしている以上、信憑性は高い。

 屋代が唯一知っている神の権能を思い起こし、それが国だとか大陸に影響を及ぼすような凶悪な光景を想像することは………できなかった。うん、絶対に無理。断言できる。あの人、というか神にはできない。


「ていうか、ちょっと待て。上位神で国が掌握できる? たしか俺たちの国には3柱いるはずじゃ……」


 顔が引きつるのを自覚する。屋代たちの国は島国だ。四方を海で囲まれいくつかの島を所有するが大陸規模で見れば、それこそ大国と呼ばれる国から5歩も10歩も劣るだろう。そんな狭いと称していい国に、百を超える神が密集している? どんな人外魔境だ。

 己の住む国が、実はとんでもない場所ではないのかと思い至った屋代の考えを、征徒は頷きをもって肯定した。


「うん、屋代の考えてることは間違ってない。上位神に加えて、本来ならもっと広い領土を収めていても不思議じゃない大神様がいらっしゃるのは、他にないんじゃないかな?」

「そんなに大勢の神様がどうして国に来てくれたんだ? いや、俺たち人間からすればありがたいことなんだが」


 屋代の当然の疑問に、けれど征徒は答えを持ち合わせていないようだった。眉を寄せて、首を横に振る。


「悪いけど僕も聞いたことがない。神々も口に出されたことがないし、こちらから言及したこともないんじゃないかな?」

「なんでだ? 訊けばいいだけじゃないか」

「馬鹿ね。じゃあ出て行くって言われでもしたら責任とれんの?」


 波嬢にあっさりと反論された屋代は言葉を出せず肩を落とした。

 なぜ神々の多くが国に降り立ち留まってくれているのか。その疑問を解消しようとして、その結果神との関係を破たんさせてしまえば冗談で済まされない。最悪、国が亡ぶことになる。そも訊いたところで正しい答えが返ってくる保証もないのだから、わざわざ危険を冒してまで尋ねる必要がない。藪をつついて蛇を出すよりも、潜在的な危険を内包しながら今の関係を続けたほうが良い、という判断なのだろう。


「そんなに神様がいて、お互い仲良くできるもんか?」


 人だって、気にくわない相手の一人や二人いるものだ。どうしても合わない性格の持ち主だっていることもある。もしかすれば人類すべてを愛する聖人のように人がいるかもしれないが、そんなのはごく稀だろう。

 仲良くできない相手とぶつかったとき、人ならば自制する理性があり社会を律する法がある。たとえ人情沙汰になっても、言い方は悪いがごく個人の範疇で収められる。

 しかし神ならば。その身一つで国を、都市を揺るがし、大陸を操る神が戦うとなればどうなるのか。

 屋代の問いかけに、征徒は眼鏡の位置を直した。


「実際、古くはそういったこともあったらしい。なにせ、神様と一言で言っても姿かたちはもちろん、司る事物もまるで違う。大半の神は人に対して慈悲深く接してくださるけど、中にはそれなりに害意を持つ神様もいらっしゃるんだ。代表的なのは死、病、恨みなどを権能とする神だろう。彼の方たちは人、というか生命に対してひどく攻撃的だ。接し方を間違えれば即座に牙を向けて来る」

「……よくそんな状況で国として纏まってるな?」

「それは」「大神がいてくださるからよ」


 征徒の台詞を、波嬢が継いだ。お互いに目を見合わせて、引いたのは征徒の方だった。

 冷えた廊下の冷たさに体温を奪われながら、話が続く。


「権能も、主義主張も違う神々が国の中に共存できているのは最も力ある神、大神様がいらっしゃるからよ。そして、その下に3柱の上位神が従っているから。東雲も言ってたように、神の権能はその影響範囲と効果の効き具合で区分されてる。つまり、本来は大陸規模の権能を有する大神とそれぞれが一国を収められる上位神に対して、中位、下位の神々は権能の相性を加味しても決して及ばない。神だって不死じゃないんだから、仮に人を傷つけることに積極的な神が居ても従わざる負えないのよ」


 力で押さえつけているだけ、というと乱暴に聞こえるが、人にとっては重要なことだ。ほんの少し、気まぐれに権能を振るわれるだけでも人は死ぬ。病は体を冒し、恨みの感情は心を殺す。生物に対する攻撃性を持った神々がひとたび権能を開陳すれば、死の結果から逃れることはできない。

