前編

「マリンが盗まれた」

 朝の会は、飯岡先生の一言から始まった。

 事情を知らない児童たちは、空っぽの水槽を呆然と見つめている。昨日まで当たり前のように泳いでいたマリンは、忽然と姿を消したのだ。

「もう一度言う。盗まれたんだ」先生が続ける。「今日の朝……六時くらいだろうか。先生が教室に入ったときには、もうマリンはいなかった。きっと昨日の夜に盗まれたに違いない」

 緊張からか、潤は手を震わせた。誰にも見られぬように、両手を机の下に隠した。

 彼の異変に気付くこともなく、先生は拳を握る。

「クラスの仲間が盗まれた以上、黙ってはいられない」

「ちょっと待ってください」

 ここで手を挙げたのは、教室の最後列に座る最上楓だった。彼女の鋭い目つきは、丸眼鏡の奥からでも独特の風格を醸し出す。

「なぜ盗まれたと断定できるのですか? マリンが自分で脱出した可能性があります」

「そんなの簡単じゃないか」

 生き物係の斎藤涼は、呆れたように肩をすくめた。

「水槽の水位。おれが水を換えたときより、ちょっと下がってる。犯人は自分で容器を持ってきて、そこに水とマリンを入れたんだ。考えれば分かるだろ」

「涼、言い方を考えなさい」

 先生が注意する。「でも、そうだ。盗まれたと考えるべきだ」

 そのとき、教室のドアがガラガラと開いた。息を切らした男子――黒田竜太郎が現れる。彼にとっては、人生で一度目の遅刻だった。しかし謝罪の一つもない。

 短い髪をかき上げながら、堂々と潤の隣に座った。

「聞いたか、潤」竜太郎が大声を出す。「裕太が桃子に告ったんだってさ。からかってやろうぜ。よっ、リア充!」

「竜太郎」先生の鋭い声。「大事な話の最中だ。静かにしなさい」

 ところが、教室の雰囲気は恋愛話に持っていかれてしまう。教室の端から端へ、内緒話が飛び交う。マリンを気にかける児童は、もはや少数派だ。

 潤はというと、口を閉ざしながら、未だに手の震えと戦っていた。

 チャイムが鳴って、朝の会が終わる。

 先生は目を伏せながら、ゆっくりと教室を後にした。潤の胸に、罪悪感のようなものが込み上げた。胸焼けに似た気持ち悪さだった。

 涼が声を張り上げたのは、そのときだ。

「あのさ、いい加減にしろよ」

 机を叩く音。一気に注目を集める。

「マリンが盗まれたんだぞ。誰が誰に告ったとか、今は別にどうでもいい。とっとと犯人見つけ出して、マリンを取り戻そうよ」

「えっ」竜太郎が目を見開く。「大事な話って、そういうこと?」

 涼は返答せず、代わりに、勢いよく廊下に駆け出した。

 犯人捜しに奔走する涼の背中を、潤は視線で追うことしかできない。

「そういうことだよ、竜太郎」楓がぽつりと洩らす。「これから教室に入るときは、ちゃんと周りを見ること。いいね?」

「なんだよ、モカ。言われなくても気を付けるって」

 楓には「モカ」というあだ名があった。苗字と名前の一文字目を取ったものだ。

 あだ名は、他ならぬ人気者の特権である。

「それでさ、モカは誰が犯人だと思ってるの?」

 竜太郎の一言で、視線が彼女に集中する。潤を除いて。

 自慢のボブヘアーをいじりながら、モカは「ううん」と唸る。空気が張り詰める。誰も恋愛の話を持ち出さない。

 静寂の中、彼女から発せられる言葉を、ただひたすら待ち続ける。

 間もなくして、沈黙が破られた。

「みんな、聞け!」

 帰ってきた涼の声によって。

 不満そうな表情を隠さずに、竜太郎は涼の方を見遣る。「大事な話の最中だったのに」

 彼の悪態には耳を貸さずに、涼が言葉を続けた。

「先生にお願いして、今日の学活を、話し合いの時間に変えてもらった」

 壁に貼り付けられた時間割表に、学活は六時間目と記されている。

「絶対に、犯人を見つけてやるからな。嘘ついたらぶん殴ってやる」

 彼の鬼気迫る表情に、潤は息を呑んだ。


 吉川潤は、考えを口に出すのが苦手だった。

 学級会はもちろん、母親に夕食の希望を尋ねられたときも、変に遠慮してしまう。同級生と同じ意見を出したり、調理が簡単な献立を頼んだりして、聞き分けのいい子供を取り繕った。

 物心ついたときから、父親はいなかった。母親が家計を支えていた。それが当たり前だった。なるべく負担をかけまいと心に留めて、この十年間を生きてきた。

 友達を家に連れてくると、母親はたいそう喜んだ。やつれた笑顔を浮かべて、厚くもてなした。

 家で友達と過ごすときだけ、潤は、お菓子を気兼ねなく頬張った。パンチの効いた塩味に優しく包まれた。

 気の許せる友達と、母親の笑顔。それだけを望んだ。あとは沈黙を貫き、物分かりがいい子供を演じた。その結果、意見を出すことに抵抗を覚えてしまったのだ。

 いつしか彼は、マリンと自分を重ね合わせるようになった。

 マリンが棲むのは、三十センチの小さな箱庭――水槽。人間に造られた窮屈な空間を、彼女は、世界の全てだと思い込んでいる。

 その証拠に、マリンは一度も「ここから出して」と叫ばなかった。

 黙ったまま、悠々とヒレを動かす。学校と家を往復するように、水槽の端と端を移動する。ごく平凡で、ありふれた赤色の体。自身の代替品が、夏祭りの金魚すくいに溢れていることなど、知る由もない。

