シュガー (4/4)


 閉鎖されている屋上へと続く階段の踊り場に、わたしたちは座り込んで話をしました。廊下の途中でたまたま会った仁科さんも、わたしを心配してついてきてくれたようです。三人に、さっきあった出来事を伝えると、三者三様の反応がかえってきました。


「そういうやつらもいるんだねえ」


 と、茉莉花は少しうんざりした様子でした。急に立ち上がってシャドーボクシングのように虚空に拳を突き出して、「許すまじ」と呟いています。


「たぶんひがんでるんだよ」


「ひがみ?」


 仁科さんの言葉に、わたしは首をかしげました。


「わたしはその子らが来てるの見てなかったけど、さっき来てた男子って矢倉たちでしょ。そっちのときは教室にいたから」


「……だれ?」


「うちのクラスの。サッカー部のスタメンの。あれ、知らない?」


「……」


 わたしは少し人の名前を覚えるのが苦手です。


「矢倉、人気だから。気引こうとしてるんだとでも思ったんじゃないかな」


「ええ……」


 わたしは出汁にされていただけという気がしてならなかったのですが、他の人から見ればそう映ったのでしょうか。


「まったくひどい」、と、茉莉花は虚空をまだ殴っています。


「まことが陰気だとか。たしかにちょっと人見知りでちょっと内弁慶だけど」


 それは人によっては陰気と呼ばれても仕方ないような気がします。


 でも、問題はそこではないのでした。


「そうじゃなくて」と声をあげると、ふたりはわたしの方に揃って視線をよこしました。


「そうじゃなくて、わたしが陰気だとか、そういうのはどうでもよくて、わたし、佳奈子ちゃんの絵を馬鹿にされたとき、何も言い返せなかったから」


 それが悔しい。

 

 自分のことなんかよりずっと悔しい。


 いや、自分のことも悔しいですが。悔しい悔しいと思っていると、沸々と悔しさが湧き上がってきます。いまさら言い返したい言葉が山程出てきました。

 でも、実際にああいう場面に出くわしたとき、どうしてわたしは何も言えなかったのでしょう。


 ずっと前にも、それこそ子供の頃にも、そういうときがありました。わたしが好きな漫画を、みんながつまらないとか、絵が下手だとか、そういうふうに言っていたとき、わたしは苦笑いでごまかして、そうだよね、と同意したのでした。その日からわたしは、その漫画を読むことができなくなりました。そうだよねという同意をしたわたしには、その漫画を読む資格がないような気がして、どうしても内容に入り込めなかったのです。


「まったくだ。腹が立って仕方がない」


 憤懣やるかたない様子で呟いたのは長峰くんでした。


「上村佳奈子の絵が“よくある”なんてわけねえだろうが。一枚一枚を見比べたとき、画風はいつも統一されているのに、ときにミュシャのようでもあるしときにモジリアーニのようでもある。別のときにはクリムトのようにも見える。色彩も印象もはっきりしていて明るいのにどこか深みと奥行きがある。魔法みたいな絵だ。それなのに、パッと見た印象はポップでキャッチーで新しい。あいつらが上村佳奈子の絵を“よくある”なんて言えるのは、あいつらが上村佳奈子を同一人物と知らないまま上村佳奈子に触れてきただけだ」


「……怒るのそこ?」


 呆れたような仁科さんの声に、長峰くんは「当たり前だ」と返しました。


「上村だってそこに怒ってるんだろ?」


「……うん」


 もう、気分はだいぶ落ち着いてきました。正直、長峰くんの言っていたことはぜんぜんピンと来ませんが、彼が佳奈子ちゃんの絵をすごく好きでいてくれているのはわかります。わたしも、あのときわたしの言葉で、ちゃんと佳奈子ちゃんの絵を守るべきでした。よくあるものなんかじゃない、佳奈子ちゃんの描いている絵はすごいんだって。


