第4話 オルミガの空に

 正一あり余る時間で、梁屋和尚からあらゆることを学んだ。

 しかし、新しい知識を得れば得ただけ、わからないことが果てしなく増えていくのだった。


「梁屋和尚。ぼくは何も知らない愚か者でした。おだてられ、いい気になって借り物の力を振るい、増長して……ぼくは自分が恥ずかしい」


「誰にでも似たような経験はあるものじゃ。気にすることはない……」


「和尚様の教えがあってこそです」


「おぬしなら、ワシがカラコル島に残してきた財産を託すにふさわしいのじゃが」


「財産?」


「世界を支配する力じゃ。量子計算機と心理歴史学という理論を使ってな」


 正一は権力などどうでもよくなっていた。


「和尚様から授けていただいた知恵こそ、ぼくの最大の財産です。そもそも、世界を支配してなんの意味があるのですか? 和尚様。たとえ世界をこの手にしたとしても、人間はいつか死ぬのです」


「つまり、お前さんは世界の支配などどうでもよいと?」


「はい」


「そうか。そう言ってもらえて、ワシも嬉しいよ。ワシの財産も、無意味になってしまったが、それはそれで構わぬ。色即是空か」


 権力も財力も、そんなものはあくまでも物質的な快楽に過ぎない。


「色即是空の意味も、何となくわかってきたような気がします」


「そうか……じゃが、ワシにはいまだにわからぬよ」


「和尚様がですか?」


「悟りに至るのは簡単ではないよ。悟ったつもりになっても、人間そうそうその境地に至ることはできぬのじゃ。悟りという状態を知識として知っていることと、実際にその境地に至ることは別なのじゃ」


「ぼくは自分が恥ずかしい! とんだ思い上がりでした」


「そうじゃ。それでいい。謙虚さを捨てた人間ほど醜いものはないのじゃからな。おぬしは人間であれ」


「人間……」


「そうじゃ。果たせぬ欲望、見果てぬ夢を前に苦悩する。それは決して悪ではない。命ある限り、諦めてはならぬ」


 正一はベッドに横たわると、天井を見た。脳裏に浮かぶのは、香奈や透と過ごした日々。

 彼らはどうしているだろうか。

 香奈も透も、もうとっくに大人になっているはずだった。

 あるいは、どこかの戦場で散ったかもしれない。

 自分を陥れた張本人であるにも関わらず、透の安否が気になった。

 そして、香奈。

 地球にいた頃から、正一と唯一仲良くしてくれる幼なじみの女の子。

 せめて、もう一度顔を見たい。そう思いながら、正一は瞳を閉じた。


「……」


 奇妙な夢を見た。

 会ったこともない小柄な女の子が、心配そうな顔をして正一の顔をのぞき込んでいる夢だった。

 銀色の髪に赤い瞳、少し尖った耳は魔族の特徴だ。

 女の子は寂しそうな瞳で正一を見つめると、そっと正一の髪を撫でるのだった。夢の中で女の子は「お会いできる日を待っているのです」と言った。

 そんな夢だった。

 夢ではあったが、やけに現実感の強い夢だった。

 別の女の子の夢を見ることもあった。

 小柄で痩せ型、それでいて天使のような舌足らずの女の子。

 もう一人、香奈によく似た、少し強気な雰囲気の女の子。


「やっぱり、妄想の産物でしょうか」


「ふむ……。そもそも現実とは、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚といった五感のセンサーから入力された情報を脳で統合処理して生まれるイメージじゃ。現実というものは、案外曖昧なものなのじゃよ」


