第3話 麒麟児ヨハンの成り上がり

 麒麟児、雷鳴、神童、貴公子――

 あらゆる分野で才覚を発揮するヨハンは幼少の頃から、さまざまな通称で呼ばれている。

 ヨハンは間違いなく万能の天才ではあり、幼少の頃から同世代は愚か大人すら圧倒するほどの力を示していたのは事実だ。だけど、それらの賞賛はどこか『追従』の側面を思わせるのも事実だった。


 なぜなら彼は、顔の良い公爵様なのだから。

 だけど、その浮ついた評価は1年前に確固としたものとなった。


 ――ピレネー砦の激戦を制し、実績の面で一気に名を上げたからだ。


 セレネ王国は、隣国のレンブルグ帝国と100年にも及ぶ戦争を繰り広げている。ピレネー砦は王国が保持する前線基地のひとつで、幾度もの激戦を繰り広げた要所だ。

 当時16歳のヨハン・フロイデンが陣中見舞いに砦を訪れたタイミングを狙って、帝国の猛将バルガスが総攻撃を仕掛けた。


「王国の誇る未来の秘密兵器とやらがノコノコと前線に出てきたらしい! そっ首を落として奴らの未来に絶望を与えてやれ!」


 バルガスの大攻勢はすさまじく、ピレネー砦の一角に帝国兵が侵入するほどの被害が発生した。

 雄叫びを上げながら進撃してくる帝国兵――

 その進む先には少年兵がいた。

 腰に剣を差しているが、まだ殺し合いをしたことがない少年。前線の兵たちと首脳陣を繋ぐ伝令をしていた少年に。

 少年は逃げようとしたが足がもつれて動けない。


「邪魔だ! 死ね、ガキ!」


 帝国兵が剣を振り下ろす。


 ――その剣が振り下ろされることはなかった。


 割り込んだ誰かが、まるで雷鳴のような一撃で帝国兵を切り伏せたからだ。誰か、と誰何の必要はなかった。


「ヨハン・フロイデン!?」


 帝国兵が驚愕の声を上げる。まさか、首を狙われて奥に引っ込んでいる腰抜けが前線中の前線にまで姿を見せるなんて!?


「そうだ、私がヨハン・フロイデンだ」


 16歳の、まるで天使のような少年だった。手に血に染まった剣を持っているが。

 殺気だった兵たちを前に、幼さを感じさせない威厳に満ちた声で続ける。


「この私の首が欲しいのか、帝国の犬ども。この『最強』である私の首を! ならば、やってみるがいい。いずれ未来に刈り取る命だ。今ここで返り討ちにしても変わるまい!」


 ヨハンの周りに王国の騎士たちが集まり始める。

 それで怯む帝国兵ではない。殺すべき相手が目の前にいるのだから。


「進め! ヨハンの首を取れ!」


「ヨハン様を守れ!」


 あっという間に乱戦になった。ヨハンは騎士たちの背後に隠れているような人間ではなく、自ら剣を手に戦った。その強さはずば抜けたもので、帝国兵を圧倒した。そして、乱戦に身を置きながら味方を鼓舞し続ける。


「王国兵よ! 決して退くな、ここを死守せよ! ヨハンはお前たちとともにある! 最後まで戦い抜き、必ず守り抜く!」


 その言葉の通り、ヨハンは帝国兵たちを追い払った。

 その後、ヨハン砦全体の指揮も執り行い、的確な指示で猛将バルガスの大攻勢をしのぎきり、王国だけではなく帝国にまでその勇名を知らしめたのだった。


「ヨハン様がいる王国は安泰だ!」


「才能のある方だと思っていたが、これほどとは!」


「万歳! 王国の未来とヨハン様に!」


 おそらくは未来において、多くの伝記が作られるであろうヨハン・フロイデンの第一歩はこのようにして刻まれたのだった。


 ――1年前のそんな光景を、帰宅したエルンストは自室のベッドに座って思い出していた。


 そんなヨハンに妙な条件付きとはいえ選ばれたのだから、まだ現実感がない。

 一方、1年前の光景は昨日のような生々しさで思い出せる。なぜなら、エルンストもその場にいたからだ。全ての人が、あの日のヨハンの活躍を知っているだろう。だが、だが、ヨハンが助けた少年兵のことを知る人はいない。

 少年の名前はエルンスト・シュタール。


(……あの日、俺はヨハン様に助けられたんだ)


 たまたま父親がピレネー砦の補給任務に就いたからだった。

 騎士を目指すエルンストは経験を積むため、渋る父親に無理を言って同行したのだった。学徒動員は珍しくなく、遠くないうちにエルンストも補給任務の護衛くらいならすることにあるだろうから。騎士たちが跡取り息子を実践教育のために同行させるのは珍しいことでもなかった。


「……わかったわかった。陣中見舞いにフロイデン家のヨハン様もいらっしゃるそうだ。普通なら見ることも叶わない御仁だ。遠くから眺める機会ならあるかもな」


 そのときのエルンストにヨハンへの特別な想いはなく、ただただ騎士としての仕事に携われることだけが嬉しかった。

 そして、砦に着いた途端、帝国の攻勢に巻き込まれた。

 いずれは騎士となる身、エルンストに物陰に隠れているつもりはない。未熟な己の剣が戦場で通じると自惚れてはいないが、物資の輸送に伝令などやるべき雑用は多い。

 少しでも役に立とうと必死に戦場を駆け巡り――

 あの日が訪れた。

 帝国兵たちが攻め込んできたとき、エルンストは戦う覚悟を決めた。腰を低く落とし、

剣の柄を握って、


(やるぞ!)


