エピローグ

「結局、ずっと敬語だったよね、最上さんって」

 大量の花束と色紙を携えながら、モカは廊下を歩いていた。隣には小野先生がいる。

「同じ教育実習生として仲良くしたかったのに。わたしのコミュ力不足ですかあ?」

 わざとらしく、モカが舌打ちした。

「朝の会には遅刻、児童の名前は覚えない。挙句の果てに、私の持ちクラスの児童に濡れ衣を着せようとした。良かったですね、あなたの担当教員が飯岡先生ではなくて」

「最上さんって、生徒から嫌われそうだよね。ろくな教師にならなそう」

「別に。教師の道ではなく、アカデミアに進むので。将来は教育学者になろうかと」

 反対方向から、飯岡先生が歩いてきた。モカが軽く会釈する。

「最上」飯岡先生は、会釈を返さない。「すまなかったな、色々、慌ただしくて」

「はあ」モカが間抜けな声を出す。「そうですね」

「それにしても、驚いたよ。潤がはっきりと意見を言ったのは、あの日が初めてだった」

 事件発生から二日後――モカが真犯人を突き止めた日のことだ。周囲から「マリン泥棒」と冷やかされる中、彼ははっきりと「僕じゃない」と否定したのだ。

 朝の会が始まると、モカから聞いた推理を、さも自分が捻り出したかのように披露した。以前とは打って変わって、堂々としたその振る舞いは、多くの児童を驚かせた。

「あの日、僕は教室にいた。偽物のラブレターで呼び出されたんだ。まあ、うん。ハニートラップに引っかかった。それを隠したくて、モカに嘘ついちゃったし」

 彼の活躍を、モカは隣で見守っていた。

 考えを口に出すこと。一度火が点いてしまえば、途端に激しく燃え上がる。自分は、潤が燃え上がるきっかけを与えたに過ぎない。モカはそう思っていた。

「マリンを盗んだ犯人は、竜太郎だ」

 名指しされた竜太郎は、一切の弁明をせず、代わりに恨みつらみをぶちまけた。

「潤、お前が憎かったんだ……」

 拳を震わせる彼を、潤は、じっと見つめていた。

「金魚のフンみたいについてくると思えば、自分の意見は何にも言わない。良い子ぶってるけど、どうせ、周りのこと見下してるんだろ。ずっと腹立たしかったんだよ」

「待てよ」潤が声を荒げる。「見下してなんかない」

「黙れ!」

 竜太郎が、机を強く叩いた。激しい音が鳴る。

「愛花が、どういう気持ちだったか分かってんのか。お前が出目金を取ってからも、ずっとずっと、小遣い全部溶かす勢いで、やっと一匹すくったんだぞ」

「別に、見下してないじゃないか」

「見下してないなら、なんでお前、教室で『大したことじゃない』って言ったんだよ」

 ――百円で出目金をすくった潤は、夏祭りの翌日、ちょっとした有名人になった。

「自分が、一回でゲットしたからか。出目金すくったからか。お前さ、泣きべそかきながら、やっと一匹すくった愛花のこと、本当は見下してたんだろ」

「違う。誤解だ。僕は、その、遠慮しただけなんだ」

 舌打ちの音が響く。

「愛花の金魚は、すぐに死んだよ」

 竜太郎が、訥々と語る。

「すくっては落ちて。すくっては落ちて。それを何度も繰り返したんだから、強いストレスがかかったんだと思う。だけどさ、何百円も使った金魚が、ほんの数日で死んじゃうって。愛花、愛花が、可哀想だろ……」

 手を震わせながら、竜太郎が、潤を睨みつける。

「そのとき、お前が『大したことじゃない』って言ってたのを思い出した。今までの鬱憤も溜まっててさ。お前を懲らしめるなら、今しかない。そう思った」

 これが、事件のあらましだ。

 その後、潤と竜太郎が仲直りできたか、モカは知らなかった。彼らはお互いに、距離を詰めては離した。それを繰り返すうちに、モカの実習期間が終わってしまったのだ。

「いやあ、驚いたもんだ」飯岡先生が、懐かしそうに微笑む。「潤の知らない一面が見れて、とっても驚いたよ。ぼくも、まだまだ精進しないとな」

 モカは、丸眼鏡の奥から、飯岡先生を睨みつけた。

「飯岡先生」

「おう、どうした」

 小さく息を吸う音。わずかに、モカの唇が震える。

 ――マリンが盗まれた。もう一度言う。盗まれたんだ。

 ――お前は、最上を侮辱した!