 大神と上位神が善良であり、人に対して慈悲を持っているからこそ、今の社会が成り立っているのだ。


「なるほどな……」


 正直、これほど恐ろしい社会もそうないだろう。神の慈悲が絶対のものだと、誰かが保証してくれているわけでもない。もしも、ふとしたきっかけで神に見限られてしまえば、そして万が一にも神々から不要な存在だと判断されれば、この国は海の底に沈むことになる。そうした国が歴史上なかったはずがない。神の怒りを買ってしまい滅んだ血族もいたはずだ。明日、何かの拍子に屋代がそうならないとも限らない。それなのに、世間一般では神とは常に善良であり人の良き上位者として認識されている。それはなぜか。


「そうならないようにするのが巫女、神薙の務めだからさ。怒り狂う神々を静めて慰める、時には命を捧げて勘気を収めたり、ね」

「………え」


 ちょっと、そこまで聞いたことなんですけど。命捧げちゃうの?

 驚愕に歪む屋代の顔に、征徒は苦笑いした。


「まあ、最近では、というか大神様がまとめて下さってからほとんど起きてないことだよ。だから、今の神職にそこまで求められはしないさ」

「だ、だよな。さすがに命は……え、やっぱり実際にあったのか?」

「まあそれは……。波嬢さんも知ってるんじゃないか?」

「そうね。身内から出たことはないけど、たしか親交のあった一族が土地ごと滅んだって話は聞いたわね」


 ごく平然と交わされた情報に、屋代の顔が梅干を食べたかのように酸っぱいものとなる。神職を目指す気持ちが揺らぐことはないが、神の脅威に腰が引けた。

 征徒が元気づけるように肩を叩いた。


「まあ、そんな顔しなくても大丈夫。たとえ人に害意を持っていても、病を転じれば癒しにつながり、死は生への活力となることだってある。必要なのは神々を敬い、彼らが示す正義を成すことだ。そうすれば不当に危害を加えられることなんてないさ」

「ていうか、なんでこんな基礎的なこと知らないのよ。勉強さぼってたんじゃない?」

「……いや、俺は実践派だから」


 決して授業中に寝ていたとかではない。ただほんのちょっとだけ物覚えが悪いだけだ。


「なら今回の実習で結果出しなさいよ。じゃなきゃアンタ、本当に落ちるわよ」

「……だな」

 

 厳しい目つきでねめつけてくる波嬢に、屋代の顔が引き締まる。

 進級できないなど考えたくもない未来だ。学業が足を引っ張るならば体力、実技で補えばいい。幸い、体を動かすことは人並み以上に出来ると自負している。どうにかしてこの実習で次に繋がる結果を残さなくてはならない。

 鼻から勢い良く息を吐き出し、自らに気合を入れ直す。そうして顔を上げた屋代は、いつの間にか大きな扉の前に着いていたことに気づいた。


「皆さん、ここが神がおわす間、神座の間になります。すぐに謁見できますが、その前に身だしなみを整えてください」

「聞こえたであろう? これより謁見じゃ。姿勢、態度、礼儀をわきまえよ。ソチたち一人ひとりの言動はそのまま我が校の教育結果と受け止められる。軽挙妄動を控え、慎んだ行動を心掛けるでおじゃる」


 引率代表のおしろい教師が送る、礼を逸すればただじゃ置かないという視線に、生徒たちの顔が強張った。乱れている服装を正そうと慌てて動き出す。


「おい、それ取ってくれ」「馬鹿、お前結び目がほどけてるぞ」「ごめん、髪の毛結い直して」


 先の脅しもあって大きな声を出しているわけではないが、しかし数十人の人間が一斉に動きだしたために、空気が熱を帯びてしまう。騒がしいわけではなかったが、どうしても騒々しい雰囲気が立ってしまった。

 当然、それを見過ごすおしろい教師ではない。その瞳をくわっ、と見開いて注意を促す。


「ここがどこか忘れたわけであろうな? もうすでに神は麿たちを知覚しておられるはずじゃ。急ぐのは結構でおじゃるが、場をわきまえよ」

「――――!?」

「はぁ。少し落ち着いてください。先生こそ緊張で硬くなってますよ?」


 眦を吊り上げて空気を張り詰めさせるおしろい教師に、気だるげながらも窘める声が飛ばされた。


「白石教師。何を馬鹿なことを言うでおじゃるか。麿のどこが緊張していると」

「そうですか? 生徒の将来のためここでの経験を活かせるように、とか、いい印象を与えておけば将来の就職先に繋がるかも、とか考えていたのでは?」

「……麿にそんな考えなど微塵もないでおじゃる。礼儀も弁えない不届きものでは神職にふさわしくないというだけのこと」

「ですが固くなりすぎると失敗することもありますよ? 謁見って言っても生徒たちが話すわけでもなし、黙って頭を下げてればいいだけなんですから、楽にいきましょう。ねえ?」


