あけびはむめじろ (Life is party)



 二学期に入ってすぐに席替えがあって、俺は窓際から二番目の最後列というなかなかの好位置を手に入れた。授業中に隠れて携帯をいじっていても気付かれないし、近頃はアプリだの電子書籍だので暇潰しには事欠かない。おかげで授業についていけなくなった。

 それで、課題が出たりテスト範囲を聞き逃したりするたびに、左隣の席、窓際最後列の席を幸運にも勝ち取った女の子に内容を教えてもらっていたのだが、何度か続くとさすがに面倒がられてしまったらしい。俺が授業中に携帯をいじろうとするたびに、「こら」とか「授業聞け」とか「もう教えないぞ」とか、小声で言ってくるようになった。最初はがんばって聞き流していたのだが、メモの切れ端やら消しゴムやらを投げつけられるようになって、そこまでされるとさすがの俺も耐えきれない。おかげで成績の下降はとりあえず落ち着いた。正直、途中からちょっかいを出されるのを楽しんでいたところがあったのだが、まああんまり迷惑をかけるのもよろしくない。授業中の彼女の集中まで奪ってしまうのは、俺だって本意ではないのだし。

 そんなわけで真面目に授業を受けるようになったある日、授業の終わりのチャイムの音がやまないうちに、彼女が教科書とノートで机を叩いて高さを揃えながら、「近頃は真面目でよろしい」と声をかけてきた。

「お褒めないあずかり光栄です」と俺はおどけてみせた。

「うむ。その調子で精進せよ」

「ははー」ととりあえずひれ伏してみせると、彼女はうんうん頷いた。かえってこっちが気まずくなる。

「……いやまあ、授業を普通に受けてるだけだから、褒められるようなことじゃないと思うんだけどな」

「そういう言い方もできるけどね」

 彼女はさしてこだわりもなさそうに頷いた。

「でもまあ、いちいち褒めたほうがいいとか褒めなくてもいいとか考えるのって、なんか面倒だし」

「なるほど」

「そんなわけで」

 と、彼女は鞄から小さなポーチを取り出して、そのなかの飴玉をひとつ俺に差し出した。

「さいきん真面目で賞」

「……はあ」

 俺が手のひらを差し出すと、彼女はそこに飴玉をぽんと置いた。

 レモンキャンディ。

「ご褒美ですよ」

「お返しできるものがなにもない」

「大丈夫だよ。これは、のぶれすおぶりーじゅってやつだよ」

「なにそれ」

「のぶれすおぶりーじゅ」

 発音がちょっと怪しかったが、俺は素直にその飴玉を受け取って口に含んだ。

 気になってあとから辞書で調べてみると、ノブレスオブリージュという言葉はどうやら「高貴なるものに伴う義務」を意味しているらしい。けれどこの言葉は、彼女がそのとき口にした言葉のニュアンスとは少し違う気がする。つまり、彼女にとって飴玉を渡すことは「ノブレスオブリージュ」というよりはやはり「のぶれすおぶりーじゅ」だったのかもしれない。

 




 彼女について話そう。少し長めの髪を後ろでまとめるときに、ヘアゴムを唇で噛む仕草や、雨の日に窓の外を眺めながら頬杖をついて憂鬱そうに溜め息をつくときの表情について。でもおそらく、そんな話をいくらしたところで、それは何にもならないだろう。それは、どこかの誰かがした似たような仕草の、最大公約数的なイメージを連想させるものにしかならないだろう。彼女そのものとは違う、ただの文字の連なりにしかならないだろう。

 辞書のようなものだ。言葉の意味はたしかにそこに書いてある。文字列として、そこに並んでいる。けれど言葉の意味とは並べられた文字のことではなく、言葉によって名前をつけられたものそのもののことだ。

 分節される前の混沌。言葉はその容器に過ぎない。どれだけ言葉を尽くしたところで、彼女そのものには辿り着けない。だからきっと、俺にとって彼女がどれほどの存在かなんて、きっと誰にも伝わりはしないだろう。

 



 

