第21話 魔王と勇者

 朝日が昇ろうとしていた。

 漆黒だった空は群青から青へ、そして徐々に橙色に染まりつつある。

 正一の駆る自動車は快調に飛ばしていた。

 この世界ではまだ自動車は開発段階で、試作品を回してもらった物である。

 おそらく、全世界で一〇〇台も無いだろう。

 したがって、運転免許という制度も存在しない。

 正一は地球での免許は持っていなかったが、この車の運転方法が地球のそれとは大きく異なる事はわかった。

 足踏みペダルは三つ並んでいる。

 左はクラッチ連動の二速ギヤ。

 中央はリバース。

 右はブレーキだ。

 スロットルはハンドルに付いた小さなレバーで、これまたハンドルに付いた進角レバーを同時に操作する。

 サイドバルブのエンジンはバタバタとやかましいが、機械の鼓動を感じる。

 スピードメーターの数字が正しければ、時速七〇キロは出ているはずだ。

 意外とスピードが出る。

 道が良ければもっと出るだろう。

 道が悪いので乗り心地はさほど良くないが、乗り心地を良くするために様々な工夫が施されている。

 チューブ入りゴムタイヤとスポークホイールは、基本的に自転車と同じものを車重に応じて強化したもの。

 サスペンションは、馬車と同じ板バネに油圧ダンパーを付けたものだ。

 これ以上はアスファルトの舗装が無ければ良くならないだろう。

 ヘッドライトはなんと、アセチレンのガス灯である。

 明るさだけなら地球のものと遜色がないのだが、いずれ電灯に取って代わられるだろう。

 自動車がほとんど無いのだから、当然ガソリンスタンドも無い。

 燃料は染み抜き用のベンジンだ。

 トランクには一斗缶入りのベンジンが満載されていた。

 燃費は悪く、港町バポサまで持つかどうかはわからない。

 流れる景色を眺めながら、正一は透との何気ない会話を思い出していた。


『いつか地球に戻ったら、車を買おう。もちろんレクサスの赤いコンパーチブルだ。三人で思いっきり、タイヤがすり切れるまで走ろう。北海道でも、沖縄でも。疲れたら道の駅でソフトクリームなんか買っちゃって、インスタにアップして……』


 今となっては遠い夢かもしれない。

 透は自動車が好きだった。

 分かれ道に来た。

 この世界のインフラは基本的に雑なので、道案内の青看板などは無い。

 だが、手書きの立て看板がその役割を果たしていた。


「ええと、ここは……」


「右です、ご主人さま」


「ああ、そうでしたね」


 正一はアクセルを開けようとしてどうにか踏みとどまり、ブレーキを踏んだ。


「なぜあなたが乗っているのですか? エウファミア様」


 エウファミアは前席と後部席の間に入り込んでいたらしい。


「お供しようかと」


「引き返します」


 ギヤをバックに入れようとするのをエウファミアが止めた。


「ご主人さまは言いましたね。そろそろボクも自分の幸せを考えてもいい、と」


「確かに私はそう言いました。ですが、私が何のためにあなたがたを置いてきたと思うのですか。私の気持ちはどうなるのです」


「ご主人さまと共にあるのがボクの幸せなのです。ボクが望み、ボクが決めたことなのです」


「その考えすらも、単なる視野狭窄にすぎません。経験を積めば、他のより良い選択肢が見えてきます。はっきり言いますが、エウファミア様の相手としては私は異常ですよ。いずれ必ず素敵な殿方が――」


「そこまでです」


「フガッ」


 エウファミアは正一の口を押さえた。


「それ以上はいけないのです。それを言ってしまうと、ご主人さまは『若い子に好かれてると思ってしまう自意識過剰の痛いおじさん』と区別を付けるのが難しい、微妙な存在になってしまいます。ちょっとキモいです」