 最後の一言は生徒に向けられたもの。神との対面など、神職を目指す生徒たちにとってありがたい話ではあるが、自分が下手な真似でもすれば何をされるかわからないと、不安な気持ちもあったのだろう。ここに来るまでに神の眷族を見ていればなおさらに。

 生徒の間に生まれた安堵の空気におしろい教師は口を開きかけ、しかし白石を一瞥して声を上げた。


「とにかく準備はできたようでおじゃるな。これより謁見に移る。皆の衆、ついてまいれ」

「それでは行きましょう」


 学生のやり取りを微笑まし気に眺めていた藤芽が扉の前に立った。


「浄循ノ神様、生徒たちの準備ができました」

「―――――許可」


 告げられた返事に間はなかった。やり取りを把握しているとの言は本当のことだったのだろう。

 静かに添えられた藤芽の手が押し込まれて、神のいる神座の間の扉が開く。


「―――」


 神座の間は、静謐な空気に満ちていた。ほとんど物がなく、天井からつるされた光源と壁に並べられた石造だけがすべてであった。画一的な景色からは神としての特色が見えず、嗜好も掴めない。不自然にも木の香りしかしない広間は広く、屋代たちが全員中に入ってもまだ余裕のあるつくりであった。そうして広間から伸びる階段の先、一段上の壇上で、その存在は鎮座していた。


「―――っ」


 ごくり、と誰かが唾を飲み込む音がした。そうして立てた音でさえ、無音の空間ではやけに響く。

 それは、人によく似ていた。人と同じ四肢を持ち、備え付けられた椅子にゆったりと腰かけている。見たこともない、目の覚めるような青白い髪。瞳は澄んだ空色をしている。全体的に細身であり、いっそひ弱な印象さえ抱かれない見た目であったが、しかし尋常な存在でないことにすぐに気づくだろう。風もないのにたなびく髪は、そこだけ重力を忘れているかのように自由に踊り、揺れる衣服は通常の手段で編まれたものとは思えない質感だった。

 衣擦れの音さえ立てる気にならない、息を吐き出す音さえ不敬に感じる。見た目とは裏腹な、確かにそこにある存在感、あるいは格の違い。肌に受ける圧迫感が、理屈を飛び越えて脳に叩き込まれる。

 神。神様。この世界で虐げられていた人を助けた天上の存在。

 どう言い表そうと人の上に立つそれを前に、屋代は自然と礼を示していた。征徒や波嬢も同じ、誰かに言われたわけでもないのに、一拍遅れて生徒たちが床に膝をつく。それらを最後尾で確認した教員たちも正しい姿勢を取り、広間に沈黙の帳が下りた。


「浄環ノ神、国立神職養成学校の実習生とその教師、しかとお連れしました」


 屋代たちよりさらに神に近い位置、壇上にあがる階段のすぐ手前で跪く藤芽の口上に、初めて神が動きを見せた。


「―――許可」


 返答は端的だった。口から発しているとは思えない不可思議な音色を持った声は、耳を通るというより脳に直接送りこまれるようだった。屋代は深く息を吸い、初めて味わう感覚に顔が歪まないよう抑え込んだ。

 その点、慣れた様子の藤芽は顔色一つ変えずに話を続けた。


「浄環ノ神。この度の件について彼らの代表が礼を申し上げたいとのことですが、いかがいたしましょう」

「――――許可」

「かしこまりました。それでは代表者の方、前に」


 藤芽に呼ばれ、おしろい教師が神の前に跪く。


「お目にかかれたことを光栄に思います。また今回、実習を受け入れてくださったこと、深くお礼申し上げまする。麿は、国立神職養成学校で教鞭をとるもの。そして後ろにいる者たちは、本日より一週間、浄環ノ神の御許で神職見習いとして働く者たちです。不慣れ、不勉強な者たちでございますが、浄環ノ神の名を汚すことなく学ぶことを誓わせて戴きまする」 


