1-3

 この世界に人類が誕生し、原始的な社会が形成されてから数万年。人は、人以外の存在全てから脅威にさらされていた。

 人という種はとかく脆弱であり、脆い肉体を持つ。毛がほとんどない体は寒さを凌げず、わずかな火に炙られるだけで火傷を負う。小さな顎は敵に噛みつくことも出来ず、爪を必死に振りかざしても相手を切ることはできない。視覚は遠くまで見ることができず、嗅覚も他の生物より劣り、聴覚は限られた音波のみを捉える。

 そんな生物が他の種や環境に命を脅かされることは必然だった。足を2本しか持たないが故の鈍足に加え、硬くもない皮膚は肉食動物の格好の餌であり、毒への耐性が極端に弱いことから、毒持つ生物の捕食対象となる。一説では、自らの意思で落とした果実を人間に食べさせ、そこに含まれていた毒で死んだ者を養分にした植物もあると言われている。自発的に動けるはずがない植物にさえそういわれることからも、人が弱い存在であったことが伺えた。

 だが、人が何よりも恐れたのは多種の生命より環境そのものであった。熱い、寒いは言うに及ばず、わずかな地形の変化でさえ人には致命となりえた。まだ学問などというものが発達していない時代にあって、信頼できたのは経験だ。昨日まで問題なかった、だから今日も大丈夫だろう。わずかな差異など見逃した結果命を落とす人間は後を絶たない。

 雨や風、雷なども人を殺した。雨が降れば水嵩の増した川に流され、冷えた体を温めなければ高熱で意識を失う。風は容易に住処を奪い、雷はあたるに構わず周囲を燃やし尽くした。

 直接的な外傷だけが脅威ではなかった。わずかな傷口から入る細菌は内臓を溶かし、ただの腹痛かと思っていたものが実は臓腑を腐らせていた、なんてこともある。外からの敵であれば目で見てわかろう。相手をしっかり認識し、それが怖い相手なのだと理解できる。だが、目で見えないものはどうしようもない。散々苦しみぬいたうえで死ぬことを避けられない。

 このように、人は常に命を脅かされる存在であった。恐怖に身を縮こまらせ、どうにかとれる木の実で飢えをしのぎ、外敵から逃げ惑う。そんな日々の中、彼らは何をしたのか? 生活向上のため知恵を求めたか? 他の生物にも負けないよう体を鍛えたか? 爪や牙の代わりとなる武器を生み出したのか? ………どれも違う。彼らは祈った、自分たちの命を奪っていく存在に。理不尽にも自らを脅かすあらゆる生命に。

 命を奪わないでくれ。傷つけないでくれ。苦しませないでくれ。悩ませないでくれ。どうかどうか、我らに慈悲を。

 なんとも哀れで滑稽だろう。言葉など通じない相手、どれだけ真摯に願ったところでその牙に容赦はない。言葉を尽くし、涙ながらの懇願も、相手が理解しなければ意味を持たない。自分たちに攻撃するわけでもなく何かを叫ぶ人に対し、敵は食欲の赴くまま食らいつく。それでも対抗する術を持たなかった人は祈ることしかしなかった。それは、自らが太刀打ちできない相手を前にした極限の行動。当然、その祈りが届くはずもない。数多の命が失われていく中、しかし、人の祈りは別の存在に届くことになる。

 神様だ。

 ただ一心に救済を求めた人々の祈りは、人とも生物とも違う、別次元の存在をこの世に呼び込んだ。見た目こそ人に似ている彼らだったが、その力は隔絶していた。手を振るだけで大地が裂け、呼び起された風は抵抗する暇も与えず万物を吹き飛ばし、操られた炎は人にあだなす物のみを焼いた。汲みに行くことさえ命がけであった水は地より湧いで、臓腑を苦しませる激痛は神の息吹でことごとく癒される。

 彼らは人を助けた。それがどういった理由なのか、人の祈りに答えたが故なのかは分からない。だが人は、彼ら神と呼ばれる超常の存在に感謝した。いや、感謝などという言葉では足りない。自分たちを傷つけ、脅かしてきた病や外敵から、あるいは生活そのものの悩みすら解決してくれたのだ。人は神の前で跪いて、その大いなる力を崇拝した。神もまたそんな人間を受け入れた。災厄を退け、その苦しみから救い出した。

