1-4

「まず皆さんにやっていただくことは神様との謁見です」


 鳥居とは、内と外を隔てる役割を持つと言われている。鳥居を起点として、参道や社務所などを囲む石垣が、周りの世界から内側を隔絶していた。神の座す世界が、人の世と交わることがないように。人が持つ醜い感情や社会といった煩雑さを神に触れさせないように。

 神は人を統べる存在だ。しかし、人に関わりすぎて穢れてはならない。神は清浄で、清らかで、すべからく綺麗でなければならないから。敷地に入ることを許されるのは、神職と、正式な礼をもって訪れる者たちだけだ。

 屋代は神の敷地に足を踏み入れた瞬間、そんな言葉を思い浮かべてしまった。

 それほどまでの変化、空気の変わりよう。鳥居を一歩またいだ瞬間、確かにそれを感じた。先ほどまで騒がしかった周囲の音が急に遠ざかった。まるで声を発すること、音を出すことを自ら戒めたかのような厳粛な雰囲気。肌を刺す太陽の熱さえ和らいだのではと錯覚する静けさだ。

 その中で、参道脇を歩く屋代たちの足音と先導する藤芽の声だけが空気を揺らす。


「ですがその前に、神社における役割と作法についてお伝えしておきます。皆さんにとっても聞きなれた事でしょうが、復習を兼ねていると思って聞いてください」


 参道の横で等間隔で並ぶ石造りの守護像、参拝客を監視する彼らの横を通り抜けながら、藤芽の言葉は続く。


「まず、ごく基本的なことですが、境内において私たちただ人が参道の中央を歩くことはありません。参道の中央は神が通られる道であるため、私たちが歩く際は石畳横、この境内では玉砂利の上を歩きます。」


 遠目からでもよく磨かれた様子であった玉砂利は、踏みしめるたび心地よい音を鳴らしてくる。生徒の中には歩きにくさに難儀する者もいたが、屋代は特に苦にするでもなく音色を楽しんだ。


「もちろん神社によっては玉砂利のない場所も存在します。その場合も決して参道は通らないように。どうしても横切る必要がある場合はしっかりとお辞儀を成してからになります」

「……誤魔化す奴もいそうだな」


 もちろん屋代はそんなことをするつもりはない。しかし、誰が見張っているわけでもなく、また神職が常に監視しているわけでもない。礼を怠り平気な顔で参道の中を歩く不心得者もいるのではないか。

 そんな呟きが聞こえたのか、藤芽が後ろを振り返ってきた。

 視線が重なる。


「そうですね。残念ながら、そういう方がいないとは言えません。もちろん多くの人が、神や神に連なる事物に対して礼を尽くしてくださいますが、中には無作法を究める方もいます」

「え、いや、俺はしませんよ!?」


 もしやすると思われたか? 波嬢の笑いをこらえた目が鬱陶しい。 


「ふふ、もちろん貴方とは言いません。それに破ったからとて何かお咎めがあるわけでもありませんから、そう心配しなくても結構ですよ?」


 まあ、礼儀といっても法を破っているわけではない。参道を横切るな、なんて法律ができてしまえば理不尽極まるだろう。だからと言って積極的に怠りたいわけでもないが。


「それに、見張りはちゃんといますから」

 藤芽が指し示す先には、石造りの水生生物像があった。体温を持たず冷えた体、自発的に動くことは皆無な、本当に石から削り出しただけの彫刻に過ぎない。


「見張りって……ただの石だろ」


 神社によって象る姿は違えども、意味は同じだろう。すなわち、境内における無作法、軽挙な行動を監視するという役割。削り出した者の腕もあって、躍動感あふれる表情と造詣ではあったが生きてはいない。仮に不心得者がいても、自らの足で歩き、その行為を咎めることはできない。


「いや、それは違う。僕も見たことがあるけど、中に本物が含まれているはずだ」

「本物? どういうことだ?」


 背筋を伸ばして歩く東雲の答えに、屋代は疑問を返した。


「そのままの意味さ。大半は屋代の言う通りただの石造だけど、その中のいくつかは神の眷族が成り代わっているんだ」

「眷族って……」

「神の分身、とも称される存在。神の持つ権能の一部を割かれて生み出された眷族は、神の力をわずかだけど使える。もともとここに並んでいる石造の姿は神の眷族に似せて作られるんだ。そんな眷族が一つ二つ混じっていても見分けがつかないんだろう」

