後編

 吉川潤は、誰もいない通学路を歩いている。

 時刻にして、七時前。太陽が起きる時間帯だ。

 普段より三十分も早い登校に、母親はたいそう戸惑った。潤は「学校の係決め」と嘘をつき、逃げるように家を飛び出した。

 これが人生最後の嘘であってほしいと願いながら、彼は学校に足を進める。

 思うに、自分は流されやすい性格なのだろう。考えを口に出すのが苦手な分、周りの環境や出来事に依存する。そういった傾向にある気がする。

 そのせいで、過ちを犯してしまった。取り返しのつかない恥を晒した。

 だが今度ばかりは大丈夫だ。

 他でもない、のだから。

 校門をくぐり、校庭に向かう。砂利を踏みしめながら、恐る恐る、日の当たる道を進む。今日は快晴だ。眩いほどの白い光が、潤の足元を照らしつけた。

 校庭の中央に、人影が一つ。モカだった。

 潤の姿を捉えると、こっちに来いと言わんばかりに、両手で手招きした。

「おはよう」彼女に駆け寄りながら、潤が口を開く。「ちゃんと来たよ」

「うん。私も、丁度考えが整理できたところだ」

 二人の位置からは、五年一組がよく見える。カーテンがなびくおかげで、中の様子さえも確認できた。

「さてと」

 一度深呼吸してから、モカは眼鏡をかけ直す。太陽の光がレンズに反射して、自慢の鋭い目つきが見え隠れした。

「これから話すことは、潤、君にとって都合の悪い内容だ。了承してくれるね?」

 潤は、ゆっくりと頷く。

 ほんの一瞬、太陽が雲に覆われる。モカの表情に影が差す。

「一昨日の放課後――十七時三十分以降。君は五年一組にいた。何かを持った状態でね。それを小野先生が目撃している。何度も考えたが、やはり君としか思えないらしい。背丈も、髪型も、顔も。限りなく吉川潤のそれだったと、先生は仰ったよ」

 見間違えの可能性はない。小野先生は、そう主張するつもりだ。

「竜太郎の証言も確認しよう」モカが続ける。「彼はサッカー部だったね。それで片付けの途中、五年一組を見たら人がいた、と。誰かまでは分からなかったようだが、小野先生が目撃した児童と同一人物だと考えるのが自然かな」

 二人による目撃証言。お互いの発言は矛盾していない。

「そして、潤。君はまず、私に『すぐに帰った』と話した。しかし、飯岡先生には『教室にいた』と打ち明けた。実際のところ、どっちなんだ?」

 下を向きながら、潤はぽつりと洩らす。

「教室にいた」

 潤から伸びる影法師に目を向けながら、モカは何度も頷いた。

「無視できないのは、君の部屋で見た金魚の死体だ。竜太郎が言うには、君は出目金だけをすくったそうじゃないか。しかし、水槽には二匹の金魚がいた」

 黙って耳を傾けながら、潤は拳を握りしめる。いっそのこと、自分から真実を話してやろうかとも考えてしまう。

 だが、モカにだけは言えない。言いたくない。

「潤。君は、マリンを――」

 耳を塞ぎたくなる。肩に力を入れて、次の打撃に備える。

 目を閉じる。息を止める。

 神様は、もう信じてやらない。

 永遠か刹那か知れない空白の時間が過ぎる。いい加減、目を開けてしまう。

 鋭い眼光のモカが、潤を睨んでいた。

「マリンを、盗んでない……。そうだね?」

 肩の力を抜かずに、彼は頷いた。

「そう、だから不思議なんだ。君はマリンを盗めるような性格をしてない。私が思うに、君は臆病で小心者なんだ。マリンを盗むのはおろか、放課後の教室にいることすら躊躇するような、そういう性格なんだよ」

 潤が乱暴に頬を掻く。平静を装うことが難しい。

 隠そうとしていた真相に、彼女が辿り着こうとしている。

「君はマリンを盗んでない。それなのに嘘をついた。いずれ破綻するような、その場を取り繕うための嘘をね。疑われたくないなら、むしろ、ありのままの真実を話せばいい。でも嘘をついたんだ。それはつまり、真実の方に問題があるってこと。違うかな」