 本来であればもっと口上は長い。それこそ正式な謁見となれば更に複雑な言い回しをするはずだ。それもなく、ごく端的な感謝を述べるだけなのは、謁見と言っても今回のこれがただの顔合わせ、神様のおひざ元で騒がしくするけど許してね? ということを伝えたいだけだからだ。

 5分にも満たないやり取りに肩透かしを食らった屋代だったが、何故か広間に沈黙が落ちた。


「―――――――」

「浄環ノ神。いかがいたしましたか?」


 教師の口上が終わり、後は退室を促す言葉をいただいて謁見は終了。そう考えていたはずがいつまでも返ってこない言葉に藤芽が困惑した。

 神の表情は変わらない。これまでもそうであったように、張り付けたような真顔で、眉一つ動かさず、瞬きもしない。感情を感じさせない瞳はいっそ恐怖を覚えるほどだ。自らが仕える相手にそんな不敬を抱きながら、震えそうになる声を意識して引き締めた。


「浄環ノ神?」

「―――――疑問アリ」


 言葉に詰まりかけた藤芽は喉を上下させた。


「我らに何か不備がございましたでしょうか」


 藤芽は仕えているとはいえ、巫女として気軽に接してきたわけではない。いや、神によっては親兄弟のような気軽な関係を築くこともあると聞くが、藤芽はそのように話せたことは一度としてなかった。話す言葉は必要最低限、人間的な情緒も薄く、藤芽たち神職に対して関心を向けられたこともほとんどない。対面する機会も祭事などの儀礼の場くらいで、浄環ノ神とは事務的な会話がほとんどだ。だからこそ、神の反応に驚きよりも恐れが先に出た。何か、神に対して余計なことを言ってしまったかと焦りが浮かぶ。

 浄環ノ神はそんな藤芽の心境など斟酌しなかった。無関心な目が藤芽を超えて、目の前で跪く数十人の人間に向けられる。


「汝ラ、ワガ営ミ妨ルカ?」

「そ、それは想い違いです神よ。彼らは確かに未熟な者たちですが、決して神の行動を邪魔するものではありません。先の代表者が申し上げた通り、ただ学ぶために来ているのです。万が一神の妨げになるようであれば、二度と境内には入れません」


 この場合の営みとは、つまり神が日常的に行っている水の浄化、および循環のことだ。人間社会にとって不可欠なそれらは神の役割であり、人にとっても死活問題、邪魔をするということはすなわち生活を苦しめることに直結する。


「発言、失礼するでおじゃる。浄環ノ神。藤芽殿のおっしゃる通り、麿たちは決して貴方様のお手を煩わせることはないでおじゃる。ここにいる教員はみな神職の資格を有している者、生徒たちの監督は責任をもって行いまする」


 嫌味を控えたおしろい教師の回答だったが、それを聞いた屋代と征徒はこっそり目を逸らし、波嬢はもの言いたげな顔をした。

 御社殿に来る前に眷族から注意を受けた身として居場所がなかった。しかし同時に、神は眷族の行動を完全に把握できないのかなとも思う。もしかすると眷族とは、神によってある程度の行動を定められてはいるが、それ以外は自立意思が主なのかもしれない。

 そんな関係のない思考が屋代の脳裏をかすめ、即座に首を振って払い落とした。これは今考えるべきことではない。問題は雲行きが怪しくなりだした実習の件だ。

 通常、こういった課外学習の場合、事前に学習先とは話がついているものだ。受け入れると決めたからこそ屋代たちとの謁見を許したのでは? 学生の身で詳しいことを知らない屋代であったが、それを今更に拒否する姿勢に疑問を覚えた。同じことを思った生徒たちの間で、視線のやり取りが交わされる。口こそ開かなかったが雑多な雰囲気が立ち込めだし、それにいち早く気付いたおしろい教師が一歩進み出た。


「不慣れと申し上げましたが、彼らも神職を目指すもの。神に仕える者としての心構えを弁えておりまする。浄環ノ神様につきましては、彼らが今回の実習にて経験を重ねることで、より真摯に、そして確かな技量を身に着けるきっかけをお与えていただければ幸い」

