4

 結局私は涙が枯れるまで泣き続けた。

 何が悲しかったのか、その原因はよく分からない。

 心から漏れ出た深い悲しみが頭の中に押し寄せて、体内で支えきれなくなったそれが溢れた。そんな涙。


 落ち着いた頃にはすっかり日も傾いて、木々の向こう側からオレンジ色の光が伸びていた。

 隣で黙って見守ってくれていた緋翠くんから「今日は一旦中断しよう」と提案された。

 彼は笑うことも呆れることもなく、ずっと私の傍で待っていてくれた。

 普段なら気を遣わせてしまった罪悪感に苛まれるところだけど、今の私には人の心配をしている余裕がない。

 ただ、彼の優しさが素直に嬉しかった。


 泣くという行為が想像以上に体の負担となっていたらしい。気が付けば私の体はへとへとで、私は彼の提案を素直に受け入れることしか出来なかった。

 それに、どうしても記憶の欠片を探すような気分になれなかった。

 その記憶は私にとって、酷く悲しいものな気がしたから。


 緋翠くんの案内で追懐島の住人に軽く挨拶を済ませ、私は島にひとつしかないという宿に泊まらせてもらうことになった。


『やすらぎ荘』と書かれた看板が掲げられた宿は、真嶋ましまと名乗る中年のご夫婦が二人で切り盛りしていた。

 そこまで広い部屋ではないものの隅々まで手入れされていて、田舎町のような温かみある景色と相まって居心地が良かった。

 緋翠くんも特定の住居は持たず、このやすらぎ荘の離れに居候する形で住んでいるらしい。


 真嶋夫妻と緋翠くんを交えた四人で夕食を摂り、私はお風呂を借りた。

 夕食の時にも私の心が晴れることはなく、真嶋夫妻からの質問は、全て緋翠くんが受け答えてくれた。

 彼の気配りには感心させられるばかりだ。


 こぢんまりとした露天風呂に肩まで浸し、夜空を見上げる。

 明るい光を放つ星々が燦然と輝き、私は見蕩れるようにほっと息を吐く。

 浴室から光が漏れていてもこれだけ綺麗に見えるんだ。薄暗い場所ならもっと綺麗に見えるだろうか。

 気分転換に後で散歩してみるのも悪くないかもしれない。


 この島に来てたった一日。そのたった一日で、この島は私が居た世界とは大きく異なる場所なのだと実感した。

 水平線が見えない海。細かく移ろう島の景色。見覚えのある小道。季節外れのコスモス畑。

 現実離れした島に、それらはまるで私が失った記憶を辿るように目の前に現れた。偶然にしては出来過ぎている。


 そして、思い出された私の記憶に現れた女の子。

 私は彼女の姿を忘れられずにいた。

 彼女は一体誰なのだろう。どれほど記憶を遡っても彼女に辿り着くことが出来ない。

 記憶に鍵がかかったように、思考回路が縛り付けられてしまったように。


 そのことが酷くもどかしくて、何故だか悲しさが溢れてしまう。

 はっきりしているのは、彼女が私の失われた記憶の鍵を握っているということ。彼女自身が私にとって大切な記憶そのものだということだけ。


 私は再びため息を漏らした。

 考えたってわかることじゃない。その答えを見つける為に記憶の欠片を探しているんだ。

 緋翠くんの話では、記憶の欠片の数は決まっていないらしい。

 早い人なら三つの記憶の欠片を一日で見つけ出して帰った人もいたそうだ。長い人だと一ヶ月近くかかるとか。

 それでも、思い出したいと願い続けることで、必ず帰ることは出来る。そこに例外がないことだけが唯一の救いか。


 今この島に残っている人たちは、トメさんや小さな子どもたちのように失った記憶を思い出したいと願う行為自体が難しい人を除けば、追懐島での安住を望んだ人たちだけらしい。