 潤は動かない。目線を下に落としたままだ。

「あの日、潤は教室にいた。それは揺るぎない事実だね。それでは、なぜ教室にいたのか。そこに、事件の真相がある気がしてならないんだ」

 それこそ、潤が包み隠していた真実に他ならない。仮に判明したとしたら、教室での居場所を失うような、彼にとって重大な事実だ。

「昨日、君の家にお邪魔したね」モカが顎に手を当てる。「勉強机の上に、ハート型の便箋があったじゃないか。あれが引っかかる」

「どうして、引っかかるの?」

 途切れ途切れの声で、潤が問いかける。

「最低限の家具と水槽。殺風景な君の部屋に、なぜハート型の便箋があるのか」

 手を震わせながら、潤はモカから顔を逸らす。

「君が、私と目を合わせない理由も、それで分かったよ」

 手の震えが、止まる。

「あの便箋は、私――最上楓が、吉川潤に宛てたとされるラブレターだった」

 潤は、時が止まったかのような感覚を味わった。

 図星だったのだ。

「もちろん、そんな手紙を出す趣味なんてない。偽物だよ」

「分かってる」潤が声を震わせる。「分かってるって」

「でも、好奇心に負けた。一度でも考えてしまったんだろう。私が君に好意を抱いてるって。だから、その手紙が偽物だったとしても、私と目を合わせられなくなった」

 反抗心を剥き出すように、潤はモカと顔を合わせた。彼女の瞳が煌めく。

 二秒も経たずに、彼は目を逸らしてしまった。

「別にさ、私って、そこまで魅力的じゃないけど」

 潤が首を横に振る。少なくとも、彼にとっては高嶺の花だった。いや、竜太郎や涼も、きっと同じ感想を抱くに違いない。

 だから過ちを犯した。蜂が甘い香りの花に誘われるように、普段は理性的な潤ですら、手紙の内容に従ってしまったのだ。

 ――下校時刻を過ぎたら、教室に来てください。大事な話があります。

 たったそれだけの文章でさえ、潤を狂わせるには充分だった。

「まあ、名前を利用されたのは腹立たしいよね。だけど……」

 ふいに太陽光が強まった。二人の肌が照らされる。

 空を見上げたモカは、とても眩しそうに目を細めた。

「潤にとっては、とても重要なことだった」

 ――聞いたか、潤。裕太が桃子に告ったんだってさ。からかってやろうぜ。

「偽物とはいえ、ラブレターを受け取った。たとえば、うん、竜太郎か。竜太郎がそれを知れば、まず噂は広まるだろう。数週間は冷やかされるに違いない。いや、どれくらい冷やかされるかは、君にとっちゃどうでもいいはずだ。そうだよね」

 驚きのあまり、潤は目を見開いた。その通りだったからだ。

「思えば、潤。私を除けば、君は竜太郎としか喋らないじゃないか。その竜太郎から、ラブレターの件を持ち出されれば、まあ居心地悪いだろうね。引っ込み思案の君のことだ。。そう思ったんだろうさ」

