シーラカンスの夜
村上ひかりという詩人がいる。
彼女の唯一の詩集は二〇〇二年に、今はもうなくなってしまったマイナーな雑誌社から出版された。けれど彼女の代表作と呼べるのは、むしろ、手描きの独特なイラストに、ひりつくような痛みと孤独についての自筆の詩をのせた、幾枚ものポストカードだったという。二〇〇〇年の夏頃から、二〇〇二年の春までのあいだの、晴れた土曜日の午後、彼女はそのポストカードを東京のある街の路上で手売りし続けた。自らの内側に封じそこねた痛みと叫びを誰かに拾いあげてもらおうと求めたみたいに。やがてそれは一部でひそやかに話題となり、若い女性向けの雑誌社の目にとまり、詩集として出版された。
今となっては昔の話、黒いシーラカンスのイラストが表紙を飾るその詩集を、高校の図書室から借りてきた姉が、ダイニングテーブルの上に置きっぱなしにした。そんなふうにして、わたしは彼女に出会った。
彼女はその詩集を出したあと、どういう経緯なのかはわからないが、シンガーソングライターとしてデビューした。十曲入りのデビューアルバムがどの程度売れたのか、わたしにはわからない。インターネットのあちらこちらで検索しても出会うことができなかったそのCDを見つけたのは、近所のレンタルショップの一角にあるひっそりとした中古CDの棚のなかだった。
一冊の詩集と一枚のCDと、無数のポストカード。それが彼女の痕跡のほとんどすべてで、ウィキペディアにすら彼女のページはなかった。そのようにして彼女は表舞台から姿を消し、どこでどうしているかもわからなくなった。そんな詩人の言葉を、わたしは今でも忘れられずにいる。
◇
彼女の動向がわかったのは二年前のことだった。ふと思い出し、インターネットでひさしぶりに彼女の名前を検索すると、彼女が数年前から個人的に運営していたらしいブログが見つかったのだ。彼女は結婚し、二人の子供をなしていた。日々の出来事や旅先の写真のあいまに、やさしい詩や言葉がときどき挟み込まれるそのブログからは、彼女のかつての刺々しく黒々とした孤独の影は見つけられなかった。それでもそのやさしさは、あの詩集のなかに、たしかに既に含まれていたものだったとわたしは思った。
◇
泣くのが下手になったと思う。それでも泣くことはできる。きっと。自分の気持ちを丁寧に、正直に、強がることもなく話せたら、きっと。だから、むずかしいのは泣くことじゃなくて、衒いもなく自分の気持ちを話すことなのかもしれない。
二年付き合った恋人が部屋を出ていったのは一ヶ月前のことだ。たいした理由なんてなかった。ジェンガみたいなものだ。ほんのかすかな、ほんとうに些細な冷たさが、切れ切れの会話の端に、交わす視線と表情の隙間に、雨の匂いみたいにひっそりとまぎれこむようになった。それが少しずつこの部屋から温度を奪っていったのだ。お互いに怒りっぽくなって、お互いにうんざりして、それでも思いきることができなくて、暗闇のなかをほんの少しの灯りを頼りに歩くように、期待とも呼べないわずかな執着のまま、わずかなぬくみの余韻のようなものを、無理につくった柔らかい声や怯えるようにあげた口角で繋ぎ止めようとする日々だった。それが終わった。ぐらぐらのジェンガが、ついに倒れた。そうなると、糸が切れたように肩の力が抜けた。悲しいはずだ。でも、楽になったと感じている自分のほうが大きかった。それがいちばん悲しかった。一緒にいる時間が息の詰まるものになってしまったこと、そうしてしまったのが自分たちだということ。お別れの日、彼は泣きそうな目で申し訳なさそうに笑っていた。わたしもたぶん笑った。泣かなかった。そうすると決めていたわけじゃない。泣き方がわからなかったのだ。
◇
ふと思いついて友達を夕食に誘うと、彼女はあっさりと了承してくれた。むかし、「彼氏ができると付き合いが悪くなって、彼氏と別れたときだけ友達を遊びに誘う」と、冗談めかして他の友達のことを非難していた彼女は、別れたことを報告しても、わたしを責めなかった。彼女はもう結婚していた。きれいな水色のネイル。
