第16話 悪夢の呼び声

 週末の午後九時。

 正一は王都の繁華街から一本裏手に入った、小さな店の前に立った。

 レンガ積み二階建ての切妻屋根の建物には、全体にツタが絡まっている。

 指定の店は半地下にあり、入り口は階段を下った先にあった。

 扉を開けるとドアベルが鳴る。

 照明は昔ながらのランプで、蓄音機からは静かなジャズ風の音楽が流れていた。

 寡黙な印象のマスターがグラスを磨くカウンターで、背中が大きく開いた黒いドレスの女がカクテルを傾けていた。

 髪をアップにまとめ、濃いめの化粧をしている。

 場末のシャンソン歌手といった風体で、見事に店内に溶け込んでいた。

 正一は隣に掛け、ジンジャーエールを注文した。


「お酒は……飲まないのね」


「手に入らなかったからね。飲む習慣が無いんだ」


「……ごめんなさい。あなたは二〇年も……あんな暗く、湿った、息苦しいところで……」


 声が震えている。正一は無言で王妃の肩に手を置いた。


「透に詰め寄り、なぜあんなことをしたのか問いただす。ぼくはそのためにこの三年間、八方手を尽くした。エウファミア様を身請けしたのも、学院で働くのも、そのための手段でしかなかった。クーデターの真相を暴露し、透を失脚に追い込む。……予定だった」


 香奈はカクテルに口を付けた。


「まるでモンテ・クリスト伯ね。さしずめレイナはアルベールかしら。あの子、あなたのことすごく気に入ってるわ。エウファミアさんは……エデね。私をメルセデスにして、レイナを辺境の軍隊に入れる?」


『モンテ・クリスト伯』は、フランスの小説家アレクサンドル・デュマが書いた大長編小説だ。

 正一は夏休みの読書感想文で、児童向けに翻案された短縮版を読んだことがある。

 香奈は読書が好きだったので、あるいは全訳版を読んでいるかもしれない。


「事情が変わったんだ。……香奈」


 ショーン・ハリヤーは、かつての幼なじみの前で、佐藤正一に戻っていた。


「どういうこと?」


「この世界は、終わるかもしれない」


「クォンタム教のご神体、ありがたい量子コンピューター様が、お告げという名の計算結果をはじき出したのね」


「ああ。確率は二〇年以内に四〇パーセント。四〇年以内に六〇パーセントとかなり高い」


「でも、あの計算式は個人を個々の分子に見立て、社会全体に対して流体力学的な予測を行うものでしょう? 手下のチンピラに株をやらせて大儲けしてたわね」


 正一は肩を落とした。


「何でもお見通しってわけか」


「王妃ですもの。国内の事は何でも知っているつもり。もっとも、あなたがどこに潜伏しているか知ったのは、入学式の時だけどね。で、どうなの? 私の言ってること、間違ってる?」


「その通りだよ。確かに人間にできる事しか予測できない。だが、近年『魔王』が多数生まれている」


「そう。……カール。同じカクテルをもう一杯ちょうだい」


「かしこまりました」


 マスターが棚から数種類の酒とソフトドリンクを取り出し、氷とともにシェイカーに入れて振り始めた。

 シャカシャカと小気味よい音が響く。


「知ってる? 魔王と呼ばれる強力な魔族はね。人間との交雑によってのみ生まれるのよ」


「ああ。しかし自然に増えることはあり得ない。通常の半魔は子供を産めないからね。女性だけ出産可能な場合もあるが、生まれた子は例外なく不妊だ。つまり根本的にネアンデルタール系の魔族とクロマニヨン系の人族は異種族ということだ。もっとも、例外はあるが」


 頼んだカクテルが出てきた。血のように赤い。


「そう、その例外が地球人。全ての地球人には魔族の遺伝子が二~五パーセント程度含まれているの。地球人とこの世界の人間は亜種の関係なわけね。これは推計だけど、この世界には地球人が一〇〇人前後存在しているはずだわ」


「魔王を増やしているのは誰だ? 魔王が三〇〇人もいれば、この惑星そのものを破壊する事も可能だろう。いや、それどころか……」


「宇宙そのものが崩壊するわね。そもそも魔法じたい、この宇宙の不安定さを逆手に取ったものだもの。独楽の心棒をつつくようなものだわ。やり過ぎると、当然独楽は止まって倒れる」


