3
「記憶の欠片って、具体的にはどうやって探すの?」
緋翠くんの勢いに乗って意気揚々と歩き出したものの、肝心な部分を聞き忘れていた。
もしかしたら私は元々忘れっぽい性質なのかもしれない。これじゃあ記憶の欠片が何百と存在してもおかしくない。気が遠くなってしまう。
緋翠くんは足を止めずにこちらを一瞥する。
「まずはイメージすることだね」
「イメージ?」
なんとも抽象的な答えが背中越しに返された。
彼の表情は見えないけれど、肩が小さく揺れていて、恐らく笑っているのだろうとわかる。
「ごめんごめん、言葉が悪かったね。記憶の欠片は不思議なことに、思い出したいと強く願うほど現れやすいんだ。だから、まずは美澄さんが忘れたことを思い出したいと心に言い聞かせることが重要なんだよ」
緋翠くんがちらりと首を向けて「やってみて」と目配せする。
思い出したいと心に言い聞かせる。
言葉にするのは簡単だけれど、実際にやれと言われると難しい。
一先ず私は彼に言われるがままに目を閉じて、思い出したいと心の中で何度も呟いてみた。緋翠くんの手を頼りによたよたと歩みを進めながら。
忘れたことを思い出したい。小学生の記憶。中学時代の思い出。高校生や大学生での出来事。或いは家族。友人。職場の同僚。今まで関わってきた全ての人々。
記憶を頼りに人生を辿ってみる。そのどれもが拾い上げるには軽すぎる。中身のない記憶たち。上辺だけの過去。
例えるならそう、真っ白な部屋だ。
色彩なんて存在しない、正立方体に囲まれた何も無い部屋。
だから、思い出すことに抵抗はない。どうせ大した内容じゃないんだから。
そこに変化を与えられるなら、悲しいほど真っ黒でもいい。カラフルに彩られるなら本望だ。
窮屈な白い部屋に変化をもたらす記憶を求める。
いつ、何の記憶が欠落したのかはわからない。
だけど、私は思い出したい。どんな記憶でもいい。良いことでも嫌なことでもいい。忘れたままなんて嫌だ。
思い出したい。思い出したい。私は思い出したい。
強く、そう願った。
「ほら、見えてきた」
緋翠くんの声に引き戻されるように目を見開いた。
山の麓まで来ていた私はその場で足を止めていた。
生い茂る木々の間に小道が続いている。走ると躓いてしまいそうなほど、申し訳程度に舗装された危うい小道。
神様でも降りて来そうな不思議な感覚。ただ、私が不思議に思ったのはそれだけが理由じゃない。
見覚えがあったんだ、その小道に。
初めて訪れた島の初めて足を運んだ場所。それなのに、私は目の前に広がる風景に見覚えがある。
デジャブという感覚を強く覚えた。
以前訪れた気がする。でもいつのことだったか思い出せない。
「なんで……」
そんな不思議な感覚を言葉に出来ず、はっきりとしない疑問となって口から漏れる。
こちらに向き直った緋翠くんは「やっぱり」と目尻を下げた。
「祈りが通じたみたいだね」
「祈り……つまりこれが、記憶の欠片?」
緋翠くんは穏やかな表情を私に向けたまま静かに肯定した。
ずきりと刻まれる鋭い痛みが脳内を襲う。この景色を見ていると何かが頭に引っかかる。けれど、痛みによってそれが拒まれているような気がする。
「綺麗な場所だね」
一瞬の頭痛が和らぎ落ち着きを取り戻すと、緋翠くんはぼーっと小道を眺めていた。
「こんなにも素敵な場所があるんだ。美澄さんの記憶もきっと素敵なものなんだろうね」
ちらりと無邪気な笑顔を向ける。私も彼と同じことを思っていた。
私の人生とは似つかわしくない幻想的な記憶の欠片。それはきっと、私の人生に彩りを与えてくれる可能性を秘めたものだ。
私が自分の人生に虚無感を抱いていたのも、この彩りを失っていたからだと錯覚してしまいそうな程に。
