第22話 世界崩壊


「ここの一基だけじゃ処理能力が足りない。再構築に失敗すれば、どちらの世界も消え去るぞ」


「無茶を承知でも試す価値はあるさ。正一! 俺は昔から、お前のそういう臆病なところがどうしても好きになれなかったんだ!」


 同じ速度で同じ方向に動いている者同士だけが会話できる。

 他の音はドップラー効果によって歪み、著しく低くなって聞き取れなくなるのだ。

 迫る拳をかわそうとしたが、頬を少しかすった。

 しかし、運動エネルギーは速度の二乗に比例する。

 まるで大砲に撃たれたような衝撃だった。

 ただし、正一も加速に耐えるべく肉体を魔力で強化している。

 がら空きになった透の腹に向けて蹴りを放つが、体勢が悪く浅い。

 それでもそこそこの打撃は与えただろう。

 加速され歪んだ世界で、正一と透は拳と拳の応酬を続けた。

 空気は全身にまとわりつくゲル状に感じられた。

 放熱が追いつかない。

 体温が果てしなく上昇していく。

 拳が大気の断熱圧縮で燃え始める。


「甘いぞ!」


 透の手が組み合わされ、巨大な火球が形作られる。

 目の前で爆発し、正一の身体は中に浮いた。

 空中に漂う正一めがけ、周囲を覆い尽くすほどの無数の火球が迫っていた。


「ぐっ……」


 身体を丸め、爆風と高熱にひたすら耐える。

 加速状態であっても、落下速度は九・八メートル毎秒から変わることはない。

 実際には空気抵抗があるため、さらに遅い。

 体感的には、宙に浮けば動けなくなるのと同じだ。

 できることはない。

 炎の中、ひたすら耐え続けるしかできなかった。

 牢の中で培った忍耐力だけが勝負だ。

 あと、どれだけ耐えられるだろうか。


「さすが透だ。攻撃魔法ではとても敵わないな」


 正一は独りごちた。

 無数の爆炎が周囲を覆い尽くす。

 透の最も得意とするファイアボールの魔法だ。

 威力は往年のそれと全く遜色がない。

 熱と衝撃波にさらされつつも、正一は不思議と笑っていた。


「懐かしいな。何もかも」


 正一の脳裏に、この世界に来てから最初の一年、透や香奈とともに駆け抜けた戦場が思い起こされていた。

 正一が切り込み、透が魔法で援護する。

 傷付くことがあっても、香奈が治療をしてくれる。

 三人は合わせて一つだった。

 誰にも、一度たりとも負けたことはなかった。

 辛いときも、お互いに励まし合っていた。

 透と香奈になら、安心して背中を任せられた。

 決して良い思い出でだけではない。

 リカルダと出会ったベヘタルの戦いもそうだ。

 むしろ、辛いことの方が多かった。

 血なまぐさい世界だ。

 しかし、それでも正一にとっては、かけがえのない青春だったのだ。

 ともに笑い、ともに泣いた、かけがえのない友。

 もう二度と戻ることはない。

 帰ることはできない。

 時は流れ、何もかもが変わってしまった。

 不意に攻撃がやんだ。

 爆炎の向こうで、透の姿が止まって見えた。


「……」


 透は加速をやめている。

 少しだけ待って、正一も加速を解除した。

 直後、身体ごと急激に放物線を描いて飛び始めるように感じられる。


「ご主人さまっ!」


 エウファミアが二人の間に割り込もうと走り始めた。


「止まれエウファミア! 手出しは許さんっ!」


 正一が叫ぶと、エウファミアはビクッと全身を震わせて足を止めた。

 これは正一と透の戦いなのだ。

 どうやらエウファミアもわかってくれたらしい。

 着地と同時に再加速する。

 加速によって重力加速度も体感的に減るため、地面と靴底の摩擦も減り、滑りやすくなる。

 走るためには、柔らかい天然ゴム製の靴底でなければならない。

 摩擦熱によって溶け出したゴムが粘着性を発揮し、それによって安定性を補う必要があるのだ。

 そして、その靴底はすでに尽きつつある。

 もちろん、全身の筋肉や骨格も加速に応じた発熱と負荷を受ける。

 体温が果てしなく上昇していくと、六〇度を超えたあたりで肉体を構成するタンパク質の変性が起こり始める。

 肉体、つまり水とタンパク質の熱伝導率は決まっているため、高速加速中は魔法による冷却も不可能だった。

 限界が近づいていた。

 しかし、それは透も同じ事だ。

 透に肉薄し、渾身の拳を腹にたたき込んだ。

 同時に加速を解除する。


「ぐおっ!」


 透は直線を描いて吹き飛び、柱にぶつかって止まる。

