FOXES

魔女狩りの記憶


 子供の頃、近所に魔女が住んでた。 


 肌はいつも蒼白で、目は暗く落ちくぼんでいて、髪はくしゃくしゃで、黒い服ばかり着ていた。

 いつも何かに怯えているようにあたりを窺って、誰の邪魔もしたくないかのように道路を足早に歩いていく。

 そんな女。その人は毎日決まって同じ時間、俺たちの遊び場の脇を横切っていった。


 郊外の住宅地に生まれた俺と俺の遊び仲間たちは、夕方になると毎日のように公園で暇を潰していた。

 暇を潰すといっても、特別することがあったわけじゃない。

 その頃には既に、遊具で遊ぶような歳でもなかったし、だからといって家でゲームばかりしているのも退屈だった。


 俺たちはいつの頃か空想遊びを始めるようになった。

 野良犬をケルベロスに見立てて喧嘩したり、木の枝を伝説の剣に見立てて掲げあったりする遊びだ。

 俺たちは自分たちの頭の中にだけ存在する物語の登場人物になりきって冒険していた。


 そういう遊びがまだ楽しめる年だった。


 魔女は俺たちがジャングルジムの魔塔を踏破したり、ブランコの船で原住民の村を出たりしているときに必ず現れた。


 だから俺たちは、ファンタジーの世界に身を置いたまま、彼女をファンタジーの存在として解釈していたのだ。


 もちろん純朴にそう信じていたわけではない。

 俺たちはジャングルジムがジャングルジムであることをちゃんと理解したうえで、それを魔塔に見立てて遊んでいただけなのだ。


 その日、砂場の砂漠で俺たちが喉の渇きに苦しんでいるとき、いつものように魔女が現れた。

 魔女が公園の脇を横切っていくのを見た後、俺たちの仲間のリーダー格だった男がくすりと笑った。


 おい、魔女だぜ。そう言って俺たちに顔を向けた。

 すると他の連中も追いかけるみたいに笑う。俺もなんだか分からないが笑ってしまった。


 俺たちはそのとき死の砂漠にいるはずだったけど、本当に死の砂漠にいたら魔女の姿を見て笑えるわけがない。

 だから俺たちは、そのときごっこ遊びの世界からはみ出していた。


 それにもかかわらず魔女を魔女とみなしていた。


 魔女の耳には俺たちの笑い声が届いたらしく、彼女はこちらを振り返った。 


 俺たちの表情は凍りついた。

 最初は単に反射として緊張しただけだったが、すぐに「怒られる」と思って怖くなった。

 大人をからかうなと怒鳴られると思ったのだ。けれど更に次の瞬間には戸惑っていた。


 魔女の表情には、怒りや羞恥よりもむしろ不安や恐怖が宿っているように見えたのだ。

 恐怖。


 彼女は俺たちを恐れているのだとそのときの俺は思った。そう思ってからたまらなく傷ついた。 

 どうして彼女が俺たちを恐れたりするんだろう? どうして恐れられなければならないのだろう?

 それは身勝手な感情だったけれど、そのときの俺は自分たちが一方的な被害者であるように感じたのだ。


 魔女は俺たちに何も言うこともなく、まるで傷ついたみたいに、唇を噛んで瞳を震わせた後、足早に去っていった。


 残された俺たちは、得体のしれない居心地の悪さと、魔女に対する恐怖、それから身勝手な怒りを感じた。


 そのときの俺たちにとって、それはごっこ遊びでしかなかった。 

 魔女を魔女と呼んだのだって遊びの延長でしかなかった。その場において魔女は役者でしかなかった。


 俺たちは、魔女が残した表情のせいで、しばらく地面に縫い付けられたまま黙り込んでいることしかできなかった。

 夕陽が暮れかかり空が赤くなっていたせいか、気分はやけに不安だった。

 