「つまり、幻覚や幻聴といったものは現実と区別がつかない?」


「うむ。じゃが、まだおぬしは夢を夢と認識できておる。まだ狂ってはおらぬよ」


「だと、いいのですが」


「あるいは、量子の泡の向こうの現実を見ているのやも知れぬな。なにせ、ここは地球が存在する宇宙とは別の次元じゃ。何が起こってもおかしくはない。あるいは――」


 梁屋和尚は言葉を切った。


「この世界そのものが、何者かの見ている夢かもしれぬ」


 *


 そしてまた、長い長い時が流れた。

 ある日、正一は下腹部の違和感に気付いた。

 右側の骨盤と臍の中間あたりにゴワゴワとした何かが起こりつつある。

 熱は上がり、食事もろくに取れなかった。

 呼吸するだけで腹部に激痛が走る。

 鉄格子を何度も叩いて看守を呼ぶが、仮病だと取り付く島もない。

 看守も何度も代替わりしており、今は粗暴な感じの若者だった。

 梁屋和尚が心配そうに声を掛けた。


「大丈夫か、正一」


「和尚……私はもう……ダメかもしれません」


「症状からすると盲腸炎の可能性が高いな。すぐに適切な治療を受けられれば、何ということはない病気じゃ。しかし放置すれば……残念だが死ぬじゃろう」


「そんな……。そう……ですか」


 この暗く湿った冷たい牢獄で、人生が終わってしまうのだ。

 しかし、不思議と穏やかな気分だった。

 梁屋和尚から学んだ様々な知識は、正一の世界を広げてくれたのだ。

 自由に外を歩いていた時よりも、ずっと。


「じゃが、心配するな。ワシが助けてやる。ワシもある程度の治癒魔法を使えるのだ」


「ですが、この牢で魔法は封じられています……。扉を開けないと……」


「合鍵がある」


「何ですって! なぜ……もっと早く出してくれなかったのです」


「数日前にようやく完成したのじゃ。今行く」


 ガチャリと音がして、隣の牢が開いた。引きずるような音で何かが這ってくる。

 ボロボロの布をまとった老人が姿を現した。


「和尚様……和尚様のお顔を見られる日を……いつも夢見ておりました……」


「ワシもじゃ、正一」


 梁屋和尚は驚くほど小柄な老人で、真っ白な髪と髭で垢だらけの顔が覆われていた。

 しかし、その鋭い瞳は正一がイメージしていた通りだった。

 和尚は膝立ちになり、白い鍵を鍵穴に差し込んだ。

 音もなく牢が開く。


「和尚様……どうやってその鍵を……」


 和尚は膝から下が切り落とされた左足を指さした。


「ワシの……脚の骨じゃよ。脆い材質じゃ、あまり何度も使えるものではない」


「そんな、無茶苦茶ですよ!」


 鍵は床や壁にこすりつけて削り出したものらしい。


「あらゆる持ち物を取り上げようと、ワシ自身だけは没収できぬ。おぬしと出会う前、看守がワシに気まぐれで拷問をしてな。その時に切り落とされたのじゃよ」


「酷い……。そんなこと、許されていいはずがない!」


 まるで自分の脚を切り落とされたような気持ちだった。

 しかし、梁屋和尚はわずかな笑みを浮かべている。


「じゃが、おかげで材料が手に入った。正一、ワシはおぬしをどうにかして外へ出してやりたかったのじゃ。……ゴホッ、ゴホッ」


「和尚様……。いけません。安静にしてください。和尚様にこそ治療が必要なのです」


「構わぬ。どうせワシは長くない。生命に定められた寿命じゃよ」


「寿命……」


 梁屋和尚は、地球でも見たことのないほどの高齢に見えた。

 若く見積もっても一〇〇歳は超えているだろう。

 年齢を聞いたことはなかった。

 この牢では時間の流れがほとんど無意味になっていたのだ。


「運命といってもいい。今が、ワシのその時なのじゃ。今以上に体力が衰えてしまえば、おぬしを治すこともできなくなる。さあ、ベッドに横になれ」


 梁屋和尚は見るからに顔色が悪く、むしろ正一よりも死にそうに思えた。


「いけません。そんな身体で魔法を使えば、和尚様の命が……!」


「構わぬ。ただ永らえるだけが命ではない。いかに使うかが問題なのだ。何度も言ったことじゃが、そうそう簡単に悟りなど得られぬ。せめて自分の生きた証を、どうにか残したい。俗な考えじゃが、ワシもまた人間なのだ。頼む、ワシの最後の頼みを聞いてくれぬか」


 梁屋和尚は正一をベッドに横たえると、合掌して般若心経を唱え始めた。


「観自在菩薩行深般若波羅蜜多――」


 梁屋和尚の右手が輝き出す。


「和尚様……やめてください。私は……」


「即説呪曰羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶般若心経!」


 右手の光が、正一の患部に吸い込まれていった。

 細胞の入れ替わりを感じる。

 炎症を起こしていた虫垂が修復されていく。

 痛みは完全に消えた。正一は跳ね起きると、梁屋和尚を抱き起こした。

 和尚の身体は驚くほど軽く、大切に扱わなければ折れてしまいそうだった。


「和尚! しっかりしてください、今看守を」


「よせ、無駄じゃ。正一……聞くのだ。いいか、ワシが死んだら、三日間死体が牢に安置される。お前は三日目になったらワシの死体をお前のベッドに置き、代わりに死体袋に入れ。あとは看守たちが勝手に外へ運び出すだろう……」