「そんなまさか……」


 と、否定しかけるが別段その根拠がないことに気づく。眷族という存在を見たことはなく、加えて神の権能は人に理解できる事柄から逸脱している。その一部を与えて造られたと言われても、屋代は受け入れる以外の選択肢がない。

 一度認めてしまうと、なぜだが体が落ち着かなくなった。やましいことは何もないはずだが、どうにも石造の視線が気になって仕方がなくなる。 


「ふふ、とても熱心に勉強されていらっしゃるんですね」


 屋代たちの会話を聞いていた藤芽が笑みを漏らした。征徒は慌てて頭を下げる。


「話の途中で口をはさんでしまい申し訳ありません」

「いいえ、とんでもございません。よく学ばれている関心したところです。これも日頃の成果でしょうか、先生?」

「そうでおじゃるな。そこにいる東雲は学年一を争う成績ゆえ」

「まあ!」


 おしろい教師の返答に、藤芽は目を丸めて両手を合わせた。


「それは素晴らしい。ではお隣の彼も?」

「………努力していることは認めてるのじゃ」

「おい」


 努力ってなんだ、答えになってないぞ。決して褒められる成績でないことは自覚しているが、だからと言ってその返答はないだろう。

 気難しい顔で目を逸らすおしろい教師に、なんとなく事情を察した藤芽は苦笑を漏らした。


「なるほど。日々真面目に授業を受ける生徒に、私が伝えられることは少なそうですが……」


 藤芽はそこで言葉を区切ると、進めていた歩みを止めた。


「まずは、神と面会する前にここで手と口を清めてください」


 それは地下から汲み投げられ滾々と湧き出る水。見事の彫刻が彫り込まれた四本脚の像、その口から吐き出される水をため込んだ水盤を収める手水舎。どこの神社でも共通していることだが、参拝にしろ神との直接な対面にしろ、外から汚れを持ち込まれることを神は嫌う。もっとも、神本人がそう言ったことは少なく、どちらかと言えば仕える神職たち、古くからしきたりを作り上げた者たちが、神を特別視する意味を込めての行いだろう。


「神々の中には全身を清めてから初めて参拝を許されることもあります。いわゆる禊ですね。古来、人は水を利用するために命を懸けて川などを行き来したそうですが、神によってその危険性が取り除かれたからこそ、こうした身を清める行為は神のお力に感謝を示すことにも繋がります。また特にこの地の神は水を司られる。水を清らかなものへと変質させる権能ゆえ、不浄を嫌う方でもあるのです」


 藤芽の説明の聞きながら、屋代は水盤に流れる水をのぞき込んだ。景色の向こう側が完全に見えるほどの透明度、触れてもいないのに伝わってくる水の冷たさ、乾いていなかったはずの喉が自然と音を立てる。柄酌で慎重にくみ取った水は不純物を一切含ませず、埃一つ浮いてはいなかった。


「汲む水の量は柄杓一杯。手順としては、右か左、柄杓を持ったほうの手とは反対の手に水をかけます。使う水の量はおよそ2、3割程度、終えたら持ち手を変えて同様に反対の手を清めます。終えたらさらに持ち手を替え、水を手の中に落として口をゆすぎ、最後に残った水を持ち手部分に流すことで柄杓の柄を清める」


 口にしながら、藤芽は屋代たちに実践して見せる。流れるような静かな動作が、まだ若い藤芽であって何度も繰り返し行っていることを伺わせた。


「注意が必要なのは口をゆすぐときでしょう。柄杓に直接口をつけてしまうと、後で使う人の妨げになってしまいます。もっとも、私たちの仕える浄環ノ神は、その名の通り水を浄化することを権能とする神様。その水は触れる物体を清めることに特化しています。その水で流してしまえば衛生面の心配は不要なのですが、心情的な配慮は必要です。さあ、皆さんも順番にどうぞ」


 藤芽の所作に見惚れていた屋代であったが、促されて水盤に近づいた。そうして思考する。実習はすでに始まっている。ならば、神との謁見前とはいえ、様々な動作、礼儀作法は採点の対象になるだろう。藤芽のような、と言わないまでも教わった作法を丁寧に繰り返せば加点は固いはずだ。

 覚悟を決めて右手で柄杓を持ち、水を満杯まで掬い取る。左手、右手と順番に清め、冷たい水を口に含む。まるでそれだけで口の中が洗われていくような爽快感が駆け抜け―――自然と飲み込もうとした喉を止めてると少し咽た。