 彼女は知らない。夏雲の形状も、蝉の合唱も、茜色に染まった夕焼けも。

 そしてそれは、自分――吉川潤も、同様なのではないか。今まで空想だと信じて疑わなかったもの――火を吹く竜、宇宙からの侵略者、羽を生やした妖精――だって、本当は存在するのではないか。

 ――マリンに外の世界を見せてやったら、どうなるんだろう。

 何度もそう考えては、思い留まった。理性でぐっと堪えた。

 マリンを連れ出したいが、盗んだら母親がどう思うか。

 好奇心と自制心に翻弄される。

 不安定な天秤は、わずかな重みで傾く。狭苦しい日常を過ごす中で、本能と理性が動線のように絡み合う。ほどくことすら叶わない。

 揺れ動いた感情のまま、昨日の放課後、潤は教室に足を踏み入れた。


「やあ、潤」

 急に名前を呼ばれて、後ずさりしてしまう。

「ああ、ごめんね」声の主はモカだ。「驚かせちゃったか」

「いや、別にいいけど……」

 昼休みを迎えた教室は、声と雑音で騒がしい。開け放たれた窓からは、校庭で遊び回る児童の声がよく聞こえる。

「それで」モカの靴を見ながら、潤が口を開く。「僕に用事でもあるの?」

「さっき、ずっと水槽見てたでしょ。それが気になってね。何か知ってるかなって思ったんだ」

 無意識のうちに、潤は水槽に目を向けていたらしい。恥ずかしくなった彼は、誤魔化すように鼻を掻く。

「なんか、いざマリンがいないと、寂しいなって。そう思っただけ」

「じゃあさ、昨日のことは、何も知らない?」

「知らない。すぐに帰ったし」

 咄嗟に嘘をついてしまう。顔色を窺われるのが恐ろしくて、顔を上げられない。

 幸運なことに、モカは「そっか」と呟くだけだった。

 潤はそっと胸を撫で下ろす。

 真実は、誰にも知られてはならない。モカはもちろん、数少ない友達の竜太郎にも。いや、その竜太郎にこそ隠し通したいのだ。

 考えてみろ。自分の愚行が、あの竜太郎に露呈したとしたら。まず間違いなく、教室での居場所は消える。肩身が狭い学校生活を送ることになる。

 そもそも、好奇心を止められなかった自分のせいで、こんな窮屈な思いをしているのだ。恨むべきは自分であり、それで不利益を被ったって、他の誰かのせいではない。

 大丈夫。バレやしない。昨日の放課後、教室には誰もいなかったはずだ。

「ところで、時間ある?」モカが尋ねる。

「まあ、あるけど」

 まさか、彼女は何かに勘づいたのだろうか。心臓が激しく打ちつける。

「ここで話すのもなんだから、廊下に出よう」

 嫌な予感がするが、断る口実もない。下を向いたまま、モカの後に続く。彼女から漂うレモンの香りが、潤の鼻をくすぐった。

 昼休みの廊下は、教室ほど賑やかでもないが、沢山の足音が不規則に鳴り響いていた。ふいに思い返したのは、昨日の放課後に聞いた足音だった。

 昨日の放課後、教室には誰もいなかった。いなかった、はずだ。

「さてと」モカが切り出す。「ちょっと、私の考えを聞いてもらいたいんだ」

「モカの、考え」

「そう。犯人は、なぜマリンを盗んだのか」

 思わず、潤が足を止めた。彼女の意図が掴めなかったのだ。

「誰が盗んだのか、じゃなくて?」

「同じことさ。動機さえ分かれば、全てが導き出せる」

 モカが振り向く。

 潤の方へ、ゆっくりと歩み寄ってくる。

「マリンが盗まれるちょっと前……五日前くらいかな。近所の神社で夏祭りがあったよね? 私、行けなかったんだけどさ」

「ああ、うん」潤が頷く。「僕は行った」

「金魚すくいは?」

 少し間を置いてから、彼は首を縦に振った。

「引っかかるんだよ、それが」

 窓から光が差し込んで、モカの顔を照らす。

「金魚が欲しいだけなら、夏祭りで取ればいい。それなのにマリンが盗まれた。わざわざ危険を冒してまで。なぜ、他でもない『マリン』が盗まれたのか」

 モカが潤を睨む。

 廊下を行き交う児童たちが、不思議そうな目つきで、二人を眺める。

「犯人は、マリンに思い入れがある人物、もしくは――」

「あらっ!」

 モカの言葉は、活発な声の女性に遮られてしまった。

「これはこれは」モカが露骨に嫌な顔をする。「教育実習の小野先生。どうもこんにちは」

「なにさあ。朝の会に出れなかったくらいで、冷たいなあ」

 モカは、小野先生に見下ろされている。「はあ、ただの遅刻でしょう」

「まあまあ、人間だから。それに昨日は大変だったのよ。夜の八時まで仕事してたんだから」

 二人の会話を聞きながら、潤は安堵するように、大きく息を吐いた。予想外の人物が乱入したおかげで、モカの推理は中断された。

 しかし状況が好転したわけでもない。

