第26話 可愛すぎるんだよなあああああ!
エルンストの剣術はかなりの高みに至っている。それは間違いない。だが、
「――甘い」
ヨハンの攻撃がエルンストの脇腹を打ち据えた。衝撃を堪えきれず、エルンストの体は吹っ飛び、大きな音を立てて床に転がった。
何度も挑み、その度にヨハンに倒される――
それは1年前と同じ情景でもある。
(結果だけを見れば、確かにそうなる)
しかし、ヨハンは大きな違いを感じていた。1年前の実力の開きは天と地であった。大人と赤子のようなもので、ヨハンにとっては退屈極まりない時間だった。
だが、今日は違う。
その差はずいぶんと縮まり、大人と青少年くらいの差になっていた。
(……わずか、1年で……?)
その事実に行き着いたヨハンは、彼にとっては珍しい感情を覚えて背筋を冷たくする。
1年前、ヨハンという最高の手本を目と体に焼き付けたエルンストは、必死の鍛錬でを積んで己を今の高みにまで持ち上げている。
もちろん、それは容易なことではない。
どれほどの才能が彼の中に眠っているのか――
どれほど血が滲むほどの鍛錬を積んだのか――
その底知れない様子にヨハンは内心で興奮する。そこそこ優秀な騎士になるという見立ての愚かなことよ。
(このヨハンの目も曇っていたか……)
これほどの大器を見落としかけていたとは!
ヨハンはエルンストの実力に感心したが、
「まだまだだ、エルンスト。それだけでは私には届かない。君の弱点は足捌きにある。左右に振られたときの体重移動が――」
厳しいことを口にする。慢心させるつもりはないから。叩けば強くなる鋼ならば、ただただひたすら叩くのみだ。
エルンストからの反応はなく、代わりにヘルマンが口を開いた。
「おい、ヨハン。気を失っているぞ?」
「……え?」
己の思考に没頭していたヨハンが目を向けると、床に倒れたエルンストが目を回していた。
「エ、エルンスト!? すまない、大丈夫か!?」
これもまた、興味深い『違い』だった。
一年前もまたエルンストはヨハンの一撃で気を失ったが、そのときのヨハンはエルンストに全く興味を持たなかったから。
「待て待て、起こすな。かなりハードに戦っていた。今日は寝かせてやれ」
「それもそうか」
「……ヨハン、お前、かなり入れ込んでいないか?」
「何を言っているんだ。私は言っただろ? 節度を持って導くと。そのつもりだが?」
「そうは見えんなあ……」
「どういう意味だい?」
即答せず、ヘルマンは少し考えてから別の質問を投げかけた。
「2ヶ月前、みんなで観劇したな? エルンストと会うのはそれ以来か?」
「いいや、そんなことはない」
ヨハンの明敏な記憶はエルンストとの思い出をしっかりと覚えている。
「あの日から2日後にはタキオン美術館に行き、そのまま夕食。その3日後には音楽会に参加して、翌日に指揮者のもとを共に訪ねて話を伺った。3日後にはエルンストのためになるだろうと思い、知り合いの武器コレクターの元を共に訪ねて、名剣とはなんなのか、ということについて有意義な議論を行なった。そこから1週間は激務でエルンストを訪ねることができず、とても辛い時間だった。腹立たしい、帝国は早く滅びるべきだ。そうだ、滅ぼそう。激務が終わった翌日にエルンストの元を訪ねて――」
「節度って言葉の意味、わかってる?」
うんざりした様子でヘルマンが続けた。
「お前はもうどっぷりなんだよ! 入れ込みすぎだ!」
「……え、そうなのか? 世のマスターと従士はこれくらい会っているのでは?」
「会う回数がそんなになら顔を合わせて雑談したりするくらいだ! 話を聞く限り、どれも本気の予定じゃねえか!?」
「そうなのかね? 別にこれくらい、普通では?」
ヨハンには理解できない。不世出の天才にして王国の巨人ヨハンの『普通』は、一般人の普通とかけ離れているから。
そして、あの好きな人間は甘やかしてしまう父の血も多分に影響している。
「いや、実はやりすぎかな、と思っている部分も実はあるのだ――」
客観視もできるヨハンはそんな述懐を口にする。
「でもな、可愛すぎるんだよなあああああああああああああ! もう本当に、可愛すぎるから、いろんなことをしてあげたくなるんだ、これがあああああ!」
ヨハンの口から本音がこぼれた。
エルンストと時間を過ごすたび、感情が揺れたのはヨハンだった。エルンストは昔からヨハンに一途なので何も変わらない。ヨハンの側が、彼と言葉を交わすたび、同じ空気を吸うたびに入れ込んでいった。
ヨハンの言葉を、与えるものを取り込んで、急速に成長していく姿にヨハンは目を離せなくなっていた。
(なんという才だ!)