「すみません。謝ります。ごめんなさい」


 正一は本気で謝った。


「ボクは正一さまの奴隷なのです。所有物なのです。道具らしく使うのが本来あるべき姿なのです。それに……」


 エウファミアは車を飛び降り、両手を組み合わせた。

 その中で太陽と見まごう光が、周囲のエネルギーを収束させていく。


「それに、ご主人さまは弱いので、ボクがいなければすぐに殺されてしまいます」


 それは正一を消し飛ばすのにじゅうぶんなエネルギーを秘めていた。

 事実上の脅迫である。


「……わかりました。……仕方がありませんね」


「ダメと言われても、ボクがご主人さまを守るのです!」


 正一は運転席を降りると、助手席のドアを開け、深く頭を下げた。


「こちらの席へどうぞ、魔王様」


 エウファミアは笑顔で助手席に乗り込んだ。


「飛ばしますよ。シートベルトを……いや、何でもありません」


 シートベルトなど最初から付いていないのだ。


 *


 オルミガ王国、バポサ。

 聖地カラコル島への定期便が行き来するこの港町に、エウファミアを伴って訪れるのは初だった。

 オクタビオやマリアナと初めて来てから、もう三年になる。

 相変わらず定期船は一日に一往復しかないので、今夜はこの町に泊まることになる。


「ここが……いつもご主人さまが使う宿ですか?」


「はい。ここが一番安いので」


 宿は男女別相部屋で、寝室には三段ベッドがずらりと並ぶ。

 食事は自炊で、談話室にはお互いに見知らぬ旅人たちが一夜限りの友情を交わしていた。

 人族と魔族が関係なく談笑する光景は、高級宿ではあり得ないことだ。

 魔族の女が宴の中心で、ギターを弾きながら歌っている。

 その女を囲むようにして、ある者はグラスを傾け、またある者は静かにたそがれている。

 誰もが涙を流していた。


「ご主人さま。どうしてみんな泣いているのですか?」


「愛と青春を歌った歌詞ですからね。二度と戻らない若い頃を思い出すと、どうしても泣けてくるのでしょう。エウファミア様にも、いずれわかる日が来ます」


「ご主人さまも?」


「あるいは。それより、歌は静かに聴くものですよ」


 曲が終わると、拍手と口笛があたりを包む。


「……」


 エウファミアは物欲しそうに女を見つめていた。

 女はその視線に気付いたのか手招きをする。


「いらっしゃい。教えてあげるから、一緒に歌いましょう」


 正一が軽く背中を叩いてやると、エウファミアは女の元に駆け寄った。


「友達が……ギター初めて。ちょっと興味ある、です」


「そう。でもね、結局形から入るのが一番いいのよ。始めてしまえば、腕もいずれ付いてくるわ。まず持ち方はね――」


 悪戦苦闘しながらも弦をはじくエウファミアを見て、正一は遠い昔を思い出していた。

 正一がギターを始めたのも、透に影響されての事だったのだ。

 今にして思えば、なぜやめてしまったのかが悔やまれる。

 才能は無かった。

 それはすぐにわかった。

 あるいは、無意識に対抗していただけなのかもしれない。

 透はあくまでも野球のついでといったところで、事故に遭って以来ギターを辞めていた。

 もしあの事故が無ければ、野球とギターの二足のわらじで、どちらか、あるいは両方とも成功していたかもしれない。

 そうすれば、それに引きずられて正一も続けていたかもしれなかった。


「……」


 正一はかぶりを振った。

 結局、自分には向いていなかったのだ。

 疲れたのか、エウファミアはいつの間にか正一の膝で寝ていた。


「お疲れ様ね」


 ギターの女が正一の隣に腰を下ろした。

 年齢は人間でいえば三〇歳ほどに見えるが、魔族の年齢は当てにならない。


「ギターをこの子に教えてくださり、ありがとうございます」


「いいのよ。私も楽しかったわ」


 正一はエウファミアの髪をそっと撫でた。


「この子を寝室まで連れて行ってもらえませんか。女子寝室は男子禁制なので」


「ええ。構わないわ」


「ありがとうございます」


 女はエウファミアを抱え上げた。


「可愛い子ね。あなたの子?」


「いいえ。訳あって一緒に旅をしています」


「そう。ところで……あなた、死ぬわ」


「なぜ、そう思うのですか?」


「わかるのよ。私は魔女だから」


 謎めいた言葉を残し、女は寝室へと入っていった。


 *


 翌朝、二人は船で島に渡り、神殿を訪れた。


「ご主人さま。ボクにはこの量子コンピューターが何なのか、サッパリわからないのです。周りの人は神様と言っていますが、どう見ても機械なのです」


 エウファミアの疑問は当然の事だった。


「機械ですよ。神様というのは……まあ、比喩でしょう。少なくとも最初の頃は。能力があまりにも桁外れだったために、いつの間にか神格化されたのでしょうね。誰がいつ作ったのかは本当にわかりません」