 ――犯人は、マリンに思い入れがある人物、もしくは……。

 モカの言葉が、壊れたレコードのように、何度も繰り返される。

「ところで、小野先生」モカが口を開く。「金魚の件はご存知ですか?」

「うん、飯岡先生から聞いたよ。えっと、金魚の名前、なんだっけ」

「マリンです。それで、お伺いしたいことが一つ」

 ポニーテールを結び直しながら、小野先生が頷く。

「児童の完全下校時刻――十七時三十分以降の時間帯に、校舎で児童を見かけましたか?」

 先生が腕を組む。ううんと唸る。

 潤は不思議でたまらなかった。児童を見たか否か。それだけの質問なのに、なぜ考える必要があるのだろう。

 その一方で、静まったはずの心臓が、また大きく音を立てるのを感じた。小野先生が自分の姿を見ていたら、言い逃れはできない。どんな弁解も役に立たない。

 ぎゅっと目を瞑り、願う。

 ――誰も自分を目撃していませんように。

 拳を握り、息を止める。神様がいるんだったら、信じてやってもいい。

 潤の様子を気にも留めずに、小野先生は、こう告げた。

「見たよ」

 全身から力が抜ける。おもむろに目を開いて、小さく息を吸う。

「五年一組の教室だったかな。何かを持ってたのは覚えてる」

「誰でした?」モカが問う。

「それがねえ、あまりに暗くて、顔が見えなかったの」

 どうやら、まだ命綱は繋がっているらしい。潤はゆっくりと顔を上げる。

 そのとき、小野先生と目が合った。慌てて顔を逸らす。いくら「顔が見えなかった」とはいえ、目線を合わせるのが、妙に恐ろしかったのだ。

 ――足音が近付き、しばらくして、遠ざかった。

 昨日の放課後に聞いた足音は、まず間違いなく小野先生のものだろう。何らかの理由があって、廊下を歩いていたところ、自分――潤の姿を見かけたと思われる。

 幸運だったのは、先生が教育実習生だったことだ。

 実習が始まってから、まだ日は浅い。それに潤は快活で目立つ児童ではない。印象が薄いから、潤のことを思い出せなかったのだろう。

 根暗な性格が功を奏した。それが褒められたものかはともかく。

 モカは丁寧に頭を下げた。そして、潤に「行こうか」と声をかける。用事は済んだと言わんばかりの行動だった。

「あっ、ちょっと待って!」小野先生が声を張り上げる。「モカさん、図書室まで案内してくれるかしら」

「はあ。いい加減、覚えてください」

 不機嫌そうにため息をつきながらも、彼女は要望に応えた。「先に教室へ戻ってほしい」と潤に伝えると、先生を連れて、さっさと歩き出してしまった。

 その場に突っ立ったまま、潤は二人の背中を見送る。

 ――それがねえ、あまりに暗くて、顔が見えなかったの。

 冷たい風が頬を撫でる。一抹の不安を覚える。

 先生は、本当に顔が見えなかったのだろうか。

 確かに、あの現場は、足元がおぼつかないほど薄暗かった。しかし、児童の顔を確認しないまま通り過ぎるなんて、あまりに不自然ではないだろうか。

 いくら教育実習生とはいえ、下校時刻を過ぎても教室にいる児童を発見して、そう易々と見過ごすものだろうか。

 潤は思う。本当は、全て見破られていたのではないか、と。

 鼓動が早まる。体が熱くなる。吐き気を催して、うずくまった。


「自首するなら、今のうちだ!」

 教壇を叩きながら、涼が怒鳴った。

 六時間目の学級活動。本来の予定では、学習発表会の出し物を決める時間だった。しかし、マリンの件は無視できないとして、涼が先生に直談判したのだ。

 結果として、教室の秩序は、生き物係の彼に委ねられた。

「先生には、悪いけど職員室にいてもらってる」

「なんでだよ」竜太郎が声を上げる。「悪いと思うなら、最初からするな」

「大人なんか頼らない。おれが解決するんだ。係として、おれが見つけ出さなきゃ気が済まない」

「探偵気取りかよ。お前だって容疑者候補のくせに」

 空気が張り詰める。一触即発の状況だ。

「一旦落ち着きなよ」

 そのとき、モカが立ち上がった。

「冷静にならないと、話し合いの場を設けた意味がないじゃないか」

 真っ当な指摘を受けて、二人はバツが悪そうに俯いた。

 そして潤もまた、机をじっと見つめていた。

 ――犯人は、マリンに思い入れがある人物、もしくは……。

 周囲を見渡すふりをしながら、モカの顔を一瞥する。凛として輝く彼女の双眸は、遥か遠くの未来を読んでいる気がした。

 このクラスの中では、誰よりも大人びた存在に見える。言動も、行動も、ふとした仕草さえも。些細な嘘だって、きっと見透かしてしまうのだろう。

