第2話 僧侶梁屋

 朝と夕方に食事と牢の点検、汚物の入ったバケツの交換が行われる以外、全く何も起こらない日々が続いた。

 正一にとって、梁屋和尚との会話だけが唯一の気晴らしであった。


「フェルナンドⅡ世の子か。当時の国王夫妻にはなかなか子供ができなかった。じゃがある日突然、王妃……つまり後の太后じゃな。太后が赤ん坊を産み落としたと聞く。妊娠の兆候など一切無しに。一説には、異世界から赤ん坊を攫ってきたとも」


「まさか地球から?」


「おぬしやワシの身に起こったのと同じことが、王の身に起こらなかったと言えるかね? 先王は権力を盤石にするため、どうしても世継ぎが必要だったのじゃ」


「そこまでする?」


「権力はシステムなのじゃ。人は環境の生き物であり、環境を含めてその人なのだ。自分自身の意思があるというのは思い上がりに過ぎぬ。王は己の意思とは無関係にそうする必要に迫られた。現王の勇者召喚もその一つじゃな」


「ぼくじゃなくてもよかったわけだ。ぼくが勇者なんじゃなくて、勇者がぼくだった、と」


「然り。そう考えると、権威を笠に他人を見下すことがいかに無意味かわかるじゃろう」


 バカげた話だった。


「……おじさんは、いったいどのくらいここにいるの?」


「三〇年ほどかな。どのみち終身刑ゆえ、何年いようと同じ事じゃ」


「なんだって! 三〇年も?」


 正一は力なくベッドに倒れ込んだ。

 目に入るのは岩でできた天井と壁だけだ。

 壁にはオルミガ王国の文字で『世に正義のあらんことを』と刻まれていた。


「……そもそも、異世界転移って何なんだよ。よく考えれば最初から変だった。こんなこと、常識であり得るはずがないじゃないか」


 梁屋和尚が笑ったように息を吐く音がした。


「異世界転移か。洋の東西を問わず、自分が今居る世界とは別の世界が存在し、そここそが自分の本当の居場所だという考えは根強い。これはある意味においては正しい。営業職で精神を病んだ者が工場に移動した結果、精神が安定したなど枚挙に暇がない。……あるいはその逆もな」


「そういう話じゃないだろ」


「まあ聞け。ものには順序がある。例えば、そうじゃな。おぬしの体はタンパク質の細胞で構成されておる。そしてタンパク質は複数のアミノ酸が重合して構成された高分子化合物じゃ。そしてアミノ酸は化学物質であり、炭素、酸素、水素、ナトリウムなどの元素が結びついておる。では元素をさらに分解していくとどうなるかね?」


 正一は授業で習ったことに考えを巡らせた。この何もない牢獄では、意識して頭を使わなければすぐに発狂してしまう。


「……ええと、原子核の周りを電子が回ってる……だっけ? そうだ、思い出したぞ。太陽と地球みたいに回ってるんだ」


「そうでもあり、違うとも言えるな。電子は確かに原子核の周りを回っているが、その位置はあくまでも確率的なものに過ぎぬ」


「どういうこと?」


「デタラメ、ということじゃ」


「あはは、そりゃないよ」


「混沌、と言い換えてもいい。どこにあるかは誰にもわからず、またあらゆる場所に同時に重なり合って存在する。そして観測した瞬間に位置は確定し、現在地に収斂するのだ。これを観測者効果という」


「何それ。訳がわからないよ」


「いずれわかる。教えてやる。どうせ暇なのじゃ。……そして、そういった素粒子は『量子の泡』を通じて別の宇宙へとワープすることがある。それが異世界転移の原理じゃな」


「魔法じゃないの? やけに科学的だけど」


「SF作家アーサー・C・クラークはこう言った。高度に発達した科学は魔法と見分けがつかない、とな。つまり、異世界転移も魔法も科学的に説明がつく。地球で実験した者もおる」