「……長峰くんは」


「ん」


「なんで、佳奈子ちゃんの絵が好きなの?」


「なんで?」


“なぜそんな質問をするのか”という意味ではなく、単にオウム返しをしただけだったようです。


「なんでって言われると……ちょっと説明が難しいけど」


「うん」


 それでも聞いてみたい、という意味だったのですが、長峰くんはかえって考え込んでしまったようです。


「上村さ、ここ数年の間に天文台行ったことある?」


「天文台? ……街の?」


「そう。廊下に絵が飾られてるんだよ。企画展とかとは別な。なんかのときに、天文台に行ったら、そこに飾られてたんだよ」


「……佳奈子ちゃんの絵?」


「そう。それ見たときに、すげーって思ったんだよ」


「……すげー?」


「そう。めちゃくちゃきれいだって思ったんだよ。プラネタリウムよりも」


「さっきの語彙どこいったの?」


 シャドーボクシングにも飽きたようすの茉莉花がからかうように呟くと、長峰くんは気恥ずかしそうに自分の首を揉みました。


「いや、ええと……きれいだったんだよ」


「……きれいだったんですか」


 長峰くんの瞳は、よく見ると少しグレーがかっているのだな、と、わたしはどうしてかそんなことに気付きました。


「見に行ったほうがいいよ」


 彼は、ここではないどこかを見ているような、どこか遠くを見るような目をしていました。夢でも見ているかのような。


「俺みたいに、あの人の絵に影響される人ってきっといると思うんだ。そういう人がたくさんいたら、世界だって変わりそうな気がする」


「……なにそれ」


 仁科さんは呆れたみたいに鼻で笑いました。


「ほんとだよ。世の中には、きれいなものもあるんだな、って思ったよ。本当にきれいなんだ。絵だけじゃなくて、その場面が全部、切り取られたきれいな一瞬みたいだった」





 今日も今日とて、わたしは放課後、佳奈子ちゃんの部屋に向かいました。今日も床に寝ていたらどうしようかと思いましたが、彼女はちゃんと椅子に座って、何かの本を読んでいたようでした。


「何読んでたの?」


 と訊ねると、彼女はわたしに表紙を向けました。「断捨離」。


「だんしゃり?」


「断捨離、大事だから」


「……そうなんだ」


「……なにかあった?」


 そう訊ねられて、わたしは思わず息をのみました。いちおう、あのあと鏡を見て、顔を洗って、いつもどおりにしてきたつもりだったのですが。


「なんで?」


「なんとなく」


 なんとなくには、かないません。


「……断捨離、するの?」


「ん。大事だからね」


「わたしに物をくれたのも、その一環?」


「半分はね」


「……もう半分は?」


 佳奈子ちゃんはちょっと考えるような間を置きました。


「内緒。……コーヒー淹れよっか」


「うん。ね、佳奈子ちゃん」


「ん?」


「捨てるものは、ちゃんと選ばないとダメだよ」


「……そうだね。そうするよ」


 佳奈子ちゃんは困ったみたいに笑いました。


「でも、あんたも暗い顔してるよ」


「そうかなあ」


「ん。タロット持ってる?」


「え? あるけど……」


「占ってあげようか」


「……ええ?」


「言ったでしょ。タロットなんてお悩み相談みたいなもんだから」


「……うん」


 わたしは、鞄からカードを取り出しました。





 佳奈子ちゃんはカードをよくかき混ぜたあと、それをひとつの束にまとめて並べ始めました。六芒星の形に並べられたカード。三角形と重なった逆三角形。その中心にもう一枚。合計七枚のカードの並び。ヘキサグラム・スプレッド。


 順番にめくられていくカード。わたしはぼんやりと、佳奈子ちゃんが読み上げるカードの意味に耳を傾けます。


 過去は月の正位置。不安、悩み、トラウマ、深層心理。


「なにか不安に思うことがあったみたいだね。……っていうのは、コールドリーディングじゃありがちなセリフだけど」


 現在は杯の七の正位置。惑い、混乱、誘惑、運命的な出来事を待ち望む。


「現状を変えたいとか、未来に向かってなにかしたいと思ってる、って暗示だってさ」


 過去は剣の四の正位置。理不尽な出来事、スランプ、ストレス。


「自身を癒やすことが最優先……休戦を意味するカードみたい」


 対策は杯の女王の正位置。インスピレーション、直感、慈悲深さ。


「温和さや愛情によって状況が改善される……見事に正位置ばっかりだね」


 周囲は節制の正位置。バランス感覚、節度、節制。


「調和的で穏やかな状態……ってことは、周囲は落ち着いてるって意味かな」


 願望は剣の三の逆位置。過去の問題をクリアにする。悩みや未練を手放す。


「わだかまりや消化不良を暗示……ここは過去の不安と繋がってくるのかな」


 結果は世界の正位置。達成、願望成就、完全。


「行手を阻むものは雲散霧消、望んでいたことが叶う……おみくじみたいだね」


 さて、と彼女は考えをまとめました。


「つまり、なにかの不安や悩みがあって、現状を変えたいと思ってるけど、とにかく自分を癒やすことが最優先。で、癒やすには温和さと愛情。周囲は幸い穏やかで、でも心の底ではわだかまりや消化不良を感じてる。でも、結果は世界。まもなくすべて問題は解決。って感じ?」