 以来、人は常に神と共に在った。人が神を拝するという、絶対的な立場をもって。

 ◇


「なにゆえ神が天から降り立ち、人と共にあられるのか。それは今も明かされていないでおじゃる。しかし、神は人を守護してくださる。その慈悲に人は神を崇め奉るのでおじゃる。古来から変わらぬ関係性じゃが、その歴史の中で人の社会が変化した」

「そ、その、僕らの中で身分制度が始まったからですよね…?」

「その通り。守られ、平和を享受する麿たちの中に秩序が作られた。その中で、重要な役割として作られたものが神職でおじゃる。では、その神職の役割とは何じゃ?」

「ひ、人と神様を繋ぐことですっ」

「ひじょっーに雑な答えでおじゃるが間違ってはおらん。神はこの国を統べる存在であり、その言葉は人のそれに比べてはるかに重く優先されるべきもの。しかし、そうと言って人の意思を蔑ろにすれば社会は立ちいかぬ。人々の意見をくみ取り神へと奏上する者が必須なのじゃ」

「はい!」

「時には神の代理人として。ある時は人の代弁者として。高き存在である神を主上と仰ぎ、退屈を慰撫してさしあげる。それが神職でおじゃる。ソチたちが目指す神職とは今の世、ひいてはこれからの社会も含めて、とても重要な役割なのじゃよ」

「は、はいっ、心得ています!」

「よろしい。ならば答えを聞くとするでおじゃる」


 一呼吸置いて、お歯黒と白顔という化粧を施した教師は一言。


「どうして遅刻したのじゃ?」

「す、すみませんでしたーーーっっ」


 眼前に立つ古き正装で整えた大人に対し、まだ十代半ばの少年は半泣きになりながら、言い訳する余裕もなく頭を低くした。

 その様子を遠目に、遅刻を回避した屋代は安堵の息を吐き出した。


「ふぅ、何とか間に合ったか」

「間に合ったか、じゃない。屋代が駄々をこねるから僕まで走る羽目になったんだ」


 冬に近づく季節、涼しい風が冷たく感じられる時期ではあったが、走れば相応に体温も上がる。

 ここに来るまで石畳の階段を駆け上がることになった屋代が汗の感触に顔を顰めると、荒い息をつく征徒が苦情を漏らした。乱れた服装を整えて身だしなみを確認している。


「悪かったって。感謝してる」


 実際、征徒に引きずられなければ遅刻していた。

 とはいえ。


「惜しかったなぁ」

「まだ言ってるのかい? 何度も言うけどあれはただの玩具だ。本物じゃない」

「分かってるって。そうきっぱり希望を絶たんでくれ………祈相術、使えると思ったのに」


 征徒の否定に項垂れる。偽物だと理解したからこそ、より本物が欲しくなる。 

 祈相術。それは本来、神々が操る権能を人が扱えるようにと生み出された技術の総称だ。特定の祝詞、一定の動作を行うことで発動する。炎を生み出し、雷を放ち、大地を揺らす。神のごとき、とまでは言えず、それよりも小規模かつ威力は低いが、誕生してからこれまで周囲に怯え続けた人に与えられた最古にして最強の牙だ。

 屋代は、何としてでもこの祈相術が操りたかった。


「……まあ、何かを欲しがる気持ちを非難したいわけじゃないけど、次は時間のある時に頼むよ」


 首を横に振って気にするなと言う征徒は、周囲を見渡し感嘆を漏らした。


「それにしても壮観だね」


 その言葉につられて、屋代も俯けていた顔を上げた。

 屋代たちがいるのは周囲を林で囲まれた神社の門前、鳥居の前だ。そこに屋代と同じ学校に通う同級生たちがめいめい、集まって小集団を作っている。数十人からなる少年少女の眼前、一流の職人が丁寧に仕上げたと思しき鳥居は見事な彩色が施され、内と外を明確に隔ている。その奥には、寸分のずれもなく並べられた石畳の参道が続き、周りには頭上から降り注ぐ光を反射するほど磨かれた玉砂利が敷き詰められていた。参道の両脇からは、迎え入れる者を監視する石造りの守護者、小型の水生生物に見える石造が厳しい視線を向け、それらを超えた先にはこじんまりとした社務所が見える。そうしてそれらの先にあるのは……。