記憶を取り戻すか迷っていた数十分前が懐かしく思える。今の私はもう、この緑黄色が煌めく先を知りたくて仕方がない。
真っ白な部屋の片隅に淡い光が射し込んだ。
「この道を進めば、もっと思い出せるのかな」
「うん、きっとね」
私は緋翠くんと目を合わせ、こくりと頷く。
今度は私が前に出て、小道へ一歩踏み入った。
麓から見ていてもわかっていたことだけど、この道はどうにも不安定だ。
泥や砂が踏み固まって出来た獣道なのかもしれない。人が二人並んで歩くのがやっとという道幅。道の脇には隣に立ち並ぶ木々の太い根っこが顔を出している。
道から逸れると迷い込んでしまいそうな恐怖と心を踊らせる小さな好奇心が胸の中を埋め尽くす。
「美澄さんは、ここに来るまでは何をしていたの?」
私の斜め後ろを歩いていた緋翠くんが、突然そう尋ねてきた。
空っぽな私のつまらない人生が走馬灯のように脳裏を駆け巡る。
あまり人に話したい内容でもない。私は適当に誤魔化すことにした。
「まあ、普通に働いてたよ」
「へえ、どんな仕事?」
妙なことに興味を持つ子だなぁ。初めて会った人の人生なんて、聞いても面白くないだろうに。
もっとも、実際には興味もなくて、ただの世間話の一環と思っているかもしれないけど。
「普通の会社員だよ」
「事務仕事とか?」
「うん、そんな感じ」
「その仕事は好きだった?」
「そこそこかな。割とホワイトな会社だったし、それなりに仕事も充実してた。社内の人間関係は少し微妙だったけど、仕事仲間だと思えばまあ。この島に来る直前も少しいざこざがあって──」
そこまで言って、私は咄嗟に口元を覆った。
歳下の子になんてことを言っているんだ。これじゃあただの愚痴じゃないか。
社会を知らなさそうな少年に社会の負の面をひけらかしてどうするんだ。
危ない危ない。この子の無垢な目に映る未来を穢してしまうところだった。半分手遅れな気もするけど。
「嫌なことがあったなら聞くよ」
そんな私の心配に反して、緋翠くんは優しくそう言った。
思わず立ち止まって彼の方を振り返る。声と同様に優しい顔が燦々と私を照らしている。なんと良い子なんだろう。
……いけない。危うく彼の優しさに当てられて、下っ端OLの不幸自慢大会が開催されるところだった。
彼は天然のタラシだ。無闇に踏み込めば私が怪我をしてしまう。
今までの人生がどれほど空っぽだろうと、初めて会った少年に泣きつくなんて恥辱で上塗りするつもりは無い。
私は話を逸らすため、必死に平静を取り繕って言葉を選んだ。
「大丈夫、これでも元気に生きてるから! それより、緋翠くんはどうしてこの島に残ってるの?」
「そうだなぁ……案内人の仕事が楽しいから、かな」
「楽しい?」
「うん。たくさんの人とお話をして、その人その人が歩んだ人生を知って、失った記憶の尊さを分かち合う。まるでドキュメンタリー映画の主人公に寄り添えるような気がしてくるんだ」
なるほど、と相槌を打つ。
緋翠くんはきっと、人が好きなんだ。人間という生物そのものが、その個人個人が持つ感性が、背景が、感情が好きなのだろう。
だからこそ、彼はこうして案内人としての役目を果たしている。それが彼の天職と言わんばかりに。
私とは違う。
自分の使命から逃げ、人から逃げ、自由を諦めて、関わりを避けてきた私とは大違いだ。
少しだけ、羨ましい。
「だから、美澄さんの話ももっと聞きたいな」
緋翠くんは私を追い越して、器用に後ろ歩きしながらにこりと顔を綻ばす。
しまった。感心している場合じゃなかった。
話を逸らそうと緋翠くんについて聞いたのに、話が本筋に戻ってしまった。墓穴を掘るとはまさにこの事か。