 当の潤はといえば、モカの頭を覗きたいという願望に駆られていた。話すことの要所要所が、いちいち的を射てくるのだ。

 さすが学者志望、と感心するばかりだった。

「と、まあ、これで三割くらいかな」

「三割」潤が繰り返す。「何が、三割なのさ」

「真相だよ。あとの七割は、マリンの行方と――」

 モカが、潤と目を合わせる。

「本物の嘘つきを見破ることだ」

 強い風が吹いて、砂が舞う。視界が遮られる。潤はひどくむせ返した。

「潤」モカが鋭い声を出す。「準備ができたら、続けるよ」

 砂を払い、目を擦る。潤が顔を上げる。

 今度はしっかり、モカの目を見据えた。

 校庭の外から、騒がしい声が聞こえてきた。多くの児童が登校する時間になっていた。

「うん」

 潤が、大きく頷く。

「続けて」

 数名の児童が、怪訝そうに校庭の様子を窺う。モカは、野次馬たちには一切関心を示さずに、目の前にいる潤だけを見つめた。

「マリンの話から始めようか。とはいっても、マリン単体で捜すとなると、かなり苦労するだろうね。実際、私も困っていたんだ」

 潤が鼻を掻く。

「そのときだよ。潤の部屋で、金魚の死体を見つけたのは」

 実のところ、あの金魚は、潤も初めて見たものだった。

 昨日、竜太郎の叫び声を聞いたとき、まさか金魚が死んでいるとは思わなかった。てっきりラブレターを発見されたものかと信じて疑わなかったのだ。

 覚悟を決めて部屋に入ると、なぜか水槽に金魚が浮いていた。訳が分からないまま「違う」とだけ言って、潤は二人を家へ帰したのだった。

 一度は、最初に発見した竜太郎が入れたのだと考えた。

 だが現実的ではない。仮に竜太郎が金魚を入れた場合、生臭い金魚をランドセルに入れたまま、一日を過ごしたことになる。

「普通に考えれば、水槽に浮かんでたあの金魚がマリンだ。しかしこれは、単純なイコールで完成する方程式ではない……」

 眼鏡に付着した砂を払いながら、モカが続ける。

「潤には動機がない。出目金をすくって、更にマリンを連れ去る理由が、一切見当たらないんだ。仮に普通の金魚が欲しかったとしたら、出目金と交換してもらえばいい。それこそ、出目金を羨ましがってた竜太郎にでも頼めばいいからね」

「でも」潤が呟く。「マリンは、盗まれた」

「そう。要するに、盗まれるのは、マリンじゃなきゃいけなかった」

 風が吹いて、彼女の髪が大きくなびく。

「犯人は、マリンに思い入れがある人物。もしくは……うん、そうだな。だ」

「それって、どういう――」

「順を追って説明するよ」

 モカが目を閉じる。砂を落とし終えた眼鏡を、そっと耳にかける。

「まず、マリンに思い入れがある人物だ。動機は簡単。マリンが欲しくなったから、マリンを盗んだ。それ以上でもそれ以下でもない。この線を追うと、怪しくなるのは涼か」

 自分も例外ではないと、潤は思う。マリンに外の世界を見せてやりたいと、何度も考えたからだ。結局、その計画は実行されなかったが。

「ただ、蓋然性は著しく低いだろうな」モカが早口になった。「私が思うに、涼は生き物係という肩書きを誇りにしてる。それなのに、飼育してた金魚が盗まれたら、彼の評判はダダ下がりだ。それなら、自分の頭脳をひけらかすために、事件をでっち上げた可能性はどうだろうか。これも否定できる。なぜか。金魚の死体が説明できないからだ。自作自演なのに、死体が発生するのはおかしいだろうさ。それも教室じゃなくて、潤の水槽に」

 全然ついていけない潤だったが、モカという人間が、周りの人間をよく見ていることは理解できた。人気者の秘訣が垣間見える。

 ともかく、マリンに思い入れのある人物が、必ずしも犯人とは断定できないらしい。

 少し間を置いてから、モカが話を続ける。

「マリンは盗まれた。マリンじゃなきゃいけなかった。これらの情報を踏まえると、直感的には『マリンが好きだから盗んだ』という結論に行きつく。だから、もう少し穿った見方をしてみよう」

「うん」潤が相槌を入れる。

「言ってしまえば、マリンはよくいる種類の金魚だ。だが裏を返せば、代替が効くという事実に繋がる。犯人は、んだ」

 代替品。さっきの犯人像とは真逆だ。潤の背筋が凍る。

「これだと犯人は絞り込めない。ところが、皮肉なことに、今度は金魚の死体が説明できるようになる」

 潤が息を呑む。

「水槽に浮かんでた金魚の死体は、元々犯人が飼ってた金魚。そしてマリンは、代替品として、今も犯人の家にいる」

「その」思わず、声を発してしまう。「その、犯人って……」

「うん。もう、言っちゃおっか」

 風が止み、辺りは静まり返る。校舎で騒ぎ立てる児童たちの声だって、校庭の二人には届かない。

 五年一組の窓から、飯岡先生が顔を覗かせる。不思議そうな顔で、二人を眺めている。

 モカは、髪を耳にかけて、物悲しげに微笑んだ。

 潤に同情するためだった。

「マリンを盗んだのは、竜太郎だ」


 潤の第一声は「どうして」だった。言葉を発するのに、実に数分を要した。

「竜太郎が、そんなこと、するわけない」

「いいかい。まずは、私の話を聞いてほしい。その上で君が考えるんだ」

「考える、って……」

 モカが、潤の肩に手を置いた。

「私を信じるか、竜太郎を信じるか」

 潤が落ち着きを取り戻す前に、彼女は話を切り出す。

「まずは、竜太郎の目撃証言から崩そう」

 崩そう。その言い回しが、潤に現実を突きつける。

 竜太郎は犯人で、それをモカが言い当てようとしている。

「竜太郎が言うには『片付けの途中、五年一組を見たら人がいた』だったね。なるほど、小野先生の目撃証言を裏付けるような情報だ。確かに、一人より二人の方が、証言といえども、有力な情報になる」

