君を待つ間 (3/3)
◇
何かが狂ってしまった、そんな気がした。
部屋に戻って、わたしは今日あったことを思い出した。思考は空転して、意味ある言葉が頭に引っかからない。なにが自分を混乱させているのかまったくわからないまま、心のなかにはなんの言葉も浮かばなかった。
がんばらなくていいって、どうして?
どうしてそんなことを言うの?
わたしは、なんのためにピアノを弾いていたの?
わたしは、母さんが褒めてくれたから、ピアノを……。
先生が期待してくれるから、ピアノを……。
わたしは……ピアノを……。
すべての音が遠ざかっていく。わたしはベッドに寝転んで、天井にむけて自分の両手を伸ばした。この骨ばった奇妙に細い指……。
がんばらなくていい。
いまさら、がんばらなくていいって言われて、わたしはどうすればいいの?
いま、彼の声が聞きたかった。でも、彼に連絡をとることはできない。今日、友達の口から彼の名前を聞いたとき、わたしは思った。彼と知り合いだったことや、ときどき電話をしていたことを、わたしは友達に知られてはならない。そんな気がした。そしてもう、彼と連絡をとるべきではないという気がした。
急に部屋のなかの酸素が薄くなった気がした。無性に息苦しくて、手足が重い。自分のなかにあった力が静かに失われていく。わたしのなかの海に余計なものが混ざり込んで、徐々にその水を澱ませていく。でもそれは誰のせいでもない。わたし自身のせいだった。
立ち上がって、わたしはゆっくりと部屋の扉を出た。足音を忍ばせ玄関にむかい、靴を履いて外に出た。夏の夕暮れはまだかすかに西の空を赤く染めていたけれど、空はほとんど夜で、住宅地の道はもうほとんど真っ暗だった。夜の空気は、夏でもまだそこまで暑苦しくはなく、肌を撫でる風は少しだけひんやりとしている。
むかうあてがあったわけでもない。わたしはそのまま、あの公園へと向かった。そこにはもちろん誰もいなかった。わたしは、いつかのようにベンチに腰掛けて、夜の暗い木々の下、ひとりぼっちになった。
ぜんぶわたしの思い違いだったんだ、と思った。
期待されていると思ったことも、褒められるためにがんばることも、ぜんぶぜんぶわたしがそう思っていただけで、本当は誰もわたしにそんなことを求めていなかった。わたしはただ浅ましく他人から褒められることを期待して、そう望まれていると思っているとおりに振る舞っていただけで、本当は誰もわたしにそんなことを求めていなかった。
わたしは誰にも何も求められていない。
街灯に群がる虫たちの気配。わたしはベンチに座ったまま、何度も同じことを考えた。
じゃあ、わたしはなんのためにピアノを弾いてきたの?
そう問いかけてしまうことがもう答えのようなものだった。
わたしはピアノが好きだったから続けていたわけじゃない。
じゃあ、わたしに何が残るのだろう?
しばらくのあいだぐるぐると、そんなことを考えた。
考えているだけで、なんの行動も起こせなかった。
ゆっくりと息苦しくなっていく。
なにがこんなにも自分を苛んでいるのか、わからない。
長い時間そうしていた。こんなところでぼーっとしていたところで、何が起きるわけでもないし、何かが解決するわけでもないとわかっていたけれど、今は家に帰りたくなかった。そのままどれくらいの時間そうしていたのかわからない。日はすっかりと暮れ、もうあたりは真っ暗だった。
やがてわたしは落ち着きを取り戻してきた。
大丈夫、なにも起きていない。
わたしはピアノを弾けばいいだけだ。母さんが心配しないくらいにちゃんと振る舞えばいいだけだ。彼とのことも、なんでもなかったように振る舞えるはずだ。今までだってそうしてきたのだ。
あとはもう、その覚悟を決めるだけ。
そう思ったとき、公園の入り口から足音が聞こえた。
彼が立っていた。
◇
彼は、わたしのそばにやってきて、「よ」とそっけなく手をあげた。わたしは、どう返事をすればいいのかわからなかった。