「猫をね」と彼女は言った。

「猫を拾ったわけよ」

「……はあ、それは」

 なんと続けていいものか迷った。災難だったね、というのとも違うだろう。

「わたしじゃないよ」と彼女は訂正した。窓際からさしこむ晩夏の日差しと夏服の白さが目に眩しい。

「知り合いがね。知り合いが拾ったの。五匹」

「……」

「公園のベンチの下にね、紙袋があって、開けてみたら入ってたんだって、五匹。子猫が」

「そっか」

「飼える人を探してるんだけど……」

「きみは?」

「わたしの家は、うん。お姉ちゃんが動物ダメなの。アレルギーで」

「アレルギー」と俺は繰り返す。アレルギー。なるほど、アレルギー。なら仕方ない。

「それでどう?」

「猫は好きだよ」

「どう?」

「ダメだと思う」

「残念」と彼女は言った。

「心当たりに声をかけてみよう」

「本当?」

「たいした労力じゃない」

「ありがとう」 

 それで俺は心当たりに声をかけてみた。全滅だった。



 

「力になれずにすまないな」と話すと、彼女は「しゃーなししゃーなし」とへらへら笑った。

「はい、ご褒美」とまたレモンの飴玉。

「なんにもできてない」

「でも、なにもしなかったわけじゃない」

 はい、と彼女は手をさげない。仕方なく受け取ると、今度は満足そうに頷く。

「猫は好きなんでしょう?」

「ああ」

「今日の帰り、暇?」

「……どうして?」

「猫。見に行かない?」

 どうしてかは分からない。俺は頷いていた。レモンキャンディを口に含んで。



 彼女が連れて行ってくれたのは学校からすぐ近くの民家の並ぶ通りだった。狭い歩道の脇にブロック塀が並んでいる、歩く者を圧迫するような道路だ。

「知り合いって、ともだち?」

「ううん。ちょっとした知り合い」

 彼女はブロック塀の隙間に空いた入り口からある民家に入っていった。敷地は広く、庭園には池と庭木が広がっている。けれど、管理が行き届いているような感じはしない。木々には蜘蛛の巣が張っていたし、池には汚れたテニスボールが所在なさげに浮かんでいた。「ここより他にどこに居場所があるだろうか」というような哀れみすら誘う様子で。

 どこか薄暗い庭の先、砂利に浮かぶ島のような飛び石の先に、古くさい(古めかしいとは違う、単に古ぼけた)家がある。

 縁側の雨戸は開け放たれていて、そこに誰かがいた。

 女性と呼ぶにはずいぶんとさまざまなものをすり減らしてしまっているような、そんな人だった。

 その女の膝の上には三匹の子猫がいた。

「こんにちは」と、彼女が声をかけると、老婆は頷いた。

「また来てくれたのね」と老婆は言う。

「うん。暇だからね」

 それが嘘だと俺が知ったのはずいぶん後になってからだったが、そのときは何の疑問も抱かなかった。彼女は老婆の隣に当たり前のように腰掛け、俺を手招きした。

「おともだち?」

「ううん。うん。そう」

 一度否定してから、でも、否定してしまったら他にどう説明していいかわからない、というように、彼女は結局俺を「おともだち」ということにした。

 歩み寄って、俺は三匹の猫を眺める。黒。白。黒と白。

 老婆は三匹の子猫を彼女の膝の上にやさしくのせた。彼女は当たり前のように制服のスカートにその猫たちを受け入れていた。猫以外のなにかが引き渡されたようにすら、俺には見えた。