「穢レヲ取り除クコトコソ宿願」

「無論。麿たち人は神の庇護あればこそ生きております。その人がなぜ神の道を妨げましょう」


 おしろい教師の台詞に淀みはなく、また噓を感じさせない真摯な響きが込められていた。事前に何を話すのか決めていたわけでもないだろうに、次から次へとよく話せるものだと、屋代は呆れ半分感心半分で聞いていた。


「――――証明セよ」


 やがて、おしろい教師の態度に理解を示したのか、浄環ノ神がわずかに動いた。ほんの少しばかり視線が動き、屋代たち生徒を視界内に捕らえた。


「証明、でございますか。神よ、具体的にどのように?」


 浄環ノ神の言動に戸惑いを見せていた藤芽であったが、話の方向性が定まりだしたと考え口を開く。


「未熟、ナレド神職。技ヲ見セよ」

「祈相術を実際に使って見せろということでしょうか。御前にて?」

「シカリ」


 藤芽の反芻に頷きをもって返した浄環ノ神。その動作は肯定を意味し、藤芽の解釈が間違っていないことを認めていた。

 だからこそ、我慢しきれず生徒たちがざわついた。大声を上げる者こそいなかったが、声を漏らすことは抑えきれない。その気持ちを屋代もまた共有していた。


「神の前で祈相術を見せる――? それって奉技のことか………?」

「いや、そんなに固く考える必要はないはずさ。神の言葉から考えるに、僕らが学んできた成果を見せろということだろう。その結果次第で僕らを受け入れてくださる、と」

「なによそれ……」


 今更、という言葉が口から飛び出そうになった波嬢が唇を固く結んだが、屋代には続く言葉がはっきりと聞こえた。そして、本心から同意した。神の気まぐれ、と言えばそれまでだ。実際、頻繁に奇行を繰り返す神は存在しているが、あくまでそのような神だから、という理由が大きい。浄環ノ神がその手の神とは聞いたことがない。それとも、何かしら理由があるのか。

 神の思惑など知りようもない忠人は、餌がちらつかされてしまえば飛び掛かるしかなかった。


「委細承知いたしました。代表者を数名、選出いたします」

「能ワず。上位者5名ヲ出すべし」

「上位者、でございますか」


 端的な神の返答に、おしろい教師は初めて言葉に詰まった。心なしか顔が青ざめ、額から汗を噴き出している。その変化に気づいた藤芽は怪訝な顔になった。


「ここでいうのは祈相術の授業の成績優秀者ですね。何も問題ないのでは?」

「……白石教師」

「あー、やめたほうがいいんじゃないですかね。上からってことはあの子も入りますよ?」

「………しかし、神のお言葉は絶対でおじゃる、謀るような真似は絶対にしてはならんのじゃ」


 授業を受け持っている白石の答えに、おしろい教師の表情が苦々しいものになる。認めたくない、あるいは受け入れたくない。神からの要請を拒否したいという心情が透けて見えるようだった。俯き、わずかな葛藤を経て結論が出される。


「東雲、流堂」

「はい」「ふん」


 神とのやり取りを聞いていた生徒の反応は迅速だった。自分たちが呼ばれるだろうと理解していた二人は、即座に立ち上がると前に進み出た。


「ちっ」


 それを横目で眺めていた屋代の耳に、軽い舌打ちの音が届く。目だけを動かして見れば、波嬢が悔しげに唇を曲げていた。波嬢とて決して成績が低いわけではないが、突出しているわけでもない。征徒や、認めたくはないが流堂のような才能はないのだ。おそらくそれは本人が誰よりも理解しており、ゆえにきつく瞼を閉じた彼女に屋代は声をかけなかった。


「笹原、蓬生、それから……成実。前に出るのじゃ」

「!?」


 生徒たちの間に動揺が走る。それは、ともすれば先ほどからの神の発言以上のさざ波であった。先に呼ばれた生徒たちへは納得の意識を向けていた集団は、屋代には困惑と拒絶、そしてわずかな恐れの感情を向けてくる。


「……」


 一度、大きく唾を飲む。これは好機だ。ここで結果を残せば神の目に留まるかもしれない。そうなれば神職への道を開ける。だが同時に、もしも失敗しようものなら周りから笑いものになる程度では済まされない。最悪、実習拒否に成りかねなかった。