「座ってもいい?」
「……うん」
どうして彼がここに来たのか、それがわからずに、わたしは混乱した。
「懐かしいね、ここ」
「……うん」
わけがわからないまま、彼がわたしの隣に腰掛ける。わたしは、ほんの少しだけ呼吸をととのえた。
「大丈夫?」
と訊ねられて、わたしは息を呑んだ。
「なにが……?」
「いや。なんとなく」
「大丈夫だよ」
母さんにそうしたみたいに、わたしは笑った。大丈夫、なにもかも、大丈夫だ。
それなのに、
「ほんとに?」
と、静かに問いかけられた瞬間に、その覚悟があっさりと揺らいでしまった。
そっと肩の力が抜けて、からだが揺れた気がした。
わたしは、自分が両の拳を握り込んでいたことに気付いて、力を抜いた。
目を瞑って、耳をすませる。夜の静けさのなかで、わたしの存在だけが周囲から浮かび上がっているような気がした。
「なんだか、海のなかにいるみたいだね」
「……うん。そうかもね」
わたしは、なにかを話してもいいのかもしれないと思った。彼に、何かを知ってほしいような気がした。聞いてほしいような気がした。それなのに、頭のなかで言葉として結びつかない。
誰かが求めているだろう言葉を口にすることはできる。
でも、そうではなくて……誰も求めていないかもしれない自分の言葉を口にすることは、むずかしいことに思えた。
ただ思っていること。ただ感じていること。何が好きで、何が嫌で、何がしたくて、何がほしいか。それを口にすることは、こんなにも難しいことなのだろうか。わたしは、そんなことを、今まで、しようとすらしてこなかった気がする。
言葉未満の音すらも、唇にも舌にも乗らなかった。そんな時間が長く続いた。わたしは彼がどんな気持ちでいるのか不安になった。大丈夫だから、もう帰ろう、と、そう言うべきかもしれない、と思った。そうしないと、彼を困らせてしまうだけだ。
でも。
本当はそうしたくなかった。
「あのね……」
「……うん」
彼は、相槌を打った。そのことにほんの少し安心した。
「音がすうっと遠くなって、なにも聞こえなくなるの」
「音?」
「うん。遠いの。……わたしだけが水のなかにいるみたい」
「……ピアノのこと?」
「ううん。……うん、ピアノのことも……でも、たぶん違う」
わたしはゆっくりと言葉を選ぼうとしたけれど、その言葉はどう考えても足りなくて、なにも伝えてはいなかった。なにも、言葉にできたことになっていなかった。
「どうしたらいいのか、わからないんだ」
ほんとうに、そう思った。彼は今度は相槌を打たなかった。
「でも、たぶんわたしは……」
この深く沈んだ夜の底でだけ、自分が自分として呼吸することを許されている気がした。それでも言葉の続きはなにも思いつかない。
どうしたらいいのか、わからないままだ。
彼を困らせているだけだ。
「……わたしは、すごく、見当違いのことをしてたのかなあ」
ごまかし笑いを浮かべながら、わたしは彼の顔をようやく見た。それでようやく、彼が泣き出しそうな顔をしていることに気付いた。わたしは自分の偽りだらけの表情がみっともなく思えて、作り笑いをやめる。
「あのさ」
「……うん」
「魚が陸の上で呼吸できない理由、知ってる?」
「……なんの話?」
「魚は水をつかって酸素をとりこんで、二酸化炭素をからだの外に出すんだよ。だから、水のなかじゃないと酸素をとりこめないし、自分のなかにたまった二酸化炭素を吐き出すこともできない」
「……そうなんだ」
わたしは、突然の豆知識に拍子抜けして、少し肩の力が抜けた。
「無理に笑わなくてもいいよ」
わたしはうまく返事ができなかった。
「変に気を使わなくてもいいよ。言いたいことがあるなら言ってもいいけど、言葉に出来ないならしなくてもいい。なんだっていいよ。でも、べつにさ、つらいときに、つらい顔したって、いいと思う」
「わたしは……」
わたしはそのとき、返事をしたのだろうか?