 それから老婆が立ち上がり、家の中へと消えた。きっとお茶でも出してくれるのかもしれない。

「座らないの?」と彼女は言う。言われるままに、俺は彼女の隣に腰掛けた。

「かわいいでしょう」

「ああ」

「猫、好き?」

「うん」

 本当に子猫だった。まだ、手のひらに載せられるくらいに。目さえ、開いたばかりのように見える。力を入れれば、腕どころか体までぽきりと折れてしまいそうだ。

 ベンチの下の紙袋の中。

「五匹って話だったけど」

「たぶん、奥で寝てるんじゃないかな」

「ふうん……」

「抱いてみる?」

「いや、いい」

「じゃあ、撫でてみなよ」

 そう言って、彼女は上半身を少しだけうしろに反らして、膝の上を指した。

「やめとくよ」

「どうして?」

 どうしてと来るものだ。こちらとしてはたまったものじゃない。

「だいじょうぶだよ」と彼女は言った。だったら、と、俺は手を伸ばす。

 子猫は、俺の人差し指に、頭をこすりつけるみたいに全身を動かした。

 彼女はくすくすと笑っている。どうしてそんなふうに、上機嫌でいられるんだろう。コツがあるなら、ぜひご教示願いたいものだ。

 庭先にある木々から、鳥の声がふと聞こえた。

 どうしてだろう。

 そのときになるまでなんにも耳に入っていなかったくらいに、この場所がひどく静かだったと気付いた。

 ブロック塀の先の景色なんて何も見えない。木々の高い枝が、この縁側から見える景色をぜんぶ覆い隠していて、見えるのはもう、木々と空くらいのものだ。

 鳥は高い枝の上に止まり、葉と梢の陰にまぎれている。

 差し込む木洩れ日と鳥の声のなかで、俺はなんだか、自分が今生きていることが不思議だという気がした。

「むかしね」と、彼女がふと声をあげた。

 視線を向けると、高い枝の向こうに隠れた鳥を彼女は見つめていた。

「家族旅行で山に登ったことがあったの」

「山?」

「そう。べつに珍しいところでもない。観光地なんだけどね」

「観光地」

「そう。そのときにね、あけびだったのかな。木に果物が生ってて、それを鳥がつついていたの。たぶん、メジロだったと思う」

「メジロ……」

 どんな鳥だったかな、と思い出そうとするけれど、そもそも俺は、その鳥の姿を知っていたのだろうか。あけびの木がどんな実をつけるか、俺は知っていただろうか。

 俺は想像する。

 今よりも幼い彼女が、家族に連れられて山を登る光景。彼女が見上げたあけびの木。その実を食むメジロ。

「その話を、どうして今したの?」

「ううん。なんとなく、思い出しただけ」

 俺は、それ以上別になにも聞かなかった。

 彼女の膝の上で、猫がみゃあと鳴いた。枝の上の鳥が飛び立った。

 俺たちは変わらずここにいて、老婆が出してくれた麦茶を飲んだ。




 その日から、どうしてだろう、俺と彼女は毎日いっしょに帰って、その老婆の家を訪れるようになった。子猫は五匹から四匹に減った。どこかの誰かがもらっていったらしい。

 季節は徐々に秋へと近付いていき、俺と彼女はいくつかの学校行事を他人事のように消化しながら生活を変えなかった。

 どうしてこんなふうになったんだろう。

 ノブレス・オブリージュ。その言葉の意味を、俺はその間に何度も考えるはめになった。

 たとえばこの子猫たちのためにできることを、俺はちゃんとしているのだろうか、とか。




 ときどき、夢を見る。

 森の中の、木洩れ日のさす開けた場所で、鳥の声を聴いている。木々は果物を実らせ、虫たちがじりじりと鳴き声を響かせている。遠くから誰かの笑い声が聞こえる。けれどその姿は、俺の視界には映らない。木々の梢が向こう側を覆い、どこから響く音なのかさえ教えてくれない。

 俺はひとり、そこに立ち尽くして、ぼんやりと日差しを浴びながら、近くの小川のせせらぎに耳をぼんやりと預けている。

 いつまでもいつまでもそんな景色が続いている。

 それは途方もない安らぎで、途方もない孤独で、途方もない寂しさだ。

 


 例の縁側に、俺達は並んで座っている。老婆は今、温かいお茶を淹れるために台所へと向かっていた。季節は少しだけ秋めいて、庭の木々が柿の実をつけはじめた。日が沈むのも随分早くなって、庭にはもう橙色の光が散らばっている。

 俺は、父親が聴いていた少し前の音楽のことを思い出した。


  『日々ひび割れ柿ノ実 夕焼けて夜は来た

   空水色オーロラ 蜂蜜に濡れた月

   赤レンガ煙突の上 ガイコツが踊ってる

   ハロー 今君に素晴らしい世界が見えますか』


 銀河鉄道の夜、というタイトルだった。

 宮沢賢治の同名の小説が、おそらく元になっているのだろう。

 星祭の夜に川に流す、烏瓜の青白い燈火。そのあかりを、ひとりの子供が水の流れる方へと押してやろうとして、誤って船から転落した。カムパネルラは、それを助けるために川に飛び込み、彼(あるいは彼女)を船の方へと押してやって、それから姿が見当たらなくなった。

 星祭の夜に川を流れる、烏瓜の青い灯火。その景色のなかに、ぼんやりとカムパネルラの姿が見える。自分に意地悪をしてきた人間を助けた、カムパネルラが浮かび上がる。そうして彼はいなくなった。

「少しだけ考えたんだ」と俺が声をかけると、彼女は不思議そうに首をかしげた。

「なにを?」

「のぶれす・おぶりーじゅってやつ」

「……何の話?」

「きみが言ったんだ」

「そうだっけ」

「そうだよ」

「それで?」

「やっぱりよく分からないんだ」

「ふうん?」

「こんな言い方したら、戸惑うかもしれないけど……俺はときどき、自分がすごく無能な人間なんじゃないかと思うことがあるんだよ。誰かのためになにかをするなんて、とてもじゃないけどできない。自分にそのための力がそなわっていないと思うわけじゃない。ただ、どうすることが正しいことなのか、よく分からなくなるんだ。それで、すごく堕落した生活を送っている。そういう感じがする」