ことの経緯をつまびらかに説明しようと思ったわけじゃないにせよ、話の内容はどうしてもその方向に寄っていく。彼女は相槌を挟み込みながら聞いてくれた。話しながらわたしは、自分がほんとうに言いたいことがなんなのかがわからなくなった。彼がどんなときにわたしにそっけなかったのか、どんなことをわたしに言ったのか、どんなふうに過ごしていたのか。いくつかの愚痴といくつかの自責がわたしの口からいくつも漏れ出して、彼女はわたしの味方をしてくれた。それはうれしかった。でも、わたしの言葉はぜんぶわたしの外縁をぐるぐると周っているだけで、中心に近付こうとしていないみたいだった。
上手く話せる気がしなくて、わたしは自分の話を打ち切って、彼女の近況を聞く側に回った。母親が癌になったこと、彼女が経営しているネイルサロンの入っているビルでボヤ騒ぎがあったこと。そんな話を彼女は笑いながらした。それを聞いていると、自分の身に起きたことが、とても味気なくて当たり前で、とるにたらないことのように思えた。彼女は楽しそうだった。あまりに楽しそうで、嫉妬さえ感じなかった。彼女とわたしの間には分厚い壁があって、わたしはその壁を越えることができないような気がした。感じたのは、自分でもそうと分かるくらいに素朴で幼い羨望だけだ。
今度店に来てね、と彼女は別れ際にわたしに言った。その頃にはもう煙くさくないはずだからと。わたしは笑った。
◇
部屋の片付けをして、いらないものを捨てて、そうしているうちに、本棚のなかに、彼女の詩集をみつけた。ネットオークションでほとんど投げ売りのような値段で売られていたのを見つけて買ってから、どうしても手放す気になれずにここまで連れてきた。誰も知らない詩人、誰も覚えていないような詩集。思い出したときにぺらぺらと開いて、手書きの文字とイラストを眺めて、ときどき口に出して読み上げて、そっと表紙のシーラカンスを撫でて、そんなふうにその本はわたしの生活の一部になった。薄い本だから、内容はほとんど覚えてしまっている。それでも思い出してまためくってしまう。ほんとうにときどき、思い出したときにだけ。
彼女はほんのひととき、ささやかなスポットライトを浴びただけの詩人で、そのときだってほとんどの人は彼女の名前を知らなかった。歌手としてデビューしたときだって、誰の注目も集めなかった。詩集を読んでいたわたしだって知らなかったのだ。今は広大なインターネットの海の底のほうの、ひっそりとした、やさしい、でもどこにでもあるようなブログでだけ、その存在が確認できる。それと知らなければ、そのブログの書き手がかつて詩集を出していたことなんて、誰も気が付かないだろう。それこそシーラカンスみたいなものだ。絶滅したと信じられていたけれど、また発見されて、また絶滅の危機に瀕している。でも、そんなことはもう彼女にとっては、そこまで重要なことではなくなっているのかもしれない。ねむたげなあざらしの写真や、変なかたちの目玉焼きや、きれいな虹。いいことだと思う。幸せであってほしいと思う。幸せでいてくれるのはいいことだと思う。不幸でいてほしかったなんて、傷ついていてほしかったなんて、そんなことを思っているわけじゃない。置いていかれたような寂しさなんて、ぜんぶわたしだけの問題だ。それでもわたしはその詩集を読んで、そこに並ぶ文字たちを眺めて、ひっそりと呼吸をした。
◇
読み終えて、ほんの少しだけ気分が楽になってから、わたしはひさしぶりに彼女のブログを開いた。数分前に更新されていたようだった。わたしは書いてある文言の意味がうまくつかめなかった。東京都目黒区にある某ライブハウスでひさしぶりにライブをやります。日時、チケット代、云々。そして手短な彼女の所信表明と、「きてね」というそっけない文言。わたしはその画面を何度も見直した。ライブ。歌う? 彼女が、今になって、また?
