君を待つ間 (2/3)



 ときどき、彼の姿を学校で見かけた。彼はわたしの知らない友達と、楽しそうに話をしていた。今になんの不満もないみたいな、そんな素振りで。……そういうふうに見えただけかもしれない。でも、そういうふうに見えた。


 わたしはやっぱり彼に話しかけられなかったし、彼もわたしに話しかけてこなかった。それでもたぶん、わたしは彼に話しかけられることをどこかで期待していたのかもしれない。


 中学校に入る前よりもずっと。彼と話せたら……もしかしたら、あの頃、彼の言葉のゆるやかなリズムにのまれて、心地よさに浸っていたあのときのような瞬間があれば、わたしはもっとピアノを弾くことを楽しんで、友達との隔たりや、両親の期待の重さを、たいしたことじゃないと思えるようになれるかもしれない。


 両親に携帯電話を買い与えてもらった中学二年の秋は、そんな時期だった。



 秋のある日の放課後、わたしは駐輪場の近くに立っていた。わたしは普段はあんまり立ち寄らない図書室で時間を潰してから、バスケ部の練習が終わる時間を見計らってそこを訪れた。


 彼がバスケ部に入っていることも、彼が自転車で通学していることも……わたしはちゃんと知っていた。偶然知ったわけでもなくて、彼のことを気にしていたから、そういうことがわかっただけなのだけれど……。そういうわけで、その日のわたしがしていることは、控えめに言ってもストーカーのそれだった。


 彼を待つあいだ、時間はゆっくりと過ぎた。近くに人が通りがかるたびにその人のほうを見て、彼じゃないことを確認してから目を伏せた。そのたびに、その人に不審がられている気がして落ち着かなかったけれど、十分も過ぎる頃には覚悟が決まった。さいわい、誰もわたしに話しかけてはこなかったし、仲の良い友達が通りがかることもなかった。そのうち体育館から出てきたバスケ部の部員たちが駐輪場のあたりに一斉にやってきて、わたしは身を隠すかどうか迷ったけれど、結局そんな場所はどこにもなかった。


 ひとりで出てきてくれたらいいなと思ったけれど、彼はみんなと一緒に出てきた。わたしは怖気づいて、なんでもないふりをしてこの場を離れようかと考えた。


 そのとき、彼と目が合った。彼は明らかにわたしを認識して、意外そうに口を開けた。その表情を見たとき、時間の流れがほんのすこしゆるやかになったような気がした。


「あの」


 と気づけばわたしは声をあげていた。

 彼は声をかけられているのが自分だと、少しして気づいたみたいだった。


「あの。これ……」


 わたしは、ノートの切れ端で折った手紙を彼に差し出した。声はひきつって、うまく言葉にならなかった。周囲の視線が自分たちに集まっていることが気になって仕方がない。彼が言葉を発するまでの時間が、おそろしく長かった。


 やがて、


「……俺?」


 と、そんな声がした。わたしは視線だけを一度あげて、彼がわたしを見ていることを確認したあと、また顔を伏せて頷いた。


「あ、うん」


 ようやく、彼はわたしの手から手紙を受け取った。それから何かを聞こうとしたのか、口を開いたけれど、その声が発せられる前にわたしは緊張の限界を迎え、耐えきれなくなって足早にその場を立ち去った。


 後ろから声がかけられた気がした。その声は子供の頃とは違っていて、もう声変わりしていて、でも、わたしはひさしぶりに彼の声が聞けた気がして場違いにうれしかった。



 彼に渡した紙には、買ってもらったばかりの携帯電話の番号が書いてあった。本当は口頭で、「携帯電話を買ってもらって」とか、「また話したいと思って」とか、もっと気安い調子で言うつもりだったのに、そんな言葉は真っ白になった頭のどこにも残っていなくて、結果的には「突然連絡先のメモを渡しただけの女」になってしまった。せめて番号のほかになにか文面を書いておけばよかったのだけれど、そんなことをしたらより一層重たいような気がして書いていなかったのだ。あとから考えれば、「連絡ください」の一言だけでも書いておいたほうがよかったのかもしれない。


 家に帰ってからわたしは後悔と羞恥でベッドの上でしばらく悶えた。不思議な達成感と開放感で気分は高揚していたけれど、同じくらいの振れ幅で、彼はもうわたしのことを覚えていないんじゃないかとか、覚えていたとしてもわたしをわたしとして認識していないんじゃないかとか、あんなやりとりじゃ連絡をくれるわけもないとか、そんなことばかりを考えて落ち込んでいた。


 それと同じくらいに、彼の伸びた背や、声の低さや、わたしをまっすぐに見た瞳や、驚いたときの表情なんかが際限なしに思い出されて、わたしは苦しいのか嬉しいのか恥ずかしいのか、自分でも自分の感情がよくわからなかった。


