いつか雪が溶けて


 最初に目にするのは、白い、白い景色だ。


 天井の色はいつもと変わらない。白だ。

 目をさますと最初に視界に入る。まどろみからさめたとき、いつも目にする白だ。


 しんと冷えきった部屋のなかで、わたしはしばらく取り留めのない考えごとにふける。

 さっきまで見ていた夢の内容から、何かの意味を掬い上げようとしてみたりもする。

 その程度には時間を持て余しているのだ。


 静かな冬の朝だ。家の中には、誰の気配もない。

 そんななかにいると、不思議なもので、自分自身が存在しているのだということすら、なんとなく疑わしくなってくる。

 よくある話だ。夢のなかを歩くような現実感の乏しさ。


 やがて毛布にくるまっているのにも飽きて、のそのそとベッドを這い出る。

 フローリングの床の冷たさが、わずかに現実感を与えてくれたが、どうせそんなに長持ちはしない。


 とりあえずキッチンへと向かい、お湯を沸かすことにした。コーヒーを飲もうと思ったのだ。


 スリッパで摺るようにフローリングの床を歩く。


 窓の外では、どうやら雪が降っているみたいだった。


 ダイニングの暖房をつけてから、コンロの前でお湯が湧くのを待つ。


 そのあいだも、夢の余韻が空気に混じって鼻から入り込み、脳を浸しているような気がした。


 どろどろに甘やかされているみたいだ。


 時計の針は十一時半を差していた。いつもより、少し遅いくらいか。


 ふと目を瞑ったりしてみる。べつに深い意味はない。

 ただなんとなく、意識して呼吸をしてみる。


 そうしているうちにまた、自分という概念が希薄になっていく。

 わたしは固有の存在でなくなる。空気や、音や、光に溶け込んでいく。


 浮かび上がることもなく、目撃されることもない透明な何かになる。

 そんな空想を願いのように抱きながら、冷たい室温に体をなじませるように静止する。


 ここは海の底なのだ、とそんなことを思ってみたりした。


 窓の外の雪が、わたしには都合がよかった。

 外の景色は見えないし、反対に、こちらの景色も外からは見えない。


 ふわふわとした白い光は、空から絶え間なくそそがれている。

 ここは海の底なのだ。もう一度唱えたところでお湯が湧いた。


 お気に入りの白いマグカップにインスタントコーヒーの粉末をスプーンでひとさじ。

 角砂糖をふたつ、クリープをひとさじ。

 そこに沸かしたばかりの熱湯を注いだ。


 滲みながら染まった黒茶色の液体から、渦巻くような湯気が立ち上る。


 スプーンでそれをかき回しながら、コーヒーの色彩が馴染んでいくのを眺めた。


 昨日のことを思い出そうとして、すぐにやめた。

 一昨日のこと。その前のこと。全部結果は同じだ。


 思い出そうとしてはやめ、何かが浮かびそうになれば途切れ、その繰り返し。

 けれど、その作業を繰り返しているうちに、ふと、いつ、どこのものとも分からない、漠然とした記憶がよみがえることがある。


 子供の頃に聴いた歌のことを思い出した。

 いつ、どこで聴いたのだろう。

 更に記憶の沼に手をつっこんでかき回しながら、わたしはコーヒーに口をつけた。


 退屈を教えてくれるのは忙しなさだ。

 だからわたしを蝕んでいるのは、きっと退屈ではない。

 わたしの世界に退屈は存在しない。


 暖房で部屋があたたまるまで、指先をマグカップのぬくもりに押し付けたまま、わたしは窓の外を眺めていた。  何を思うでもなく、ただぼんやりと。


 ――マネキンのように?

 ――生き物のように?


 動くものを見るのは好きだ。

 眠くなるまで、おなかがすくまで、ずっと見ていられる。

 誰も傍にいなくてもいい。そんな時間を過ごすならば、むしろ誰もいない方がいい。


 景色は白く染まっていく。そのささやかな変化が嫌いではない。

 時間が流れているのを、わたしは傍らからただ眺めているのだ。


 橋の縁から河川を眺めるように、浜辺から日の出を待つように、月の動きを目で追うように。


 時計の針の音が聞こえる。 


 わたしはひそかに緊張を覚えた。


 動悸、冷や汗が滲む、頭の裏側で白い光が跳ね上がり、――何かが――音を立てて弾けるように――強迫的なほど――押し寄せてくる――それは――頭のなかで――でも、たしかに、誰かが、声が――よどむような視線は怒りを孕んで――けれどそれは――わたしにはただの――わたしに向けられている――でもちがう――わたしじゃない、


 わたしじゃない!