 たとえば、紙袋の中の子猫のために、何かをすることができたとして、それをどこまで背負うべきなんだろう。どこまでなら背負えるんだろう。

「堕落」

「うん」

「よくわかんない」

「かもしれない」

「わたしはね、なんだかすごく単純な人間だから、むずかしいことってよくわかんないんだけどさ、たとえば、きみに飴玉をあげるのは、べつに大した理由があるわけじゃないよ。飴玉をあげるくらいなら、べつにたいした労力でもないし、勇気だっていらない。でも、飴玉は美味しいし、まあ、苦手な人もいるかもしれないし、食べたくない人もいるかもしれないけど、でもまあもらって処分に困るようなものでもないでしょう」

「うん……」

「わたしが、考えるのはね、つまり、自分の心にほんの少し、何かをするだけの余裕があるときに、それがどれだけ些細なことであっても、誰かのために何かをすることができるなら、そうした方がいいよねってこと。飴玉をあげたり、そんな些細なことであってもね。そうすることで、自分が誰かと一緒にここにいるんだってことが分かるなら、うん。それは、わたしにとって無駄なことじゃないと思うから。だからわたしは、“できるかぎり”、そうしていたい」

「“できるかぎり”」

「うん。ねえ、見て」

 彼女は、柿の木の上の方を指さした。一羽の鳥がそこにやってきて、実をつつきはじめる。

「あれはひよどりかな。ね、どうして木は実をつけるんだと思う?」

「どうしてって……種が入ってるだろう、あれは」

「そう。だったら、どうしてあんなに美味しいんだと思う?」

「美味しいって……たまたまじゃないの?」

「ある意味ではそうかもね。でもね、考え方によっては違うの。木がつける実は、昔から動物の食料になってきた。今、あのひよどりが柿をつついてるみたいに。種を実のなかにつける植物は、食べてもらうために実をつけてきたんだよ。特に、鳥に食べてもらえるように、あんなふうに高い位置に実をつけるようになったって。例外はあるかもしれないけど」

「……どういう意味?」

「つまり果実は、鳥に対する植物からのプレゼントなの」

「……微妙に、納得がいかないんだけど」

「うん。ここにはちゃんと理由があるんだ」 

 彼女はそうして言葉を続けた。

「鳥が果実を食べる。果実には種が含まれている。そして鳥は、体を通じて種を遠くへと運ぶの。そうして遠くで、その植物が生る。その繰り返し。果実が鳥にとっての食糧であることで、鳥によって植物は遠くへと向かうことができるの」

「……」

「ハチドリっていう鳥がいてね、世界最小の鳥って言われてるんだけど、くちばしがとても細長くて、花の蜜を食糧にするんだって。でね、中には、そんなハチドリにしか蜜を吸うことのできない花があるの。その鳥にしかその蜜を吸うことはできないから、鳥は食糧を争う相手がいない。逆に花からすれば、その鳥によって自分の花粉が散布されるから、繁殖を優位に進められる。互いが互いにとって不可欠な存在になってるんだって。きっと、誰かのために何かをすることは、自分自身のためなんだと思う。でも、それによって何かと結びついていられるなら、それは幸せなことなんじゃないかって思うの」

 柿の実をつつくひよどり。俺はその光景を眺める。

 彼女がした、あけびを食むメジロの話を思い出した。

 よぎるのは、また宮沢賢治だった。


   ”心象のはいいろはがねから

   あけびのつるはくもにからまり

   のばらのやぶや腐植の濕地

   いちめんのいちめんの諂曲模様”


「わたしはね、なんだか、この世界って、いろんなところで響き合ってるものなんじゃないかって思うんだ。だから、うん。だからなのかな。だから、誰かに手渡すことによって、わたしが受け取れるものもきっとあって、誰かから受け取ったものを、わたしも誰かに手渡さなきゃいけない。そんなふうに思う。義務とか、そういうわけじゃなくて、たぶん、そういうふうにできてるんだと、わたしが勝手に思ってるだけ」