実利の人ヨハンは人を能力だけで評価する。逆に言えば、有能すぎる人材には、途方もない魅力を覚えてしまうのだ。おまけに、その有能すぎるエルンストは、己の才能に対して鈍感であり、ヨハンに盲目的な尊敬まで持っている。
これほど教えがいのある生徒はいるだろうか?
無垢の天才を、己の色に染め上げる愉悦――
「……あんなに従士が可愛いものだとは思わなかったよ……」
はい、負けました。私は雑魚です。そんな感じの声色を急進的従士制度反対論者ヨハンがこぼす。
ヘルマンが口を開いた。
「エルンストは特別だと思うが……まあ、可愛いものだよ。優秀なら優秀なりに、足りないなら足りないなりにな」
一呼吸置いてから、続ける。
「思うに、この主従制度なんていう妙な仕組みは、若い人間を導くためだけにあるものじゃないと思うんだ。俺たち、導く側にも年長者としての自覚を持たせるための効果もあるんだろうな」
「ふむ、素晴らしい。実に素晴らしい」
「振れ幅が極端だな、お前……」
「美点だと思ってくれていいよ」
ふふふ、とヨハンが笑う。エルンストを見つめる視線には、慈愛の色が濃かった。
だから、ヘルマンはヨハンに問うことにした。
「なあ、ヨハン……いつまで
「……え?」
全く今まで念頭になかった、という様子でヨハンが首を傾げる。
「もう仮初ではないが?」
それがヨハンの認識ではあるのだけど。
「……そのこと、エルンストに伝えてやったか? あいつはそのつもりか?」
「ああ、いや……言っていない。私が勝手に思っているだけだ」
そして、エルンストの言動からして、仮初という立場に固執しているのは間違いない。
「だったら、言ってやったらどうだ。仮初から始めた関係を、本物にしようって」
「ふぅむ……」
少し考えてから、ヨハンはこう切り返した。
「必要かね? 実質的に、その関係であるのに」
「そういうのは良くない。けじめは大事だろ?」
一理ある、とヨハンは理解したが、心が揺らめくのを無視はできなかった。そこにあるのは一抹の不安――それこそが、最初に今のままを望んだ理由だった。
「わざわざ口にして……断られたらどうする?」
エルンストの雰囲気からして、それはない気もするが。しかし、全てがうまくいっているからこそ、怖く感じることもあるのだ。
それは万能の天才ヨハンが滅多に感じることがないもの――恐怖だった。
(この私が、怯えている……?)
不思議な感覚だった。ヨハンの精神性もまた従士との関係によって変わりつつある証拠だ。
「だから今のままを続けたい? 違うだろう。それでエルンストに不安定な状況を押し付けるのは違う。お前が始めた関係だ。お前が責任を持って片付けろ。エルンストにお前の従士なんだと胸を張らせてやれ!」
「……そうだな」
その言葉はヨハンの腹に落ちた。エルンストが悲しむことを続けるのは、正しくない。あの可愛らしい従士には常に笑顔でいてもらいたい。
「わかった。しかるべき舞台が間もなく用意できる。そこで切り出すとしよう」
覚悟を決めたヨハンに、迷いはない。
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