「ちょっと。どこほっつき歩いてたのよ。探したじゃない」


 と、ぼんやり視線を漂わせていた屋代の耳に、少女の甲高い声が響いてきた。

 目を向けると、これもまた屋代たちと似た格好の少女がいた。勝気そうな目元、純粋な黒ではなく赤が混じった艶のある髪、身長こそ平均的だが、同じ人種の血が流れているとは思えないほど高い位置にある腰と、引き締まった足が特徴の少女である。均整のとれた肢体を揺らしながら歩いて来る姿は荒い雰囲気を纏っていた。


「おぅ…」

「なによその嫌そうな顔。迷惑かけられたのはこっちよ?」


 思わず唇をひん曲げた屋代だったが、少女も負けてはいない。吊り上がっていた眉をさらに逆立て、今にも噛みつかんばかりに吠え立てる。


「アンタが遅刻すれば同じ班員のアタシまで遅刻扱いなのよ。そこんとこしっかり考えてんの?」

「………分かってる」

「学校ではあんた1人が遅刻しようとアタシに関係ないけど、実習の時まで遅刻しないで!」

「……すまん、悪かったって」


 少女の声色が耳の奥で鳴り響く。思わず顔を顰めてしまうが、反論はできなかった。少女の言い分は正しく、実際に間に合ったとはいえ、もし屋代が遅刻していれば同じ班員として実習に挑むこの少女も罰を受けかねなかった。苛立つのも無理はない。


「まさかと思うけど、遅刻くらいしてもいいとか考えてない? アンタはちょっと特別かもしれないけど、アタシのほうが特別なんだからね。それをちゃんと分かってんの?」

「……別に特別でもなんでもないが」

「古くから神に仕え、一族が始まって以来神職を輩出してきた名門中の名門っ、かの大戦においては常に前線で戦い勇猛果敢な戦いぶりは神々からも称賛された名家!」


 あ、聞いてないな、これ。

 自分語りに夢中になりだした少女に、屋代はすぐさま言葉を紡ぐことを諦めた。


「ほかと違って代々使えるのは1柱のみ。仕えるに構わずどんな神様にも尻尾を振る尻軽たちとはわけが違うわ。忠誠、格式、研磨されつくした祈相術。どれをとっても超一流! その雷鳴は国内のみならず外国にまで轟き、聞いたものは震えあがる国の守護者っ。それがアタシの一族、つまりアタシも一流!」

 

 ほんの数秒前まで怒っていた表情が嘘のように、今は夢見る子供のごとく瞳を輝かせている。その様子から自分の由来、その出自に絶対の自信と誇りを持っていることが伺えた。

 屋代にも覚えがある。少女のような由来も、特別な生まれでもない平凡な屋代であったが、それでも何かを誇りに思い、大切にしている気持ちは理解できた。

 うんうん、と頷く屋代であったが。


「だってのにアンタのせいで―――」

「あ」


 少女の顔がまた一転。元の般若に戻ってしまった。


「これが原因で評価が下げられたらどうするつもりだったのよっ。こんな事で巫女に成れなかったら笑いものよ!」

「……悪いって。本当に反省してる」


 さすがにこの一事をもって下げられることはないだろうと考えつつ、しかし可能性は否定できない。そうして、万が一にも神職に成れなかった場合を想像して憂鬱になり、それが自分とは別の評価軸によるものだった時の怒りに共感する。