 好機と危険、その両方を天秤にかけて屋代は決断。


「はい!」


 そう何度もある機会じゃない。ならば、これで最後だという覚悟をもって望まなくてはいけない。


「アンタ……」


 もの言いたげな波嬢に強気な笑みを浮かべて、先に呼ばれた征徒たちと神の前で立ち並ぶ。


「屋代」「へぇ」


 征徒が心配そうに眉を寄せる横で、さも面白いと言いたげに口をにやつかせる流堂。嘲笑を含んだ瞳に射抜かれようと、屋代は背をそらして直立する。


「それでは、生徒たちは後ろに行くでおじゃる。広いと言っても全員が同時に舞ってしまえばぶつかる可能性もあろう」


 おしろい教師もまた、屋代に複雑な目線を送っていたが結局何も言うことなく、残りの生徒を後ろに下げていく。残されたのは、事前準備もなしに祈相術を見せなければならなくなった屋代たちと藤芽、神のみだ。


「浄環ノ神。準備が整いました。何を舞いましょう」


 眷族にお仕置きを受けていた屋代がまさか呼ばれると思っていなかったのだろう、目を丸くしていた藤芽が静々と頭を下げた。


「……収メタ技ヲ見せよ」

「………承知いたしました。では彼らが学んできた中で最高の舞を披露いたします」


 短い言葉の意味を読み取った藤芽がおしろい教師に目配せする。


「攻撃性もなく、この広さであれば光謁の舞が最適でおじゃろう」

「承知しました」「はっ、面倒」「はい……」「うっす」「!」


 おしろい教師が提示した舞は、祈相術としては広く知られている術である。舞自体難しいものでもない。発動する効果は光の発現、それだけだ。本当にただただ光を発するだけのもの。攻撃性は皆無で、何かを傷つける術ではなかった。しかし、その中で手首の動き、呼吸のタイミングなどを独自に織り交ぜていくことで、より複雑な色を帯びさせることができる術でもある。今のように舞の技術を見せつける上でこの上ない術だ。

 だが、屋代の胸にはそこはかとない不安が頭をもたげていた。


「怖気づいたか?」

「っ、誰がだよ。お前のことか?」


 流堂に嘲笑われ、反射的に言い換えす。顔を出しそうになった弱気を胸の奥に叩き込んだ。いつの間にか傍によって来ていた流堂を睨むも、その笑みは消えない。


「まだそんな口が利けるようでなりよりだ。これが終わったときお前がどんな顔をするのか楽しみでしょうがないぜ」

「……好きに言ってろ」

「お二人とも、早く位置に就いてください」

 

 藤芽からの声に、流堂は低く笑いながら踵を返した。

 ようやく一人きりに成れた屋代は、深く息を吐き出して己の立つ場所を確認する。ちょうど神の真正面、お互いにぶつからない様開けた距離を図り、そっと目を閉じる。

 神に見られているという事実、突然の祈相術披露に震える心臓、己の抱える多大な不安を根拠のない自信で包み込む。今度こそ上手くいくと、自己暗示をかける。そうして合図を待っていた屋代の耳に、その声が届いた。


「光掲の舞。いざっ!」


 どんっ、と床に足を叩きつける。そうした始まるのは計5人からなる演舞。音楽はなく、周囲の歓声もない。ここで開陳されるのは、たとえ突発的なことであっても正真正銘神へと捧げる舞である。


「「はっ!」」


 手を振り上げる。簡易な運動着が風をはらみ、力強くたなびく。

 足を引く。どんな場所でも滑らないようにと特注されている足袋が床を踏みしめる。

 視線、手の形、腰のひねり、膝の角度。あらゆる要素が絡み、指先一つとて乱れさせない。呼吸するタイミング、同時に行われる拍手。舞い踊る中でもお互いが意識しあう。視界の端々で映るのは征徒、そして流堂の姿。他の二人は見えなかったが、近くで踊る両者は優秀だった。


「っ、ふっ」


 規則正しいのは征徒の性格ゆえか。祈相術は決められた舞を踊り、動作を行い、あるいは祝詞を唱えることで発動できる。つまりそれぞれに決まった型があり、それらを正確になぞるコトこそ肝要だ。その点、征徒は完璧であろう。まだ数分も経っていないにもかかわらず噴き出した汗を飛ばしながら、教わった型を正確に、丁寧に再現している。

 その一方で、粗雑な舞を見せるのが流堂だ。もちろん基本の型を逃してはいない。そんな実力ならばそも名前を呼ばれなかった。しかし、その一挙一動が荒々しい。空を手で切る、床に足を這わせる動きは無造作、残身もとることなく、屋代たちより一拍早い体は止まることなく加速する。