 その日の夜はなにも手につかず、携帯を手のなかでもてあそびながらひとときも手から離さなかった。夜十時を過ぎたころ、不思議な、失望のような落胆のような気持ちで、やっぱり連絡なんてくるわけがないんだ、と思い、お風呂に入ることにした。そしてお風呂からあがって携帯を見ると、数分前に知らない番号から電話がかかってきていた。


 わたしは髪を乾かすのも放り出して、すぐに自分の部屋にもどり、その番号に電話をかけた。

 

 数コール待って、電話は繋がった。


「もしもし」


 と少しこわばった声がして、わたしの心臓は大きく揺れた。どうしてこんなにも緊張しているのか、自分でもわからなかった。


「もしもし」と、やっとの思いでそう返すと、彼はほっとしたように息を漏らした。それで、わたしは次に何を言えばいいのかわからなくなる。


 それでようやく出た言葉が、


「あの、携帯を、買ってもらって、このあいだ……」


 とか、


「ちゃんと、話すつもりだったんだけど、なんか、逃げちゃって……」


 とか、そんな調子で、ろくに経緯も話せなかった。彼は相槌を打ちながら、わたしの話し方に戸惑っているみたいだった。それで少し、わたしは不安になった。


「あの、わたしのこと、覚えてる……?」


 やっとの思いで、そう絞り出すと、彼は電話のむこうで息をのんだようだった。心臓の音だけがやけにうるさくて、彼の声を聞き逃さないか、わたしは心配になった。

 

 やがて、


「覚えてるよ」


 と声が返ってきて、わたしはそこで、ようやくほっとして、急に涙が出そうになった。



 その日、わたしは彼にいままで思っていたことを伝えた。ほんとうは昔のように話してみたいと思っていたこと、ずっと気にしていたこと、きっかけが掴めずに、距離を感じていたこと。勢いあまって相当恥ずかしいことを言ってしまったような気がしたけれど、そのときはひさしぶりに彼と話ができるうれしさでなにも気付かなかった。


 彼はわたしのそんな言葉を、ただ静かに相槌を打ちながら、ときどき笑いながら聞いてくれた。そして彼のほうも、わたしのことを覚えていて、わたしのことを気にかけていたのだと教えてくれた。


 話をしているうちに、嬉しさと安堵がからだに馴染んだせいか、妙に気分が落ち着いてきて、そこで自分がかなり変なことをしてしまったんじゃないかと急に冷静になった。


 そう気づいた瞬間、いてもたってもいられなくなって、彼に迷惑をかけているんじゃないかという気がして、電話をそろそろ切ろうと言った。


 最後に、


「あの、迷惑じゃなければ、またかけてもいいかな」


 と訊ねると、彼は少し笑って、


「もちろん」


 と言った。





 その日から、わたしと彼はときどき電話やメッセージのやりとりをするようになった。最初のほうこそ、お互いに距離を測り合っているようなところがあったけれど、それもそのうちなくなった。


 話すのは、お互いの近況や、友達のことや、それから以前のように、彼がはじめる、なんでもない話。体育館の高い天井に甲高く響くボールの弾む音のことや、中庭の欅の枝葉の緑の深いことや……そういうこと。


 そんなに頻繁に連絡を取り合っていたわけではないけれど、ときどき電話をしようと言えば、彼は嫌がらずに応じてくれた。わたしは、友達との関係に不安を覚えたときや、ピアノのコンクールが近くなる時期や……とにかく、そういうタイミングで、彼に甘えている自分に気付いたけれど、それが悪いことなのかどうか、判断はつかなかった。


 あるときふと、そういえば彼に恋人はいないのだろうか、ということを考えて、自分がまずいことをしているような気がした。


「あの、ぜんぜん気付いてなかったんだけど、彼女とか、いるの?」


「なんで?」


「いや、もしいたら、こんなふうにわたしが連絡をしてるのって、まずいんじゃないかなあ、って」


 彼は笑った。


「いないよ、そんなの」


 わたしは深く安堵した。それはあきらかに、「彼女がいる男の子と連絡をとっているまずい状態でなかったことに対する安堵」以上のものだったけれど、それを意識しないようにする。


 彼と話している時間、わたしはいつもより深く呼吸できている自分に気付いた。彼と話しているあいだは、わたしはちゃんと酸素を吸って、からだのなかに循環させることができる。そうでないときに、自分が常に緊張状態にいるのだと実感してしまった。


 小学生の頃とは違って、わたしたちは学校で会っても、知らんぷりをしたりはしなかった。長く言葉を交わしたりはしなかったけど、廊下ですれ違えば声をかけあったり手を振り合ったりした。