「うごっ」

「ぷふっ、ちょっ、げほっ、笑わせないでよっ」


 同じように口をゆすいでいた波嬢がつられて水を吐き出した。屋代は何度かせき込み、水をすべて吐き出す。心の中で後悔。


「大丈夫かい?」

「ごほっ、っ、あ、ああ。心配ない。ちょっと咽ただけだ」


 もうすでに清め終えていた征徒に心配されて、屋代は羞恥で赤くなりかけた顔を必死でごまかした。

 失敗した、こんな簡単なことを。

 ただ水で手と口を清めるだけのことを出来なかった。屋代の様子を見ていたのだろう、白石の口がにやついている。わずかに血の気が失せるのを感じながら、さすがにこれだけで失点されるはずがないと自分に言い聞かせる。

 まだ大丈夫、挽回できる。こんな序盤で躓いてられない。

 もう一度初めからやり直そうと柄杓に手を伸ばしたが、屋代よりも先に柄杓を奪う手があった。


「はっ、こんなこともできないのかよ。やっぱ出来損ないは俺たちとはちげぇなぁ」

「っごほ、流堂(りゅうどう)か」

 

 屋代の醜態を見下す目。嘲るように歪められた口元から吐き出された煽り文句に、声が低くなる。

 肩まで髪を伸ばした少年がそこにいた。屋代たちに比べて線は太く、体は一回り以上大きい。だが流堂 統自(とうじ)を見た者が覚えるのは、その体格よりも人を小馬鹿にした目つきの方だろう。何もなくとも、常に周囲を見下している顔つきは、それだけで流堂の性根を現わしていた。


「さっさとどけ、次が閊えるだろうが」

「……返してくれ、もう一度やる」


 屋代の柄杓を取り戻さんとする手を、流堂は笑って払いのけた。


「お前本気で言ってんのか。こんな簡単なことも出来てねぇのに? 何度やっても無駄なんだよ。お前らもそう思うよな?」

「全くです。無駄な努力とはまさにこのことかと」「ふ、ふひひ。馬鹿が馬鹿なことしてるからある意味正しいとも言えるんだな」


 流堂の言葉に追従する声が二つ。屋代が目を向けると、流堂と似た表情を浮かべた少年が2人いる。


「……従匿(じゅうとく)、平(たいら)」


 針金と見間違うほど細く、縦に長い従匿、反対に身長こそ低いものの、肉付きが良すぎるのが平。見た目が特徴的すぎる2人は、いつも流堂の後ろをついて回る友人、いや従者のようであった。


「そもそもお前が神と謁見できる立場だと、本気でそう思っているのか?」

「………どういう意味だ」

「言葉の通りだ。お前に謁見できる資格なんてあるわけないだろ、出来損ない」

「っ」

「待ってくれ。今の言葉はあまりに過ぎる。取り消すんだ、流堂君」


 屋代の顔が明確に歪む。悲しみと苦悩と絶望と。悲痛に食いしばられた歯が軋みを上げて、屋代の痛みを表現する。

 そんな屋代を庇うよう一歩前に出た征徒に、流堂は面白いと言いたげに体を揺らした。


「何を取り消すことがある? 俺は本当のこと言ったまでだ」

「その通り。統自様の言葉に誤りはありません」「ひひひひひひひ」


 嫌らしい笑みを張り付けた従匿や平の追従に、征徒が顔を強張らせた。


「屋代は、出来損ないなどといわれるような人ではない。キミが指摘するあの事も、今はまだ難しいだけで必ず成功させるはずだ」

「はっ、何の保証にもなってねぇな。そんなことは一度でも成功させてからいえよ。なあ、そうだろ出来損ない?」


 挑発、煽りとは違う。近いところでは虐め、軽い冗談の類い。発する言葉は軽く、本心ではあるが向ける感情は嘲笑一色。屋代が激昂するなど考えてすらいない。つまるところ、自分たちより格下だと見下したいだけど行為。ねめつけ、片手に握った柄杓を振って屋代に退場を促してくる。その態度はまさしく子供であり幼稚そのものだが、流堂は自身の行為を顧みない。むしろそんな行動をとる己に酔ってすらいるようだ。

 周囲で禊を終えた生徒たちが何事かと注目し始める中、征徒はそれでも深く息を吸い込んで引く様子を見せない。


「もう一度言う。屋代への言葉を取り消してくれ。これ以上僕の友人を侮辱することは許さない」

「へぇ、さすが優等生。出来損ないにもお優しいねぇ。けど、俺の言ってることは正しいぜ? 神職にとって最も重要なことを出来ないコイツが学校に通ってること自体間違いなのさ」