「本当?」


「リチャード・ファインマンの二重スリット実験じゃ。光は光子という素粒子だということは知っているか?」


「うん。光は波の性質を持つけど、小さな粒、光子という素粒子でもある、でしょ? 理科の授業で習った気がする」


「そのとおりじゃ。二つのスリットを開けた板を考えよ。板を挟んで片方に光源、反対側には写真乾板、つまりフィルムのような感光材があるとする。スリットのある板を挟んで光を発射すると、光子が干渉して縞模様ができる。光は波の性質を持つからな。だが同時に光子という粒でもある。一つだけ光子を発射すると、常識的には写真乾板に反応するのは一つだけじゃ。しかし、実際にやってみると連続して発射した場合と同じ干渉縞を写真乾板に刻みつけた。この波を起こした光子はどこから来たのじゃろうな? わかるかね」


「つまり、異世界の光子と干渉を起こした、ということ?」


「そうじゃ。素粒子レベルでは異世界転移は日常的に起こっておる。量子テレポーテーションじゃ。いわば、量子がワープする」


「でも、すごい小さなスケールの話でしょ?」


「忘れたのか。人間の身体もまた、素粒子によって構成されているのじゃ。素粒子は量子の泡を抜けて別の宇宙に、つまり地球とこの世界を行き来できる」


「あっ」


「わかったようだな。この実験を、ファインマンは量子力学の神髄と呼んだのじゃ……」


 *


 ひどく冷え込む夜だった。

 しかし、エアコンはもちろん、暖炉もストーブもない。

 窓ガラスすらもない。あるのは魔法を封じる鉄格子だけだ。

 正一は異臭のする毛布にくるまってベッドに寝転び、震える右手を見つめた。

 比類なき魔法の力。

 異世界なのだからこんなものだと思っていたが、よく考えれば深い秘密があるらしい。


「……今にして思えば、最初の頃は無邪気なものだったな」


 この世界に来て間もない頃の訓練期間を思い出す。

 たった一年前だが、はるか昔のことに思えた。


 *


 異世界から召喚された勇者ということもあり、軍隊での待遇は決して悪いものではなかった。

 この世界の文明レベルは、せいぜい近世ヨーロッパ程度であり、一日三食、風呂と水洗便所が使えるだけでも王侯貴族に匹敵する扱いである。

 食事も豪華で、一食分のコストで庶民ならば一ヶ月はゆうに暮らせるようであった。

 肉や魚はもちろん、珍品とされる米まで手に入れることができたのだ。

 味噌や醤油によく似た調味料も存在している。

 どうやら過去にも地球人を呼び寄せた事があり、その時に製法が伝えられたらしかった。

 ゲートを越える事によって、三人は新たな力を得た。

 全体的な身体能力の底上げや言語の理解だけではない。

 まさしく『魔法』としか言いようのない異能である。

 この世界では貴族と呼ばれる人々も同様の能力を持つが、威力の桁が違う。

 正一は目を閉じて両足を肩幅に開き、軽く深呼吸をした。

 意識を二〇メートルほど先に立っているカカシに集中する。


「……よし」


 大きく息を吸い込んで息を止め、右手を前に向ける。


「はあっ! サンダー・スマッシュ!」


 右手から稲妻のような光が放たれ、藁束を棒に巻いたカカシが弾け飛んだ。

 雷は土属性の魔法と言われている。


「すごいわ、正一!」


 拍手をする香奈に、正一は照れ隠しに頭を掻いた。


「いやあ、それほどでもないよ。透にはとてもかなわないさ。なっ、透」


「そんな自慢するようなものでもないぜ」


「まあ、そう言わずに見せてくれよ」


 透は涼しい顔をして、正一と場所を代わった。すでに兵士たちの手で、新しいカカシが設置されている。

 兵士たちは駆け足で土嚢の陰に飛び込んだ。

 準備よしを知らせる旗が揚がる。

 透は立ったまま、祈るように両手を重ねた。

 そのまま左足を持ち上げ、手を頭の後ろへ。透の右手には、赤く輝く炎の球が形作られていた。


「いくぞ! ファイアボール!」


 野球の投球そのままのフォームで、光の球を投げる。

 カカシが炎に包まれ、やがて弾け飛んだ。


「ストライク! ナイスピッチ!」


 正一は透とハイタッチをする。