 今だから思う。もっと彼女を理解できていれば、自分は過ちを犯さなかっただろうに、と。

「ちょっといいかな」

 机に手を置きながら、モカが切り出した。

「これは、小野先生に聞いた話なんだけどさ」

「うん」涼が腕を組む。「続けてくれ」

「昨日の、十七時三五分くらいだっけな。そのくらいの時間に、この教室で児童を見かけたらしいんだ」

 教室のドアから、小野先生が様子を窺っている。潤をしばらく見つめたあと、モカの視線に気付くと、足早に立ち去ってしまった。

「その児童って、誰?」涼が早口で問う。「教えろよ。早く。もったいぶらずに」

 モカが顎に手を当てる。わざとらしく唸り声を出す。

「思い出せるだろ。ほら、言えよ」涼が催促する。

 彼女は、潤を一瞥してから、ぶっきらぼうに吐き捨てた。

「お断りだ。そんな言い方されたら、気分が悪い」

 教室は、時が止まったように静まり返った。誰もがポカンと口を開けたまま、動かない。

 実際のところ、ほとんどの児童はモカの味方だった。いくら金魚が盗まれたとはいえ、涼の態度には、目に余るものがあったのだ。

 誰かがモカに同調すれば、波のように勢いを増して、しまいには教室全体を包み込む。クラスの人気者は、教室の空気をも操れるらしい。

 すっかり勢いを失った涼は、目を伏せながら、訥々と語り出した。

「だって、マリンは、クラスの一員なんだ。命を宿してるんだ。おれが責任もって育ててるんだよ」

「気持ちは分かるけどさ」モカが優しい声を出した。「高圧的な態度で物を頼まれたら、こっちが悲しい気分になる。要は、言い方を考えてほしいってこと。それだけだよ」

 意気消沈した涼の代わりに、モカが前に出る。

「悪いけど、小野先生が見かけた児童の正体は、ここでは明かせない」

「えっ、知ってんの?」

 竜太郎が面食らった顔になる。「というか、犯人を庇う気かよ」

「まだ犯人って決まったわけじゃない。まだ『教室にいたのを目撃された』だけだ」

 至る所から反発の声が上がるが、彼女は揺るがない。

「人を疑うには、相応の理由と覚悟が必要なんだ。だから慎重に進める」

 ひとまず危機を免れた潤だが、不安が解消されたわけではない。人知れず深呼吸をして、平静を装った。

 クラス全員で話し合った結果、まずは職員室で待機していた飯岡先生を呼び戻した。次に、出席番号の早い者から廊下に出て、飯岡先生に昨日の放課後のアリバイを話す、という手段を取った。

 生き物係の涼は、教室の監視を担当した。マリンを盗んだのが複数人だった場合、口裏を合わせる危険性がある。そう考えた上での監視役だ。提案したのは竜太郎だった。

 潤の苗字は吉川。出席番号は最後だ。

 緊張と退屈を紛らわすために、彼は竜太郎と話していた。

「いやあ、怖いなあ」

 竜太郎が半笑いを浮かべる。「俺、疑われるんじゃないかなあ。めっちゃ怖い」

「なんでそんな怖がってるの?」

 すると竜太郎は、潤に耳打ちした。

「俺さ、下校時刻になっても帰らなかったんだよ」

「えっ!」

 うっかり大きな声を出して、周囲の注目を集めてしまう。当然、監視役の涼にも気付かれてしまった。

「なんだよ」涼が足音を立てる。「内緒話なら、学活が終わってからにしろ」

「別に、やましい内容じゃないぜ。なんなら、お前に聞かせてやってもいい」

 多少不思議そうな顔をしながらも、涼は耳を傾けた。「楽しそうじゃないか」と、モカまで近寄ってくる。

「大した話じゃないのになあ」竜太郎はヘラヘラした。「まあ、最後まで聞けよ」

 潤はというと、少しばかり苛立っていた。さぞお気楽な竜太郎。後ろめたい気持ちがないから、下校時刻を過ぎても帰らなかったと、自慢のように豪語できるのだ。その横で、自分は必死に隠そうとしているのに。

 とても気分が悪い。全身を掻きむしりたくなる。暴れたいという欲求に駆られる。

 潤の苛立ちなどお構いなしに、竜太郎は嬉々として語り出した。

「実はさ、俺、下校時刻になっても帰らなかったんだ」

 周囲が驚きの声を上げる。涼に至っては、反射的に竜太郎の胸倉を掴んでしまう。

「ふざけやがって!」涼が竜太郎を強く揺さぶった。「お前が犯人じゃねえか!」

「だから最後まで聞けって、アホ」

 涼の手が強引に離された。

「確かに俺は、下校時刻になっても帰らなかった。だけどな、校舎にはいなかったんだ」

「ほう」モカが口をすぼめる。「となると、校庭だね」

「そう、校庭。だから教室にはいなかった。ほら、俺、サッカー部でしょ。しかもゴールキーパー。ゴールを片付けるのって、結構時間かかるんだ。下校時刻ちょっきりから始めても、早くて十分だぜ」

