世界の敵
平山芙蓉
終着
群青色の空気が、海辺に漂っている。悲哀とも絶望とも表し難い、酷く重苦しい色の空気が。今が何時なのかは分からない。けれど、二度と朝日なんて昇らないのではないか、と思ってしまうほど、ここの夜は深かった。
もうどれくらい歩いただろう?
脚には疲労が溜まり、関節という関節が、錆びてしまったかのように痛い。僕は何度も目にした空を、また仰ぐ。真っ黒の空に穿たれた、白い月の位置は、さっきと全く変わっていない。蛍光灯の明かりよりもずっと無機質で、ぞっとするほど冷たい光を放ち続けていた。その影響か、風はリードを外された犬のように激しく、僕たちの周囲を駆け回り、砂を舞い散らしてくる。
それだけ辛い状況でも、僕たちは足を止めない。
僕の前を歩く少女に、目を遣った。彼女の歩みに合わせて、小さな背中を覆い隠す長髪が揺れる。一週間以上、シャワーも浴びていないのに、まだまだ艶やかな髪。それは、この海――、いや、この世界に訪れる夜の根源であるかのような、妖しい黒に染まっていた。
「少し休まないかい?」
そう提案すると、少女は立ち止まりこちらを振り向いた。暗闇の中に浮かんだ、アーモンドの双眸が、僕を捉える。
「疲れた?」
「僕は疲れていない」首を横に振って答える。「でも、君は疲れたかもしれない、って思ったから」
「私は大丈夫よ」彼女は口角を上げた。並びの良い歯が、薄い唇の隙間から覗く。
「こう見えても、丈夫だから」そう続けてから、腕を上へ向けて身体を伸ばす動作をした。黒いワンピースに覆われた、小ぶりな胸が強調される。
「そう……、なら良いんだ」
僕は少女の足元へ、目を逸らす。それを合図にしたみたく、彼女は再び歩き出した。真っ新な砂浜に、また点々と足跡が付けられていく。顔を後ろへ遣ってから、進行方向へ戻す。かなりの距離を歩いて来たのに、砂浜の端はまだ見えない。そもそも、そんなところがあるのかさえ、疑わしいほど、広い場所だった。
少し先を歩く少女の後ろに、僕は付いていく。
立ち止まることなんて、本当は許されていなかった。
そう。
だって少女は、世界中からその命を狙われているのだから。
決して、誇張ではない。一週間前、各国の政府から各国民たちへ向けて、少女を殺すことが国連で決まった、との発表があった。それも、映画や漫画のように秘密裡ではなく、公的に。少女の脳には、現在の社会システム全てを根本から変えてしまう、危険な理論があるらしい。どうやって、そんなモノがあると調べたのか、また、どうしてそんなモノを一介の少女が保有しているのかまでは知らない。すぐにでも彼女を処分しなければならないほど、切羽詰まった状況らしく、貧富も老若男女も、社会の裏も表も問わずに発表された。
そのため、争いを咎めていた報道機関は、人々に殺人を仕向けるようになった。交番には、凶悪犯たちのポスタの上から、少女の写真が貼られており、それを頼りに、無辜の狩人たちが街には溢れ返っている。今や彼女を知らないのは、生まれたての赤子以外に存在しない。
僕たちは、そんな状況を辛うじて生き延びている。奇跡、と言いたいところだけれど、これも少女の頭脳があってのことだ。どうやら、この状況さえ、彼女の脳にある理論の序章に過ぎないのだという。もちろん、彼女の口から聞いただけだから、真偽は分からない。何より、その理論とやらが、どのような作用を齎すのか、僕のような一般人には理解し難い。ただただ漠然と、偉い人たちが言っているからそうなのだろうな、と思考を放棄しているきらはある。
そうだ。
僕は一般人だ。
少女の味方というだけの、一般人。
世界的な危機だって、
終末的な理論だって、
何の理解もできていない、
ただの凡人。
『本当は、そう思ってないんだろう?』
風の間隙に、記憶が囁く。俯いて、砂浜に揺れる少女の影に視線を遣ったり、耳を微かな波音に傾けたりしてみた。けれど、べっとりと脳の隙間にこびり付いた嫌な感触は、害虫駆除の罠のように、僕を逃がしてはくれない。
あいつは、死んだ。
僕が、殺した。
だから、
もう出て来なくて良い。
死んだ人間の言葉など、必要ない。
そう言い聞かせても、脳みその中で延々と再生されて、
五感を過ぎ去った時間へと、縛り付ける。
「お前は、どうしてそいつの味方をする?」
――僕は世界中が彼女の敵になったとしても、味方でいると決めた。
「違うな」
――何?