「……取り消す気はないと、そう受けとるよ?」


 征徒は決して気が短いほうではない。学校では成績優秀で知られ、どんな相手にも公平かつ丁寧に接する少年だ。しかし、それゆえか不正には厳しく、正義をもって良しとするところがある。屋代を侮辱されたことに加え、流堂の言動に思うところもあったのだろう、征徒の雰囲気が目に見えて尖りだした。

 フザケタ顔を辞めない流堂もまた、浮かべた笑みはそのままに手足に力がこもり始めている。

 一触即発の空気が漂いだす。そんな中にあって、屋代は拳を握りしめていた。


「………くそ」


 屋代の中に流堂へ向ける怒りの感情はない。その胸中を満たしているのは己への憤りと悔しさ、何よりその言葉を否定できない不甲斐なさだった。出来損ないという言葉は正しく、屋代はある事を持って、唯人だと胸を張って言えない状態にある。憤ってくれる征徒に感謝するが、完全に否定できない屋代はこの場を動けない。

 と、そんな屋代の葛藤など知ったことかとばかり、速足で流堂に近づく生徒がいた。


「海浪? 何を――」


 ふんっ、と振りかぶられた柄杓から水が放たれ、流堂の顔面にぶつけられた。

 お互いに意識を取られていた東雲や流堂はもちろん、周囲にいた生徒の誰一人として反応できなかった。取り巻き二人も、ぽかんと大口開けて呆気にとらわれる。険悪な空気が凍り付き、わずかな空白が生まれる。当の流堂でさえ何度も瞬きを繰り返して放心した表情だ。

 神社の境内、それも実習中にあるまじき暴挙。四方から唖然とした視線が注がれた波嬢は、そのすべてを振り払わんと持っていた柄杓を屋代に投げ渡した。


「危なっ、海浪、お前――」

「さっきからグダグダ煩いのよ。柄杓なんていくつもあるんだからとっとと別の使って終わらせなさい」


 まったくおっしゃる通り。一つの柄杓にこだわる必要などない。もう一度禊をしたければ別の柄杓で挑戦すればいいだけだ。

 とはいえ、今はそういう話ではないのだが。


「てめぇ、波嬢ぅ……」

「なによ、なんか文句でもあるの? まさかと思うけどさっきの話聞いてなかった? ここは手水舎で穢れを落とす場よ。分かる? 汚れや穢れ。アンタの腐った性根も含まれるんだから、つまりここでしっかり落としておきなさいってこと」

「おぉ」


 屋代は受け取った柄杓を握りしめ震えた。前のめりになっていたはずの征徒も腰を引くその物言いは、まさに怖いもの知らず。


「はっ、はは。随分なことしてくれんじゃねぇか、なあ、本家の落ちこぼれごときが」


 目に入ろうとする水を振り飛ばし、唇の端を釣り上げて笑う流堂であったが、その顔は怒りに歪んでいる。まだ波嬢に手が出ていないのは流堂なりの誇りがあるからか。


「はんっ、分家の出が盛ってんじゃないわよ。遊びたかったら他所で遊んで来たら? ここいるのは本気で神職を目指してる奴だけ。実力があっても目的を伴ってないアンタがいていい場所じゃないのよ。技自慢がしたければ猿山で裸踊りでもしてればいいんじゃない?」

「――――――すぅ」


 屋代に言った言葉がそのまま帰ってきた形。だが、言われた当人はその言葉で我慢の許容量を超えたらしい。


「どいつもこいつも無能のくせに鬱陶しいんだよ……潰すぞ」

「はんっ、訂正してやるわ。あんた目的だけじゃなくて品性もないのね。あぁ可哀そう」


 売り文句に買い言葉。入学してからこれまで、お互いに溜まっていた不平不満が些細なきっかけで噴出している。明らかに怪我だけで済まなさそうな様子に、屋代は侮辱されたことも忘れて止めに入ろうとした。

 その時、大量の水が屋代たちに浴びせられた。


「ぎょっ」「うわっ」「冷た!」「何がっ」「やめ」「なんだな!?」


 前兆なく生じた大量の水を前に、屋代たちは避けることができなかった。顔だけを狙った精密射撃は狙いたがえることなく、首から上だけを濡らして後方に飛んでいく。


「くそっ、何が――?」


 反射的に目を閉じ両手で顔を覆った屋代は、瞳から水気を振り払うと、かすむ視界で何が起こったと周囲を見渡す。


「あれ、なのか?」


 そうしてその目が捉えたのは、歩いてきた参道に並ぶ石像、その一角だ。神の守護者を模した石造りの像、その一つが今まさに元の体勢に戻ろうとしているところだった。イモリ、あるいはトカゲのような平らな体と爬虫類じみた瞳を持ったその存在と目が合ってしまい、屋代の全身に緊張が走る。