 空気が、張り詰める。

「良かったです。あなたから、潤を守ることができて」

 ――あの人、思い込みが激しいからさ。

 ――前も私の担任だったんだけど、もう大変だったよ。

「強い言葉で威圧すれば、子供は、大人の顔色を窺うようになります。自分が正しいと思い込めば、真実は雲隠れします。今回の件だって、私がいなかったら、どうなったか」

 小野先生が顔を逸らす。

 飯岡先生が、目を伏せる。

「私だって、ええ、ほんの少しは潤を疑ってました。ですが、大の大人に威圧される彼を、私まで見捨てるわけにはいきませんでした。だから手を差し伸べたのです」

「楓……」飯岡先生が呟く。

「私は教育実習生です。苗字で呼んでください」

「すまない。楓、楓……」

 苛立ちを隠せずに、モカは眉間にしわを寄せる。

「今から謝るのでしたら、潤に、でしょう」

 そう吐き捨てて、彼女はさっさと立ち去った。小野先生はといえば、立ち尽くしたまま、モカの背中を眺めていた。足音が遠ざかっていく。

 黒いパンプスに、すらっとしたパンツスーツ。丸眼鏡をかけ直して、黒髪ボブを耳にかける。立ち振る舞いは教師そのものだが、当のモカ本人は、教師になる気などさらさらなかった。

 少なくとも、実習期間を終えた今は。

 玄関に到着する。動きづらいパンプスを脱いで、お気に入りの赤いスニーカーを履いた。自分が小学校に立ち入ることは、もう二度とないだろう。

 それでも、不思議なものだ。

 子供を教え導きたいという情熱は、未だ潰えることがない。

「モカ!」

 声が聞こえて、振り返る。

「待ってよ、モカ!」

 上靴のまま駆け寄ってくるのは、他でもない、潤だった。

 思えば、この短期間で、彼は見違えるほど成長した。自分の考えを口に出して、感情を顔に出すようになったのだ。

 竜太郎以外のクラスメイトとも、交流を深めるために、話しかけるようになった。誰もが歓迎した。潤が推理を披露した日から、彼はクラスの名探偵になっていた。

 マリンの事件を解決した人物は、誰もが潤だと信じて疑わない。

「ねえ」潤が息を切らす。「モカ」

 潤と同じ目線で話すために、モカは屈んでみせた。「どうしたのさ」

「モカが先生になったら、僕の、先生になってほしい」

 教室になる気など、さらさらなかった。それを直接伝えられるほど、モカは冷酷な大人でもなかった。

 だから、事実から一部を切り取った。決して嘘をつくわけではない。

「どうだろうなあ。私が先生になる頃には、潤は中学生になっちゃうんじゃないかな」

「中学校でもいいよ」

「ごめんね。中学校教諭の講義、取ってなくてさ」

 都合が悪くなったので、子供に理解できない語彙を使った。彼女の思惑通り、潤は不思議そうな顔をする。ただ、もうモカには会えないのだと、心のどこかで感じ取ったようだ。

 潤は目を伏せて、顔をしわくちゃにした。そして、大粒の涙を流す。

「ああ、泣くな泣くな」慌ててモカが慰める。「心配しないで。もっと色々な出会いが、潤を待ってるからさ」

 人差し指で、潤の目尻を拭いてやる。彼の煌びやかな瞳が露わになった。

「最後だから、目を見て話そうか」

 涙をにじませた目で、潤が視線を合わせてくる。

「潤。君と一緒に歳を取る友達を、ずっとずっと、大事にするんだよ」

「ずっと?」

「そうだよ。でも、もし嫌なことがあったら、ちゃんと相手に伝えること。いいね?」

 ゆっくりと、潤は頷いた。

「これから潤は、中学生になる。高校、大学にも行くかもしれない。もしかしたら、教育実習生になって、この小学校に帰ってくるかもね」

 モカが、そっと立ち上がる。潤を見下ろす形になる。

「いつかは君も、今の私と同じ歳になる」

「うん」

「今度は、君が教える番になる」

 潤が、不思議そうに首をかしげる。

「教えるって、何を?」

「それが、私からの宿題だよ。名探偵」

 耳障りな蝉の合唱が、辺り一面を支配する。夏雲が湧き立つ。どこからか、風鈴が鳴る。茹だるような熱気が、夕焼け色と共に押し寄せた。

 玄関を抜けたモカは、ふいに立ち止まる。しばらくの間、感慨に浸る。

 ただ一度、振り返った。

 潤と竜太郎が、満面の笑みを浮かべて、手を振っていた。

 ――私自身が凄いんじゃない。単なる補正だろうさ。

 いつか発した自分の言葉が、自然に思い返される。

「またね、潤」

 額の汗を目に沁み込ませながら、彼女は大きく手を振り返した。

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最上楓の掌握 阿部狐 @Siro-i

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