最上楓の掌握

阿部狐

プロローグ

 少年は、水槽に手を突っ込んだ。

 放課後の五年一組は、消え入るような静けさに包まれていた。蛍光灯の光もなければ、茜色の夕陽さえも頼りにならない。足元すらおぼつかないのだ。

 時刻は十七時三五分。児童の完全下校時刻から、実に五分が経過した。壁掛け時計の秒針が、少年を催促する。

 両手を入れる。手のひらを上にして、ゆっくりと引き上げる。確かな重み。指と指の隙間から、水が逃げるように漏れ出る。

 手のひらに取り残されたのは、金魚。名前はマリンだ。

 持参したポリ袋にマリンを入れる。少量の水を加えて、袋をきつく縛れば、もはや教室に留まる意味などない。忍び足で、その場から立ち去ろうとする。

 突然、足音が聞こえた。廊下からだ。徐々に大きくなる。

 咄嗟に屈む。机と机の間を縫うように、這って移動する。手頃な隙間を見つけて、体をねじ込んだ。

 間もなくして、教室のドアが開く。コツ、コツ。誰かが入ってくる。

 少年は、辺りをそうっと見渡した。薄暗い教室は、一番身近な非日常に違いない。見慣れた環境での、不慣れな状況。心臓が早鐘を打つ。

 祈るように目を閉じる。息を止める。神様がいるんだったら、信じてやってもいい。

 足音が近付き、しばらくして、遠ざかった。

 教室に静寂が戻る。大きく息を吐いて、平静を取り繕う。心臓が鳴り止まない。今すぐに逃げ出したい。両手に携えたそれは、誰にも見られてはならないのだ。

 ここから早く立ち去りたい。それなのに、足が動かない。体が震えて仕方がない。

 吉川潤は、自身の臆病さを呈するように、呼吸を荒くした。

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