「そもそも、コンピューターとは何なのですか?」


「では、まずこれを見てください」


 正一はエウファミアにそろばんを渡した。


「これはご主人さまのそろばんなのです。ボクも使い方を教わって、色んな計算ができるようになったのです。でも、ボクは計算尺のほうが便利だと思うのです」


「計算尺はアナログ計算機で、表示する結果はあくまでも近似値になります。反面、そろばんは断続的な数値を扱うデジタル計算機です。私の故郷ではこれを電気仕掛けで高速、大容量化したものが世の中の全てを動かしていました。それこそ何億、何兆というそろばんが、クッキーほどのサイズの石の中に組み込まれていました」


「SFマンガで読んだのです。パソコンやスマートフォンでしょう?」


「その通りです。誰が持ち込んだネタやら。この国にもすでに初期型の真空管はありますから、エウファミア様が生きている間に実用化されるかもしれませんね。コンピューターとは、ようはお化けそろばんです。ですが、これはそんな次元のものではありません。古代魔族のオーバーテクノロジーですよ」


 正一はエウファミアをコンソールの前に連れて行った。

 キーボードの前に三次元モニターが光を放っている。

 コマンドを打ち込むとアプリケーションが立ち上がり、入力待ちの状態になった。


「キラキラしてきれいなのです」


「きれいなだけではありませんよ。エウファミア様、キーボードで何か好きな言葉を打ち込んでください」


「何でもよいのですか?」


「はい。ただし、一文字だけわざと間違えてください」


「わざとですか?」


「はい。説明のための実験なので、あまり深く考えず気軽に」


 エウファミアはしばらく考えていたが、思いついたのかキーボードを叩いた。

 キーには神聖文字と呼ばれる異文明の文字が刻印され、神官たちだけが読むことができる。

 しかし、どこから見てもごく普通のパソコン用キーボードだ。

 なぜこんなものがあるのかはわからないが、正一はエウファミアに読み書きを教えていた。


「ボクがいちばん好きなのは、もちろん……S、H、O、U、I、『D』、H、I」


 モニター上には『SHOUICHI』と正しく入力されていた。


「あれっ? 確かにCの代わりにDを打ち込んだのです」


「はい。エウファミア様がどこを間違えるか、八つの可能性がありましたね。入力を始めたとき、世界は八つに分岐したのです。この世界のエウファミア様Aは『C』を間違えましたが、同時に重なり合った別のエウファミア様Bは『S』を、エウファミア様Cは『H』を間違えました」


「ボクがそんなにたくさんいるのですか?」


「はい。この場合は八人。全てがよく似ているが少しずつ違う異世界にいる、本物のエウファミア様の分身です。もちろん現実にはそんなことはなくて、量子ビットの働きを説明するための例え話ですがね。コンピューターは八人の中で多数決を行って、この結果を確率的に導き出しました。実際には専用のソフトウェアを使って、より大規模な処理を行っています。例えば換字式の暗号などは、これを使えば丸裸になりますね」


