第24話 さよならの決意

 そこには、上も下もなく、また光も闇もない。

 時も流れず、距離もなく、温度もない。

 正一はそこに居た。

 時間も、空間も、次元さえも無意味な場所に存在していた。


「……まさか、全部……夢?」


「いいえ。現実よ。でも、夢というのも間違いじゃないわ」


 左下あたりに、知るはずのない光景が浮かんでいた。

 レイナとマリアナがオクタビオを問い詰めている。

 最初はとぼけていたオクタビオも、二人の剣幕に押されて正一の行き先を白状した。

 二人は桟橋に向かい、札束で叩くようにして高速艇を手に入れ、カラコル島へと船出した。

 右上の方には、別の光景が見える。

 列車の中で正一が助けた、小太りのセールスマンだった。

 男は透の居場所を突き止め、電報局から香奈あてに暗号電文を送っていた。

 その香奈もは居ても立ってもいられなくなったようで、海軍の司令を呼び出しては訓練航海に強引に乗り込んだ。

 行き先をカラコル島に変えさせるのは、決して難しくはない。

 後を任された総理大臣は青い顔をして見送ったようだ。

 不意に前方の空間が変化した。

 目の前に、いやあるいは無限の彼方に、リカルダが居るのを感じる。


「気分はどうかしら?」


「まあまあです。リカルダさん、でしたね。ここはいったいどこなんです?」


 正一の声は、喉ではなく右奥から聞こえた気がする。


「あなたに理解できる言葉での説明は難しいわ。ここには全てがあり、また同時に何も無い。時間も距離も、ここでは大した意味を持たないの。超次元の世界は、認識どころか概念すらも人間には理解できない」


「確かにそうです。三次元プラス時間、可能性の五次元、さらに異世界の六次元までなら何となくわかるのですが、そこまで行くとさすがに私の頭では無理です。和尚様ならわかるかもしれませんが」


 リカルダは笑ったように思えた。


「私にもわからないわ。でも、水道の仕組みを知らなくても、蛇口をひねれば水が出る。エンジンを知らなくても、ペダルを踏めば自動車は走る。そうそう、こういうのはどう?」


 *


 景色が切り替わる。

 透と戦っていた闘技場だ。

 瓦礫の山で黒焦げになっているのは、正一だった。

 身体がバラバラになっており、完全に死んでいる。


「透! あなた、なんということを!」


 香奈がナイフを手に透に斬りかかった。

 しかし、透は躊躇なく魔法で香奈を焼き尽くした。

 そのまま倒れた黒焦げの香奈が、折り重なるように正一に重なる。


「ハハハハハ! ざまあ見やがれ!」


 この場にエウファミアはいない。

 ただ一人、狂気の笑みを浮かべた透だけが立っていた。


 *


「こんな光景はあり得ない」


「でも、それも現実よ。あなた、六次元がわかるくせに五次元はわからないのね」


「とても実感がわきません」


「そういうものよ。言ったでしょう、理解するのと使うのは別物なの。だって、私は『時空の魔女』だもの」


「時空の魔女……?」


「この呪われた力を手に入れたのは、第一次魔族戦争の末期、あなたたちがベヘタルを攻め滅ぼした時。私は夫を失い、全てに絶望していたわ。その時、この能力に目覚めた……」


 *


 ふたたび景色が切り替わる。

 瓦礫と化したベヘタルの街で、あの日の正一と香奈が倒れていた。

 二人とも風の魔法で切り裂かれ、血の海に沈んでいる。

 近くには透に倒されたリカルダもおり、透は悲しそうな顔で立ち尽くしていた。


「バカヤロウ……俺だけ置いて逝きやがって」


 *


 またしても景色が切り替わる。

 クカラチャ要塞の見慣れた監獄で、正一は干からび、ミイラ化していた。

 誰も弔う者はいない。

 やがて看守が現れ、ゴミを捨てるようにして正一を海に放り込んだ。


 *


 再び何も無い空間に意識が戻る。

 リカルダは言った。


「あなたと香奈を殺すことはできた。でも、透だけはどの可能性世界においても、決して殺せなかったのよ。あの男は特異点なの。あるいは私が、透が死ぬ世界に行けないのかもしれない。透と出会ったことで得た力だもの」


「……透が特異点?」


 あり得ない話ではない。

『勇者』と呼ばれる召喚された地球人は、常に前線に送り込まれるのが通例だ。

 死ぬのが当然であり、戦争を生き残った時点でかなり運が良い。

 リカルダの言うとおり特異点だとすれば、生存が世界によって運命付けられている事になる。

 正一と香奈は、透に巻き込まれる形で生き残ったのだ。


「どうやっても殺せないあの男を抹殺するには、世界そのものを崩壊させるしかない。そこで目を付けたのが、エウファミア。彼女の力は、存在が不安定な宇宙なら破壊できるほどだもの。結果はあなたも知っての通り」