 勝ち誇ったようなドヤ顔で、竜太郎は涼を睨んだ。

「証拠は? 証人は?」悔しさのあまり、涼が屁理屈を言う。「何もなかったら、お前が犯人でえす!」

「ゴールキーパーは黄色のゼッケンを着る。だから遠くでもクソ目立つ。なんなら、監督に聞いてみろよ。どうせ『竜太郎はずっと校庭にいた』って返ってくるぜ」

 頬杖をつきながら、潤は話を聞き流していた。証人、証拠。無実の人間が口にしたって、何の意味もない。呆れを通り越して、むしろ達観する。

 そうやって、自分――潤の過ちを、一時のエンタメとして消化すればいいのだ。

「そんでさ、こっからが面白いんだぜ」

 遠くのクラスメイトを手招きしながら、竜太郎が話を続けた。

「校庭から教室って、よく見えるんだよ。なんかコクってるやついるなあ、とかさ。それでさ、その日も片付けしながら、教室を覗いてたわけよ」

「ああ、そう」涼が興味なさげに頷く。

「そしたらさ、人がいたんだよ。しかも五年一組に!」

 ざわめきが起こる。涼に至っては、先程と打って変わって、目を見開きながら「マジかよ」と叫んだ。

 飯岡先生が、廊下から次の児童を呼んでも、誰も聞いちゃいない。

「それは……」モカが顎に手を当てる。「小野先生が見かけた子と、同一人物なのかな」

「さあ。小野先生が見た児童を知らんから、なんとも。それに、俺の方からも全然見えなくてね。誰かがいるんだなあって感じだった」

 竜太郎が見かけた人物は、間違いなく自分だ。数少ない友人にさえ、自分の過ちを目撃されたのだ。

「あれ、誰だったんだろうなあ。潤はどう思う?」

 竜太郎に話を振られても、潤は声を出せない。言葉が喉に突っかかって、刺さったまま取れないのだ。

 考えを口に出せない。その児童が自分だとは、口が裂けても言えやしない。

「潤?」

 周囲の生徒も、次第に異変に気付く。誤魔化せない。取り繕う気力さえ、もう残されていない。血の気が引く。一人一人の視線が、針のように痛い。

 そのとき、教室のドアが開いた。飯岡先生だ。

「潤。聞こえてるのか。早く廊下に出なさい」

 飯岡先生が呼んでいた次の児童とは、他でもない、潤のことだったのだ。

 彼にとっては、まさに蜘蛛の糸だった。勢いよく立ち上がると、逃げるように教室を後にする。竜太郎に呼び止められて、一瞬だけ足を止めるものの、すぐに踏み出した。

 ドアを閉めて、肩の力を抜く。そして先生と向かい合う。教室から聞こえる自分の名前が、いちいち煩わしい。耳の穴を塞ぐ方法はないものかと、潤はうんざりした。

「さてと」

 飯岡先生の表情は暗い。当然のことながら、放課後も校舎に残っていたと打ち明ける児童は、ここまで誰一人として現れなかった。

 そうとなれば、最後に残った潤は、必然的に疑われるのだ。

「一応、聞いておこうか」

 先生の声が重苦しい。

「潤は、放課後に何をしてた?」

 ――何もしてません。すぐに帰りました。

 喉まで出た言葉を、唾と共に呑み込む。

 彼は子供ながらに悟っていた。自分は小野先生にも、竜太郎にも目撃されたのだ。今更嘘をついても、何も誤魔化せやしないだろう。

 ――悪いけど、小野先生が見かけた児童の正体は、ここでは明かせない。

 潤は考える。モカが自分のことを黙っていたのは、自首を促すためではないだろうか。

 このままの雰囲気では、犯人はつるし上げられて、教室での居場所を失う。当然の報いだろう。悪人には、相応の罰が下されるべきなのだから。

 ところが、モカはそう思わなかったらしい。いっそ過ちを認めて、頭を下げろと主張するつもりだ。

 だが、それは机上の空論だ。現実はそう簡単ではない。真実が明るみに出たとしても、自分は教室での居場所を失ってしまうのだ。

 教室に秩序はあろうとも、法が守ってくれるとは限らない。クラスメイトから浴びせられる嘲笑と冷やかしに、とても耐えられる気がしない。

 我慢し続けた人生の中で、たった一度芽生えた好奇心が、鋭く尖って突き刺さる。

 嘘をついたって、いずれは矛盾する。見破られて、恥をかく。

 それならば、いっそ、真実を小出しにすればいい。

「いました」

 消え入りそうな声で、潤は呟いた。

「教室に、いました」

 過ちを認めるわけではない。ただ単に、事実を述べた。

 先生は、ただ一言「そうか」とだけ告げた。それが痛かった。苦しかった。

 教室では、依然として「潤」の名が飛び交う。弁明しようにも、言葉が思いつかない。ただでさえ、考えを口に出すのが苦手だというのに。

 黙っていれば、時間が解決してくれると思った。

 誰かがなんとかしてくれると信じた。

「教室にいた。それは、間違いないのか」

 先生の問いかけに、恐る恐る頷いてみる。

「潤。お前……」

 お前がマリンを盗んだのか、と訊かれるのだろう。分かりきった枕詞だ。自分はただ、首を横に振ればいい。

 潤は顔を上げて、先生と目を合わせる。

 先生は、一つため息をついてから、ゆっくりと口を開く。

「どうして、嘘をついた?」

 予想外の質問に、戸惑いを隠せない。

 嘘。嘘なんて、どこで言っただろうか。

「最上から聞いた。『潤はすぐに帰った』と」

 考える。記憶を遡る。思い返したのは、今日の昼休みだ。

 ――じゃあさ、昨日のことは、何も知らない?