「なんだかよくわからないのです」


「まあ、私も全て理解しているわけではありません。梁屋和尚なら知っていたのでしょうけどね……」


 *


 そうしているうちに、約束の時間が来た。

 桟橋にオルミガ王国の国章を掲げた大型船が接岸し、護衛を伴って一人の男が神殿に向かってくる。

 その男の姿を見た時、正一は髪の毛が逆立つのを感じた。

 隣にはローブのフードで顔を隠した女が傅く。

 エウファミアが一歩前へ出るが、正一はそれを制した。


「久しぶりだな。来ると思っていたよ、正一」


 正一はポケットから封筒を取り出した。


「ぼくを手紙で呼び出したのは透だろ。筆跡ってのは案外変わらないもんだね」


 透は年月を重ねても、昔日の面影を大きく残していた。


「ああ。娘が世話になっているようで、礼を言うぜ。だが勘違いするなよ。年上の異性に憧れるのは、あの年頃にはよくあることだ」


「わかっている。誰にでも似たような経験はあるものさ。想いが届かないことも含めて、ね。透……なぜ香奈を裏切った?」


 透は腕組みをしたまま口角を歪めた。


「裏切った? それは違うな。俺は香奈を愛している。昔も今も、おそらくはこれからも」


「ぼくたちの地球に誓うか?」


「誓う」


 透は頷いて右手を挙げた。その目に嘘はないように思えた。


「……そうか。そう言われてはこれ以上の深追いはできないな。夫婦の間の問題だからね。でも、できればよく話し合ってくれ」


「わかった。お前の言うとおりにする」


 二人は笑い合った。

 それだけで通じ合えた。

 長い時を経ても、何も変わらない。


「よかった。リカルダとの間には何もないんだね?」


 透の目に、正一が見たこともない異様な光が浮かんだ。

 その強烈な違和感に、正一は背筋に冷たいものが走るのを感じた。

 正一の知っている透ではない。

 透は続けた。


「なあ正一。俺は夫であると同時に国王だ。国家のために、不本意であってもやらねばならぬこともある。それが仕事、社会人というものだ。王には王の、技師には技師の仕事がある。お互いに大人だ、わかってくれ」


「なるほど、国家の運営には長期的なビジョンが必要だろうからね。ぼくは一平民ではあるが、オルミガの国民だ。絶対王政国家であっても、国家は本質的に国民の集合体であることだし……昔のよしみで、ぼくにもその仕事とやらを教えてくれないか」


 透は答えず、エウファミアをチラリと見た。


「その娘はフェルナンド王の隠し子だな」


「ぼくにもいろいろあってね」


「俺にもいろいろあった。長年離ればなれだった俺たちには、話さなければならないことがたくさんある。……場所を変えよう。こっちだ」


 透に女が続く。

 正一はタオルで汗を拭うと、堅く拳を握りしめ、深呼吸をした。

 カラコル島は大小の円をつなげたような形になっている。

 いわゆるひょうたん型だ。

 神殿はそのうちの小さな方に建っており、大きな方は山頂に巨大な広場があった。

 広場はすり鉢状になっており、スタジアムのような形だ。

 透は正一に背を向けたまま、広場の中へ歩を進める。


「正一。ここはかつて、剣闘士たちが戦って見世物をした場所とも、神に生け贄を捧げた場所とも言われている。しかし、この遺跡を造った人々はどこかへ行ってしまった。どこへ行ったと思う?」


「地球だろう。各地に伝わる巨石文明の原型がこれだ」


「その通りだ。つまり、この世界と地球は、古代においては頻繁な往復があったらしいのだ……」


 広場の中央で、透は正一に向き直った。


「だが、それは正確じゃない。ここは、ある意味では地球そのものだ。ぼくたちは縦、横、高さの三次元に時間を加えた四つの次元しか認識できない。だが、認識できないだけでぼくたちの世界を含めた、無数の世界が平行している……」


「わかっているじゃないか、正一。たとえて言うなら、バベルの塔だよ。ヒトは言葉を使い始めたことで、異なる世界との行き来に困難を来すようになったのさ」


「そうだ。ネアンデルタール人、つまり魔族はバベルの塔を壊さなかった。彼らを認識しなくなったのは、ぼくたちクロマニヨン系の地球人だ」


「そうだ。だが、認識できないことと存在しないことに、どれほどの差がある。地球など、今となっては俺たちの脳の中にしかない。そうなれば、妄想と変わらない。そうは思わないか?」


「かもしれない。現実とは主観でしかないからね」


「そうだ。地球においてはこの世界こそが妄想。まさしく異世界ファンタジーだよ。なあ正一。そろそろ現実を直視する頃だと、俺は思うんだがね」


「はっきり言ったらどうだ、透」


「地球に帰るのさ」


 透の右眉が震えた。


「嘘をつくとき……お前は右眉が震える。変わらないな」


「ふっ。正一に嘘は通じないか。その通りだ。だが、丸っきり嘘じゃない。この世界と地球を融合させるんだ。魔王を集め、量子コンピューターを使って観測者効果で世界を再構築する」


「そして自分にとって都合のよい世界を作るのか。神になろうとでも言うのか?」


「俺たちが失ったものを考えろ! ただ帳尻を合わせるだけだ、この偽善者!」


 透はマントを脱いで投げ捨てた。

 同時に、透の姿が揺らぐ。

 加速だ。

 一瞬遅れて正一も加速する。

 周囲の景色が凍り付き、音が消えた。

 すでに透は眼前一メートルに迫っていた。

 一〇〇分の一に減速した世界の中を、正一と透だけが走る。

 透も同じ能力を身につけていたのだ。

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