 なぜなら、屋代も同じだから。神職に成れなかった時のことを考えると不安と恐怖で頭がどうにかなりそうだから。そして、それ以上の目的が屋代を突き動かしている。

 屋代に勢いを殺されながらも、心に溜まったものを吐き出すように少女が口を開きかけたが、そこで征徒が割って入った。


「ちょっと落ち着いて、海浪(かいなみ)さん。屋代だってワザと遅れようとしたわけじゃないんだ。これまでだってギリギリはあっても遅刻したことはないから」

「はんっ、遅刻してないから問題ない、なんてことないでしょ。っていうか、優等生様も一緒で遅刻しかけてるとか笑えるわね」

「そうだね、僕も同罪だ」


 鼻で笑う少女、海浪 波嬢(かいなみ はじょう)に、苦笑で返す征徒。謝罪を口にする2人に波嬢も少しは落ち着いたのか、表情が素面に戻る。


「はあ、っホントに2度はやめなさいよ? 今回の実習は進級にも影響する大事なものなんだからね!」


 ふんっ、と鼻息1つ吐き出して腕組する波嬢。

 ようやく怒気を収めた少女に屋代は気づかれないよう息を吐いた、かばってくれた東雲に謝意を乗せた視線を向けると、気にするなと手を振られる。


「お~、なんか騒がしいと思ったらお前らか。特に波嬢、お前いっつも元気だな。疲れないの?」

「っ、おはようございます、先生」


 と、一息ついた屋代たちにかかる声があった。

 一斉に視線を向けると、鳥居のほうから生徒の波をかき分けて1人の教師が歩み出ていた。無造作に束ねられた黒髪、覇気のない瞳、きっちりとしたスーツを纏っているの今にもあくびを漏らしそうな怠惰な雰囲気を醸し出している。

 屋代たちの学校の祈相術担当教師、白石 鋭莉(しらいし えいり)だ。


「お前ら、随分のんびりした登校だったなぁ。あと数分遅れてりゃあ、あそこで仲良く説教だったぞ? あのお歯黒の説教は効くからなー。実際に体験したことあるから間違いない」


 大口開けての欠伸。


「……説教を受けたことあるのか、この人」


 白石がしたり顔で頷くのを、冷や汗を流しながら見つめる征徒。


「何か用ですか? そろそろ実習も始まるんですが……」


 屋代が問うた。わざわざ前列から離れて屋代たちのもとに来たのだ、まさかただ雑談したいだけではあるまい。


「おー、そうだったそうだった。ちょっと聞いときたいことがあったんだよ」


 白石は気だるげに屋代の肩を引き寄せると顔を近づけた。一瞬、屋代は体を震わせた。懐に踏み込まれることの反射的な忌避感を生じつつ、それを自己の意識で黙殺する。いっそ馴れ馴れしいと評することができる態度は、何故か白石の纏う空気と合っていた。

 青少年として当然のごとく抱いた年上女性に対する緊張とほんの少しの興奮は、しかし漂ってきた強烈な酒の匂いで霧散した。


「お酒臭っ!?」

「はっはっはっ、朝から飲んじゃいないぞぅ?」


 屋代の口から飛び出した台詞に気を悪くすることなく、白石は朗らかな声で笑いたてた。顔を背ける屋代を逃がさんとばかりにさらに抱き寄せる。そうすると、今までなぜ気づかなかったのか不思議なほど、強烈な酒の匂いが鼻孔に入ってきた。


「う、酔いそう」

「ちょっと、アタシには近づかないでくださいよ? 服についたらどうするんですかっ」

「またですか先生? 適度な飲酒は体に良いとされていますが、過剰摂取は心身の負担になりますよ?」


 飲んでもいないのに匂いだけで酩酊感を覚えた屋代。瞬時に身をひるがえして距離を開けた波嬢が文句を口する脇で、ずれた眼鏡を治しながら征徒が律儀な忠告を述べた。


「おいおい、そう嫌がるなよ。飲酒も立派な神職の仕事なんだぞ? 飲んで歌って騒ぐことこそ神の治世が安泰である証拠だっての」


 白石の締まりのない笑みに、屋代と波嬢は同時に目を見開いた。


「「た、確かに!」」

「仕える神によって方針も違うだろうから一概に否定はできないけれど。それが神職の役割かな……?」


 そうだったのか。騒げば騒ぐだけ豊かさの表れになるのか。

 これまで考えもしなかった発想、新たな着眼点だが、言われてみるとなるほどと思わざる負えない。

 白石の言う通り、飲食できるというのはそれだけでも恵まれているのだ。はるか過去、生きるだけで命がけだった頃とは違い、神が収める現代では多少の不自由はあっても好きな物を口にでき、多種多様な娯楽がある。これらを甘受できるのも、神が人の世を収めているからであり、ひいては今の生活を楽しむことが神の世が素晴らしいものであることの証明にもなるというわけだ。