 ――知らない。すぐに帰ったし。

 迂闊だった。こんなにも早く矛盾してしまうとは。咄嗟についた嘘が、今になって首を締めつけてくる。

 視界の隅から、小野先生が現れた。ずっと隠れていたのだ。

 彼女は、申し訳なさそうな表情で、目を伏せる。

「お前は、こう思ったんだ」

 小野先生を一瞥してから、飯岡先生が低い声を出した。

「最初は、自分にとって都合が悪いから『すぐに帰った』と嘘をついた。だが、小野先生に目撃されたと知った。そこで今度は、反省する意思をひけらかすために『教室にいた』と言った」

 反論したい。それなのに、言葉が出てこない。剣幕に押されて、黙ることしかできない。

 情けない。惨めだ。消えてしまいたい。

「お前は、最上を侮辱した!」

「違います」か細い声が洩れる。「それは、本当に……」

「お前は嘘をついた。自分を守るために、相手に偽の情報を教えた。立派な侮辱だ」

 いつの間にか、飯岡先生の隣に、小野先生が立っている。哀れむような目つきで、潤を見下ろしている。虎の威を借る狐みたいだ。

 ぶん殴ってやりたい。でも、体が震えて仕方がない。

「潤。お前のしたことは、自首じゃない。出頭だ。もう、分かりきったことなんだ」

 教室から、モカが顔を覗かせる。彼女を見るたびに「侮辱」の二文字が、潤の頭を支配する。侮辱、侮辱、侮辱。

 胸の奥から込み上げるのは、津波のような罪悪感、ただそれだけ。

「潤」

 自分は、嘘をついた。モカを侮辱した。大勢の人に迷惑をかけた。

「今なら、大事にはならない」

 十年間、ずっと優等生を演じている。

 たった一度、好奇心に抗えなかった。それで十年が水の泡になろうとしている。

「過ちを認めるんだ」

 認めてやろうと思った。

 だって、過ちを犯したのは事実なのだから。

 それに、息子が出来損ないの泥棒ならば、母親も少しは楽になるだろう。

 やつれた笑顔と、マメだらけの手。母親の努力は、全部、息子――自分を育てるための努力だ。

 その息子が泥棒だと知れば、きっと、肩の力を抜いてくれる。自分自身の体を大切にしてくれる。もっと、自分の人生を大事にしようと思ってくれる。

 だって、息子がどうしようもない失敗作なんだから。

「……僕、が――」

 声が、出ない。息だけが洩れる。

 一瞬だけ、子供じみたワガママを思い浮かべてしまう。

 ――お母さんに、嫌われたくない。

 急激な眠気を覚えて、途端に足から崩れ落ちる。混濁した視界。やがて暗闇に包まれる。体に力が入らない。蝋人形になった気分だ。

 意識を失う、その寸前。

 温かく包み込まれるような、優しいレモンの匂いを嗅いだ。


「もう、体は大丈夫なの?」

 五年一組に戻ってきた潤を、モカだけが迎え入れた。既に放課後だったのだ。

「うん。それより、謝りたくて。嘘ついたこと」

「やめてやめて。そういうの、得意じゃないんだ」

 手を横に振りながら、モカが苦笑いを浮かべた。

「どうせ飯岡先生の入れ知恵でしょ。そもそも、侮辱されたなんて思ってないし。あの人、思い込みが激しいからさ。前も私の担任だったんだけど、もう大変だったよ」

 時計の針が、十七時二十分を指し示す。照明は点いていないものの、夏の夕焼けが教室を充分に明るくする。

 開けっ放しのカーテン。校庭から、サッカーに勤しむ子供たちの声が響く。

「座りなよ、潤。立ち話もなんだしさ」

 そこで潤が席に座ると、モカが歩み寄ってきた。竜太郎――隣の席に腰かけて、隣同士。

「なんで、隣に座るの?」潤が問いかける。

「逆に、なぜ隣に座ってはいけないんだい」

 眼鏡の奥から、モカが、刺すような鋭い眼差しを向ける。

 机の模様に目を向けながら、潤は口を開いた。

「モカも、僕が犯人だと思ってる?」

 しばらく返答がなく、気まずい雰囲気が流れてしまう。窓から差し込む茜色の光も、時間を経るにつれて、徐々に鮮やかさを失っていく。

 下校時刻を知らせるチャイムが鳴ったとき、モカが言った。

「疑わしきは、被告人の利益」

 時々、彼女は小難しい言葉を使うことがあった。このクラスの中だと、モカは群を抜いて賢い。潤が風の便りに聞いた噂では、将来の夢は学者とのことだった。

「えっと」潤が尋ねる。「疑わしきは、って……」

「ああ、ごめん。馴染みのない言葉を使ってしまったようだ」

 モカが咳払いをする。

「はっきり言うよ。潤は怪しい。昨日の放課後に教室にいたし、なんなら嘘までついたからね。もうさ、疑われて仕方ないと思うんだ」

 胸が苦しくなる。いつ犯人と名指しされようと、おかしくない。

 気分を落ち着かせようと、潤は校庭に目を向けた。黄色いゼッケンを着た竜太郎は、遠目からでもよく目立つ。

「でもね」

 モカが、優しく語りかける。

「潤は、そんな大胆なことはしないと思う。周りに合わせて、常に気を遣ってるような潤が、なぜマリンを盗もうと思い立ったのか? 考えれば考えるほど、君が犯人だとは思えなくなる」