 やがて、リーダー格が不満げな声で「なんだよアイツ」と呟いた。憤りと不安がないまぜになったような声。

 その声に後押しされ、仲間たちはそれぞれに苛立たしい気持ちを言葉にして吐き出した。


 俺たちは自分の気持ちが落ち着かない理由を、後付けのように発見した。 

 ようするに、遊びに水を差されて腹を立てていたのだ、と俺たちは納得しようとした。

 もちろんそれは真実ではなかったが、真実でなくともそれらしい理由さえあれば、いくらか気を紛らわすことができた。


 俺たちは魔女の表情を見て落ち込んだ。不安になった。

 そして、どうして自分がこんな気持ちにならなければならないんだ、と腹を立てた。


 けれど、いくら腹を立てても何かが解決するわけではなかったし、かといって気を取り直して遊びに興じることもできなかった。

 魔女のせいだ、と俺たちは思うことにした。


 俺たちがこんなつまらない気持ちになったのは魔女のせいだ、と。

 だから復讐しなきゃいけない。提案したのはリーダー格だった。


 翌日、俺たちは復讐の計画を立てた。

 泥水を掛けるとか石を投げつけるとか、計画はいくつか浮かんだが、実行に移すにはどれも決め手が掛けていた。


 魔女は魔女なのだから何をしてもいいはずだという奴もいたし、それは俺たちの免罪符でもあった。

 けれど理性では、魔女は近所に住む、少し気味の悪いだけの普通の人間だと分かっていた。

 妙なことをしたことが親に発覚すれば面倒になるのは分かりきっていた。そんなのはもちろんごめんだった。


 魔女が魔女ではないと知っていたはずなのに、にもかかわらず魔女だという理由で、俺たちは魔女を傷つけようとした。

 

 俺たちは魔女を懲らしめる最善の手段を求めて言い争いを続けた。言い争いは日暮れ前まで続いた。

 奇妙なことにその日、いつもの時間を過ぎても魔女は現れなかった。


 どうも変だな、と、公園の時計塔を見上げながらリーダー格は言った。

 どうしてあいつは現れないんだ?

 

 仲間たちは顔を見合わせた。それから少し不安になった。前日の魔女の表情を思い出したのだ。

 あの傷ついたような顔。その記憶は俺をたまらなく不安にさせた。


 今日はたまたま来なかっただけかもしれないぜ、と俺は言った。

 他の連中は、俺の言葉に追随して頷いたが、リーダー格は真剣な顔で、魔女がいつも現れる通りを眺めていた。

 彼もまた、不安げに表情をこわばらせていたことを覚えている。俺たちはきっと、みんな同じ表情をしていた。


 あいつの家に行ってみよう、とリーダー格は言った。

 俺たちは彼女の家を知っていた。今は思い出せないけれど、きっと名前だって知っていたはずだ。

 

 リーダー格の言葉に、俺と他の仲間たちはそろって反対した。


 けれど、彼は一人でも行くと言ってきかなかった。

 俺たちはしばらく言い争ったけれど、最後に「怖いのか?」と一言訊ねられてしまうだけで、もはや誰も抵抗できなかった。


 魔女の家はごく平凡な住宅だった。黒い屋根とクリーム色の壁をした平凡な現代住宅。

 右隣の家とも左隣の家とも真向いの家とも、目立った差異は見つけられない。


 俺はその家が魔女の家である証明をどうにか探し出そうとしたけれど、もちろんそんな証はどこにもなかった。


 リーダー格は迷いもなく玄関まで歩いていき、少し躊躇した様子で背後の俺たちを窺った後、チャイムを鳴らした。

 ふと、玄関脇に綺麗な白いガーベラの鉢植えがあることに気付き、俺はなぜだか逃げ出したいような気持ちになった。


 チャイムの音に対する応答は、何もなかった。


 留守なんだよ、と仲間の内の誰かが言った。きっと旅行にでも行ってるんだ。

 その主張に根拠はなかったけれど、俺は同意した。

 もしそうだとすればその日の夕方、魔女があの道を通らなかった理由に説明がつくからだ。


 それでもリーダー格は真剣な表情で扉を見つめていた。

 まるでその扉がただの扉ではなく巨大な意味を持つ扉であり、ほとんど人間であるかのように。


 けれど扉の答えは沈黙だった。俺や仲間たちはその事実に安心した。

 リーダー格だけが、何か満足の行く答えを探し求めるように扉を睨んでいた。


 帰ろうぜ、と誰かが言った。リーダー格は諦めたように溜め息をついて頷いた。

 それで俺たちはほっと胸を撫で下ろした。


 彼がふてくされたような顔で手慰みのようにドアの取っ手に手を伸ばしたときも、まだ安心していた。


 ぎくりとしたのは、その扉が何の引っ掛かりもなく開いたときだった。 

 