 そのまま落下し、膝を付いた。

 透の後ろでは柱に亀裂が入り、埃を煙のように巻き上げて崩れ落ちた。

 正一は立っている。

 今はまだ。


「加速中に別の魔法を使うのは無茶だったな。ぼくたちはどちらも、全盛期より魔力も体力も落ちているはずだ。そりゃあバテるに決まってる」


 額に脂汗を浮かべながらも、透は顔を上げた。


「ぐ……ぐふっ!」


 透は多量の血を吐いた。

 内臓にかなりの損傷を受けているようだ。

 正一の拳が砕けるほどの力を込めたのだ。

 原形をとどめているだけでも大したものだった。


「ふふ……一方的に……耐えていたのは……そのためか」


「待つことには慣れているんでね。あまり喋らないほうがいいぞ。形が残っているだけでもたいしたもんだ」


 透は唇を噛みしめた。


「待つ? ……俺も……待ったさ。……香奈の中からお前が消えるまで、何年も。……いや、今もだ。今も消えちゃいない。だからまだ、俺はお前と戦う! 戦い続けなければならん! ……リカルダ!」


 リカルダと呼ばれた女は、顔を覆っていたフードを外した。

 赤い瞳が輝く。

 やはり魔族だ。

 それも、前日の夜に宿屋でギターを弾いていた女だ。

 そしてリカルダという名前は、酒場のマスターの娘だ。

 不意に、正一はリカルダに似た女に何度も会っているのを思いだした。

 カラコル島のカフェ。

 ハンバーガーショップ。

 楽器屋。

 列車の中。

 人族の国で、魔族は少数派だ。

 なのに、気がつけばこの女はいつも近くにいた。

 風景に溶け込みながら。

 認識できない、意識の外で。


「仰せのままに。我があるじ」


 何よりも、最初にこの世界に来たとき、フェルナンド王の側にいた魔術師はこの女ではなかったか。

 リカルダは両手を伸ばし、透に向けた。

 巨大な魔力の奔流が透の身体に流れ込む。


「危険だ。人族に魔族の魔力を注入すると、拒絶反応で最悪死ぬぞ」


「お前に負ければ同じ事だ! 俺はお前にだけは負けるわけにはいかない!」


 透は両の拳を合わせた。

 拳に黒い炎をまとい、跳躍で距離を詰めてくる。


「もうやめろ! 本当に死んでしまうぞ!」


「黙れ! 黙れ黙れ黙れ! 俺はずっと香奈が好きだった! なのに、香奈の中にはいつもお前がいた! いつもそばに居た、お前が!」


 一撃一撃が重い。

 拳を諫めるのに気を取られ、透の膝蹴りに気付かなかった。

 みぞおちに食らい、正一は膝を付く。


「中学の頃からだ。いつもお前は俺の邪魔ばかりしやがる。香奈はいつだって正一、正一って! お前さえいなければと思ったよ! そこに現れたのが、リカルダだ。中学の帰り道、俺の前に現れた。時空の魔女と名乗ったよ」


「バカな……それじゃ順番がおかしい……」


「時空という言葉の意味を考えろよ正一!」


 黒く燃える拳が迫る。正一は身をよじって躱し、透の右肘めがけて回し蹴りをたたき込んだ。


「ぐあっ……!」


 透の顔が歪む。

 右腕の古傷は、今に至っても透を蝕んでいたらしい。


「時空の意味……? 空間と……時間……そうか、時間も!」


 つまり、異世界転移は空間だけでなく時間も移動が可能なのだ。

 そもそも時間じたいが縦横高さの三次元に、もう一次元を加えた時空間の軸でしかない。

 異世界という別次元に移動できる以上、時間を移動できない訳がないのだ。

 正一は加速して距離を取った。

 たった今まで正一がいた地面に、巨大なクレーターが現れる。

 膝に手をついて呼吸を整えるが、正一の体力や魔力も尽きつつあった。

 不意に、正一は全てを悟った。


「そうか……そういう事だったのか」


「そうだ! ようやく気付いたのかマヌケ! 俺はお前が嫌いだ! 最初から嫌いだった! 馬鹿げた話さ、香奈と二人でお前がいない世界に異世界転生できると思ったのに、お前まで付いてくるなんてな!」


 透と正一の間に、最初から友情など無かった。

 友達であってほしいと思っていたのは、正一だけだったのだ。


「そうか……ぼくは……巻き込まれただけだったのか」


「気付くのが遅いぜ! 監獄に放り込んだのは、せめてもの情けだったんだ! お前を殺せば香奈が悲しむからな! なのにお前はのこのこと脱獄しやがって! こうなればあらゆる時間、あらゆる空間、あらゆる次元からお前を消すしかない! お前がいる限り、香奈の全てを俺のものにすることはできんのだ!」