「透も、宇宙もろとも原子分解して死んだ」


「そうよ。まあまあ満足ね。あなたも死んだ事だし」


 正一は、頭を下げた。

 そのつもりになった。

 ここでは肉体が無いからだ。


「あの時のことを、許してくれとは言いません。償いたくとも、とても償いきれるものではありませんから」


「そうね。でも今の私に、あなたを殺しても何の意味も無いわ。全てが夢。全てが現実。でも、それが宇宙なのだわ。私たちが認識する現実なんて、巨大な、そう本当に巨大な宇宙のほんの断面に過ぎないの。本当はもっと、ずっとずっと規模が大きなものなのよ。ありとあらゆる可能性を内包し、あらゆる瞬間に無限に分岐し、果てしなく拡大し続ける。それが宇宙」


「頭がおかしくなりそうですよ」


 不意に、前方の空間から声がした。


「愚か者めが。井戸の中で生涯を過ごす蛙めが。おぬしごときに宇宙の果てなど、想像も付かぬのが当然じゃ」


 正一はその声に聞き覚えがあった。

 しわがれた老人の声だ。

 懐かしく、暖かく、そして二度と聞けないはずの声だった。


「今の声は、まさか……まさか、和尚様?」


「うむ」


「お久しぶりでございます! もう一度、お会いしたかった……!」


「久しぶりか。おぬしにしてみればそうじゃろうな。しかし、わしには時間など無意味になっておる」


 正一は梁屋和尚にすがりつきたかったが、肉体がないのでそれもできなかった。


「正一よ。おぬしが涅槃に至るためには、まだまだ修練が足りぬ。問い続けよ。考え続けよ。己自身と戦い続けよ」


 声はだんだんと遠ざかっていった。


「待ってください、和尚様! 私にはまだ、あなたの教えが必要なのです! 梁屋和尚!」


「甘ったれるでない! 答えを出すのはおぬし自身じゃ。おぬしが自分自身で至らねば、意味が無いのじゃ!」


「ですが、私はまだまだ未熟者です」


「確かにその通りじゃ。じゃが、己の未熟を知ることこそが第一歩じゃ。悟ったようなフリをするな。肉体に縛られている限り、決して涅槃には至れぬ。じゃが、それも決して悪ではない。生きているということじゃからな」


「生きて……? でも、私には肉体なんて」


「ある。その時、その場所においては、まだある! 以前言ったはずじゃ、全ては確率的である、と!」


「確率的……つまり、デタラメ……」


「さよう。生きた自分を観測せよ。そうすれば、そこに結果は収斂する。おぬしにはワシの最後の力を与えた。なあに、力のベクトルをほんのわずかに変える、ごくごく簡単なものじゃ」


 胸に、いや胸があるはずの場所に、暖かい何かを感じる。

 肉体があった頃、胸には梁屋和尚の鍵を常にペンダントにして身に着けていた。


「そうじゃ。それでよい。肉体を強くイメージするのじゃ! 強い意思が世界のありかたそのものを改変する! この次元でならできるはずじゃ」


 心臓の鼓動が響いた。そんな気がした。


「梁屋和尚。なんとなく、わかってきました。これが……」


「うむ。おぬしの立つべき場所じゃ」


 骨の鍵が砕け散る光景が見えた。そんな気がした。


「さらばじゃ正一。待て、しかして希望せよ――」


 梁屋和尚は行ってしまった。涅槃の彼方へと、いってしまった。


 *


「……心臓が……! やだ……正一さま……死んじゃやだよう……」


 梁屋和尚の鍵をペンダントのように胸に下げていたためだろうか。

 鍵が砕けたことで透の貫手はギリギリで心臓を逸れていた。

 しかし出血はかなりの量であり、端から見れば死んだように見えるだろう。

 全身から力が抜けた。

 正一はどうにか手をエウファミアの頬に持って行こうとしたが、途中で力尽きてしまう。

 もう、これ以上一ミリたりとも動くことはできない。

 意識を保てるのもあと数秒といったところだろう。

 エウファミアは正一の胸に顔を埋め、全身で泣いていた。

 まるで、世界が終わってしまったかのような嘆きだった。

 正一は不思議と安らいでいた。

 自分のためにこれほどまでに泣いてくれる人が、今までにいただろうか。

 いや、ない。

 負けは負けで構わない。

 しかし、この後エウファミアはどうやって生きていくのだろうか。

 それだけが心残りだった。

 ひとしきり泣いたエウファミアが立ち上がる。

 拳を固く握りしめていた。

 髪は逆立ち、周りの空気までもが震えている。

 ここまでの怒りを目の当たりにしたことは、生涯を通じて初だった。

 そして、最後になるだろう。

 瓦礫に埋もれていた透が身を起こすのが見える。


「トール・アキハラ。……お前はボクから両親だけでなく、正一さままで奪った! 許さない……お前だけは……お前だけは絶対に許さない! ……死ねっ! 死ねっ! 死んでしまえっ!」