 瞼をぎゅっと閉じて、波が過ぎ去るのを待つ。

 もう一度目を開けたとき、そこにはただ一杯のコーヒーがあるだけだった。


 わたしは息を整える。


 大好きだったあの歌のことを思い出した。

 苦しくて苦しくてしかたないときに流れていたあの歌を、わたしは今では聴けなくなってしまった。

 そんなふうにして、好きだったものが、時間の流れのなかで、ひとつひとつ減っていってしまった。

 

 心地よさは失せた。

 以前のように安らぐことのできなくなった自分を見つけて、薄っぺらな失望を覚えるだけだ。


 覚えるのは怒りに似た熱だ。

 けれど、その熱を維持できるだけの体力さえ、わたしには残されていない。


 ときどき、


(どうしてこんなことになったんだろう)


 と考えそうになる。

 そのたびに、わたしはその問いを、頭の奥の奥の方の引き出しにしまいこんで、鍵をかけて封印するのだ。

 

 隠したところでなくならない。きっといつか引き出しはいっぱいになって、しまいきれなくなる。

 そうなったとき、わたしはさっきのようにまた、見えない敵に追いつかれたように、体を折って蹲るしかなくなる。


 窓の外ではまだ雪が降っている。


 雪も、好きだった。いまは、どうだろう。

 こんな気持ちで雪のことを考えたのでは、きっと、雪のことさえ、いつかは嫌いになってしまうかもしれない。


 好きだったものがなかったわけじゃない。

 それをひとつひとつ、好きじゃなくなっていっただけだ。


 それを悲しいと思うのはきっと、わたしの勝手だろう。


 そうしてまたわたしは、


(どうしてこんなことになったんだろう)


 と同じ問いを繰り返しそうになる。


 コーヒーはいつの間にかぬるくなっていた。

 マグカップの中身をシンクに流してしまうと、どうしたらいいかもわからなくなってしまった。


 こんな日が、今日までに何度繰り返されたことだろう。

 数えることさえ今はおそろしい。


 けっして、追い立てられるようなおそろしさではないけれど。

 じわりじわりと落ちていく、砂時計の砂を眺めるような。

 どうすることもできない無力感と、どこにも行きつけない閉塞感と。


 それと――なんだろう? 考えるのはそこでやめた。


 ただこんなふうに、積もる雪に覆われていく景色を見るように、

 わたしは倦んだまま、自らから自由を奪うことで、

 わずかな安らぎと、それと引き換えの甘やかな毒のような不安のなかに生きているのだ。


 それが悪いと、誰にも言えない。

 言ったとしても、悪いからといって、何がいけないのだと、わたしは言える。

 

 逃げること、俯くこと、蹲ること。

 それが許されないなら、おまえがわたしを救ってみせろと、声をあげたくなる。


 ――誰が悪いと言ったんだ?