「……なんか、当てにならないね」


「ピンとこない?」


「来るような、来ないような」


「当たるも八卦」と佳奈子ちゃんは言いました。


「当たらぬも八卦」 


「する意味あるかなあ、それ」


「そういうものだよ」


 佳奈子ちゃんは笑いました。わたしは淹れてもらったコーヒーに砂糖を入れて、少し考えます。


「……なんかね、きっと、わたしにはなんにもないんだなって思うの」


「ん」


「趣味とか、好きな人だっていないし、ただなんとなく、毎日生きてるだけで、自分が得意なこととか、そういうのって全然ないって思うんだよ」


「なるほどね」


「だから、たぶん自信がなくて、だから、誰かが自分の好きなものを馬鹿にしてたとしても、何も言い返さないで、そうだねって言っちゃうんだ。それがなんか……」


「悔しい?」


「……うん」


「佳奈子ちゃんは……ずっと絵を描いてたでしょう、昔から」


「……ん。そうだね」


「それで、絵を描き続けて、仕事にもして、それまでずっと迷わずに絵を描き続けて、すごいなって思う。すごくまっすぐに、自分のやりたいことに向き合ってきたんだなって。でも、わたしには、そういうの、ないから」


「……」


「なにかしたいけど、なにをしたらいいのかもわからない。誰かに、自分はこれなんだって言えるものなんてないし、そういうふうに思うと、自分がからっぽみたいに思えて、誰にも何も言えなくて」


「……そっかな。でも、わたしだって迷うよ」


「どうして?」


「自分の絵は下手くそだな、とかね。まあ、いろいろ」


「そんなことないよ」


 とわたしは言いました。


「今日だって、佳奈子ちゃんの絵を好きだって子がいたよ」


「……嘘」


「ほんと。佳奈子ちゃんの絵を見て……」


 ……なんて言ってたっけ?


「世界だって変えられるって言ってた」


「……なんだそれ?」


「わかんないけど、そのくらいきれいなんだって」


「世界かあ。良い方向にかな、悪い方向にかな」


「それは……さすがに、良い方向だと思うよ?」


「なるほどね」


「とにかく、すごいんだって褒めてた。えっと……ミュシャとモジリアーニがなんとかって」


「なんだそりゃ」


「わかんないけど」


「わかんないのかい」


「……どうせわたし、ミュシャもモジリアーニも知らないし、治一郎のバームクーヘンも食べたことなかったし、コーヒーも砂糖抜きじゃ飲めないし……」


「妙な拗ね方するなあ」


 佳奈子ちゃんは、困ったみたいに笑いました。実際、困らせているのかもしれません。自分に何もないなんて、そんな問題、結局は自分でどうにかするしかないのです。他人に言って、どうにかなるようなことでもありません。


「……ね、まこと」


 俯いたわたしに、佳奈子ちゃんは、いつもどおりの声で話しかけてきます。


「あんた覚えてるかな。わたしが高校生くらいのときにさ、あんたが言ったんだよ。佳奈子ちゃんは絵がうまいから画家になったらいいって」


「……」


 ちっとも、覚えていません。でも、昔からそう思っていましたし、そう言っても不思議ではないように思えます。


「わたしだっていろいろ悩んだよ。悩んだ末に専門行って、でもぜんぜん上手くなれる気がしなくてやめちゃって、普通に就職して……。べつに、あんたが言うみたいに、迷わなかったわけじゃない」


「……そう、なの?」


「そう。でも、それでも描き続けて、いちおう仕事をもらうまでになって、そこそこ有名になって……でも、こうなったのは、あんたが言ったからなんだよ」


「そんなの……」


「佳奈子ちゃんは絵がうまいって。あんたの言葉を真に受けて、わたしはここまで来たんだからね」


「……」


「あんたの得意なこととかは、わたしにはわかんないけど、それでもひとつ言えるのは、さっき言った、その子の言う通り、わたしの絵が世界を良い方向に変えられるっていうのが、本当に起きたとしたら、世界はあんたにすっごく大きな借りを作ってることになるよね」


「……なにそれ?」


「だから……わたしは何が言いたいんだっけ?」


「……わかんない」


「まあ、つまりさ」


「うん」


「ケセラセラってこと」


「……なにそれ?」


「きっと、わたしが絵を描いて、ほんとに世界を変えたら、世界が勝手に、あんたに借りを返しに来るよ」


 佳奈子ちゃんは楽しげに笑ったあと、立ち上がってクローゼットの方へと近付いていきました。それから段ボール箱の中に手を伸ばすと、以前わたしが目にした色鉛筆のケースを掴みます。