◇
新幹線を降りてから電車を乗り継いで合計三時間ちょっと。予約していたホテルにチェックインして荷物を置いて、昼食をとったのが十四時頃。ライブの開演は十六時半。それまでの時間は、長いような気もしたし、短いような気もした。普段ほとんど遠出をしないせいで、ここまでたどり着くのにひどく手間取ってしまった。誰かが一緒だったら笑われたかもしれない。
見慣れない街をひとりで歩くのはひどく心細かった。雨のせいか人通りは思ったほどではなかった。新幹線のなかで、彼女のアルバムを繰り返し聴いた。音楽にはほとんどこだわらないわたしが、はじめて自分で買ったCDだった。何度も何度も聴いた。どうしてか、高揚よりも不安のほうが大きかった。躊躇なく自分がここに来る気になったことが、ほんとうに不思議だった。でも、今を逃したら、次はないかもしれない。
ライブハウスは大通りから少しだけ逸れた裏路地にあった。思った以上に小さくて古いビルだった。場所を確認したあと、わたしは雨宿りのために近くにあった喫茶店に入った。鞄のなかにはあの詩集をいれてきた。どうしてだろう。どうしてなんだろう? わからない。ここまで来てしまった。
心臓がやけに騒がしかった。自分がばかになってしまったような気がした。時間が近づくにつれて頭がくらくらしてきた。落ち着いて呼吸をし直す。自分にとって彼女がこれほど大きな存在だなんて考えたことはなかった。わたしにとって彼女は紙面に映える文字とイラストで、イヤホン越しに聴く調子の変わらない声だった。
開演時間の少し前にライブハウスの前についたときも、出入りする人はほとんどいなかった。開催時間や日時を何度も確認したのに、わたしはもう一度チケットに書かれたそれをたしかめなおした。覚悟を決めて中に入ると、優しそうな中年の男性が声をかけてくれて、わたしは返事もできずにチケットを渡した。彼は頷いて中に案内してくれた。
暗い室内に、そう高くはなくそう遠くもないステージがあって、ピアノとアコースティックギターが置かれていた。わたし以外にお客さんは三人ほどしかいなかった。少し不安になったけれど、時間が近づくにつれて徐々に人が入ってくる。わたしよりも年代が上の人ばかりに見えた。わたしはどこに立てばいいかわからなくて、扉とは反対の、壁際のほうに落ち着かないまま立っていた。
やがて照明が落ちて、ステージを照らすうっすらとしたライトだけになった。人の影が何度かステージの上を行き交った。不意に耳鳴りのしそうな静けさが訪れて、下手からゆっくりと女性の影が現れた。暗くて、顔も姿もよく見えない。衣装の色もわからない。でも、彼女だとわかった。
彼女の影は客席のほうを見て、ほんの少し笑った気がした。わざとそうしているみたいに軽いステップで、ギターのほうへと向かう途中、いたずらっぽく客席のほうに小さく手を振って、椅子に座る前に深々とお辞儀をした。
それからなにも言わないまま、ギターを手にとった。スポットライトが彼女を照らした。
彼女の指先がギターの弦を撫でた。はじめのうち、それが何の曲なのかわからなかった。そのギターフレーズがなめらかに、聞き覚えのあるアルペジオへと繋がっていく。あのアルバムの一曲めだとすぐにわかった。
歌声を聴いた瞬間に考えていたことの全部が消えた。その音と声だけになった。すぐそこに言葉があった。わたしがいる空間に彼女がいた。その淡く白いあかりの下に。
◇
ライブが終わったあと、わたしはほとんど正常な意識をとりもどせないままライブハウスを出た。もう夜で、雨は上がっていた。ふわふわとした感覚とは反対にからだはしっかりと動いた。立ち止まったらいけない、と、どうしてかそんなことを思う。でも、立ち止まってもよかったのかもしれない。なんとなく、普通にふるまわなければ、と思っただけだ。
コーヒーを頼んでから、わたしは彼女の歌のことを何度も思い出した。そのギターの響きのことを思い出した。暗闇のなかで彼女の姿の輪郭だけがぼんやりと光って見えた、その一瞬のことを思い出した。彼女の話し声のことを思った。そして、わたしが聴いたことがなかった何曲かの新しい曲のことを思った。そこで歌われていた言葉のことを思った。頭がうまく働かない。自分の脳では処理しきれない情報を一気に与えられたような気がした。誰かにおもいきりなにかを話したいような気もしたし、誰にも一言だって今の気持ちを話したくないような気もした。
