シュガー (2/4)


「おかげさまでうまくいきました」と仁科さんが声をかけてきたのはさらに翌朝のことで、さすがにわたしは微妙な気まずさを感じないではありませんでした。


「それはよかったです」


 気がかりだった謎が解けたときのように、仁科さんは晴れやかな顔をしていました。実際そのとおりの気分なのでしょう、さして仲良くお話するような関係でもなかったわたしにも、彼女はことのあらましを説明してくれました。それは単純といえば単純な、よくあると言ってしまえばよくあるような、けれどだからこそ難しい気もするようなお話です。


 とにかく、仁科さんはタカノくんとの関係を一歩先に進めたいと思っていたのだそうです。ですが二人は友人同士であり、その関係性を変えることにはリスクがつきまとっていたのでした。これはどうやら、元の友人関係に戻れないかもしれない、というような種類ではないようです。二人はいわば同じグループを構成する成員であり、それゆえに二人の関係性が変わることは友人グループの和や雰囲気を乱すことに繋がります。上手くいったとしてもグループ内部での二人の存在は意味を変えますし、上手くいかなかったとしたら誰が言い出さなくともどちらかがグループから離れていく結果になるでしょう。一歩を踏み出すことにそれだけのリスクがあれば躊躇もされてしかるべきという気がします。


 けれども感情というのはおしなべて合理とは相反するものですし、何を優先し何に価値を置くかというのは人によってさまざまです。ましてや天秤に乗せる重石の価値はそのときどきで軽くなったり重くなったり、必ずしも一定でもありません。おおよそ悩みというものの厄介な点はそこで、ともすれば、出したはずの結論が気分次第で翻ったり、判断を保留にしたことがらが頭から離れなくなって、何が何でも一晩のうちに結論を出してしまわなければ落ち着かないといったこともあるでしょう。


 少なくとも仁科さんはそのような気分がいったりきたり、天秤があっちに傾いたりこっちに傾いたりしていたのだと言います。それがどのくらいの期間続いていたのかはわかりませんが、とにかく、そんな時期にわたしが机の上でタロットを広げているのが目についたのでしょう。彼女もまた占いなんて信じないタイプに見えますし、そもそも気にもとめないような雰囲気もあります。けれどそのときばかりは「もういっそ」という気持ちだったのでしょう。朝一番教室に入った時点でそんなことを試したくなるくらいなのですから、仁科さんの頭がどのくらいそのことでいっぱいになっていたのかは、推して知るべしと言ったところです。


 そしてカードは杯の騎士の正位置でした。なかなかに気の利いた偶然とも言えるでしょう。


 これがもっと中途半端なカードであったなら、仁科さんは躊躇したかもしれません。けれどカードの意味がそのものずばりで、しかもタイミングよくタカノくんが教室にやってきたものですから、


「えいやっ」


 とその場の勢いに任せて告白をしたそうです。

 

 そうしてうまくいったんだそうな。


 めでたしめでたし。


「というわけで」


 と、仁科さんは手に提げていた紙袋をわたしの机の上に置きました。


「これは?」


「合格祈願をした神社には、受験のあとにお礼参りにいくものです」


「はあ」


「おおさめください」


 不審に思いながら紙袋の中身を見ると、黒っぽい、少し高級そうな(わたしにはこういったものが大抵高級そうに見えますが)箱が入っていました。


 隣でことの成り行きを見ていた茉莉花が、


「こ、これは……」


 と、わざとらしい声をあげました。


「じ、治一郎の……バームクーヘン……」


「知ってるの?」


「知らないの?」


 信じられないものを見る目を向けられてしまいました。一瞬のち、茉莉花ははっとした様子で、悲しそうな顔をしました。


「かわいそう……」


 そこまで?


 ほんの少し呆れながら、わたしは仁科さんのほうを向きました。彼女はやっぱり晴れ晴れとした笑顔で、


「お返しみたいなものだから」


 と言いました。


「でもわたし、なにもしてないし」


「たしかに」


 彼女はあっさりとうなずきました。


「でもこういうのは気持ちの問題」


「気持ち」


 ううん、と悩んでしまいます。正直なところ、わたしはそんな大きな決断に関わる覚悟なんてまったくなく、手遊び気分でカードをかき混ぜただけなのです。


「じゃあわたしがもらう」


 茉莉花はけれど遠慮しませんでした。


「ええ……」


「ううん……できたらふたりに食べてほしいんだけど」


「えっと……」


「人の厚意を無碍にするのは、もっとも恥ずべき悪徳だよ」


 茉莉花はどこかで聞き覚えがあるようなことを言いますが、わたしはなおも躊躇してしまいます。それでもそうこうしているうちに、仁科さんは紙袋を置いたまま、


「じゃあ、ありがとね」


 とだけ言って、いなくなってしまいました。


「ああ……」と彼女の背に手を伸ばしましたが、届くどころか呼び止める言葉すら思いつきません。


「バームクーヘン!」と茉莉花が声をあげました。


「……ううん」


 しかし、こんなしっかりとしたものをわざわざ、しかも一日で用意するとは、仁科さんもけっこうな変わり者なのかもしれません。


「いいじゃん、せっかく用意してくれたんだし」


「でもね、なんとなくね……」


「ウィンウィンってやつだよ」


「そうかもしれないけど……」


「大丈夫だよ」


「なにが?」


「一口食べたら、やみつきだよ」


 実際、結局はその言葉の通りになりました。




 昼休みにお弁当を食べたあと、茉莉花とふたりでバームクーヘンをいただいたあと、わたしは彼女にお願いして、余った分をもらうことにしました。


「いくらやみつきだからって、独り占めはずるい」


 すねた顔をする茉莉花に、そうではないのだとわたしは伝えました。


 放課後、バームクーヘンの入った袋を提げて、わたしは佳奈子ちゃんの部屋に行きました。


 わたしが着いたとき、部屋の鍵は開いていて、中に入ると佳奈子ちゃんはフローリングの床の上にうつ伏せに寝転んでいました。

 すわ一大事と慌てたのも一瞬、佳奈子ちゃんはわたしが来たことに気付くとこちらに視線を向けて、「おかえり」と呟きました。胸をほっと撫で下ろしたあと、今度は状況がつかめずに首をかしげてしまいます。


