第25話 ヨハンとの修行
エルンストがヨハン・フロイデン賞を受賞してから2ヶ月が過ぎた――
その日、ヨハンはヘルマンの家の訓練場でエルンストと剣術の訓練をしていた。
あの日から、エルンストを色々な場所に連れ回したが、ふとヨハンは我に帰った。
――そうだ、たまにはエルンストの希望を叶えてやらなければ!
こちらの希望だけを押し付けるような関係は長続きしないものなのだから。
エルンストは問われると、少し考えてから、
「そうですね、次は剣術の相手をして欲しいです。新しいことを経験できるのも楽しいのですが、やはり私の礎は剣術なので」
と言って、こう続けた。
「1年前にヨハン様の剣を受けてから、少しでも近づこうと修練を積み重ねました。今の距離を知りたいと思っています」
その目の輝きに、ヨハンの心はやられた。
(私の力に、それほどの欲求を抱えてくれるのか)
もちろん、否はない。
そんなわけで、再びヘルマンを説き伏せて、この時間を作ったのだった。ヘルマン本人も壁際に立って二人を眺めている。
「まずは、素振りからしてみよう」
「はい」
エルンストが剣を振り上げて、振り下ろす。振り上げて、振り下ろす。
その動きをヨハンはじっと見つめる。
(ほぅ)
思わず内心で感心してしまう。
――1年前にヨハン様の剣を受けてから、少しでも近づこうと修練を積み重ねました。
その言葉が決して伊達ではないことを感じさせる。
1年前の模擬戦と比べて、いや、比べることも実はできない。なぜなら、昔すぎて記憶に残っていないからだ。
(ああ……よちよちしたエルンストの姿を忘れてしまうだなんて……)
やや残念な気持ちが込み上げてくる。
だが、記憶が残っていないことが、すなわち評価でもあるのだ。もしも、ヨハンが刮目するほどの技量であれば、その一点だけで間違いなくヨハンの記憶に残るからだ。
残らないということは、しょせん、その程度のレベルだったということ。
(そう、良い剣士になるとは思った。だが、それ以上ではなかった)
それが今はどうだ、一年の月日が彼を変えてしまったのか?
(少なくとも、明らかに次元が違う)
ヨハンの記憶に残る栄光を賜るだけの価値が、今のエルンストの斬撃にはある。
「止まれ」
「はい」
ヨハンの指示を受けて、ぴたりとエルンストが止まる。この忠犬のような仕草もまた、ヨハンの心をくすぐってくる。
(素直な人間は可愛いなあ……)
ヨハンは背後に周り、後ろからエルンストの両手を取った。急に触れられて驚いたのか、エルンストの体がびくりと震える。
「ヨ、ヨハン様、何を……!?」
「少し指導してあげよう」
ヨハンはエルンストの腕を操りながら、続いて足の動きを指示しつつ、自分の剣術論を話す。
「いいかい、ここは強く振るのではなく、軽く、速さだけを求めて――」
「前に踏み込むとき、体重の掛け方は――」
などと技術を解説していく。
「どうだい、理解できたかい?」
「……あ、あの、もう一度お願いできますか……?」
「もちろんだとも」
無駄が嫌いなヨハンであるが、裏を返せば価値のあることには労を惜しまない。日々、ヨハンの教えを身につけていくエルンストに対する教えはまさにそれだ。
再び剣の動きを指導する。
その最中にエルンストが口を開いた。
「あ、あの……」
「なんだ?」
「う、嬉しいです。実はその、憧れていたので」
「ははは、私にかね?」
その私から直接指導を受けられるのだから、これほどの幸せはあるまい――そうヨハンは解釈した。
「それもあるんですけど、その、従士の友人もマスターから剣術の手ほどきを受けたと言われて――ずっと憧れていたんです。こうやってヨハン様から教わることに」
「なるほど……」
「でも、従士として手ほどきを受けていないのは妙な話でもあるので、嘘をついていました。それがずっと惨めな気分で――これで、これからは胸を張れます」
「ああ……それは迷惑をかけたね」
ヨハンは己の心が曇るのを感じた。この一年ほど味合わせた苦労を思うと忍びない。
「大丈夫です、気にしていません。今が幸せなら、昔のことなんて笑い飛ばせます!」