 そんな勇ましい気持ちが内心で迸ったけど――

 体が強張った。

 自分でも驚いてしまうくらいに、体が動かない。そうこうしているうちに帝国兵たちが距離を詰めてきて、エルンストは逃げるしかなかった。逃げようとした。

 だけど、それすらもうまくいかなかった。

 初めての実戦の恐怖は、エルンスト少年の体をがんじがらめにした。

 無様にこけて、地面でもがいているうちに帝国兵がやってきた。


「邪魔だ! 死ね、ガキ!」


 死の運命を断ち切ってくれたのがヨハンだった。

 自分と年がさして変わらないのは知っている。だけど、明らかに自分とは違う存在。神々しいものを見た――そんな気分にさせてくれるほど、その姿は光り輝いて見えた。英雄という人間がいるのなら、きっとこういう人に違いない。

 いや、英雄どころか、軍神だった。

 味方を鼓舞しつつ、あっという間に帝国兵を追い払った様はまさにそれだ。


「大丈夫かい、君?」


 ぼうっとしている間に全てが終わり、気づくと何者かが手を差し出していた。

 手の先にあるのは、ヨハン・フロイデン――

 興奮の冷めやらないエルンストは己の心臓が跳ねるのを感じた。


「ずっと倒れたままだったけど、腰でも抜かしたのかい?」


 そうでもない。体のこわばりも消えていた。

 ただただ見惚れていたのだ。ヨハンという人間が敵を蹴散らす様を。洗練された技量の持ち主が、圧倒的な力で相手を倒していく。それはまるで劇や舞踏を見ているかのようは錯覚を与えてくる。

 目が離せなくて、息すら忘れて、気がついたら終わっていた。


(……だけど、そんなことを言えるずがない)


 なので、返事にもならない言葉を返した。


「だ、大丈夫です……」


 エルンストは差し出された手を取ろうと手を伸ばす。

 その手が直前で止まった。

 差し出された手に、本当に触れていいのかわからなくなったのだ。雲の上のような公爵様というだけでなく、圧倒的な力を持った天才。絶世の美女を思わせるような美しい顔立ちも合わせて、別世界の人間にすら思えた。


(……触れていいのかな?)


 長く迷う必要もなかった。

 ヨハンがためらうエルンストの手をとり、引っ張り上げたのだ。立ち上がったエルンストの全身をざっと検分し、

「ふむ、無事で何よりだ」


 そう言うと背中を向けて、騎士たちのほうへと戻っていった。


(……あ、礼を言うのを忘れた……)


 非現実的な雰囲気から解放されて、そんなことに気がついたのは、ずいぶんと経ってからのことだ。


 ――それが、あの日のエルンスト側から見た顛末だ。


 助けたヨハンですら、エルンストのことを覚えてはいないだろう。だが、エルンストは決して忘れない。

 その日から、エルンストにとってヨハンは憧れの人物となった。まるで世界を救う英雄のように、世の中の輝きすら変えると信じさせてくれるほどの――それは好意というよりは崇拝にも近い感情だった。

 いつか、あの人の目に留まるような活躍ができれば、


(せめて、あの日の礼を言おう)


 そんなことを思っていたら、こんなことになってしまった。

 現実に意識を引き戻し、エルンストは自室のベッドに身を横たえる。


(ヨハン様にあんなことを頼まれるだなんて)


 想像もつかない形でお近づきになれてしまった。妙な条件があるので、諸手を挙げて喜べるものではないけども。

 それでも望外の喜びだ。


(勘違いするなよ、エルンスト。別に選ばれたわけじゃない。誰でもいい隠れ蓑だ。お前自身は何も変わらない。そして、世の中も何も変わらない。一喜一憂することなく、昨日までと同じように鍛錬を積み重ねるんだ)


 そんなことを己に言い聞かせて眠りについた。

 何も変わらない――

 エルンストはそんなふうに評したが、公爵家の、いや、王国の未来を担う貴公子との従士関係がその程度の波風のはずがなかった。

 噂は両舷の火のように広がり、遠からず、エルンストの人生を激変させる。

 とある日の朝、困惑した様子の父にエルンストは声をかけられた。


「なあ、エルンスト、ちょっと小耳に挟んだんだが――」


 

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