 ――そう。犯人は、なぜマリンを盗んだのか。

 この機に及んで、モカはまだ動機に焦点を当てているようだ。

 騙しているような、申し訳ないような、複雑な気持ちだ。絡まったコードみたいに、簡単にはほどけない感情だった。

「それに証拠がない」

「証拠」潤が繰り返す。

「そう、『吉川潤が、確実に教室にいたこと』を示す証拠がない。小野先生の目撃証言はあるけどさ」

 やはり、先生には見られていたのだ。自然と拳を握ってしまう。

「だが、見間違いの可能性がある。あの人、児童の顔と名前、まだ全然覚えてないんだよ。ここだけの話、ちょっと軽蔑してるけどさ……」

 見間違いではないと、潤は確信している。先生が目撃したのは、紛れもなく自分だ。

 ただ、それを指摘する理由はない。現に、モカは都合の良い解釈をしているのだから。

 間もなくして、サッカー部が片付けを始める。指示を促す監督の声が、五年一組にも反響した。

「竜太郎!」年老いた監督が、しゃがれた声を出す。「ボールも片付けてくれ。昨日は助かった!」

 元気な返事が聞こえる。竜太郎のものだ。

 潤は思い返す。その竜太郎は、校庭から五年一組を、そして誰かを目撃したのだ。

 誰か。他ならぬ自分だ。たとえ小野先生が、本当に見間違いをしたとしても、竜太郎の目撃証言が崩れるわけではない。

 たとえるなら、部屋の隅に追い詰められるような心地だ。

 退路を断たれて、捕まるのを待つしかない。泥棒の呆気ない終幕。

「私たちも帰ろうか」

 潤の焦燥など気にも留めず、モカはゆっくりと腰を上げた。

「家まで送ってくよ。先生から頼まれたんだ」

 申し訳なく思って、潤は首を横に振る。「いいよ、いいって。一人で帰れる」

 しかし彼女は聞く耳を持たない。すっと立ち上がって、潤の荷物をひったくる。

「あっ。そうだ、カーテン」モカが声を上げた。「閉めて帰らないと、先生に怒られちゃう」

 カーテンを閉めて、足元のおぼつかない教室を後にする。廊下に出れば、いくらか視界がひらけた。

 歩き出してすぐに、モカが口を開く。「そうだ、夏祭りの話が聞きたい」

「別に、普通だったけど」

「その普通を教えてよ。私、行けなかったんだからさ」

 あまり乗り気ではなかったが、潤は要望に応えた。

 夏祭りは、自分と、竜太郎と、その妹の愛花の三人で行った。とはいっても、近所の祭りだったから、知り合いや同級生とも結構鉢合わせた。涼の姿もあった。

 大したことはしていない。射的におみくじ、そして金魚すくい。ただでさえお小遣いが微々たるものだったから、そう長い時間滞在したわけでもなかった。

「嘘はついてないよ」潤が言った。「本当に、それだけなんだ」

 モカが苦笑いを浮かべる。「なにさ。別に疑ってないのに」

「疑ってないの?」

「そうだなあ、あえて疑ってかかるなら……」

 玄関に到着すると同時に、彼女が足を止める。

「どうして、私の目を見て話してくれないのかなって」

 不意を突かれて、潤は固まった。彼の目線は足元にあった。

 沈黙が支配する。無音の世界に放り込まれる。下校時刻を過ぎた校舎は、亡霊のはびこる墓場のようだ。どれだけ心臓があっても、足りない。

 モカと目を合わせて話すと、なにもかも見透かされる気がする。

 自分――潤がひた隠しにする真実は、モカに、そして竜太郎には、知られてはならない。

 静寂を破るように、誰かの足音が近付いてくる。潤が昨日の放課後に聞いたものと、全く同じ音だった。

 歩いてきたのは、小野先生だった。潤に顔を向けている。同情するような、気の毒に思うような、なんともいえない表情を浮かべながら。

「ごめんね」

 開口一番、先生はそう告げた。

「吉川くん。わたし、昨日、見ちゃったの……」

 返す言葉がない。拳を握ったまま、潤は押し黙った。

 程なくして、玄関が騒がしくなる。サッカー部の児童だ。荷物を取りに戻ってきたのだ。その中には、竜太郎の姿もある。

 サッカー部の児童たちは、潤を取り囲むようにして、様子を窺っている。夏祭りといい、金魚泥棒といい、子供は非日常っぽい出来事が大好きなのだ。

 周りの子供たちにも聞こえるように、小野先生は声を大きくした。

「ごめんね。潤く――」

「お言葉ですが」

 話を遮ったのは、モカだった。

「小野先生は、潤を犯人と思い込んでいるのでは?」

「えっ、思うも何も……。潤くんは、教室にいたじゃないの」

「一度でも、彼の弁明をお聞きになられましたか?」

 緊迫感が漂う。ただならぬ雰囲気を感じ取って、児童が一人、また一人とその場を後にする。自分も説教に巻き込まれると思ったのだ。

「教育実習生とはいえ、先生なのでしょう。児童の意見を聞くことなく、自身の目を過信するのは、教師として不適切な対応です。いずれ道を踏み外しますよ」

 野次馬は疎らになり、残ったのは竜太郎だけになった。

「最上さんに、何が分かるの?」小野先生が、モカを見下ろす。「何様のつもり?」

「ちっとも。何も分かりません。だから考えるんです」

 その場に居合わせた竜太郎には、モカの考えが理解できなかった。

 学活での、潤の異変。廊下から響いた、飯岡先生の怒鳴り声。どう考えても、潤が犯人という結論に行きつくはずだ。

 小野先生も同様だった。昨日、潤は教室にいて、しかも一度「すぐに帰った」とモカに嘘をついたのだ。疑うどころの話ではない。間違いなく犯人だろう。当のモカだって、それは理解しているはずだ。