「それにしても透、すごい威力じゃないか! さすが一中のエースだ」


「元、な」


「そんなことないさ。いつか……」


 透は右肘に軽く手を添えた。

 元々、透の実力は中学野球の世界をはるかに越える、と言われていた。

 ポジションはピッチャー。

 練習試合ともなれば、各地の強豪高校からスカウトが来るほどで、球速は最大一四五キロにも達した。

 しかし、透は交通事故に遭ってしまった。

 あの雨の日、道に飛び出した子猫をかばっての事だった。

 リハビリは続けたものの、元のように戻ることは決してない。

 甲子園の常連である強豪校からのスカウトも、白紙撤回された。


「私はやっぱり向かないわね、戦いには」


「香奈のほうがすごいじゃないか。なんたってあのエクス・ヒール! びっくりだよ」


 香奈は傷を癒やすことができる。

 訓練中に正一が怪我をした際、かざした右手が光り輝き、傷も痛みも消えていたのだ。

 ヒールは光属性の魔法と言われている。

 透は腕組みをすると、顎に手を当てて考え事をしていた。


「なあ、正一。お前はもっと、白兵戦を意識した方がいいかもしれないな」


「白兵戦? 近距離で戦うってこと?」


「ああ。俺たちは三人で一つのユニットだ。連携することで、きっともっと強くなれる。強くなれば、そのぶん生き残る確率も上がるだろ」


「なるほど……やってみる」


 魔力を飛ばすのではなく、剣の形をイメージする。

 魔力によって形作られた、長さ一メートルほどの光の棒が手の中に現れた。


「こ、これって……」


「いいじゃん、いいじゃん。俺のファイアボールを弾き返して、死角の敵を狙えるかも」


「さすが透だ! やってみよう!」


「投げる、打つときたら、次は走る、だな」


「いろいろ工夫できそうだね。そうだ、魔力を足に集めてみたらどうかな……」


 訓練の成果は上々で、三人はめきめきと力を増していった。

 今にして思えば、この時が一番幸せだったのだろう。


 *


 牢の中は冬は氷点下となり、夏は四〇度を超えた。

 冬の寒い時期は明かり取りの窓を塞ぐが、気休めにもならなかった。

 窓から吹き込む雪があちこちに積もり、容赦なく体温を奪っていく。


「……魔法って、何なんだろう」


 何気ないつぶやきにも、梁屋和尚は真摯に答えてくれた。


「魔法とは読んで字のごとく魔の法だ。観測者効果によって時空間に干渉することで、異なる宇宙から望む現象を召喚する」


「前にも聞いたけど、その観測者効果ってのがいまいちよくわからないんだ」


「大雑把に言えば、何者にも影響を与えずに事象を観測することはできぬということじゃ。たとえば、電気回路を流れる電流は目に見えぬ。電流を測るためには電流計を接続する必要がある。しかし、電流計の接続それ自体によって、回路に流れる電流の状態がわずかに変化してしまう。電流が電流計に流れ込むからじゃ」


「へえ……。観測することが対象に影響を与えるってこと?」


「そうじゃ。よくわかったな」


「へへへ」


 いつの間にか、正一は梁屋和尚に絶対の信頼を置くようになっていた。

 梁屋和尚は何かを押しつけて思い通りにしようとする事もなく、言いくるめて利用しようとするでもない。

 純粋な善意というものに、この牢で初めて触れたような気がした。

 学ぶことの楽しさを教えてくれたのも、梁屋和尚だった。


「魔法というのはこの世界ならではの現象じゃ。物理法則が多少異なるのでな」


「地球では魔法は使えないんすか?」


「そうじゃ。地球のある宇宙に比べ、この宇宙は存在そのものが不安定なのだ。ゆえにその不安定を逆手に取り、時空間に揺さぶりを掛けることで、意図的に超常現象を発現させる。それが魔法じゃ……。火、水、風、土などと体系化された属性魔法は、ただのまやかし、経験則のみに頼った誤った仮説に過ぎぬ。その事を知っていれば、あらゆる魔法を使いこなせよう」


「でも、この牢じゃ使えないよね」


「そうじゃな。わしが何を教えても、実践的な意味は全くない。……今、ここでは」

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