「そんな! 私にはできません!」


「やるのだ。そしてワシの遺産を継ぐのじゃ……いいな」


「梁屋和尚! 私を置いていかないでください!」


「すまぬ……だが、これはワシのワガママなのじゃ。いつの間にか正一、おぬしを……我が子のように思ってしまったのでな……」


「私も……私も和尚様を、本当の親のように思っていました」


 梁屋和尚は力なく微笑み、正一の頬に干からびた手を添えた。


「じゃが、ワシはおぬしの本当の父ではない。いつか、地球に帰るのじゃ……そしておぬしの本当の親にゴホッ、ゴホッ……」


 ひどく苦しそうだった。


「あまり喋ってはいけません」


「いいのじゃ。……正一……おぬしと出会って……ワシは幸せじゃったよ。……ワシは結婚はせなんだが、きっと……家族というのは……こういう――」


 そのまま梁屋和尚は事切れ、二度と動かなくなった。

 元々氷のようだった体温も、どんどん冷たくなっていく。


「和尚様……」


 梁屋和尚は驚くほど穏やかな顔をしていた。

 幸せだった、と言った。

 このような牢獄で、陽の光も浴びられず、正一の他に話し相手すらいない世界で、幸せを見つけた。

 だが、ここから先は正一一人だ。


「やってみます。見守ってください」


 梁屋和尚の遺言に従い、正一は元の牢に和尚の遺体を横たえた。

 巡回に来た看守はさほど動揺した様子もなく、「ようやく死んだか」などと下卑たことを言い放った。

 湧き上がる怒りを堪え、正一はベッドに横たわり、毛布を被り続けた。

 そして三日目。

 正一は梁屋和尚の遺体を死体袋から取り出し、固く抱きしめた。

 かなりの腐臭がする。

 いかなる高潔な魂を持とうとも、その生命が失われればただの物体に過ぎないのだ。

 そうは思いつつも、乱暴に扱おうなどという気にはなれなかった。


「和尚様。いよいよお別れです。本当に……本当にありがとうございました」


 答えはない。

 和尚を壁際に顔が向くよう横たえる。

 すでに死後硬直は解けていた。

 毛布をかぶせてさも寝ているかのように皺をつける。

 正一は和尚の牢に入ると、空の死体袋にもぐり込んだ。あとは待つだけだ。


「……ったく、面倒くせえなあ」


「まったくだ。それにこの臭い! 耐えられん。早く済ませようぜ、ちゃちゃっとな」


 看守たちは中身の確認すらも面倒臭がり、正一の入った袋をそのまま戸板に乗せると、階段を上り始めた。

 潮の香りがする。このクカラチャ要塞は絶海の孤島だ。

 このまま海中に投棄するつもりらしい。

 梁屋和尚の教えを思い出す。

 最も酸素を必要とするのは脳である。

 あらかじめ大量の酸素を、何度も繰り返し深呼吸して取り込んでおく事で、かなりの長時間呼吸しなくとも意識を保っていられるのだ。

 訓練や体質によるが、二分程度は余裕のはずだ。


「重りは? 無いと浮いてくるぜ」


「その辺の石ころでいいだろ。ロープで縛ればいい」


 両足に重りが縛り付けられた。


「いくぞ、せーのっ!」


「ほらよっ!」


 身体が中に浮き、重力が消えるのを感じた。

 水面までどのくらい高さがあるのかはわからず、岩などが飛び出ている可能性もある。

 しかし、岩にぶつかって死ぬのであれば、それまでの人生だ。何もかもが思い通り上手くいく事など滅多にないと諦めるしかない。

 落下時間からして五〇メートルほどの高さだろうか。

 しかし、時間などは相対的な概念に過ぎず、時間を考える人間の意識が影響する。

 強い衝撃とともに海面にたたきつけられ、重りによって海中に沈んでいく。

 海底に着くが、袋の中から重りの付いたロープをほどくことはできない。

 魔法を使って仮想の剣を発生させ、袋と足下のロープを切り裂いた。

 久しぶりの魔法だが、身体が覚えていたらしい。

 周囲は完全な闇に包まれている。正一は息の続く限り落下場所から離れ、徐々に水面に近づいていった。


「ぷはっ!」


 外の空気だ。崖の上にクカラチャ要塞の明かりが見える。

 ついに脱出に成功したのだ。

 身体の力を抜くと、自然と身体が浮かぶ。

 天気は晴れており、波も穏やかだった。

 梁屋和尚の教えを思い出す。

 この世界は、星空が地球と同じなのだ。

 北斗七星とカシオペヤ座を探すことで北極星が見つかった。

 このまま北に向かえば、最も近い陸地があるはずだ。

 人体は海水よりも比重が軽い。

 なので、疲れたときは浮かぶことで休むことができた。

 海水は冷たいが、多少であれば魔力を使って血液を直接温めることができる。

 数時間後、無事に上陸を果たした。

 身体が重い。

 全身が冷え切っており、指先や爪先の感覚はどっくに失われていた。


「空だ」


 少しずつ明るくなっており、夜明けが近い。

 星空に覆われた空が、東の方から徐々に青く、そして橙色に変わっていく。


「……太陽……太陽だ!」


 地平線から金色の光が差し込んだ。


「夜明け……夜明けだ。もう二度と見ることはないと思っていた、太陽だ……! 和尚様、私は生きています! あなたにもあの、暖かな光をもう一度見せたかった……! 一緒に見たかった!」


 正一はその場に膝を付いて、泣いた。

 止めどなく涙が流れていた。

 梁屋和尚の鍵を握りしめ、祈るようにして叫んだ。


「私は……生きている……。この、空の下で!」


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