 モカの目が鋭くなる。心なしか、瞳が煌めいた。

「でも、竜太郎は肝心なことを見落とした。小野先生の証言を強調させたいと思うあまり、かえってボロを出してしまったんだ」

 潤には分からない。竜太郎は、ただ五年一組で人を見ただけだ。小野先生と違って、その人物の正体も、児童かどうかさえも明らかではない。

 それにもかかわらず、ボロを出した。

「分からない」潤が呟く。「別に、普通だと思う」

「いいや、かなり不自然だ」

 ふいにモカが五年一組を見ると、誰かがカーテンを閉めたのか、中の様子が窺えなくなってしまった。

「犯行時刻は、十七時三十分以降。本来なら、教室には誰一人いないはずだ。それならカーテンを閉めなきゃいけない。そうしないと、飯岡先生に怒られるからね。それなら、カーテン越しから見たとしよう。となると――」

 小さく息を吸って、彼女が続ける。

「やっぱり、破綻してるんだ。カーテン越しから見るなんて無理だよ。放課後の教室は、中にいる人間すら薄暗いと感じる。校庭から見たなら尚更だよ。人物の特徴どころか、なんだ」

 ――蛍光灯の光もなければ、茜色の夕陽さえも頼りにならない。足元すらおぼつかないのだ。

 ――カーテンを閉めて、足元のおぼつかない教室を後にする。

 一昨日の放課後、カーテンは閉まっていた。教室は暗闇の世界。小野先生のように、教室に直接入るならともかく、校庭から様子を窺うのは不可能に近い。

 ゆえに、竜太郎が嘘の証言をしたという説が有力になる。

 それにもかかわらず、潤は「でも」とモカに反論した。

 数少ない友達――竜太郎が自分を騙したという事実を、受け入れたくなかったのだ。

「竜太郎は……」潤が息を荒くする。「犯行時刻には、校庭にいた。だから――」

「だからマリンは盗めない。そう主張するつもりだね?」

 芯のあるモカの声に、潤はたじろいでしまう。

「残念だけど、それも嘘だ。今から説明するよ」

 無力感からか、彼はゆっくりと視線を落とした。

「竜太郎曰く、ゴールキーパーは黄色いゼッケンを着る。だから目立つらしい。これは主語の問題だね。目立つのは、ゴールキーパーじゃなくて、ゼッケンの方だ」

 言われてみれば、そうかもしれない。そこらへんの児童にゼッケンを預けて、教室に向かうことだってできたはずだ。マリンを盗むのだって、十分もあれば可能だろう。

 潤は納得しかける。だが、すんでのところで、首を横に振った。

「竜太郎がゼッケンを預けたのって、結局は想像に過ぎないじゃないか。証拠がない」

「痛い所を突くね」モカが苦笑する。「一理ある。さすがだよ」

 胸を撫で下ろす。竜太郎が犯人ではない根拠が、一つ増えた。小さな一歩だが、一歩には変わりない。絶対に、別の真犯人がいるはずなのだ。

 そう思ったのも束の間。

「うん、はない。ただしがある」

 竜太郎が犯人なのだという現実が、胸を突き刺してくる。今まで観てきたどんなホラー映画よりも、じわじわと、確実に自分を蝕んでいく。

 夏だというのに、冷や汗が止まらない。

「昨日の放課後さ、サッカー部の監督さんが、なんか叫んでたでしょ。それ、覚えてる?」

 ――竜太郎! ボールも片付けてくれ。昨日は助かった!