 ――分からない。


 耐え切れなくなった。

 頭のなかで何かが振りきれるのを感じた。

 なにかが切れた。


 だから足を必死に動かして逃げて、そしてわたしはいまここにいる。


 ここでなにもできずにうずくまっている。


 玄関の扉を開ければ外に出ることはできる。

 でもそこからどこにも行けはしない。


 どこにも行かず、誰にも出会わずに生きていけるほど恵まれてはいないし強くもない。

 だからこんなにも迷ったままだ。


 生活に生き物の気配はない。

 自分の姿さえしばらく見ていない。心さえ覗きこむのをやめた。

 人の声なんてしばらく聞いていない。


 そしていま、シンクに流されたコーヒーとお気に入りのマグカップが、

 わたしの好きなものが、こんな自己嫌悪の波のせいで、

 また『好き』から『見たくない』に変わりそうだ。


 そう思ったらなんだか泣きそうになったけれど、

 泣き方だってもう思い出せなかった。


 泣いてしまったら、敗北を認めることになりそうだから。

 わたしはこれでいいんだと、言ってしまうことができなくなるから。


 なんとなく、それでも、わたしは、立ち上がった。

 シンクの前で、いつしか折りたたんでいた体をのろのろと起こした。


 窓の外では、まだ雪が降っている。


 胸を、てのひらでぎゅっと押さえた。

 瞼を閉じて、引き出しの中に痛みを押し込む。

 わたしのなかから、わたしのなかの正常でありたがる部分を、追いだそうとする。


 懸命に。


 ふらふらと、体が揺れているのが分かる。

 わたしはそこに、違う解釈を持ち込もうとする。


 わたしは世界に溶けていて、だから揺れているのは世界なのだと。

 からだはもう、どこにも存在しないのだと。


 でも、どこかでちゃんと分かっているから、そんなことを考えられてしまうのだ。


 わたしは、覚束ない足取りのまま、玄関へと向かった。

 サンダルを履いて外に出ると、冷えきった空気が庭先に広がっていた。

 

 雪は、芝生の上に積もっている。


 風がないせいか、パジャマのままでも、不思議とそこまでの寒さは覚えない。


 白く染まっている。

 白は見慣れている。

 

 吐く息さえも白く染まる。

 そうしてそのまま、わたしのからだまで白く染め上げて、

 いっそ雪と一緒に融けてしまえればよかった。


(わたしが悪いのかな)


 なんてことを、ひさしぶりに考えて、そうしたら、今度こそ涙が出た。


 頬を撫でるように、しずくが伝ったのが分かる。

 あたたかなしずくが、雪の上へと落ちた。


 堰を切ったように、嗚咽が漏れる。 

 わたしはわたしのその姿を、どこか遠くから、ひとごとのように眺めていたかった。


 いつか聴いた歌をまた思い出す。

 わたしは雪のうえにからだを投げ出す。


 降りしきる雪に埋もれるようにして、熱を奪われていく。

 その痛みは、ひさしぶりの、鋭い実感を伴っていた。


 感覚がなくなるまで、そうしていようと思って、目を閉じる。


 からだの裏側を差す冷たさにからだが馴染みかけた頃、

 頬にざらついた感触があった。


 驚いて瞼を開くと、一匹の猫が、わたしの顔を覗き込んでいた。


 小さな猫。


 おどろいて跳ね起きると、猫はあっというまにどこかへ逃げ去っていった。 

 足音が、白のうえに残っていく。


 鈍くなりかけた思考が、跳ね起きた衝撃で、少しだけ正常さを取り戻す。

 ばかなことをしてしまった、とわたしは思った。


 からだを起こして立ち上がり、背中についた雪を払い落としたあと、

 空を見上げると雪は止んでいた。


 鳥の群れが遠くの空へと飛んでいくのが見えた。

 通りから車の音が聞こえる。


 景色が、さっきまでと違って見えた。

 涙は止まっていた。


 雨が埃を落としたあとのように、目にうつる景色が、さっきまでより鮮明に感じられる。


 なにかが切り替わったみたいに。

 

 雪。

 わたしは、足元の雪をすくいあげてみた。


 てのひらにのせた雪は、静かに、水になっていく。


 そういうことなのかもしれない、とわたしは思った。


 雪があたたかな熱に融けていくように、

 白く染まった景色も、春が来れば元通りになる。


 寒々しい白に染まった景色さえも、やがては本来の色を取り戻すのなら、

 きらいな思い出に結びついて好きじゃなくなったものたちのことを、

 わたしはもういちど好きになることができるのだろうか。


 あたたかくてやさしいものとふたたびめぐりあえたそのときに、

 かなしい記憶と結びついたあの歌をもういちど聴くことができたなら、

 ずっと前に聴いたときと同じようなあの安らぎを、

 わたしはふたたびあの歌から感じることができるのだろうか。


 昨日までと何も変わらない。今朝までと何も変わらない。

 

 それでもわたしは、てのひらで溶けた雪のしずくを握りしめて、あたりを見回した。


 まだ、白く染まっている。

 

 けれど、足元の、ほんのわずか、拾い上げた分だけの雪は、既に融けてしまっている。

 つめたさに触れたてのひらは、赤くなって、じんじんと痛む。

 

 これははじまりだ、と、わたしはそう考えることにした。


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