一章 露草美澄

1

 私の人生を一言で表すなら『窮屈』が一番相応しいと思う。

 両親は厳しい人だった。医者の父と教師の母。一人っ子である私は、その肩書きだけで両親の期待を一身に背負わされた。

 そのおかげか、勉強は良くも悪くも上位の成績。運動だって苦手じゃない。見た目だって悪くないと思う。交友関係は広くはないけど、不満を述べる程でなかった。

 小学校、中学校、高校、さらにその先へと挫折なく歩んだ人生。

 私はそれが、酷く退屈だった。

 将来の夢も特出した取り柄も無い私がそういう人生を歩むのは、当然のことだったと思う。

 夢があったところで、私に選択権はなかったのかもしれないけど。

 昔は変わろうと思ったこともある。子供ながらにこのままではいけないと思っていた。

 でも、大人になると悟るんだ。足掻いてももがいても努力しても、私はきっと変われないと。

 それでもいいと受け入れるんだ。特に語ることもなく、それなりに幸せになって終わっていく人生を。

 私は私であって、それ以上の何者でもない。

 大人になって背伸びしたところで、何が変わるわけでもない。

 それが、この二十四年で叩きつけられた、私の結論だった。


 そう、あの島に辿り着くまでは──



※※



 眼前に広がる海。日は昇っているはずなのに、立ち込める霧が不気味さを掻き立てる暗い海。

 そのまま立ち尽くしていると吸い込まれてしまいそうな錯覚に陥り、私は逃げるように背を向けた。

 背後に広がっていたのは、どこまでも続く堤防だった。私の行く手を阻むように聳え立っている。

 逃げ道なんてどこにも無い。そう言いたげに堤防はどこまでも続いている。


「一体何なのよ……」


 誰に言うでもなく吐き捨てる。わからないんだ、何も。

 気が付いたらここに居た。呆然と海を眺めていた。


 さっきまで私は、六畳一間の自室で缶チューハイを片手にテレビを見ていたはずだ。

 今日は金曜日。一週間の仕事疲れを発散する唯一の時間を謳歌していたのだ。


 だと言うのに、一瞬意識が朦朧としたかと思うとここに居た。訳がわからない。

 私はお酒に強い方ではないけど、もしかして缶チューハイひとつで酔いつぶれてしまったのか。気持ち良くなって、そのまま眠ってしまったとか。


 試しに軽くほっぺたを抓ってみる。痛い。古典的な手法だけど、きっとこれは夢ではないのだろう。本当にこんな方法で夢か現実かの判断が出来るかは些か疑問だけれど。


 そもそもそんな方法を使わなくても、ここに立っているだけでこれが夢ではないと理解させられる。

 目の前に広がる景色は、夢と呼ぶにはあまりにリアルだった。

 海から流れる潮の匂い。素肌に当たる心地よい風。ひたひたと体に張り付くような湿気。砂浜をざくりと踏む感触。

 そのどれもが私に目の前の現実を突きつけるのだ。


「堤防の向こうに行けば誰か居るのかな」


 処理が追いつかない頭の中を埋め尽くそうとする恐怖や不安。それらに必死に抵抗するために独り言を吐く。

 傍から見れば可笑しな人だけど、ひとりぼっちで彷徨い続けるよりは、変人として見られる方が幾分かマシに思えた。


 堤防に沿って五分ほど歩くと、少し先に階段を見つけた。よかった、どうにか砂浜からは抜け出せそうだ。

 足を早めて階段へと向かう。急ぐ必要は無いけれど、少しでも体を動かしている方が気が紛れたし、何よりこの砂浜から早く離れたかった。


 ところが、その足は階段の目の前でピタリと止まった。死角になっていた部分に屈み込む人影が見えたからだ。

 彼は私の存在に気付くと、パッと顔を上げて無邪気に微笑んだ。


「やあ、いらっしゃい」


 可愛らしい声と表情に思わずどきりとしてしまう。

 高校の制服のような格好とキリッとした顔立ちから男の子だろうと思ったけれど、予想に反してその声は高く、笑顔には可愛らしさが窺える。

 もしかしてボーイッシュな女の子だったのだろうか。だとすれば、私は失礼な勘違いをしてしまったことになる。


 私が目の前の少年か少女かよくわからない人物にどぎまぎしていると、彼女……いや彼は不思議そうに顔を覗き込んだ。


「お姉さん、大丈夫?」

「えっと、うん。大丈夫」


 年下の子にこうも惑わされるとは恥ずかしい。

 一度落ち着こう。こういう時には深呼吸だ。大きく息を吸うと潮の風味が鼻腔いっぱいに広がって、少し噎せた。逆効果だったかもしれない。


「お姉さん、お名前は?」


 その子は私の奇行に臆することなく、可愛らしく首を傾げた。