「いつも片付けてるなら、わざわざ『昨日』なんて言わない。だから、昨日は特別なことをしたんだと考えられる。私が思うに……」

 モカが人差し指を立てた。

「監督はお年を召してた。黄色いゼッケンを着た子を遠目に見て、竜太郎と勘違いしてしまったんだ。その子はきっと、ボールを片付ける担当だったんだろう」

「それも、推測じゃないか」潤が、自信なさげに洩らす。

「関係ないな。最悪、サッカー部の全員に聞き込みすればいい。一人でも『竜太郎にゼッケンを着せられた』と話す子がいたら、もうビンゴだよ」

 竜太郎が犯人。そうとしか思えない。しかし、受け入れたくない。

 天秤が揺れ動く。

 都合の悪い真実か、都合の良い空想か。

「待って」

 ふいに潤の頭に浮かんだのは、金魚の死体だ。

「じゃあ、僕の水槽で死んでた金魚は、どう説明するんだよ」

 そう熱弁しながら、なぜ自分はこうも必死なのかを考えた。竜太郎が犯人でなければ、自分が犯人と疑われるかもしれないのに。

「考えてよ、モカ。竜太郎が金魚を死なせちゃっても、わざわざマリンと入れ替える必要なんかない。それに、僕の水槽に死体を入れる時間だって……」

「いい考えだ」モカが微笑む。「よく考えたね。素晴らしいことだ」

 考えるのはモカの方だと、潤は眉をひそめる。まさか挑発されているのだろうか。それとも、もっと別の意図があるのだろうか。

 潤にとって確実なのは、自分が竜太郎を大事に想っていること。ただそれだけだ。

「確かに、自分の金魚を死なせても、マリンを代替品にしようとは思わないね」

「そうだよ、ね」潤が小さく頷く。「思わないよね」

「ああ、思わない。

 時間が止まる。少しして、彼女の言わんとしていることを理解する。

 竜太郎は、妹――愛花の金魚と、マリンを入れ替えた。そう主張するつもりだ。

「潤、竜太郎、愛花の金魚を、それぞれX、Y、Zとしよう」

「うん」一旦、モカの話に耳を傾ける。「分かった」

「まず、なんらかの拍子に、Zが亡くなってしまった。それが誰の過失かは分からない。ともかく、竜太郎には、Zに代わる金魚を調達する義務が発生した」

 相槌を打つ代わりに、頷いてみる。

「最初、竜太郎はXを盗もうとしたはずだ。マリンを盗むより危険じゃないからね。ところがXは出目金だった。Zの代替品は、Zによく似た金魚じゃなきゃいけない。Xは使えない。夏祭りはとうに終わってるから、金魚が調達できない。そこで目を付けたのが、他でもない、マリンだった」

 考えを整理するために、モカは一旦口を閉ざした。

「うん」すぐに、話が再開される。「潤の家にいるのが、XとZ。竜太郎の家にいるのが、Yとマリンだろう」

「それは分かったけど……」

 影と見つめ合うように、潤が項垂れた。

「どうやって、Zを潤の家に持ち込んだのさ」

 モカが、撫でるように自身の首を触る。

「それは、ええっと……。あまり自信ないなあ」

 言動とは裏腹に、彼女は余裕そうな表情を崩そうとしなかった。

「潤ってさ、竜太郎とずっと同じクラスだったんでしょ」

「そうだよ。それが、どうかしたの?」

 モカが顎に手を当てる。「竜太郎って、一回でも遅刻したことあった?」

「なかったよ。それこそ、昨日の遅刻が――」

 ――彼にとっては、人生で一度目の遅刻だった。

 驚いたように、潤が目を見開く。「ああ」と声を洩らす。

「そう。竜太郎は、。あまりに不自然なんだ」

 遅刻。それに加えて、マリンの事件が被った。それを疑わずして、何を疑おうか。

「それだけじゃない。教室に入った直後、他でもない、潤に恋愛話を吹っかけた。こうは考えられないだろうか。と」

 考えれば考えるほど、竜太郎への疑念が膨らむ。だが、彼を信じたい気持ちも残る。

「昨日、潤が家を出たのを見計らって、竜太郎は潤の家を訪ねた。潤がいなくたって『前に遊びに来たときに、教科書を忘れてしまった』とでも言えば、潤の母親は開けてくれるだろう。君たちはよく遊ぶらしいからね。そして易々と部屋に入った竜太郎は、Zを水槽に放った。この方法なら、君の水槽に、Zを入れることができる」