狼狽える私に緋翠くんのキラキラとした瞳が突き刺さる。ああ、可愛い。話したくないのに、子犬がご飯を強請るような目で見つめられては心が揺らいでしまう。
まあ、話したところで減るものじゃないし、私はずっとこの島で過ごすわけでもない。
緋翠くん一人に話したところで何が変わるわけじゃない。
私は言い訳をするように自分に言い聞かせ、口を開いた。
「あ……」
私の意思を無視して、口からは間抜けな声が漏れた。
木々の切れ間に明るい空が見えた。照りつける太陽の下に広がる景色に吸い込まれるように、私は再び緋翠くんを追い抜いて足を早めていた。
視界を遮る光に目を細め、やがてゆっくりとその瞼を持ち上げる。
私の目に映ったのは小さな広場だった。そこだけ綺麗に刈り取られたように開けている。空いたスペースを埋めるように一面に広がる桃色の花畑が広がっていた。
「コスモス……だね。まだ春先なのに」
私に追いついた緋翠くんが蕩けるような声で呟く。
緋翠くんがそんな声を出したのも頷ける。
コスモス畑はこれまでにも何度か見たことがある。
だけど、まさか春先に見られるなんて思わなかった。
それに、ここは記憶にある景色たちとは似ても似つかない。
上手く言葉に出来ない。
幻想的とか、神秘的とか、そういう在り来りな言葉が浮かんでは消えていく。
まるで別世界に来てしまったような錯覚に陥ってしまう。思わず呼吸を忘れてしまいそうなほど美しかった。
ここが死後の世界だと言われても、私はそれを信じるだろう。
どれほどの時間そうしていたのかわからない。
頭の側面に響くずきりとした痛みで我に返る。
さっきと同じ感覚だ。そうだ。私はここに来たことがある。見覚えがあるんだ、この場所に。
だからこそ目を奪われ、時間を忘れてしまうほど魅入っていたんだ。
ふと視界に顔が映り込む。
緋翠くんが体を斜めに傾けて、不思議そうに顔を覗き込んでいる。
「美澄さん?」
「あ、ごめん。ちょっと色々と思い出して」
「つまりここも?」
「うん。そうみたい」
脳裏に浮かんだのは、このコスモス畑を眺めて感嘆を漏らす幼い私。
服装から察するに中学時代の私だ。今よりも低い場所からこの景色を一望していた。そして今の私と同様に、胸をいっぱいに膨らませていた。
──ここ、素敵でしょ?
そんな声が聞こえてくる。私は口をぱくぱくと動かし、何度も首を縦に振っていた。
彼女の笑う姿。私も一緒になって笑う。
そんな記憶だ。
あれは……誰の声?
私以外に誰かが居た。私は誰かに連れられてこの場所に来ていた。
あなたは誰? 思い出せない。隣に居るのはわかってる。嬉しそうに笑っている。その声から女の子だってことはわかる。
だというのに、止まってしまったビデオテープのようにその先の映像が見えなかった。
「きっとその子は、美澄さんにとって誰よりも大切な人だったんだね」
私の話を聞いた緋翠くんは、そう言って少し目を細めた。
「そう……なのかな」
「美澄さんの顔を見ていたらわかるよ」
「えっ。え?」
緋翠くんの言葉に合わせるように、私の頬をつうっと雫が伝う。
私は咄嗟に目元を拭い、緋翠くんに背中を向けた。
どうして私は泣いているんだ。訳がわからない。私は悲しいのだろうか。
私の背中に温かい手が触れる。
その手は私を宥めるようにゆっくりと上下に動く。
ああ、恥ずかしい。突然泣き出して歳下の子に慰められるなんて。
早く止まってと願う私の気持ちに反して、涙は溢れて溢れて止めどなく流れ続けた。
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