「俺とお前は、何も変わらない」
――一緒にしないでくれ。
「いいや、同じだ」
――僕は君みたく、金が目的で他人の命を奪うような人間じゃない。
「お前はただ、自分はみんなと違う人間だと、信じたいだけだ」
――……。
「斜に構えた、俗な覚悟で他人と違うと言いたいだけだ」
――……。
「良かったな。お前もそうやって、言葉だけじゃなく、陶酔できる日が来て」
――……。
「でもな、俺もお前も変わらない。お前が味方でいるのは、あの女じゃない。お前自身、いや――、この世に掃いて捨てるほどある、ちっぽけな理想像だ」
――黙れよ。
『自分のために金を求め、あいつを殺す俺と、自分の理想のために、あいつを守ろうとするお前。そこにどれだけの差があるんだ?』
……。
波の音が最後の瞬間を浚い、我に返った。空を仰ぐと、いつの間にか流れてきた雲が、月を隠そうとしている。僕はあの問答の後のことを思い出そうとした。けれど、殺したというあやふやな現実感しかなくて、手段や後始末の辺りは、都合よくすっぽりと抜け落ちている。残っているのは饐えた臭と、指に染み付いた殺意の感触しかない。
僕は平凡な人間だ。世界の敵になった少女の、味方でいようとするだけの凡人。僕と彼女は、ずっと一緒に過ごしてきた。だからこそ、世界中の誰よりも、彼女のことを想っているし、世界中が敵になるのなら、彼女の味方でいるのは当然のこと。それ以上でも、それ以下でもない。そう決めて、少女に付いてきた。険しい道のりであっても、彼女の望みを叶えたい。今だって、その気持ちに嘘偽りはない。
なのに……。
どうして、僕の心はこんなにも、ささくれ立っているのだろうか。
「ねえ、大丈夫?」
亡っと考えながら歩いていると、少女に声をかけられる。思っているよりも距離が空いていたみたいで、彼女がこちらへと近付いてきた。
「大丈夫だよ、本当に」僕は口元を意識しながら、ニッコリと笑ってみせる。「ちょっとこの先のことを、考えていただけさ」
「大丈夫じゃないよ、きっと」彼女は心配そうな表情で、僕の顔を覗き込んだ。「元気、なさそうだよ」
「そうかな?」僕は少女の足元へと視線を逸らす。
「やっぱり、休もうか」
「そういうわけには……」
視線を戻した先にあった彼女の顔を見て、僕は続けるための言葉を失った。
「あそこ、座ろうか」
黙ったままの僕を余所に、少女は砂浜に打ち上げられた流木を指さした。僕は何か言おうとして、口を開く。言わなければならない、という強迫感さえあった。だけど、思考も感情も声にはならず、虚しさだけが内側で、どろどろと広がっていき、結局は口を閉ざす他なかった。
流木は公園のベンチくらいの大きさがある。二人でそこへ、海を正面にして並んで腰を下ろした。長い間、自然に磨かれているのか、見た目よりも座り心地は悪くない。
海面で踊る月を、僕は眺める。月光は昼間の太陽に遠く及ばずとも、煌めきを孕んでおり眩しい。座ってからの僕たちは、一言も発さなかった。聞こえてくるのは、波と風と時々、元気な魚の跳ねる音くらいしかない。
もしも、口を開くと、
終幕が訪れてしまうような気がした。
そう勘付いているからこそ、僕も彼女も、黙ったままでいるのだろう。
始めてしまった過ちを、終わらせないために。
だけど……。
「認めるよ」
「何を?」
少女の問いかけに、僕はどう返事をするか迷った。答はもちろん出てこない。そもそも、そうやって迷っていること自体が、彼女に対するポーズでしかないのだから。
どこまで行ったって、きっと逃げられない。
文字通り、世界中の人間が少女のことを追い、
自分の目の前に姿が現れるのは、
今か今かと、その牙を研いでいるのだ。
そんな少女に加担する僕の命もまた、
等しくぞんざいに扱われているのだろう。
考えるまでもなく最初から分かりきっていた。
でも、もう疲れてしまった。
僕たちがこの先、未来と呼ぶ全ての時間は、
ありもしない理想郷を求めて、彷徨うためだけに注がれる。
仮に、寿命を迎えるまで逃げ切れたとしても、
人生と呼べるほど、最低限の幸福などそこにはないだろう。