 案内人である緋翠くんもその一人だ。


 彼らがどうしてこの島での生活を受け入れたのか、今なら少しわかる気がする。

 失った記憶は思い出すまでその正体がわからない。

 それは、思い出すだけで辛い記憶なのかもしれない。忘れている方が幸せなほど悲しい記憶なのかもしれない。


 現に私もその欠片に少し触れただけで悲しみに苛まれている。

 思い出したくない。思い出してはいけない。体がそう警告しているように、涙となって、頭痛となって、胸を締め付けられるような気持ちとなって現れている。


 私は本当に彼女のことを思い出したいのだろうか。思い出しても辛いだけじゃないのか。空虚な人生を黒く染めあげるだけの虚しい記憶ではないのか。

 いっそこのまま、何も思い出すことなく、この島での生活を受け入れてしまう方が幸せなんじゃないか。

 私は目を閉じて、大きな吐息を立ち上る湯気に乗せた。



 チグハグで有耶無耶な気持ちを抱えてお風呂から出ると、緋翠くんが私を待ち構えていた。

 私に気付いた彼は、様子を窺うようにこちらを見上げる。


「心配で様子を見に来たんだけど……まだ悩んでるみたいだね」


 私の心情をズバリ言い当てられて、肩を竦めることしか出来ない。

 緋翠くんには敵わない。今日出会ったばかりなのに、私の全てを見透かされているみたいだ。


「少し、外に出ようか」



 私は緋翠くんに連れられて、真っ暗な道を恐る恐る歩いていた。

 この島の気候はよくわからないけれど、夜の潮風は風呂上がりの骨身にこたえる。

 上着だけでも持って来ればよかったと後ろ髪を引かれる思いで緋翠くんの後を追う。

 ふと彼が立ち止まり、私もその少し後ろで足を止めた。


 周囲には田んぼしかなく、住宅から漏れる光が遠く点々と光っている。

 街灯すらないこの道は、一人だと到底来れなかったと思う。私が住んでいた街とは大違いだ。

 びゅうっと風が吹いて、私は思わず身震いした。


「ここ、お昼にも来た道だよ」


 振り返った緋翠くんが言う。

 よく見ると前方にベンチがあった。今日、緋翠くんからこの町について教えてもらった場所だ。

 昼間の状況を再現するように私たちはベンチに腰を据えた。

 真っ暗な闇の向こうを見透かそうとするように緋翠くんはじっと目を細めて「不思議だよね」と呟いた。


「時間が違えば景色も変わる。見方が変われば感じる思いも違う。人の心って単純だけど、難しいよね」


 緋翠くんは楽しそうに笑った。

 確かにそうだ、と首肯する。現に、私は緋翠くんに言われるまでこの場所がどこかわからなかった。

 昼間は私が置かれた状況を理解するのにいっぱいいっぱいだった。だけど、緋翠くんの朗らかな笑顔と長閑な雰囲気にあてられて、なんとなく心地よさも感じていた。


 今はどうだろう。

 同じはずの景色に恐怖すら感じている。

 夜だから不気味に思えてしまったのか。それとも、記憶を取り戻すことへの不安からそう見えているのか。

 その原因はわからないけれど、ここが一度来た場所だと認識しただけで少し安心もしている。人の心って単純だ。


「美澄さんはどうしたい?」


 目的語のない質問に私は首を傾げた。


「記憶の欠片を集めるべきか、悩んでるんだよね?」


 私の心を見透かしたように緋翠くんは質問を重ねる。

 誤魔化したところで彼には通じない。そう悟って肯定する。