コーヒーを飲みながら、彼女は歌っていたんだ、とわたしは考えた。詩を書いていたんだ、と思った。寂しい詩、悲しい詩、やさしい詩。とまどうような、心細いような声。彼女は歌っていた。たぶんずっと歌っていたのだ。わたしは鞄のなかから彼女の詩集をとりだして、またページをめくった。頭のなかで言葉が浮かんでは消えた。すぐに切れる糸みたいに、思考がまわらない。あたらしいことば、あたらしい傷痕、あたらしいかさぶた、あたらしいささくれ。わたしは自分が彼女の言葉を待っていたのだと思った。
彼女のすきとおった声とそのやさしさを思いながら、わたしは別れた恋人のことを思い出した。恨んでいるのでも、怒っているのでもない。喧嘩をしたかったわけでもない。窺いあうような時間を過ごしたかったのでもない。彼が出ていったとき、わたしは置いていかれたと思った。またひとりになるんだと思った。それが心細くてたまらなかった。彼のことが好きだった。でも、それを言葉にできなかった。
どのくらいの時間、考えるでもなく考えるような時間を過ごしていたのか、わからない。喫茶店の入り口のベルが不意に鳴って、わたしははっとして顔をあげた。ずいぶんと長い時間、ぼーっとしていたようだった。飲みかけのコーヒーはすっかりと冷めていた。
ふと顔をあげて、どきりとした。彼女がそこにいて、そして、わたしがテーブルに置きっぱなしにしていた詩集の表紙を見ていた。
彼女と目が合った。彼女は驚いた顔つきで、何度か詩集の表紙とわたしの顔を交互に見た。
何かを言おうとして、立ち上がろうとして、身じろぎもできなかった。彼女もそうだったのかもしれない。あるいは、わたしの表情が普通ではなかったのかもしれない。彼女のほうも何も言わなかった。
彼女のくちびるが不器用そうにほほえみのかたちをつくった。その灰色に近い瞳が、わたしをまっすぐに見てかすかに潤んだ。彼女が何かを言うより先に、とても自然に、わたしの視界はふっと不鮮明になった。涙が出たのだと、あとになって気付いた。取り繕おうと、なにかを言おうとしたのに、何の言葉も出てこなかった。いつもそうだ。大切なときに、言いたい言葉が、ぜんぜん出てこないのだ。
彼女はわたしにまた笑いかけて、
「ありがとう」
と言った。
胸がぎゅっと詰まって、それでも何も言えなくて、嗚咽を漏らさないために唇を引き結んだ。それからわたしは、彼女に深々とお辞儀をした。ほかにどうすればいいのか思いつかなかった。彼女の手のひらが、ふと、わたしの肩に撫でるように触れた。
奇妙によそよそしく、奇妙に親しげな、そんな一瞬ののち、彼女の指先はしずかにわたしの肩を離れた。顔をあげると、まだ彼女は笑っていた。
「ありがとう」と彼女は繰り返した。
わたしは、何も言えないまま頷いた。彼女はどこかせつなそうな、苦しそうな顔で、テーブルの上のシーラカンスの表紙を見つめたあと、やさしい手つきで撫でた。
それから、
「またね」
と彼女は言って、店の奥へとむかっていった。わたしはもう一度お辞儀をした。それから、彼女と同じようにシーラカンスを撫でた。少しだけ目を瞑ったあと、一度だけ視線を店の奥に向ける。彼女の背中が見えた。立ち上がって、ふわふわした気分のまま会計を済ませ、店を出た。路地は青白い光に揺れていた。
ホテルへと向かう途中、まだかすかに残る雨の匂いのなか、わたしは彼女のほほえみのことを思い出した。彼女の言葉のことを思った。口にできなかったたくさんの言葉のことを思った。誰からも忘れられそうになりながら、海の底を泳ぎ続けるシーラカンスのことを思った。
一度だけ立ち止まって、雨の余韻の残る空気を思い切り吸い込んで、吐き出す。それからまた、青白い夜を、静かに歩きはじめた。
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