 光が発動したのはほぼ同時だった。


「なるほど」「ふぅむ」


 藤芽とおしろい教師の声が漏れる。

 光ははじめ色もなく、ただ眩しいだけの現象に過ぎず。けれど、征徒たちが手を振りかざす度、身をかがめて回転させる度変化していく。征徒が顔を上げれば深い黄土色、流堂が腕を突き出せば血のごとき赤色。両端は青や紫と多色であった。光の明滅、輝き方にさえ特徴が見られた。

 これこそが光掲の舞。基本の型の中、自らの動きを取り入れることで色を持たせ、その強弱で舞の出来を分かりやすく判別できる型。その色は本職にも劣らない輝きを放っている。


「……素晴らしいですね。これなら神も満足してくださることでしょう」

「だと、よいのでおじゃるが……」

「何か懸念がおありで?」

 

 おしろい教師の曖昧な返答に、藤芽は首を傾げた。学生という身分を加味しても十分すぎる演舞、特に東雲と流堂は一年生でありながら藤芽たち神職とそう変わらない輝きだ。これならば神も生徒たちを認めることだろう。そう考えていた藤芽であったが、おしろい教師の懸念が消えないことを不思議に感じた。その視線を追うと、先の二人にも負けない動きでもって舞う屋代がいた。


「彼もよい動きをしていますね。あちらの二人とはまた違う、硬さの中に柔らかさがあり、鋭さも損なわれていない。それでいながら指先まで通った意識が見て取れます。あえて表するならば柔軟性、でしょうか。選ばれることなだけは」


 そこまで語って気づく。


「なぜ、こうもはっきりと見えて……」


 見えている、すなわち光が発現していない。その事実に気づき、藤芽の顔色が変わる。


「これは一体どういうことですか?」


 藤芽の詰問に、おしろい教師はきつく口を引き結んで答えようとはしない。難しい顔を崩さず、いっそ祈るような目で屋代を見ていた。

 屋代の動きに変化はない。決まった型をなぞり、何度も同じ動作を繰り返す。振り払う手の鋭さも、足運びの素早さも、柔軟な腰を活かした回転も。それは他の四人に劣るどころかやや勝っているともいえる、完全な舞。

 だというのに、どうしても祈相術が発現しない。


「ぐ」


 演舞が終わりに近づく。複雑な動きを繰り返していた生徒たちが速度を落としていく中、屋代の顔に苦悶が浮かんだ。必死で光を手繰り寄せようともがくが、毛筋たりとも掴めない。その現実に、これまで悠然と舞を眺めていた神が注目し、藤芽や巫女たちも唖然とする。


「だから言ったんですよ。本当にいいのかって。どうするんです、神に忌避されでもしたらコトですよ?」

「…教えていただきたい。なぜ彼だけ術が発動していないのですか?」


 藤芽は何も答えないおしろい教師に見切りをつけて、呆れた様子で首を振る白石に問うた。屋代の動き自体に過失はない。しかし、事実として術が発動していない。

 屋代の口から、悪態が漏れだした。


「見たまんまですよ。成実は何故か術が発動しないんです。光掲の型だけじゃない、これまで試したどんな祈相術も不発です」

「……ありえません。正しい動作、型通りに動くこと。それさえ行えば必ず発動する、それが祈相術です」

「ですがこれが事実でして。いやはや体に異常はないという話なんですが、学校側としても難しい困ったちゃんです」


 光が収まりだし、乱れていた呼吸を整え始めたほかの4人と比べ、屋代は手足を振り回すことを辞めなかった。当初の鋭さは消え失せ、鈍い体を必死で動かしている。


「…ですが、彼は実技が優秀だからと選出されたのでは?」

「はは、残念ですがちょっと違います。ウチで重視しているのはいかに正確に、素早く型をなぞれるかなので。術の発動如何を考慮しちゃ才能準拠の評価になってしまいますから」

 

 そうして4人の動きが止まる。深く息を吐き出し、最後に残った光の残滓が彼らをまばゆく照らす。その陰で、ついに屋代の足が止まった。


「そう、あいつはどんな祈相術も発動できない」


 演舞が終わる。広間に沈黙が下りる。屋代の手が力なく垂れさがる。


「いわゆる、無能ってやつですねぇ」


 最後まで、屋代は祈相術を発動させられなかった。

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