 エウファミアの手から太陽にも似た白い光が現れ、球形にエネルギーが凝縮していく。

 周囲が見るからに暗くなり、気温が急激に下がり始めた。

 息が白くなる。

 あたりの地面に霜が降り始める。

 大気がプラズマ化し、電光を放っている。

 周囲の物質が持つ、あらゆるエネルギーが手のひらに収斂しつつあった。


「ご主人さまのいない世界なんて、ボクはいらない! みんな一緒に滅んでしまえ!」


 正一には確信があった。

 その確信がどこから来るのかはわからないが、間違いない。

 エウファミアならば可能なのだ。

 自分が気に入らない世界を、気分一つで破壊してしまうようなことが。

 いわばエウファミアは、魔王の中の魔王、破壊の大魔王なのだ。

 質量とエネルギーは、その本質において同質のものだ。

 梁屋和尚とカラコルの神官が言っていたのを思い出す。

 これほどまでに凝縮されたエネルギーが解放されれば、莫大な放射線とともに周囲の空気や土壌、海水を構成する物質をエネルギーに変換し、それがさらに周囲の物質を連鎖的にエネルギーに変換していくだろう。

 それはブレーキも利かずに果てしなく繰り返され、短時間のうちに全てが消滅してしまう。

 影響はこの惑星だけに留まらない。

 この世界の地球をエネルギーに変換して破壊すれば、その影響で太陽も破壊され、その余波は近傍の恒星系を、連鎖的に銀河まで破壊してしまう。

 正一たちが生まれた地球のある、安定した宇宙では起こりえない事だ。

 しかし存在そのものが不安定な、こちらの宇宙はそうではない。

 素粒子レベルでの物理法則が異なっている。

 まだ、間に合う。

 周囲にエネルギーとなる物質が存在しない、大気圏外の宇宙空間であれば。

 あるいは。


「クォンタム・ディストラクション! シャイニング・ディスラプター!」


 エウファミアの手から光球が放たれんとしたその時だった。


「エウファミア! 上だ!」


「……ご主人さま? ……生きて……?」


 さらに声を張り上げる。


「上に撃てと言ってるんだッ! ぼくの言うことを聞けないのかっ! エウファミアっ!」


「は、はい!」


 エウファミアの手から放たれた光球は、巨大な衝撃波を発生させながら天空高く上昇していく。

 雲を突き破り、成層圏を越えて宇宙空間へ。

 やがて、太陽がもう一つ現れたかのような閃光が走った。

 軌道上で起こった大爆発は、惑星全体を震わせた。

 少年時代を地震大国で暮らしながらも経験したこともないような大地震だった。

 揺れは一〇分近くも続き、立っていることもできなかった。

 空には昼間だというのにオーロラが輝き、対岸にあるバボサの街からはいくつも煙が上がっている。

 神殿も一部が崩落し、難を逃れた信者たちはその場で祈りを捧げていた。


「くっ、なんて威力だ。勝負は預ける。お前にかまっている暇はなくなった。王として、事の対応にあたらねばならん」


 透は去って行った。傍らに――――の姿はない。

 あるいは、最初からいなかったのかもしれない。

 正一に駆け寄ろうとしてた香奈は、一瞬立ち止まって何か言いかけた。

 しかし、かぶりを振って透に続く。


「レイナ。あなたも来なさい」


「ママ……ママは……」


 困惑したような表情で、レイナは香奈と正一を交互に見た。


「いいから早く。お父様を一人にしてはなりません。私たちが支えなければならないのです。家族なのですよ」


「うん……」


 レイナは去り際、正一に叫んだ。


「また、学院で!」


 正一はレイナに微笑みかけると、香奈を見た。

 香奈もまた、正一を見つめ返した。

 見つめ合う時間は、ほんの数秒でしかない。

 しかし、時間の流れは相対的なものであり、時間を意識する人間の心が作用する。

 一瞬でもあり、また永遠でもあった。


『さよなら』


 声はしなかった。唇の動きだけで、香奈はそう言った。

 正一は全てを察した。

 その瞳にあるのは、覚悟だ。

 そこには夫を支える妻がおり、子を見守る母がおり、国を導く王妃の姿があった。

 香奈はそう生きることを覚悟したのだ。

 若者にとって、愛は感覚だ。

 しかし、大人にとって愛は覚悟だ。

 もはや、香奈の中に正一の居場所は無い。


「……さよなら」


 正一がその言葉を口にした時、全てが終わった。

 いや、とうの昔に終わっていたのだ。

 失ったものは、結局失われたまま。

 取り返すことも、やり直すこともできない。

 過ぎ去りし日々は、二度と再び戻ることはない。

 全ては流れ移ろいゆく。

 香奈たちの姿が見えなくなってから、ようやく正一は涙を流した。


「ご主人さま……泣かないで。エウファミアがいつまでも一緒にいるのです」


 エウファミアが手を握ってくれた。

 これでよかったのだ。

 正一自身もまた、いつしか変わっていたのだから。

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