 急に深呼吸を始めて噎せる女性を見て、一体何を思っただろう。とてもじゃないけれど印象が良いとは言えない。

 私の心配に反し、彼……いや彼女はあっけらかんと笑っている。


「えっと、私は露草美澄つゆくさみすみ

「美澄さん、ね。僕は緋翠。この島の案内人だよ」


 手馴れた様子でそう名乗った。

 僕、ということはやはり男の子だろうか。一人称だけだから一概には言えないけれど、そう定義付けしておく方が私も余計なことを考えなくて済む。


 ところで、彼の言葉で気になることがあり、私はそれをオウムのように繰り返した。


「案内人?」

「そう。案内人」


 私の疑問に軽く頷きを返すと、緋翠くんは石段からゆっくりと立ち上がって、臀部をパンパンと払った。


 彼の体は思っていたより小柄だった。一段高い位置に立っていても私とさほど目線が変わらない。私が女性にしては高いのもあるけれど、彼は歳の割にも小柄だと思う。

 体つきも細く、服装も相まって高校生か、下手すると中学生くらいにも見える。


 緋翠くんをまじまじと観察していると、彼は「ついてきて」と私に背を向けた。

 案内人、と言うからには、私をどこかへ案内するのだろうか。

 ついて行けばわかるだろうと判断し、彼の言葉に従って石段を登る。

 何の説明もなしに自分の用件だけを伝える彼にやや不服なところはあるけど、見知らぬ土地で一人彷徨い続けるよりはマシだと思うことにした。

 やがて、少しずつ堤防の向こう側の景色が見えてきた。


 舗装された道を挟んで幾つもの平屋が立ち並ぶ。長閑な港町のイメージをそのまま現実に起こしたような、とても絵になる街並みだ。


 周囲には彼以外の人影もちらほら。年齢は皆バラバラで、お年寄りから子供まで様々だった。

 気になることと言えば、私くらいの年齢から中年層の人が少ないことくらいか。

 近所の人とも特に関わりの無かった私にとって、ただそれだけのことも珍しく思えるだけかもしれない。田舎の温かい雰囲気と言うか、都会暮らしの私にとっては少し現実離れした情景だ。


「おお、新しい住人か?」


 突如近くから聞こえた声にギョッとする。いつの間にか隣に立っていた女性のご老人が、緋翠くんよりも低い位置から私を見上げていた。


 新しい住人、とは? そもそもここはどこなのだろう? 私は何故こんな場所にいるのだろう?

 たくさんの疑問が浮かんできたが、それらを口にする前に緋翠くんが間に割って入った。


「トメさん、彼女はまだ住人になると決まったわけじゃないよ。新しい漂着者さ」

「そうかいそうかい。ひーくんも大変やねえ。ジュース飲んでくか?」

「まだ仕事中だから後でね。彼女もお世話になるかもしれないから、その時は挨拶に来るよ、トメさん」


 ご老人の長くなりそうな話をさらりと躱し、緋翠くんは再び歩を進めた。私も置いて行かれないようにそそくさと彼の後を追う。

 受け答えといい、落ち着いた口調といい、やたら熟れている気がする。

 仕事とも言っていたし、幼い見た目の割に案内人としてのキャリアは長いのかもしれない。


 住宅街から少し離れると、今度は田園風景が視界を埋め尽くした。

 不気味な海の雰囲気は何処へやら、遠くには山が連なり、それらを覆うように木々が青々と茂っている。

 これまた昔ながらの日本のようで、自然が織り成す絶景に胸が膨らむ。


「ふぎゃ」


 景色を堪能しすぎたせいで前を見ていなかった。いつの間にか足を止めていた緋翠くんにぶつかって、間抜けな声が漏れてしまった。


 緋翠くんはクスクスと笑い、傍にあったベンチに腰を下ろした。私も彼に倣って、一人分の距離を置いて座る。

 田舎のバス停にあるような簡素な小屋が陽射しを上手く遮ってくれている。心地よい風も相まって、居眠りしてしまいそうだ。

 緊張が解けたおかげか、先程までの不安は薄まっていた。


「さて、何から話そうか」


 どうやら緋翠くんは、今私が置かれた状況についてここで説明してくれるらしい。

 幻想的な景色に感動していたけど、よくよく冷静になるとそんなノスタルジーに浸っている余裕はない。私は別に田舎町に旅をしに来たわけじゃないんだ。


「まず、ここはどこなの?」


 私の言葉を待っていた緋翠くんに質問を投げかける。

 聞きたいことはたくさんあるけれど、この場所について知らなければ何も始まらない。

 緋翠くんは、ふふっと不敵な笑みを浮かべた。


「ここは追懐島。全ての記憶が集まる島だよ」

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