 啓蒙が開かれた賢者のごとき顔つきとなった屋代に、再び白石の大きな笑声が浴びせられる。


「いやぁ、お前たちは本当に固いなぁ。私なんぞの話と受け流せばいいのに、大真面目に受け取って。んで屋代。お前さんに聞きたいことがあるんだよ」


 波嬢から目をすがめた疑惑の視線が送られてくるのもかまわず、白石は屋代の顔にいっそう口を近づける。


「お前、本気で実習に参加すんの?」

「は?」


 耳元で囁かれたその言葉に、屋代は眉を寄せて白石の顔を見た。その表情は先ほどまでと同じく締まりがなく、唇は緩い笑みを浮かべている。だというのに、屋代はその顔に不快感を覚えた。


「いやぁ、今日までさんざん言ってきたけどさ、やっぱり最後の確認っていうの? 

 私としてはどーでもいいんだけど、これでも一応教師だからね、うん」

 そうか、目だ。その目がどうにも気に障るのか。嘲る色があるわけじゃない、馬鹿にして見下すような目つきでもない。

 ただただ乾いている目だった。空虚で空白、その目は光を通して外の世界を見ているのに、肝心の白石自身が何も受け取っていない。情報として、その景色として理解しているのだろう、誰が居て、どんな光景が広がっているのか写していても、それらを見たことで生じる情動が何一つない。感情がないわけではなく、単純にすべてを無意味だと投げ出しているような、そんな印象


「何が言いたいんですか。実習? 参加しますよ、そりゃ」


 顔を顰めながら、そういえばこれまでも実習を辞退するよう勧められてきた、と思い返す。実習が行われることが分かってから、いや、そのずっと前、学校で始めて白石の授業を受けてから――。

 だが、屋代にそんな気はない。神職を目指すうえで、実際に体験し学べる貴重な機会となる実習を逃す手などないからだ。すべての学び、自らの力に変える気で臨むつもりだった。


「は~ん、ほ~ん、へー。そっかそっか。うん、まあいいか。なら死なない程度に頑張れ青少年。応援はまったくしないけどなー」


 屋代の険が籠った言葉をどうとらえたのか、白石の返事はひどく曖昧だった。いっそふざけているかと思ってしまうほど、その顔は変わらない笑み。無感動な眼だけ屋代の上から下を眺めまわす。

 やがて納得したのか、諦めたのか。屋代の肩を軽く叩くと白石は未練なく鳥居の前に戻っていった。離れてしまった熱を名残惜しく思うことなく、ただ言葉では表せない何かに唇を歪ませた。


「何か言われたのかい?」

「いや、…何でもない。それより、そろそろ始まりそうだ。並ぼうぜ。海浪、お前も一緒に」

 

 気遣わしげに声をかけてくる征徒に首を横に振るが、ふと腑に落ちない顔で屋代を見る波嬢に気づいた。


「どうした?」

「別に、気にしなくていいわよ………なんか納得いかないだけ」

「なんだそりゃ?」


 眉を上げて疑問符を浮かべる屋代だったが、波嬢はそれ以上何かを言うつもりはないようで、返事をすることなくさっさと白石の後を追ってしまった。


「僕たちも行こう」


 東雲に促され、屋代もこれ以上拘泥することなく鳥居に向かって歩き出す。ちょうどその時だった。


「――今から実習活動に入るのじゃ! 初めに相手の代表者から挨拶がある、全員早う並ぶがよい!」


 鳥居の前、生徒たちが屯している再前列から教師の声。先ほどまで遅刻した生徒を叱っていた時と同様、独特な口調と甲高い声に、残りの生徒が慌てて駆け出した。作務衣姿の少年少女が、教師を前に整列する。

 その様子を眺め、全員が準備できたことを確認し終えた白粉教師が頷く。


「では改めての挨拶でおじゃる。皆の衆、おはよう」

『おはようございます!』


 もう昼近いのだが、初めに交わす挨拶の言葉はおはよう、で正解なのか?