 潤は、言葉を失った。

「話は以上だ。あとは潤に委ねるよ」

 自分は、何を考えて、どう決断を下せばいいのだろうか。

「君自身は、どう思ってる?」

 視線を落とす。目を閉じる。

 一昨日の放課後を、ゆっくりと思い返す。

 自分自身が眠っている部屋に、そっと、ノックを鳴らすように。


 竜太郎は、水槽に手を突っ込んだ。

 放課後の五年一組は、消え入るような静けさに包まれていた。蛍光灯の光もなければ、茜色の夕陽さえも頼りにならない。足元すらおぼつかないのだ。

 時刻は十七時三五分。児童の完全下校時刻から、実に五分が経過した。壁掛け時計の秒針が、竜太郎を催促する。

 両手を入れる。手のひらを上にして、ゆっくりと引き上げる。確かな重み。指と指の隙間から、水が逃げるように漏れ出る。

 手のひらに取り残されたのは、金魚。名前はマリンだ。

 持参したポリ袋にマリンを入れる。少量の水を加えて、袋をきつく縛れば、もはや教室に留まる意味などない。忍び足で、その場から立ち去ろうとする。

 突然、潤の足音が聞こえた。廊下からだ。徐々に大きくなる。

 竜太郎が、咄嗟に屈む。机と机の間を縫うように、這って移動する。手頃な隙間を見つけて、体をねじ込んだ。

 間もなくして、教室のドアが開く。コツ、コツ。潤が入ってくる。

 少年――潤は、辺りをそうっと見渡した。薄暗い教室は、一番身近な非日常に違いない。見慣れた環境での、不慣れな状況。心臓が早鐘を打つ。

 竜太郎が、祈るように目を閉じる。息を止める。神様がいるんだったら、信じてやってもいい。

 足音――小野先生が近付き、しばらくして、遠ざかった。潤の姿を確認したものの、仕事が立て込んでおり、注意どころではなかった。

 事実、先生は夜八時まで仕事と戦っていたのだから。

 教室に静寂が戻る。潤が大きく息を吐いて、平静を取り繕う。心臓が鳴り止まない。今すぐに逃げ出したい。両手に携えたラブレターは、誰にも見られてはならないのだ。

 ここから早く立ち去りたい。それなのに、足が動かない。体が震えて仕方がない。

 吉川潤は、自身の臆病さを呈するように、呼吸を荒くした。

 ラブレターの差出人と思われる人物――最上楓は、結局、教室に現れなかった。


「僕は――」

 潤が、ゆっくりと立ち上がる。

「僕は、竜太郎に、謝ってほしい」

 震える声で、しかし芯のある声で、潤は言葉を発する。

「多分、僕にも、うん。悪いところはあったんだ。恨まれたんだ。だって、この僕に、罪をなすりつけたんだから……」

 モカは一切口を挟まずに、彼と向き合う。

「全部認めて、謝って、それから……」

「それから」モカが繰り返す。

 風は、とうに止んでいた。

「……友達に、戻りたい」

 時刻は八時を回り、再び児童の騒ぎ声が際立ってくる。生き物係の涼も、何も知らない竜太郎も、活発そうに、校門を駆け抜けていく。

「潤」モカが、優しく声をかける。「私の推理、ちゃんと聞いてた?」

 コクリと、潤が小さく頷く。

「じゃあ、それを朝の会で言うんだよ」

「えっ!」目を見開く。「や、やだよ。なんか怖いし」

「大丈夫。私がいるんだ。それに――」

 決め台詞を言うように、モカは眼鏡をかけ直した。

「カッコいいと思わない? ピンチをチャンスに変える、名探偵ってやつさ」

「僕じゃなくたっていいのに……」

「いいや、君じゃなきゃいけない。奥手な君だから、やるんだよ」

 筋の通った声で、モカが言った。

「これを機にさ、もっと、考えを口に出せるようにしようよ。潤には考える力があるんだ。だから、一緒に頑張ろう。私が助けてあげるから」

 実のところ、潤は、彼女に好意を抱き始めていた。たとえ残酷な返事を受けようとも、自分の秘めたる想いを包み隠すのは、それこそ彼女に対する侮辱に思えて仕方がなかったのだ。

 ――別にさ、私って、そこまで魅力的じゃないけど。

 もっと、自分の考えを口に出すように。

 それなら、褒め言葉の一つも吐き出していいはずだ。

「モカ。やっぱりさ、なんか、モカって、うん。魅力的、だと、思うよ」

「急にどうしたのさ」

 モカが苦笑いを浮かべる。「告白? ラブレターを隠した君にしては、大胆だな」

「告白じゃない。でも、素敵だと思う。頭良いし、優しいし」

「はあ、そうか」

 髪の毛をいじりながら、モカはぶらぶら歩き回る。

「私自身が凄いんじゃない。単なる補正だろうさ」

「補正?」

「そう、補正」

 五年一組の窓が開く。

 沢山の児童たちが、冷やかすように、二人に歓声を送る。

 飯岡先生が、呆れたような表情で「校舎に入りなさい」と注意する。

 大きなため息をつきながら、モカは大きく手を振り返した。

「私、教育実習生だからさ」

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