君を待つ間 (1/3)



「なんだか、海のなかにいるみたいだね」と彼女は言った。


 公園のベンチに、俺たちは隣り合って座っていた。夏の夜の空気は湿っていて、灯りの少ない風景のなかに沈黙が澱のように堆積していく。


 彼女はなにかを言いかけて、すぐにやめた。そんな瞬間がずっと続いていた。声未満の吐息さえなかったのに、どうしてか俺にはその気配がちゃんとわかった。


 やがて彼女は語り出す。いずれ声は発される。その唇の動き、瞳のむかう先、肌に落ちた魚の群れのような木の葉の影、そんなことばかりがやけに目について仕方ない。


「音がすうっと遠くなって、なにも聞こえなくなるの」


 言葉は断片的で、脈絡がない。繋がりがない。だから、そのままでは彼女の言いたいことがわからない。


「どうしたらいいのか、わからないんだ」


 その声を、いま聞かなくてはならない。彼女がいままでそうしてきたように、俺もまた彼女の言葉に耳を傾けなければならない。


「でも、たぶんわたしは……」


 そして俺は言わなければならないのだろう。

 彼女に対して、ずっと言えなかったことを。






「そんなにおもしろい話にはならないと思うけど」


 と言って、美結さんはいつもの控えめな微笑を浮かべた。彼女が淹れてくれた紅茶の香りの、かぎ慣れない匂いに少しだけ高揚しながら、わたしは「うーん」と考える。


「でも、聞きたいな」


 彼女は困ったみたいに笑う。わたしよりも年上なのに、そんなふうに笑う仕草は少女のように柔らかくて、彼女のまわりの空気を少しやさしくさせるようだった。


「……でも、たぶん暗い話になっちゃうかもしれない」


「そうなの?」


「どうかな。そう思ってるだけなのかもしれないけど……」


 美結さんはティーカップに指を添えて、何かを思い出そうとするみたいに視線を落とした。彼女がここに至るまでの経緯について、わたしはほとんど何も知らない。


「でも、うん。そうだね……話してもいいのかも。というより、わたしが聞いてもらいたいのかもしれない」


「……うん」


 彼女の言葉にはなにかの含みがあるような気がしたけれど、それがなんなのかよくわからない。わたしはそのまま、彼女の言葉を待った。


「どこから話そうかな……。たぶん、ずっと昔までさかのぼることになると思う。それでもいいかな?」


 わたしは壁にかけられた時計をちらりと見る。大丈夫、まだ時間はある。


「もちろん」


 とわたしがうなずくと、彼女はまたゆるい微笑を浮かべた。





 わたしが通っていたピアノ教室は、子供のころに暮らしていた住宅街の、少し目立たない場所にあった。自宅をそのまま利用していたらしいその教室は、今は先生が亡くなって、もうやめてしまったそうなのだけれど、わたしは物心ついたころから高校に入るまでずっと、そこでピアノを習っていた。

 

 庭には金木犀の木が生えていて、夏の終わりになると、近くを通りがかるだけでその匂いをうんと吸い込むことができた。わたしは今でも金木犀の香りをかぐとあのピアノ教室のことを……先生がときどき焼いてくれたクッキーの味や、紅茶の匂いや、それから彼女が飼っていた三毛猫のことや、良いことや嫌なことや……いろんなことを思い出す。


 半分趣味で経営していたらしいその教室には、わたし以外の生徒は数人しかいなくて、その中でも年が近かったのは、同い年の男の子だけだった。


 わたしと彼は余り物みたいに仲良くなって、ピアノのレッスンが終わったあと、近くにあった児童公園のベンチに座って、噴水の水音を聞きながら、とりとめのない話をした。


 そのころからわたしは既に話下手だったのだけれど、そこでの会話は途切れることがなかった。話題を振ってくれるのも話を続けてくれるのもいつも彼で、わたしはほとんど相槌のような言葉を返すだけだったのに、彼は気にした様子もなく、楽しそうに話し続けた。


 彼の口から出る話題は、日々のなにげない泡のような情景や、偶然耳にとまっただけの誰かの言葉の音韻の不思議さや、ピアノの音色の、透き通った細さのことや……そんな些細なことばかりだったのだけれど、彼はその小さな粒から、魔法のようにどこまでも連想を膨らませていって、彼自身が予想もしていなかったような新しいことをそのなかから掘り出してしまう。残念なことに、今となってはもうその内容のひとつひとつを思い出すことはできないけれど、彼の声に耳を傾け、彼の語るイメージに身を預けている瞬間は、わたしにとってはとても心地の良い時間だった。彼が話しはじめると、周囲の空気が急にその濃密さを増し、風景の色彩はその濃淡を深め、他の音はたちまちに聞こえなくなった。