「どうしたの?」


「ちょっと疲れて」


「……そうですか」


 佳奈子ちゃんを見ていると常々思うことですが、芸術家肌の人というのは、やはり一風変わった人が多いのかもしれません。


 ゆっくりと立ち上がってから軽く首を鳴らして、佳奈子ちゃんはわたしのほうを見て、それからわたしが持っている紙袋に気付いたようでした。


「どうしたの、それ」


「おみやげ」


「お土産って……それ、わざわざ買ってきたの?」


「わかるの?」


「治一郎でしょ?」


 知ってるものなんだ……。


「もらったの」


「なんでまた」


「それをこれから説明しようかなと」


「……よくわかんないけど、コーヒー淹れようか」


「はい」

 

 佳奈子ちゃんがコーヒーを淹れてくれている間、わたしは夕方のニュース番組を眺めながら、いくつかのことを考えました。それは仁科さんのことであったり、バームクーヘンのことであったり、わたし自身のことであったり、さまざまです。一見脈絡のないことのように思えましたが、その実深いところでなにか共通の意味を含んでいるような気もします。佳奈子ちゃんがコーヒーの準備を終えて戻ってくる頃には、わたしは不安のようなものさえ感じていました。


「どうしたの?」


「ううん……」


 コーヒーをいただきながら、わたしはバームクーヘンをもらうことになった成り行きについて、佳奈子ちゃんに説明しました。彼女はわたしの話を聞きながら、ゆったりとリラックスした様子でコーヒーを味わっているようでした。一通り話を終えると、彼女はおかしそうにくすくすと笑います。


「なるほどね。それで、なんでわたしにもくれるの?」


「だって、もともと佳奈子ちゃんがタロットをくれたから……」


 彼女は納得がいかないような顔で視線を泳がせました。夕方のニュースは県内の交通事故について伝えています。わたしはその道を知っているような気がしました。佳奈子ちゃんは不意に、こらえきれないというように笑い出しました。


「そっか。そっかあ」


「……うん」


「ま、いいか」


 佳奈子ちゃんはそういって、バームクーヘンを指先でひとつつまみました。なにが、ま、いいか、なんだろうな、と、わたしは少し考えましたが、どうせわかりっこありません。わたしもまた、バームクーヘンに手を伸ばしました。


「にしても、若さだよねえ」


「仁科さん?」


「勢いがあるよね」


「うん」


 でも、


「……若さとかとは、違う気がするけど」


「そう?」


「大人はすぐ、若さって言葉でひとまとめにしちゃうから」


「まあ、そうかもねえ」


 わたしは真面目に言ったつもりだったのですが、佳奈子ちゃんはあっさりとした様子でした。なんとなく納得のいかないものを感じながらバアムクーヘンをかじると、しっとりとしたやわらかい感触と甘みが下の上で広がります。


 明かりをつけていない部屋はほんの少し薄暗く、ただコーヒーの芳しい香りだけが充満しています。その匂いにどこか酔うような気持ちで、わたしは気を抜くとなにかのたがが外れてしまうような気がしました。


「あんたはないの」


「ん?」


「そういう、若い話」


「ん。……うん」


「そう」


「何もないの」とわたしは言いました。目が合うのが怖くて、わたしは佳奈子ちゃんの方を見ることができませんでした。


「そう」


「……佳奈子ちゃんは、どうしてさっき、床で寝てたの?」


「ん。ま、ちょっとね」


「ね、佳奈子ちゃん」


「ん?」


「絵、見せて」


「……だめ」


「どうして?」


「そのうちね」


 と、佳奈子ちゃんはわたしと目を合わせずに言いました。


 佳奈子ちゃんは、本の表紙や挿絵、ポスターなどの絵を手掛けるイラストレーターとして活動しています。彼女は高校を卒業したあと、イラスト系の専門学校に入学したのち、途中で退学して、近隣の会社に事務員として就職しました。それと並行して、インターネットのホームページ上で自分の描いたイラストを公開し続けていたそうです。そしてあるとき彼女に、ある小説の表紙を描いてほしいという依頼が来たのです。それはたまたま出版社の人の目に止まった、といった話ではなく、むしろその作家さんが以前から佳奈子ちゃんのイラストを知っていて、どうしても表紙を佳奈子ちゃんに描いてほしいと言ったから、というお話だったそうです。

 

 その作家さんは著名な作家さんではなかったそうですが、当時は若者を中心に人気を集めていた新進気鋭の作家さんだったそうで、そこそこの知名度がありました。佳奈子ちゃんの描いた表紙は評判になり、何度かその作家さんの仕事を受けているうちに、徐々にお仕事が入ってくるようになったといいます。一時期はけっこう人気が出て、いろんなところで佳奈子ちゃんの絵を目にする機会がありました。例のタロットカードもまた、佳奈子ちゃんの仕事のひとつだったようです。


「絵ね……」


「ん」


 わたしが頷くと佳奈子ちゃんは何気ない様子で微笑みました。


「……そのうちね」


 わたしは、どうしてか、クローゼットの中で見つけた色鉛筆のことを思い出しました。クローゼットの中にはいらないものしかないんだ、と、佳奈子ちゃんは言っていましたが、わたしには、それが嘘のように思えてならなかったのです。


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