第37話

 今日の夕方のホームルームが終わって、帰宅時間になった。

 毎日、夕方のホームルームの最後に、十字を切ってお祈りするんだけど、スクールバスの時間に間に合わなそうな時でも、お祈りは免除されない。だから、みんな超早口で唱える。

 本当に、それでいいの?

 気持ちが大事って森谷先生は言ってたけど、そもそも、神様って日本語通じるの?

 早口の日本語で唱えた祈りって、届くの? よく分からない事が多いなー。

 教室を出て、保健室に向かう。

 もはや、森谷先生と会うのが日課となっている。

「森谷先生、おはよー」

「芸能人か?もうタ方やん」

「ハンカチ持ってきた」

「わざわざ洗ってアイロンしてくれたん? 気を使わせたみたいやな」

「あと、母さんからコレ」

「お菓子?」

「ちゃんと食べろって言ってた」

「どういう意味で?」

「びっくりしたよ、スーツ着てくるから」

「謝罪するのに私服はないやろ?」

「結婚の申込みかと思った」

「俺も不同意わいせつで懲戒解雇になるで?」

「合意の上だもん」

「未成年相手なら合意があってもあかんのや」

「なんでそんなに法律に詳しいの?」

「医療関係者は何かと大変なんよ。特に小児科はな」

「ふーん」

「なんで、この前、白衣脱いだの?」

 森谷先生は視線を彷徨わせた。

「アイツは教職員にセクハラしてたって言ってたよね?」

「……なんもない」

「あんなに怒っている森谷先生初めてみた。もしかして、嫌なことされたりした?」

 苦虫を噛み潰した様な顔をする森谷先生。

「服の上から触られても、服に相手のDNAが残ること、あるらしいね」

「……は?なんで知ってるん?」

「やっぱり、アイツに触られたの? 念のため、証拠として取っておいたんじゃないの?」

 怯えて見える、その顔を見つめて続けた。

「担任の先生が言ってた。電車やバスで痴漢にあったら、嫌でも服は取っておけって。痴漢の証拠になる可能性があるからって」

「……そうなんや」

 イスにもたれて座っている、その手を掴んで引っ張り立たせる。

「なに⁉」

「ちょっと、こっちきて!」

「……なん?」

「いいから!」

 ベッドに腰かけ、手を引き、抱き寄せる。

 俺より少し身長が高い、その体は、腕の中に、すっぽり収まるくらい華奢で、微かに震えていた。

「なんで、一人で危ない事したの?」

「いや、そんな事になるとは思わんやん」

「岩村は森谷先生の事、やらしい目で見てたよ」

「男同士やし、それにペン持ってたし」

「それでも! 危険な事には変わりないじゃん」

「いや、なんでそんな怒っとるんよ?」

「好きだからだよ! 分かれよ!」

 大きな目を見開いて、こちらを見つめてくる。

 本当に、無自覚って厄介だと思った。

「……自分以外の男に触られたって、そんなの冷静でいられる訳ないじゃん」

「……すまん」

「本当に分かっているの?」

「……おん」

「絶対、分かってないじゃん。だから岸先生も心配でペンを肌身離さず持たせていたんだよ」

「……ちょっと待って。なんで、岸先生の名前、知っとるん?」

「卒業アルバムに載ってた」

「……あー、なるほど」

「森谷先生さ、岸先生にこんなに想われてるのに気づいてないの?」

「どういう事?」

「保健室の先生は、学校に一人の配置なんでしょ? 保健室の先生は、生徒の味方なんでしょ? だったら、他の先生たちは、保健室の先生にとって敵ってことじゃん?」

「いや、みんな敵って訳じゃない」

「でも、アイツも言ってたじゃん。保健医の癖に、って。大体はそんな感じなんじゃないの?」

 学校に保健室の先生の理解者は少ない。

 でも、保健室の先生同士ならその気持ちを理解できる。

「だから、岸先生は町田先生と森谷先生にペンを持たせたんでしょ? 生徒と、なにより自分自身を守るために」

「……ウソやん」

「岸先生は優しい人だって言っていたじゃん。それを自分で否定するの?信じられないの?」

「でも、俺の想いには気づいてくれんかったし」

「親子だって、双子だって、自分以外はみんな他者なんだよ? 伝えなきゃ、伝わる訳ないじゃん」

「伝えたら、側にいられなくなるやん」

「恋人じゃなくても側にいる事はできる。だから森谷先生は保健室の先生になったんでしょ?」

「……あ」

「考えてみてよ。教師に理解されない仕事に、慕ってくれる生徒が、進路を変えてまで就きたいって言ってくれているんだよ? それが、どんなに嬉しい事か、一番理解できるのは、森谷先生自身じゃないの?」

 今にも泣き出しそうな表情に変わる。

「高校生だった時を思いだしてよ。人生を掛けて、その背中を追いかけたんでしょ? 恋愛っていう意味では、答えられなかったかもしれないけど、ちゃんと岸先生は森谷先生の想いに本気で答えてくれた。だから、自分の代わりにペンを託した。自分の、学校や生徒への想いを託せるのは、森谷先生しかいないって。岸先生の想いは、いつも森谷先生の側にあった。その姿がペンに代わっただけ。それに、白衣は養護教諭の誇りなんでしょ?」

「……気付かんかった、ずっと、側に、いてくれていた、事」

 薄茶色の瞳から、涙がはらはらとこぼれる。

 その顔は、まるで、卒業アルバムで見た高校生の様に、あどけなさを残していた。

 やっと、止まっていた時が――――動き出した。

「ねえ、俺、岸先生に会ってみたいな」

「なんで?」

「だって、岸先生のお陰で、俺は助かったんだよ。それに学校に居続けられる。悔しいけど、森谷先生が岸先生の事、好きになったの分かる気がする」

「……ん?」

「だって、学校を離れても、学校や生徒を救ってくれたんだよ?カッコよすぎるじゃん」

「……そうやな」

「なんで、そんな顔するの?」

「そんな顔?ってどんな?」

「恋する乙女みたいな顔」

「いや、乙女ちゃうやん」

 ずっと側にいて想っているなんて、それだけでもヤキモチ妬いちゃうのに。

 悔しいから、薄桜色の唇にキスしてやった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る