「それにしても、あんたはいっつも、わたしの断捨離を邪魔するね」


 どういう意味かわからなくて、わたしは首をかしげました。




 べつに何が変わったわけでもなく、わたしはそれからも、学校に行って、佳奈子ちゃんの部屋に顔を出して、家に帰って、そんな日々を繰り返しています。


 仁科さんとは以前より頻繁に話すようになって、彼氏の愚痴とか惚気とか、そういうものを、茉莉花と一緒によく聞かされます。彼女がよく言うのは、


「上村さんは彼氏つくんないの?」


 という言葉でした。


 そのたびにわたしは、うーん、とか、えー、とか、曖昧な返事をします。


「わたし、あんまり男子と仲良くないし。モテないし」


「モテないことは、ないと思うけど」


 腕を組みながらお世辞を言ってくれる仁科さんに、わたしは苦笑いをします。


「わたしに話しかけてくれるの、長峰くんくらいだもん」


「長峰はなあ……ちょっと根暗っぽいもんなあ」


「……」


 そうかなあ。

 苦笑いをしそうになって、ちょっと唾を飲み込みました。


 わたしは。


「そんなこと、ないと思うけど」


 と、やっとの思いで言葉を吐き出します。


 仁科さんは、ちょっと驚いた顔で、


「まあ、そうかも」


 と呟きます。隣で黙って聞いていた茉莉花も、「そうだそうだ!」と声をあげました。


「長峰は根暗じゃないよ」


「そう?」


「ただ絵に関して変態なだけ」


 フォローになっていないなあ、とわたしは思いました。




 

 三人で教室に戻る途中で、当の長峰くんに声をかけられました。何の用事かと思ったら、


「土曜、四人で天文台に行くぞ」


 と言い出しました。


「……なんで?」


「こないだ俺のこと、変なもの見るような目で見てたろ。おまえらもあの絵を見たら絶対気が変わるから」


「ええ」


「入場料おごるから!」


 たしかに、絵に関してはだいぶ変なところがあるような気がします。わたしはやっぱり笑ってしまいました。


「でも、まことの叔母さんの絵、わたしも見てみたいかもなあ」


 と言った茉莉花の肩を、仁科さんがそっと叩きました。


「あいにくわたしとこの子は予定があるから、ふたりで行ってきなさい」


「なんだよ、おごるのに」


「本当に残念。そのうち見に行こう。ね、茉莉花」


「……ん」


 茉莉花はなにがなんだかわからない様子で、わたしと仁科さんを交互に見ました。なんだかあらぬ誤解を受けているような、さほど誤解でもないような、微妙な具合です。


「まあいいや、上村は行けるんだろ?」


 しかしこの人は、本当に気後れしない人です。でも、裏表がないようで、あまり憎めないのも事実ではありました。


「うん」


 頷くと、彼は納得した様子で頷いて、わたしたちに背を向けました。わたしたちもまた、教室に向かって歩き始めます。


 と、ひとつ思いついて、わたしはふたりに先に行ってと伝えたあと、長峰くんの背中を追いかけました。


「長峰くん」


 何も言わずに振り向いた彼は、黙っていると端正な顔立ちをして見えます。


「長峰くんの下の名前って、なんていうの?」


「下の名前? 言ってなかったっけ……」


「えいやっ」という気分で、わたしは彼が言葉を続ける前に、彼のすぐ傍まで近寄って、制服の腕のあたりをつかみ、彼の左胸の前に顔を寄せました。身長差のせいで、顔だけではなく、全身がほとんどゼロ距離まで近付くことになりました。


 ネームに書かれた名前を見るまで、三秒くらいかかりました。

 長峰 航。


「……“こう”? “わたる”?」


 そのままの距離で、わたしは彼の顔を見上げました。長峰くんが思い切り戸惑っている表情を、わたしはそのとき初めて見たのかもしれません。


「……“こう”」


「ふうん……」


 そこでわたしは距離をとりました。


「なんなんだよ、いったい」と文句を言われましたが、わたしは不思議としてやったりと言った気分です。


「覚えた」


 とだけ言って、逃げるように廊下の反対へと走っていきます。不意に視界がクリアに見えて、窓の外の木々の枝葉が青々と風に揺れているのに気がついて、光の加減や影の濃さ、そんななにもかも急にきれいに思えました。走っていく先には、茉莉花と仁科さんの後ろ姿が見えます。ああ、ひょっとしたらこれのことなのかなあ、と、わたしは思いました。


 いたずらがうまくいった子供のような気分で、なんとなく、口の中だけで一言、


「ケセラセラ」


 と、わたしは呟いたのでした。



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