「そう言ってくれるのなら、嬉しいのだけど」
ヨハンはエルンストから手を離した。再び元の位置に戻る。
「私の話したことを念頭に剣を振るってくれ」
「はい!」
威勢のいい返事とともに、エルンストが動き出す。しばらく繰り返してから――
「……え?」
動きを止めて、己の剣を眺める。
その視線がヨハンに向く。何かの答えを探すかのように。
ヨハンは何も答えない。答えは、すでに教えているのだから。あとは実践して己の体に焼き付けるだけ。
「繰り返すんだ」
「はい!」
エルンストが、今度は熱心に剣を振い続ける。熱心という単語を表現するかのように、熱に浮かされた様子で一心不乱に剣を振るう。
(……新たな扉が開けた瞬間だ。楽しくて仕方がないんだろうな……)
内心でヨハンは小さく笑う。
エルンストの剣術は素晴らしい。普通のレベルであれば『尋常ではない』に位置するだろう。
(あれだけ使えるのなら、帝国兵を蹴散らしたという報告も納得だ)
だが、ヨハンのレベルからすれば、バランスの狂っている部分が目にあまる。それは本当にわずかなものだが、力や速度の伝達を間違いなくロスしている。そして、その微小な差は達人同士の戦いにとっては致命的な差となる。
ヨハンはそれを教えただけ――
通常は、教えてわかるものではない。陶器で0.1mmの厚さの違いを判断するような次元の話なのだから。普通の人間は、それを表現できない。
だが、エルンストの才は、そこに届いている。
ヨハンが与えたわずかな指摘で、エルンストの剣は更なる高みへと昇りつつある。
まるで枯れかけていた植物に水を注ぐようなものだ。全てを吸収して、昨日よりも今日、今日よりも明日と急速に成長し、大輪の花を咲かせようとしている――
(なんと未来が楽しみな子なんだろう!)
彼を教え導くマスターになれたことに喜びすら覚える。
「素晴らしいぞ、エルンスト。ずいぶんと良くなった」
「ありがとうございます! ヨハン様のおかげです!」
「ふふふ、まあ、わたしのおかげ、でもあるな、確かに……」
感謝されたことが嬉しくて、ついヨハンは己の器をカタカタと揺らしてしまう。
「今日の感覚を忘れず、これからも励むように」
「はい!」
そう言ってから、一本気なエルンストには珍しく、戸惑ったような表情で視線を泳がせ始める。
「え、ええと……」
「何か言いたいことがあるのかね、エルンスト」
「……さっき話していた、従士をしている友人から聞いた話なんですけど、マスターと模擬戦をして稽古をつけてもらうことも多いらしくて――」
迷っていた視線をヨハンに定めた。
「ご迷惑でなければ、模擬戦をしていただくのは可能でしょうか!?」
「ふふふ」
そのとき、ヨハンの脳内を占めていたのは、受けるか退けるかではなく、
(ああ、なんていじらしいのだろう)
そんな感情であった。
これは出過ぎではないか? 甘えすぎてはいないだろうか? ヨハンの気分を害さないか悩みながら、己の望みを口にしている。
(そんな表情をしていると、なんでも叶えてあげたくなるではないか)
嫌だよ、と言って振り回して、困ったような表情を眺めるのも、きっと楽しいだろう。だけど、今はそのときではないことくらい、ヨハンは思っている。今は止まっていた時計を動かして、お互いに距離を測っている状態。信頼のコインを互いにやり取りしている段階でするようなことではない。
ヨハンはにっこりと笑顔を浮かべて応じた。
「もちろん、喜んで」
不安そうなエルンストの表情が明るいものに変わる。
それだけでヨハンは、ああ、私はなんと正しい判断をしたのだ、今日も善行を積んでしまったと思うのだった。
ヨハンとエルンストが木剣を持って互いに向かい合う。
そんな様子を眺めながら、ヘルマンは思った。
(……従士とマスターが仲良いのは別にいいんだけど、どうして俺の家でやってんだよ。勝手に二人で盛り上がっておけよ……)
見せつけられるものとしては疲れるものもある。
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