 そういう瞬間はとても嬉しいものだったけれど、相変わらずわたしは友人関係にある種の億劫さを感じていて、しかも、ピアノを弾くのも楽しめないままだった。



 そんなふうに過ごしているうちに、わたしたちは三年生になっていた。


 ピアノのコンクールに向け、わたしは課題曲の練習をするようになった。いつも楽譜を持ち歩き、暇ができると机の上で指を動かした。友達には笑われたけれど、ほかにどうすればいいのかわからなかった。


 わたしのなかには相変わらず自分でもよくわからない澱のようなものがひっそりと堆積しているようだった。なにが自分をそうさせているのかわからない。ただなにかが上手く回らなくて、なにかが足りない。


 夏が近づくにつれ、周りの子たちが志望校の話や夏期講習の話をしているのをみて、わたしは静かな焦燥を覚えた。


 難しいピアノ曲を弾くこと、友達との関係を良好に保つこと、周囲から浮かないこと。わたしにとっての関心事はそんなことばかりで、自分の未来について考えたことがなかったのだ。


 それでもわたしはほかにどうすればいいのかわからなかった。できることはただピアノを練習すること、そして勉強をすること。他の生き方がわからない。



 五月末の大会が終わる頃、運動部に入っていた生徒たちは部活動を引退して、余った熱を別のものに向け始めたがっているみたいだった。その頃から学年のそこかしこで、誰と誰が付き合い始めたとか、あそこのクラスの誰々が誰々を好きだとか、そんな噂が耳に飛び込んでくる機会が増えた。その様相はさながら地中からやっとの思いで這い出した蝉たちが、残り少ない命を燃やすかのように大音声で叫び合って恋をしたがっていたみたいに見えた。


 友人たちと恋の話をしたのは、その頃だったような気がする。


 グループのうちのひとりに彼氏ができたのがきっかけだった。それまでわたしは、恋というものが自分と関係のあるものだと考えたことがなかった。


 もちろん、あとになって考えれば……それは思い違いだったのだけれど、その当時のわたしにとって、彼との電話は、自分が深く呼吸するためにどうしても必要なことで、それ以外の時間に積もり積もった緊張と不安をゆるめ、日常に立ち向かっていくための儀式のようなものだった。

 

 そしてそのときに、友人のひとりが彼の名前を口にしたのだ。

 

 自分のそのときの感情をうまく説明できない。恐怖や不安に近いことはわかるのだけれど、明らかにそれらよりも重たい。


 軽い感じで口にしたのだと思う。べつに、好きだっていうほど大げさな話じゃない。ちょっと気になるとか、そんな感じ。それだけでわたしは何も言えなくなった。

 

 周囲の酸素が薄くなり、急に音が遠くなったような気がした。彼という存在を、わたしは自分の秘密の金魚鉢のなかに隠しているような気分でいた。その瞬間、彼の存在はわたしの用意した小さな海のなかから引き上げられてしまった。


「大丈夫?」


 と声をかけられて、わたしは自分が黙り込んでしまっていたことに気付いた。


 こわばった声で、「なにが?」と笑って答えるのが精一杯だった。




  課題曲はショパンの幻想即興曲だった。その日のレッスンの最中、わたしは普段しないようなミスで何度も曲を止めた。ミスをすればするほど、これではいけない、こんなんじゃだめだ、という気持ちがいくつもいくつも積み重なって、わたしのなかの小さな海はさまざまなもので澱んでいく。水はその柔らかさを失っていき、指先はセメントで固められたようにつめたく動かなくなっていく。

 

「休憩にしようか」と先生は笑ってくれた。わたしは自分の情けなさに俯いた。



 レッスンの終わり、わたしは子供の頃に何度も立ち寄ったあの公園の前で足を止めた。なにかが自分のなかに澱んでいる。その正体が今はつかめない。いや、つかみかけてはいるのだけれど、それをちゃんと意識することがおそろしい。


 家に帰ると母さんがキッチンで夕飯を作っているところだった。わたしの顔を見て、母さんは、「大丈夫?」と訊ねてきた。


「なにが?」とわたしは訊ねた。母さんはなにかを言いたげにしたあと、結局黙り込んで、料理に戻った。わたしはなんだか疲れ切っていて、ダイニングのソファにからだを預けて目を閉じた。


「あのね、美結」


「……なに?」


「ピアノ、つらい?」


 わたしは返事ができなかった。


「あのね、つらいなら……がんばらなくてもいいんだよ」


 わたしは。

 返事ができなかった。


「さいきんの美結、とてもつらそうに見えるから。……だから、ピアノを弾くことがつらいなら……」


「大丈夫だよ」

 

 それ以上なにも聞きたくなくて、わたしは強い口調でそう言った。


「少し疲れてるだけ。大丈夫だから」


「……そう?」


「うん。……着替えてくるね」

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