「そう……だね。うん、迷ってる」

「美澄さんはどうしたい?」


 もう一度繰り返された質問に私は口を噤んだ。

 どう答えていいのかわからない。私はその『どうしたい』がわからずにいる。


 彼女のことを思い出したい反面、思い出すのが怖い。

 子どものように泣きじゃくってしまうほど悲しい過去。忘れてしまうほど思い出したくない過去。

 本当に思い出していいのだろうか。思い出すべきなのだろうか。

 このまま忘れている方が幸せなんじゃないか。

 言葉に出来ない不安と漠然とした恐怖に苛まれている。


 私の心中を察してか、緋翠くんはふっと口角を上げて空を見上げた。

 私も彼に倣って真っ暗な天を仰ぐ。


 ……真っ暗、ではなかった。

 キラキラと輝く星々が所狭しと暗い空を覆い尽くしていた。雲ひとつない空から明るさの違う星たちが光を放ち、私の視界いっぱいに広がっていた。

「わぁ……」と無邪気な声が漏れる。


「見方が変われば感じる思いも違う。感じる思いが違えば、気持ちも考え方も変わってくるものだよ」


 私は何も言わなかった。ううん、言えなかった。

 そんな私に代わって緋翠くんは続ける。


「美澄さんが思い出した女の子。美澄さんは彼女を思い出すだけで悲しくなってしまう。じゃあ、見方を変えてみるのはどうかな?」

「見方を変える?」

「うん。女の子を思い出すと、美澄さんが閉ざしてきた感情が引き出される。女の子の存在は、美澄さんの心を揺さぶってくれる。そう捉えてみるんだ」

「あの子が、私の心を……」


 前回泣いたのはいつのことだったか。あれほど大泣きしたのはいつだったっけ。胸が締め付けられる思いをしたのは? コスモス畑を見た時のような感動を覚えたのは?


 敷かれたレールを歩くだけの人生。両親にこうだと言われればそれが正しい。私の人生はそれが全てだった。

 幼少期はそれでもよかった。両親の言う通りにすれば、二人は私を褒めてくれたから。私も二人が喜んでくれて嬉しかったから。

 でも、大きくなるにつれて、それは私の足枷になった。

 テストで高得点を取ったって、部活動で好成績を残したって、彼らは「もっと上を目指せ」「あなたならできる」と勝手な理想を押し付けられた。

 私は酷く窮屈で、苦しくて、悲しかった。

 中学生になった頃には、感情というものを忘れていた気がする。

 そんな私が変わったのは、いつだっただろう。

 こうして笑えるようになったのは、いつからだっただろう。

 ふと、彼女の笑顔が頭に浮かんだ。


 彼女のことを思い出そうとすると、私の感情は大きく動かされる。

 嬉しくなって、悲しくなる。感動して、悲観する。ジェットコースターのように上へ下へと激しく動き回る私の感情。

 その起点にあるのは、いつだって彼女の存在だったんじゃないのか。


「その子はきっと、美澄さんに大きな影響を与えた人なんだよ。かけがえのない存在で、唯一無二の人物。そう考えてみるのはどうかな?」


 見方を変えると感じる思いも違う。

 私にとって彼女の存在は、私に悲しみを連れて来る人じゃない。

 私を苛む負の感情と一緒に多くの感動を運んで来る。

 彼女はそういう存在だったんだ。


 苦しくて悲しくて、でも楽しくて嬉しくて、喉から手が出るほど求めている。

 彼女との記憶は、私にとってそれほど大切なものなのかもしれない。

 