 




 わたしと彼は同じ小学校に通っていたのだけれど、どちらが言い出したわけでもないのに、わたしたちは学校では言葉を交わさなかった。そして、お互いにそのことに不満はないようだった。


 周囲に茶化されるのがいやだったのかもしれないし、学校という場所で彼と話してしまって、あの時間に宿った魔法のような感覚が消えてしまうのがいやだったのかもしれない。それとも、彼と一緒にいる彼の友だちに気後れを感じたのかもしれない。どれが本当なのか、全部本当なのか、わからないけど、とにかくわたしたちは、学校では話さなかった。


 廊下ですれ違っても挨拶ひとつしないのに、ピアノのレッスンのあとには、また公園のベンチで話をした。そういうささやかな秘密が、その頃のわたしをたしかに呼吸させていた。


 たとえば初夏のある日には、雲に遮られた公園は大きく翳り、周りの景色は水底のように青ざめた。それでもうっすらと届いた陽の光が木の葉の影を彼の頬に落とす。それは魚のかたちのようだった。


 わたしと彼のその関係は、小学六年生のときに、彼がピアノ教室をやめるまで続いた。





 彼がピアノ教室をやめてしまってから、わたしと彼が言葉をかわす時間はなくなった。わたしたちは同じ中学校に入ったけど、それでも状況はおんなじ。自然と距離ができて、お互いに別々の友達ができて、ぜんぜん知らないところで生きていた。それは自然なことだったような気がする。


 それでも、ほんの少しでも勇気を出せば、わたしは彼に話しかけることができたのかもしれない。男女のあいだに、なんとなくできた気がする見えない壁や、話さなかった期間の気まずさや、相手が自分のことをどう思っているのかわからないこととか、そういうあれこれを無視することができれば。でも、わたしにはそんな勇気がなかった。


 直接の関係はないけれど、わたしはそのころから、ピアノを弾くということを、つらく、苦しいことのように思い始めた。先生はコンクールに出ることを薦めてくれて、わたしの両親はそれを喜んで、わたしもピアノを弾くことが好きだったから、そのこと自体は別にうれしかったのだけれど、そのころから、ピアノを弾くことが楽しいだけのことではなくなってしまった。


 そういうものなのかもしれない。




 魚が陸の上で呼吸ができないのは、どうしてなのだろう?





 中学では友達もできたけれど、わたしはそのころから自分の性格が、対人上の問題を抱えていることに気付きはじめた。最初のころ、それは、登校することを億劫に感じるようになったとか、ひとりになった瞬間にどうしてかほっとするとか、そうしたささやかなもので、強く自覚はしていなかったのだけれど、仲の良い友達同士でお泊まり会をしよう、という話になったときに、強い抵抗感を覚えたときに、はっきりと実感するようになった。


 彼女たちのことは好きだった。ずっと無理をしていたわけじゃない。でも、自分の本心をなにもかもさらけだせるような相手だったかと言われると、そうじゃなかった。


 楽しくなくなったピアノ。億劫な友人関係。

 わたしはそのうち、これらのことが深いところで静かにつながっていることに気づいた。


 それはこういうことだ。


 わたしは誰かの期待に応えようと、その相手の期待どおりに振る舞おうとしてしまう。誰かに求められている自分であることを自分に課してしまう。その結果として、ピアノは両親や先生の期待に応えるためのものに変わり、友人関係は友人たちに気に入られるためのものに変わっていた。


 今なら、どうすればいいのか、わかる。

 でも、当時は、そんなふうに言語化もできないままに、ただなんとなく億劫なまま、ピアノを弾くことも、友達に気を遣って彼女たちの望むとおりに振る舞おうとすることも、そうせずにはいられなかった。


 どうしてだろう。そうしないと、見捨てられるような気がしたから。

 期待通りに振る舞えない自分は無価値の烙印を押されて、みんなはわたしのもとから離れてどこかに行ってしまい、わたしはひとりぼっちになってしまうような気がした。


 そんな憂鬱が、わたしのなかにずっとあったような気がする。なんとなく息苦しい日々、なんとなく、自分がどこにもいないような感覚。そんな自分があさましく思えて、バカバカしいような気分。

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