 取っ手を掴んでいたリーダー格でさえ、唖然として表情を失っていた。


 俺たちはすぐにでも逃げ出したかった。

 実際、仲間の内の誰かが何かの声をあげていたら走って逃げていたに違いなかった。

 誰も声をあげなかったばかりに、俺たちは見たくもないものを見るはめになった。


 リーダー格は生唾を飲みこんで、怪物の口のような玄関をくぐり家の中に入っていった。

 俺と仲間たちは顔を見合わせてから頷きを交わしあい、その後を追った。


 家の中もやはりごく平凡そのもので、魔女の証と言えるようなものは何も見あたらなかった。

 その事実は俺たちを冷気のような鋭さで打ちのめした。


 靴を脱いであがりこんでから、何を探しているのかも分からないまま、俺たちは家探しした。

 

 やがて、暗い階段を昇り切り、二階にあがると、ある部屋から軋むような音が聞こえてきた。

 心臓は早鐘を打ち、ひどく呼吸しづらかったが、それでも誰も引き返そうとは言わなかった。


 俺たちは他人が生活している空間特有の居心地の悪い匂いを感じながら廊下を進み、最後の扉を開いた。


 天井から、何かの紐のようなものにくくりつけられ、揺れていた魔女の姿を、俺は今でも忘れることができない。


 直後の記憶は曖昧だが、その日以降、そのとき一緒だった仲間たちと遊ぶことはなくなった。

 その場で見たことを誰かに話すこともなく、胸に留めたまま、俺はごく当たり前の生活を続けようとした。

 

 揺れる魔女の姿は忘れようとしても瞼の裏に何度も蘇った。まるでそれそのものが魔女の呪いのようだった。

 時がどれだけ流れても折に触れて記憶の蓋は外され、俺は段々と人と接することに恐れを抱くようになった。


 誰かがあの日のことを聞きつけて俺を糾弾しにくるのではないか。

 やがて誰かが俺を磔にし、火炙りにするのではないか。そう思うと怖くてたまらなかった。

 自分に近付いてくるすべての人間がおそろしい怪物のように思えた。


 長い歳月が経ち、遠い町のとある住宅地で暮らしている今も、あの魔女の姿は胸の内から消えてはいない。


 人と話さず、用事があるとき以外はろくに外出せず、いつも誰かの影におびえている。

 そんな生活を続けてきたせいか、近頃は鏡を見るといつも奇妙な感覚に襲われる。


 肌は青白く、目は落ちくぼみ、歯は黄ばみ、表情は石膏のように動かず、瞳は自信なさげに揺れていた。


 仕事帰り、くたびれたスーツ姿で、いつも近所の公園を横切る。

 近頃では、公園で遊んでいる子供たちが、俺の姿を見てくすくす笑うようになった。


 なあ見ろよ、と彼らの中の誰かは言う。死神だぜ、と声は続く。

 子供たちはそれが素晴らしい遊びであるかのように笑い合う。

  

 その声に驚き、振り返る。子供たちは俺の方をたしかに見ている。俺を見て死神だと言ったのだ。

 俺はその事実に傷つき、そして否定しようとするのだが、心はむしろ奇妙な納得に襲われていた。 

 彼らは、俺が目を向けただけで、表情を凍らせていた。


 俺は彼らに何も言わず、黙って前へと向き直り、家路を急いだ。


 家についた直後、俺は玄関の扉にもたれて呼吸を整えた。

 それから、自分の人生がごく早い段階で決定的に狂ってしまったことを思い出し、深い溜め息をつく。


 瞼を閉じれば、あの日の魔女の姿が鮮明に思い出される。

 反復によって強調された印象は、どこまでが真実の記憶であり、どこからが繰り返すうちに付け足されたものなのか、区別できない。


 せり上がった眼球に長くはみ出した舌。

 真っ青になった肌と、生気のない表情。濁った眼。窓の外の血のような夕焼け。


 暗い部屋の中で見たあの光景は、いくら自業自得だとはいえ、異様な光景だった。

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