 不意に沸き上がったどうでもいい疑問を頭の中でもて遊びながら、屋代もまた声を揃えた。


「少しばかり問題が起こり遅くなってしまったが、全員無事に集まることができて何よりでおじゃる」


 何人かの生徒が笑いをこらえるように俯き、あるいは迷惑そうな目を遅刻した生徒に向ける。無言の批難を受ける生徒は顔を逸らした。


「では、浄環ノ神に仕える巫女殿より挨拶がある。みな、心して聞くように」


 その台詞をきっかけに、教師陣の脇から1人の人物が進みでた。


「皆さんこんにちわ。ご紹介に預かりました浄環ノ神に仕えます、巫女の藤芽(ふじめ)と申します。以後、お見知りおきください」


 年齢は屋代たちよりも上の20代後半。清楚という言葉が似合いそうな女性だった。緋袴と白衣には控えめながら装飾が施されている。


「皆さんには本日から1週間、ここ浄環ノ神がおわす宮社にて、私たちと同じ仕事をしていただきます。書類整理の雑務から神様のお心を慰撫する舞まで。参拝者への対応などとても幅広いものになります。これらはすべて名誉ある仕事ですが、とても難しいものになります」


 そこで言葉を区切った女性、藤芽は屋代たち生徒の顔を見渡した。動揺なく覚悟を固めた顔つきであることに微笑を浮かべる。


「ですが、私は心配しておりません。なぜなら皆さんは、この国における次代の神職を担う、国立神職養成学校の生徒さんだからです。普段の学びを活かし、ぜひ今回の実習で発揮してください」


 国立神職養成学校。それが、屋代たちが通う学校の名前だ。その名の通り、神職を目指す少年少女が通う、国の肝いり学校である。仕事として神職に就くためには、礼儀作法はもとより、神から授けられた特別な術である祈相術を使えること、またそのための資格を得ることが条件とされている。古来より神に仕える家系は一定数存在していたが、いくつかの不祥事と特権階級的な権力を危惧されたことにより、広く門戸が開かれることになった。その結果、一般の家系であっても相応の学力、技術さえもっていれば入学できる学校として国が建てた唯一の神職専門学校だ。つまり、ここにいる屋代も征徒も波嬢も、全員が神職を目指しているのである。


「聞いたな皆の衆? 現役の巫女である藤芽殿もこう言っておられる。知っておる者もいるであろうが、今回の実習は次年度の進級にも関わってくる重要なものじゃ。この一事をもって判断されるわけではないが、ソチたちが目指す先のことを考えるならば心して励むように」


 脅し、というより発破をかける目的だろう教師の発言に、生徒たちはそれぞれ生唾を飲み込んだ。

 神に仕えることを役職とする女性は巫女。男性の場合は神薙と呼称され、それらをまとめて神職と呼んでいる。

 そも現在、この国に存在している神の総数は百柱を超えている。これは世界の国の中でも有数の数ではあるが、この数は増えることがない。ごく稀に、数百年単位で1、2度、新たな神が降臨されるかどうか、といったところだ。少なくともこの何百年の間に増えたという話は聞いたことがなかった。一柱に仕える神職の数に決まりこそないが、多くても百人前後、千を超えることはほぼなく、中には特定の一族だけで固める神もいるという。つまり、神職という席の数はある程度絞られている。ここにいる生徒たちだけでなく、独自で神職を目指す者も、屋代にとっては宿敵なのだ。

 もちろんその椅子取り遊戯に負けるつもりはなかったが、教師の言に唇を噛み締めた。


「それでは挨拶はここまでにして。さっそく中に入りましょう」


 藤芽に先導されながら、生徒たちが鳥居を潜り抜けていく。その先に待つ自らの理想の未来を見据え、瞳を光らせながら実習へと望んでいく。その中にあって屋代もまた、胸の内だけで覚悟を固めた。

 ―――――俺は絶対に神薙になる。そして、必ずあの人の居場所を作ってみせる。

 引き締めた顔で鳥居に礼を取った屋代は、自らの重い一歩を踏み出した。

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