「教えてくれ」


 香奈は答えず、正面を向いたままカクテルに口を付けた。


「……魔王の力は強大よね。国があなたに手を出せないのも、あなたに魔王が付いていることがわかったから。そうでなければとっくに手を打ってるわ」


「だろうね。ぼくはエウファミア様に守られているおかげで、今生きていられる」


 もっとも、エウファミアにその自覚があるかどうかはわからない。

 一三歳まで工場で過ごし、正一が教えるまで魔法を使うことも知らなかったのだ。

 彼女は卓越した才能を持っていた。

 しかしエウファミアの交友関係は狭く、正一以外の魔法使いはオクタビオしか知らない。

 それが自分の立ち位置を見誤らせている。


「魔王はね。新参者が王位に就いた不安定な国家にとっては、喉から手が出るほど欲しい戦力、いわば超兵器なのよ。地球の核兵器みたいなもの……」


 エウファミアの光球は宇宙空間に達し、強力な電磁波で発電所や電信装置を壊した。

 もし地上で発動していたら、王都の全てが灰も残さず蒸発していた事だろう。


「まさか……」


 正一はカラカラに乾いた喉に、無理やりジンジャーエールを流し込んだ。


「そう、そのまさか。あなたも知ってる人」


「やはり透か! 外遊というのも……」


 香奈はチビチビと飲んでいたカクテルを一気にあおった。


「そ! 子作り旅行! 勇者として地球から召喚された人間からは魔王が、それも生殖能力を持って生まれやすい傾向にあるのよ!」


「なんてこった……」


 つまり、エウファミアの父であるフェルナンド王も地球人だったのだ。

 王侯貴族が出自をねつ造するのは珍しい事ではなく、血統主義の限界はそこにある。


「魔族の女って、美人が多いのよ。知ってるでしょう? それに、いつまでも若いの。私みたいな年増人間と違ってね!」


「何を言ってる。香奈は今でもきれいじゃないか」


 香奈は空のグラスを撫でた。


「ふふ、ありがと。でも魔族の女はね、八〇歳になっても、人間の三〇手前くらいの見た目なのよ。私はもうオバサンだわ。これは人間という種族の限界」


 香奈はもう一杯カクテルを頼もうとした。


「もうよせ」


 香奈は正一の両肩に手を置き、顔を伏せた。肩が震えている。


「放っておいてよ! あなたには……わからないわ! 結婚もしてない、二〇年も引きこもっていたあなたには!」


 心臓をわしづかみにされたような気分だった。


「……そうだな。確かにそうだ」


 香奈はハッとした様子で口許に手を当てた。


「……ごめんなさい。こんなこと、言うつもりじゃ……」


「いや。事実だからね。気にしなくていい」


 香奈は顔をそらし、立ち上がった。


「……今日は帰るわ。また何かあれば、呼んでちょうだい。じゃあね、正一」


 無理矢理な笑顔で手を振ると、香奈は振り返ることなく店を出て行った。

 正一は椅子を回し、マスターに向き直る。

 マスターは全ての話を聞きながら、無関係を貫いていた。

 マスターの瞳が赤いのに気付く。

 魔族の血が流れているのだろう。


「一杯だけ……ビールをもらえませんか」


「かしこまりました。カナ様から代金はすでに頂いております」


 よく冷えたグラスに、琥珀色の液体が満たされていた。一口飲む。


「苦いですね。こんな苦いものを、なぜみんな喜んで飲むんでしょう」


「『甘い』がすなわち『美味しい』とは限りませんからな。苦い美味しさもあるのですよ」


 苦い、苦いとこぼしながらも正一はグラスを空けた。


「何かが引っかかる。……何だろう」


 しかし、正一はそれ以上考えることができなかった。

 心臓がバクバクと暴れだし、目の前が歪んでものを考えられなくなったからだ。

 立ち上がろうとしてカウンターに手をつくも、上手くいかずに肩から落ちる。


「お客様。大丈夫ですか?」


「……うう……ああ……」


「……なんということだ。ここまで弱い人がいるなんて。まるで初めて酒を飲んだ子供じゃないか。しっかりしなさい、家はどこだい?」


 マスターの声が遠くなっていく。


 *


 夢を見ていた。

 夢の中で、正一は少年に戻っていた。

 突如として地球から召喚され、勇者と呼ばれて魔族と戦っていた時代だ。

『ゲート』を越える事で比類無き魔法の力を手に入れたといっても、しょせんは人間としては、という注意書きが付く。

 当初の正一たちは、魔族に対してとうてい対抗できるものではなかった。

 血のにじむような訓練と幸運に助けられて、ようやく生き残ることができたのだ。

 正一と透は、競うようにして戦果を挙げていった。


「俺はな、正一。お前がいたからここまで生き残ってこられたんだ」


「ぼくは……そんな大したヤツじゃないよ」


 夢の中の透はかぶりを振った。


「いや。お前に負けたくない、お前よりわずかでも強くなりたい、そう思えたからこそ俺はここまで強くなれたんだ」


 見渡せば、焼け焦げて草の一本も生えていない、不毛の大地が地平線まで続いていた。

 崩れた教会では、香奈が膝を付いて頭を垂れているのが見える。

 まるで自分の罪を懺悔しているようであった。

 事実そうだったのだろう。

 埋まりかけた塹壕、絡まった有刺鉄線。

 そして敵味方の無数の死体。

 正一たちとそう変わらない若者がいる。

 老人がいる。女がいる。そして、赤ん坊もいる。

 動く者は何も無かった。

 祈り続ける香奈の瞳に、涙が流れるのが見て取れる。

 正一は拳を握りしめた。


「だが、これが『勇者』のやることか? なあ透。お前はどう思う……?」


「生きるためだ。約束したじゃないか。俺たちが香奈を守る、って。俺たちは、もっともっと強くならなきゃいけない。生き残らなきゃいけない。何を犠牲にしてでも、だ」


「香奈を泣かせてもか?」


「そうだ」


 この時、透はどんな表情をしていたのだろうか。

 どうしても思い出せなかった。


「夫の仇! 死ねっ、この悪魔!」


 瓦礫の山が持ち上がり、一人の魔族が姿を現した。

 若い女で、長い髪が血と泥で顔にへばり付いている。

 怒りに満ちた赤い瞳に気を取られ、対応が一瞬遅れた。

 魔族の女が放った風の刃が、香奈に迫っている。


「間に合えっ!」


 正一は加速し、すんでのところで間に割り込んだ。

 刃が顔を切り裂き、深い傷が付いた。

 だが、どうやら香奈を守り切れたらしい。


「正一! 顔が……」


「いいから! 透!」


「もうやった」


 透のファイアボールにより、その魔族の女が居た場所はクレーターになっていた。

 香奈の治療を受けながらも、女のあの目が、まぶたに焼き付いて離れないのを感じていた。

 なのに、なぜ今まで忘れていたのだろうか。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る