「ぜんぜん別の話が聞きたかったら、俺ががんばって喋るから。どうでもいいことでも聞いてくれるなら、俺が喋るから」
そのときわたしは、彼の前でだけ、自分が自分に何も求めていなかったことに気付いた。
「でも、よかったら」
よかったら、と、不器用そうに微笑みながら、
「きみの話をもっと聞きたい」
たぶんだけど、と彼は言葉を続けた。
「ちゃんと息を吸うには、ちゃんと息を吐き出さないといけないんだ」
わたしは、彼の目をじっと見た。
それからまっすぐに向き直り、目を閉じる。そして背筋を伸ばして、からだのなかにある空気を全部吐き出しきって、そのあとに思い切り新しい空気を吸い込んだ。
「そう、そうやって」
もう一度繰り返したあと、わたしは彼のほうを見た。彼もわたしのほうを見ていた。
わたしたちは申し合わせたみたいに笑った。
◆
オーブンの焼き上がりの音がして、美結さんはそこで話を区切った。
わたしは急に置いてきぼりにされた気がしながら、彼女の背中を見送る。
「クッキー、焼けたね」
「美結さん、そのあとどうなったの?」
彼女は背中をこちらに向けたままくすくす笑った。
「どうなったんだったかなあ」
「なんでごまかすの?」
「うーん」と美結さんはいたずらっぽく笑う。わたしは美結さんの背中を追いかけてキッチンへと向かった。
「ほら、クッキー、美味しそうにできたね」
「ほんとだあ。ちゃんとできるもんだね」
「ちょっと冷まさないとね」
「……それで、そのあとどうなったの?」
「……ピアノはね。その一年のあいだだけがんばって、高校に入ったらやめることにしたの」
「そうなんだ。……やっぱり、つらかったの?」
「弾くのは好きだったんだけど……たぶん、プレッシャーを感じてまで難しい曲を練習するのは、つらかったんだろうね」
「そっか……ううん、ピアノのことはもうよくて」
美結さんがダイニングテーブルの椅子にふたたび腰掛けた。わたしも彼女に向き合って座る。
「友達にはね、正直に話したの。わたしは彼のことが好きなんだと思うって」
「そしたら?」
「それがね、そうだろうと思ったって言われた」
「ええ……」
「彼の名前が出たとたん、顔が真っ青になってたんだって」
わたしは真っ青になった美結さんを想像して思わず笑った。
「かなりわかりやすかったんだね」
「自分ではそう思ってなかったんだけど」
彼女は苦笑する。
「そうだったみたい」
「そうなんだ……。や、でもそうじゃなくて、そのあとどっちが……」
「時間、大丈夫? このあとデートなんでしょ?」
「ごまかさないで。クッキーが冷めるのを待つくらいの時間あるから」
美結さんはくすくす笑った。
「どっちから告白したの?」
「そのあたりのことはね、内緒にしたほうがいいかなって」
「……むう」
「でも、今でも不思議なのは、どうしてあの夜、あの公園に彼が来てくれたのかってことかなあ」
「あ、それは……」
そのとき、玄関から扉の開く音が聞こえた。
「お兄ちゃんかな?」
訊ねると、美結さんは「たぶん」と頷いた。
「ただいま」と声がして、ダイニングに兄が入ってくる。「いたのか」と言われたので、「いました」と返事をする。
「なにしにきたんだ」
「美結さんにお菓子作り教えてもらう約束してたの。お兄ちゃんにはあげないけど」
「……まあいいけど」
「嘘だよ。ちゃんとある」
「ね、時間大丈夫?」
「ん。……あっ」
わたしは慌てて立ち上がった。クッキーが冷めるのを待つ時間くらいはあると言ったけど、わたしは時計を見ていなかった。そろそろ出かける準備をしないと遅刻してしまう。
「行かなきゃ。美結さん、ありがとう」
「クッキー、袋に入れよっか」
わたしたちはキッチンに向かって、出来上がったクッキーを袋に入れた。美結さんの用意してくれた包装用の袋はなんともかわいくて、わたしにはちょっともったいないかなって気もしたけど、これはこれでよし。
「じゃあな兄貴!」
と声をかけると、「おう」と返事が帰ってくる。
玄関先まで美結さんは送ってくれた。
「お兄ちゃんが公園で美結さんを見つけたときの話だけど」
靴を履きながらそういうと、美結さんは不思議そうに首をかしげた。
「美結さんのお母さんとうちのお母さん、けっこう頻繁に連絡とってたみたいで、お兄ちゃんは美結さんのこと、けっこういろいろ聞いてたみたいだよ」
「そうなの?」
「うん。だから、その日も美結さんのお母さんから、うちに連絡が来てたんじゃないのかな」
「……そっか」
「うん。美結さんの話だとお兄ちゃん、なんか不思議な感じがしたけど、たぶんさ、あの人も、話しかけにくくて、美結さんに話しかけるタイミングうかがってたんじゃないかな」
美結さんが笑ったので、わたしも笑った。
「それじゃ、また遊びにくるね」
そう言ってわたしは美結さんに手を振った。美結さんもわたしに手を振った。
彼らの家を出て、わたしは駅への道を歩く。秋の午後の空はよく晴れている。待ち合わせに遅れないように早足になりながら、鞄のなかに入れたクッキーの出来を心配する。……そういえば、味は大丈夫だろうか? ひとつくらい試食すればよかった。
歩く途中で、わたしは一度足をとめた。どこかから、懐かしい、胸がきゅっとなるような香りがする。
金木犀の香りだった。
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