 犯人は自明。証言も揃った。動機なら、あとで詳しく問いただせばいい。

 それなら、彼女は何を考えているのか。

 小野先生には、それだけが解せない。

 モカは潤を連れて、玄関を出ていく。「俺も帰る」と竜太郎が二人を追う。

 その場で立ち尽くしたまま、小野先生は、三人の背中を見送る。「仕事だるいなあ」と独り言を洩らしながら。


「お前んところの出目金、元気?」

 赤信号を待っていたときに、竜太郎が潤に尋ねた。

 時刻はとうに十八時を回り、辺り一面の景色は、焦げたような赤茶色に染められている。

 白いはずの横断歩道には、三つの影法師が伸びる。不規則なモノクロームだった。

「ほら、あの出目金だよ。祭りですくったやつ」竜太郎が言う。

「ああ、うん。元気にしてる」

「ほお」モカが微笑む。「出目金かあ。凄いじゃないか」

「本当だよ、マジで羨ましい。あとで見せてくれよ、潤」

 よほど魅力的な話題だったのか、信号が青になっても、三人の会話は途切れなかった。

「もう、一撃だったもんな。ぶわって感じで!」

 白線をジャンプして渡りながら、竜太郎が声を弾ませる。

「俺たちなんか、何百円も使って、普通のやつが一匹ずつだったし」

「俺たち……」モカが顎に手を当てる。「ああ、そっか。妹さんと三人で、祭りに行ったんだっけ。潤から聞いたよ」

 百円で出目金をすくった潤は、夏祭りの翌日、ちょっとした有名人になった。もっとも彼が「大したことじゃないよ」と謙遜するので、すぐに元通りの日常になったが。

 どことなく影が差して、潤と竜太郎の足首を蝕む。

「あのときの涼、凄かったよ」竜太郎が続けた。「もうさ、潤に突っかかりまくってさ。『出目金は飼育が難しい』だかなんだか。生き物オタクなのは分かるけど、ちょっとな、プライド高すぎだよ」

「まあまあ」モカがなだめるように言った。「自尊心が傷付くことって、割とよくあるさ」

 しばらく歩いて、潤の家に着く。ここで二人とはお別れだ、と潤は思った。

 家まで送ってくれたモカと竜太郎に、感謝の言葉を伝える。

「ありがとう。じゃあ、また……」

「えっ?」

 素っ頓狂な声を出したのは、竜太郎だった。

「出目金、見せてくれないのか」

「ああ、そうだった。なんか、ただの雑談かなって思って」

 十八時を過ぎると、家に母親はいない。少しでも高い時給を貰うために、夜間に勤務しているのだ。

 帰ってくるのは翌朝の五時。そして十八時になれば、また仕事へ出かけていく。

 潤と母親が一緒にいられるのは、五時から七時半の間と、十六時から十八時の間。約四時間ほどだった。

 玄関は閉まっていた。合鍵は潤の手にある。母親がいない間は、自分の手で解錠する必要があった。

 錆びついた鍵を、無理矢理差し込む。耳障りな音が響く。思うようには回らない。

「お前ん家の鍵、調子悪いよな」竜太郎が眉をひそめる。「耳に悪い音が鳴る」

「へえ、そうなんだ」モカが鼻を掻く。

「よく遊ぶんだよ。潤の家で。潤の母さん、どれだけ騒いでも全然怒らないし」

 少しして、鍵が解除された。潤が扉を開くと、我先にと竜太郎が立ち入る。靴を乱暴に脱ぎ捨てて、狭い廊下を駆け出した。

 しまった。

 そう潤が思った頃には、もう遅かった。

 竜太郎は、潤の部屋に向かった。そしてその部屋には、決定的な証拠が隠されている。

 ――そう、『吉川潤が、確実に教室にいたこと』を示す証拠がない。

 その証拠はあるのだ。それも、自分の部屋に。まるで、ひけらかすように。

 隠し忘れた。うっかり、元の場所に戻し損ねたのだ。

 騒がしい足音が止んで、代わりに竜太郎の叫び声が聞こえる。潤を押しのけて、モカが家に入る。

 終わった。吉川潤の恥は、今しがた、白日の下に晒されたのだ。

 とぼとぼと廊下を進む。竜太郎の喚き声が、次第に大きくなる。開けっ放しのドアは、潤の部屋への入り口だ。

 深呼吸する。足を踏み入れる。自分の部屋なのに、どうしてこうも緊張するのだろう。竜太郎がいるからか。モカがいるからか。

 いや違う。

 見られてはならないものが、そこにあるからだ。

 白色のベッドに、青いカーテン。勉強机の上には、教科書やハート型の便箋が散らばっている。

 ベージュ色のカーペットの上には、空っぽのゴミ箱と、三十センチの水槽が置いてある。

 モカと竜太郎は、ただじっと、その水槽を見つめている。

「潤」

 竜太郎が、ぽつりと洩らす。

「お前がすくったの、出目金だけだったよな……」

 その水槽には、二匹の金魚が棲んでいた。

 一匹は出目金。潤が夏祭りですくった、煌びやかな金魚だ。水槽を往復するように、悠々と泳いでいる。元気そうだ。

 もう一匹は、ごく平凡で、ありふれた赤色の金魚だった。

 こちらはというと、横向きで、ぷかぷかと水面に浮かんでいた。

 死んでいたのだ。

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