 はい、と彼女が、ポケットから飴玉をひとつ取り出した。

 俺は受け取って、袋を開いてすぐに口に含んだ。

 はい、と俺もポケットから取り出したものを彼女に手渡す。

 チョコレートの一粒だ。

「どうしたの、これ」

「ご褒美」

「わたし、なんにもしてない」

「そんなことはないと思う」

「そうかな……」

 うん、と俺は頷いた。

 


 そのとき俺は、自分自身が一個の生命ではなく、あるいは一個の生命として、もっと大きな仕組みのようなものに含まれているような感じを覚えた。それはひょっとしたら誇大妄想に近い錯覚だったのかもしれない。木々や鳥や風や花や川や魚や虫のひとつひとつが、争い居場所を奪い合いながら、けれど互いが互いにとって不可欠であるように、なにか巨大な機械の部品のひとつであるかのように、自分自身を感じた。その宗教的啓示のようなものは一瞬だけ俺の体に宿ったあと、綺麗に、簡単に消え失せてしまって、俺はそんな感覚に陥った自分に少しだけ驚いた。

 いちめんのいちめんの諂曲模様。

「ねえ、だから、たとえばの話なんだけどさ」と彼女は言った。

「きみがなんにもしてないように思っても、案外それって、誰かにとってのなにかになってるのかもしれないよ。たとえば、今この瞬間だってね」

「……そうかな」

「うん」

 あるいはそれが、誰かにとっての悲しみになることもあるのかもしれない。紙袋の中の猫。綺麗に割り切れる話ばかりではない。俺たちが食糧とすることで実れなかった植物も、きっとあるのだろう。



  “わたくしといふ現象は

   仮定された有機交流電燈の

   ひとつの青い照明です

  (あらゆる透明な幽霊の複合体)

   風景やみんなといつしよに

   せはしくせはしく明滅しながら

   いかにもたしかにともりつづける

   因果交流電燈の

   ひとつの青い照明です

  (ひかりはたもち その電燈は失はれ)”



 ひよどりがまた、柿の実を食みに庭へとやってきた。

「たとえばきみが授業をサボっていたとき、わたしは何度か注意したけど、途中から、実はけっこう楽しくなってたよ」

「……え?」

「ここのお婆さんもね、猫を拾ってから、いろんな人がうちに来てくれるようになったんだって。それが少し嬉しいんだって言ってた」

「……」

「きみも、その一部だよ」

「そうかな」

「そうだよ」

「……ああ、そうか」

 何かを受け取ると、何かを返さなければいけないなと思うのは、考えてみれば不思議なことだ。

 それはたぶん、面倒なことでもある。面倒でしかないときもある。でも、ほんの少しだけ、今はその一連の流れのなかにいることを喜べる気がした。





 ときどき、夢を見る。

 森の中の、木洩れ日のさす開けた場所で、鳥の声を聴いている。木々は果物を実らせ、虫たちがじりじりと鳴き声を響かせている。遠くから誰かの笑い声が聞こえる。けれどその姿は、俺の視界には映らない。木々の梢が向こう側を覆い、どこから響く音なのかさえ教えてくれない。

 俺はひとり、そこに立ち尽くして、ぼんやりと日差しを浴びながら、近くの小川のせせらぎに耳をぼんやりと預けている。

 いつまでもいつまでもそんな景色が続いている。

 世界のはじまりから終わりまで続くみたいに。

 あけびの実をめじろがつついている。


 


 子猫はやがて、一匹を除いて引き取られていった。それからも俺と彼女はその老婆の家にときたま顔を見せ、残った最後の一匹の様子を眺めるようになった。

 秋も深まったある日、いつものように猫を少し撫でてから家路につく途中で、彼女がふと飴玉を俺に差し出した。いつものように、俺は受け取ろうとする。すると彼女は、そのまま俺の手のひらを握った。そのときの感覚を誰かに伝えようとしても、きっと、どれだけの言葉を並べても、そのまま全部なんて伝わりはしないだろう。

 飴玉を挟んで、俺たちの手はつながる。あたりは昏く、空にはもう星が浮かんでいた。

「ねえ、見て」と彼女が言う。俺は彼女の視線の先を追う。枯れ木の枝の向こう側に、もうすっかりと夜空と呼べそうな東の空がぼんやりと広がっていて、そこにはいくつもの青白い星が浮かんでいた。

 返事もしないまま、俺はしばらくその夜空を眺める。

 もしかしたら、星祭の夜に、丘の上から烏瓜の青白い燈火の流れる川を見下ろしたなら、こんな景色なのかもしれない。そんなことを、そのとき俺は考えた。

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