「どうかな、少しは変わった?」


 緋翠くんは目線を落としてこちらを見ていた。

 真っ直ぐで濁りのないその目は、どこか彼女の面影があるような気がした。


「そうだね。変わったよ。すごく」


 緋翠くんは私の返事に笑顔を返した。

 私はもう一度空を見上げて、ぎゅっと拳を握る。


「もし、もしもだよ。その子との思い出が、ただ悲しいだけだったら、私は後悔するのかな」


 進まなければ辿り着けない。

 挑戦しなければ成功はない。

 思い出してみなければ結果はわからない。

 その先に待つ未来は誰にもわからない。


「あの子のことを思い出したい。その気持ちは確かにあるんだ。でも思い出すのが怖い。また泣いてしまいそうだから。苦しくなる気がするから」


 暗く深い闇に踏み込むような感覚。

 パンドラの箱を開けるような恐怖。

 鍵はこの手の中にあるのに、この一歩がどうしても遠く感じてしまう。


「その子は、美澄さんにとって思い出したくない過去の人なのかな」

「それは……」


 答えられない。肯定も否定もできない。

 結果を見るまでは思い出すことが正しいのかわからないから。

 忘れてしまった私にも。もちろん、緋翠くんにも。

 だからこうして悩んでいる。


「私は、あの子のことを思い出した時に、思い出さなきゃよかったって思うことが怖い」


 今すぐ掴みたいその背中。脳裏に焼き付いた愛しい笑顔。

 それらが私に絶望を与えると思うと、怖くて仕方ない。


 しばらくの沈黙。いい歳してうじうじと悩んでいる私に呆れているのか。

 緋翠くんの顔を見れずに、私は他よりも特段の輝きを持った星を見つめた。

 やがて山から降りてきたそよ風が頬を撫でた頃、緋翠くんが口を開く。


「辛い思い出しかない人と見た景色があれ程綺麗なものだと、僕は思わないかな。だけど、そうだね……もしもそうなってしまったら」


 突然手を包み込んだ温かい感触に視線を落とす。

 隣で優しい笑顔を振りまいて、彼は言う。


「今度は僕も一緒に泣くよ」

「……ふふっ、なにそれ」


 見た目に似合わない男らしいセリフに思わず笑ってしまった。

 

 そうだ。私は一人じゃない。

 案内人が導いてくれる。行く先が不透明な私にはっきりと道を示してくれる。

 この手を引かれるままに進んでみるのも悪くないのかもしれない。

 

 私の決意は変わらない。

 記憶の断片に現れた女の子。私は彼女のことを忘れたままではいけない気がする。

 私と彼女の関係がどんなものだったとしても、私は彼女のことを思い出したい。思い出さなきゃならない。そんな気がするんだ。


 手伝ってくれる緋翠くんのためにも。私が忘れてしまった彼女のためにも。何より、私自身のためにも。


 私は大きく息を吸い込んで、頬をぱちんと叩いた。

 これは私のすべきことだ。他の誰でもない、私の記憶のことなんだから。


「そろそろ戻ろうか。湯冷めして風邪をひいたら元も子もないからね」

「うん。ちょっと寒いかも」

「あはは、ごめんね。もう少し気を遣うべきだった」


 私がぶんぶんと首を横に振ると、緋翠くんは眉を八の字に落として元来た道を戻り始めた。

 彼の小さな背中を追いながら、ぽつりぽつりと灯りが漏れる住宅地に向けて歩みを進める。


 気遣いなんて必要ないよ、緋翠くん。君のおかげで私の決意は固まった。

 今日はその小さな背中と明るい笑顔にたくさん助けられた。ほんと、歳下とは思えない。


 彼はどうしてこの島に来たのだろう。

 案内人の仕事が楽しいと彼は言っていた。だけど、自分の記憶を思い出したいとは思わないのだろうか。

 私なんかよりもずっと気丈な彼のことだ。悲しい記憶にだって立ち向かえる強い意志があると思う。

 緋翠くんにもきっと、忘れてしまった大切な記憶があるはずなのに。


 彼の背中を見ながらそんなことを考えていると、あっという間にやすらぎ荘まで戻っていた。

 頭に浮かんだ疑問を口にする前に、彼はこちらを振り返る。


「それじゃあ、僕は寝るよ。明日は島の中心まで行ってみるから、今日はゆっくり休んでね」

「あ、うん。おやすみ」


 呼び止める間もなく、緋翠くんは離れの建物へと消えてしまった。


 ま、いいか。人の過去を詮索している場合じゃない。今は彼の優しさに甘えよう。

 私は部屋に戻ると準備されていた布団に身を包んで眠りに就いた。

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追懐島の案内人 宗真匠 @somasho

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