ジャンパの懐からピストルを取り出し、僕は少女の頭に向ける。彼女の命を狙っていた親友から、奪い取ったものだ。護身用に持ち歩いていたけれど、最後の最後に、少女へ向けることになるなんて、あの時には思ってもいなかった。隣に座る彼女は驚いたり、慌てたりする素振りも見せず、こちらへ首を動かす。銃口とは、拳一つ分くらいしか離れていない。だけど、少女の昏い瞳の中にその凶器の影はなく、射貫くように真っ直ぐ、僕にだけ視線を注いでいた。
「ごめんね」僕は彼女の瞳から逃げずに続ける。「僕はきっと、君のために、君を守ろうとしたんじゃない。僕は僕自身が特別でありたいと願うためだけに、君を生かそうと決めたんだ。君に想われていて、君を想っているという特別がほしくて」
ピストルのセーフティを外し、両手でしっかりと構える。これだけの至近距離だ。銃の扱いは素人の僕でも、よほどの不運が重ならない限り、外すなんて有り得ない。けれど、僕はずっと慕ってきた少女を裏切り、命を奪う。だから、僅かでも可能性として存在しているのならば、取り除かなければならないと思った。
「だけど、もう疲れたんだ。特別のために、危険な橋を渡るなんて、凡人には端から無理な話だったんだ……、僕はまだ、死にたくない」
「そっか……」少女は溜息を吐く。「だから私を殺すんだね」
「うん……」僕は頷いた。意図は簡単に伝わったみたいだ。
「あーあ」彼女は残念混じりの笑みを浮かべて、空を仰いだ。「私はまだ、死にたくないな」
「なら、逃げると良い」
「ううん」だけど彼女は、僕の提案を頭を振って否定した。
「どうして?」意識しないうちに、自分の眉間に皺が寄ってしまう。希望的な返答が、得られなかったからだ。
「死ぬのは嫌だし、残念だよ。でもね、あなたを苦しめながら生きるのは、もっと嫌だから」
「……ごめん」僕はそれ以外の言葉を、見つけられなかった。
「大丈夫」少女は僕を見つめながら、銃身へ腕を伸ばし、そっと両手で包む。「特別な人に殺されるのなら、どんな理由であれ、素敵な死よ」
そう言った彼女の顔に、影が落ちる。どうやら遂に、月が雲に隠れてしまったらしい。都会とは違って、街灯などない海辺には、限りなく原始に近い闇が訪れた。センチで表せるほど、近しい場所に座る少女の姿さえ、暗転した舞台に映るシルエットみたく、茫々としている。
「生きて」
風の間隙に、少女の声が聞こえた。
「きっとあなたいる世界は、私の世界よりもずっと、美しいはずだから」
引金に指をかけて、僕は躊躇いなく撃った。
銃声の響きと共に、少女の薄い影が、後ろへと倒れる。
鼓膜に突き刺さった音が、僕から世界の一割を消した。
ピストルを構えた腕は、衝撃で電気を流されているみたく痺れている。
全てが終わると、祝福をするかのように雲間ができて、隠れていた月光が顔を覗かせた。
立ち上がり、僕は波打ち際まで歩く。波は足を簡単に濡らして、靴の中はあっさりと海水に侵食されてしまった。下を向くと、揺れる海面に、僕の姿が映る。微かに窺えるそいつの表情は、何故だか少し、笑っていた。
「これで、誰よりも特別になれたかな?」
僕はそいつに問いかけてみる。
もちろん、答なんて返ってこない。
代わりに、そいつの表情は、さっきよりもはっきりと、歪んだ笑みを零していた。
そう。
僕は少女に最後を与えた特別な人間だ。
僕は世界の危機を救った特別な人間だ。
誰かが僕に嫉妬するだろう。
誰かが僕を賞賛するだろう。
証拠として、彼女の首を持って行けば、懸賞金だって間違いなく僕のものになる。
こぞりこぞって血眼になっていた連中よりも簡単に、少女を殺せてしまったのだから。
だけど、何も嬉しいことはない。
他人からの評価なんて、あれば厄介な足枷で、なければ穴の空いたバケツのようなモノだ。
『特別な人に殺されるのなら、どんな理由であれ、素敵な死よ』
少女の言葉が、脳裏を過る。
終わってしまった時間が、僕の脳を駆けていく。
誰がどう言ったって、僕は特別なんかじゃない。
きっと、特別な人間は彼女のように、誰かのことを心の底から、想える人間のことを言うのだろう。
僕とは……、いや、この世界の人間たちとは違って。
世界の敵 平山芙蓉 @huyou_hirayama
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