「――――――……」


 じっと、見定められるような感覚。

 思わず息を止めて硬直した屋代だったが、そのまま数秒過ぎたところで守護者の像は何もせず元の位置へと戻っていった。


「っい、今のが眷族なのか……?」


 征徒が言っていた、そして巫女である藤芽が話していた神の力、その片鱗が与えられた存在。気を割いていたことを差し引いても、まるで気配など感じず、もしも今のが命を奪おうとするものであったなら屋代は死んでいただろう。そう考えると、自然と唇が震えてしまう。


「ふふ、お仕置きされてしまいましたね」

「うわっ、びしょびしょじゃん。勘弁してよもう」

「藤芽、さん。先生も」


 苦笑とも微笑ともつかない曖昧な顔で近づいてきたのは、巫女の藤芽と白石だった。面倒だという思いを隠そうとしない白石は、その手に数枚のタオルを抱えていた。


「ほれ、これで顔ふけ」

「ど、どうも」


 濡れ切った髪から水気をぬぐい取りながら、屋代は周囲を見渡した。いつの間にか禊が終わっていたようで、手水舎に残っているのは屋代たちだけのようだ。


「ほかの皆さんは宮社へと移動されました」

「何てことだ……、ご迷惑をおかけして申し訳ありません」


 丁寧に磨いた眼鏡を定位置に戻しながら、話を聞いた征徒が顔色を悪くした。

 気にしないように、と首を振る藤芽であったが、屋代たちを引率する立場にいる白石は今にもため息を吐き出しそうな顔だ。というか実際にしていた。


「あーも~、お前らがしっかりしてくれないと怒られんのは私なんだからなぁ、まったく」

「まあまあ、いいではありませんか。しっかりお灸も据えられたようですし」


 ちらりと、藤芽の目がさっきの眷族に向けられる。屋代もつられるように視線を転じるが、他の石造と何ら変わらない像が屹立しているだけであった。実際に動いているところを見ていなければ、眷族などと思えない。


「はぁ、せっかく整えた髪が乱れちゃったじゃない。どうして私まで……」


 水をかぶっていた海浪も復帰してきた。微妙な表情を浮かべているが、さっきまでの喧嘩腰が潜んでいるところを見るに、多少落ち着きを取り戻したらしい。手下二人にかいがいしく世話される流堂も、忌々し気に顰めた顔はそのままだが、殴りかかろうとする雰囲気は霧散していた。


「穢れとは、何も目に見える汚れだけではありません。心の持ちよう、行動もまたその対象です。先ほどまでの騒ぎは参拝にふさわしくないと、眷族が判断したのでしょう。諍いの原因が何かは存じあげませんが、ここは境内で、かつ皆さんは神職を目指す者。自身の行動が、いずれ仕える神様の品位にまで影響を及ぼすのだと忘れてはいけませんよ?」

「………はい」


 ぐうの音も出ないとはこのことか。一体いつから見ていたのか、屋代たちが騒いでいたことをしっかり把握していたらしい。タオルを用意してくれていた事はありがたかったが、どうせならもう少し早く止めに入ってほしかった。いや、眷族のお仕置き含めて学べということか。

 神妙の顔で頷く屋代に満足したのか、藤芽は顔を和らげて手のひらを合わせた。


「はい、それでは他の皆さんを追いかけましょう。あまり待たせてしまうと今度は神様直々のお叱りを受けてしまいます」


 その言葉に、屋代と征徒は顔を見合わせてしまう。今更ながら、遅刻していれば洒落にならなかったと自覚したのだ。眷族の、おそらくは軽い注意で水浸しになったのだ。本気で怒ることはないだろうが、眷族の親である神の怒りなど想像したくもない。波嬢の怒りも当然だった。


「あ、ちなみに今は急ぎだから説教ないけど、実習が終わったら覚悟しておけってさ。お前ら大変だなぁー」


 脳裏をよぎるおしろい教師のねちねちとした嫌味。さらりと告げられた覚悟の時間に、屋代たちの顔が渋くなる。そんな反応にケラケラと愉快気な笑い声をあげる白石。唯一納得いかなそうな流堂は、自分たちに非などないと考えているからか。

 まだ神との謁見さえすましておらず、実習の一歩目すら踏んでもいないのに、これからの先行きに不安を感じた屋代は深く息を吐いた。

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