 透の手から一〇メートルはありそうな黒い火球が現れ、正一に迫ってくる。

 手の甲に障壁を展開し、火球を斜めに弾く。

 エウファミアの光球に比べれば、威力は比較にならない。

 強力とはいっても、あくまでも人間や通常の魔族と比べての話だ。


「……?」


 不意に、透がニヤリと笑う姿が見えた。

 目の前五センチの距離、まさしく目と鼻の先だ。

 加速して距離を詰めたらしい。


「きゃあああああああああっ!」


 悲鳴を上げたのはエウファミアだ。

 何があったのか、一瞬理解できなかった。

 透の貫手が正一の胸を貫いていたのだ。


「火球は……囮か……」


「気付くのが遅いぜ。俺の勝ちだ、正一。……死ね!」


 透が貫手を引き抜くと、周囲に赤い霧がかかった。

 正一の血が噴き出したのだ。

 そのまま正一は倒れ、いびつな笑みを浮かべて見下ろす透が立っていた。


「うああああああああああああっ!」


 絶叫とともに、視界の中に小さな影が躍り込んだ。

 エウファミアの拳は透の顎を捉え、闘技場の反対側まで吹き飛ばした。


「ご主人さまっ!」


 エウファミアは正一に駆け寄ると、涙で顔中を歪ませながら正一を抱き起こそうとする。


「……心臓が……! やだ……正一さま……死んじゃやだよう……」


 透の貫手によって、正一の心臓は致命的な損傷を受けていた。

 貫かれた穴から重力に従って血が流れ、目の前が暗くなっていく。

 即死確実の深手であり、何をやったとしてももう助からない。

 全身から力が抜けた。

 ひどく寒い。

 正一はどうにか手をエウファミアの頬に持って行こうとしたが、途中で力尽きてしまう。

 もう、これ以上一ミリたりとも動くことはできない。

 意識を保てるのもあとわずかだ。

 血液中に蓄えられた酸素が尽きたとき、正一の人生は終わる。

 エウファミアは正一の胸に顔を埋め、全身で泣いていた。

 まるで、世界が終わってしまったかのような嘆きだった。

 正一は不思議と安らいでいた。

 自分のためにこれほどまでに泣いてくれる人が、今までにいただろうか。

 いや、ない。

 負けは負けで構わない。

 しかし、この後エウファミアはどうやって生きていくのだろうか。

 それだけが心残りだった。

 ひとしきり泣いたエウファミアが立ち上がる。

 拳を固く握りしめていた。

 髪は逆立ち、周りの空気までもが震えている。

 ここまでの怒りを目の当たりにしたことは、生涯を通じて初だった。

 瓦礫に埋もれていた透が身を起こすのが見える。


「トール・アキハラ。……お前はボクから両親だけでなく、正一さままで奪った! 許さない……お前だけは……お前だけは絶対に許さない! ……死ねっ! 死ねっ! 死んでしまえっ!」


 エウファミアの手から太陽にも似た白い光が現れ、球形にエネルギーが凝縮していく。

 周囲が見るからに暗くなり、気温が急激に下がり始めた。

 あたりの地面に霜が降り始める。

 大気がプラズマ化し、電光を放っている。

 周囲の物質が持つ、あらゆるエネルギーが手のひらに収斂しつつあった。


「ご主人さまのいない世界なんて、ボクはいらない! みんな一緒に滅んでしまえ! クォンタム・ディストラクション! シャイニング・ディスラプター!」


 エウファミアの手から光球が放たれんとしたその時だった。


「もうやめてえッ!」


 間に割り込んできたのは、香奈だった。

 後ろにはレイナとマリアナが必死の形相で走ってくるのが見える。

 エウファミアの光球はさらに温度を上げ、巨大化していった。

 その莫大なエネルギーによって島の土壌や人間、海水や空気を構成する物質は分子結合を維持できなくなり、構成元素も魔法の影響で原子核が中性子と陽子に分解していく。

 放出されるのは、膨大なエネルギーと放射線だ。

 解放された中性子はまた別の原子核と衝突し、それによって次々と連鎖反応的にエネルギーに変換され、そのエネルギーがまた海水を、空気を、土壌をエネルギーに換えていく。

 質量とエネルギーはその本質において同じであった。

 かつて梁屋和尚がアインシュタインを引き合いに教えてくれたことだった。

 正一とて例外ではない。

 身体を構成する元素がエネルギーに変換され、周囲を破壊しながら飛び散っていく。

 島が、この惑星が、いや元々不安定だった宇宙そのものがエネルギーと化して分解したのかもしれない。

 主観的には同じ事だ。

 すでに正一の身体は痕跡すら残さず消滅していた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る