名前がありますように
映画を観ようと言い出したのは彼女の方だった。
DVDを選んでセットしたのも、二人分のコーヒーを淹れたのも、ソファに並んで座ったあと、ブランケットを膝の上に広げたのも彼女の方だった。考えてみればいつもそうだった。僕は彼女の提案に乗っかっていただけで、自分で何かを選ぶことなんてほとんどなかった。べつに、ほかのDVDにしようとか、コーヒーじゃなくてココアにしようとか、そういう変化を望んでいたわけでもない。文句があるわけじゃない。ふたりで共有するにはブランケットが小さすぎるとか、そんな野暮なことを言いたいわけでもない。
ふたりで映画を観るときは、いつも観ようと言い出した方がDVDを選ぶのが常だったし、そういうときに用意するのは決まってあたたかいコーヒーだった。だから彼女の行動も、僕の反応も、僕らにとっては自然すぎるくらいに自然なことで、本当は気にするようなことじゃないはずだ。でも、こんなときまでこうなんだな、と思うと、少しだけ自分が情けないような気がした。あるいは、考えすぎなのかもしれない。いつものように。
「考えてみれば、けっこう長い付き合いだよね」
配給会社の大仰なロゴが流れて、映画が始まったとき、彼女はぽつりと呟いた。
「たしかにね」
流れ始めたDVDは、何度も何度も、繰り返し一緒に観た映画だった。いつも観ていたというわけではない。ただ、彼女と僕は、折に触れて何度もこの映画を一緒に観た。何かの記念日、どちらかの誕生日、すれちがいの最後、喧嘩のあと、なんでもない日にも、ときどき。
内容なんてとっくに覚えていた。話の大筋、映像の雰囲気、役者の顔、暗誦できるセリフだってある。けれど不思議なもので、観返すたびに新しい発見があったりもした。ああ、この場面はこんな色合いだったかとか、ああ、このセリフはあの場面にかかっていたのかとか、あるいは単に女優の表情から読み取れる感情が、そのときどきで違ったりもした。いつかは嬉しそうに見えただけの表情が、実は寂しそうだったことに気付いたり。
そして僕はこの映画を観るたびに、この映画を、僕たちはこれまでに何度も観て、今もまた一緒に観ているのだ、と実感しなおすことができた。彼女の方もきっとそうだったのだと思う。ちゃんと確認したことはないけれど。
「最初はこんなふうになるなんて想像してなかった」
と僕は言った。映画の中で、すれ違いざまに男と女の目が合った。
「どういう意味?」
「つまり、こんなふうに一緒に映画を観たりするなんて思わなかった、ってこと」
「そうなの?」
「そうなんだよ。きみは違うの?」
「まあ、そうかも」
彼女はコーヒーをひとくち啜って、マグカップを大事そうに両手で覆ったまま、画面を見つめる。僕はその姿を横目で見ていたけれど、映画に集中しないのはなんだか不誠実な気がして、画面に視線を戻した。男と女は手をつないで歩きはじめた。
「すぐに愛想を尽かされると思ってた」
「そうなの?」
「そうなんですよ」
「へえ」
「うん」
「ばかみたい」
「たしかに」
彼女が笑いもせずにいうものだから、本当に自分がばかみたいだという気がした。
「あなたはいつも、いらない心配ばかりしてますねえ」
おどけた感じに呟いてから、彼女はこっちに顔を向けて、僕の左の頬を指でつねった。僕は彼女の頬をつねり返した。
「性分なのかも」
「なかなか口に出さないのも?」
「面倒だって思われるかと思って」
「思わないよ」
「うん。でも、面倒だと思われるかと思って言わなかったなんて言ったら、その考え方が面倒だって言われかねないなって思って」
「うん。めんどくさいね、きみ」
「そう。そんなふうに」
「ね、指離して」
僕が指を離すと、彼女はまた画面を眺め始めた。男と女が口論をしている。
「どうしてそんなに心配性なの?」
少しの沈黙のあと、彼女は前を向いたままそんなことを尋ねてきた。僕は少しだけ考えた。
「たぶん、自分に自信がないんだ」
「自信なんて、わたしにもないよ」
「うん。きっときみはそう言うだろうけど」
「そういうのとは違うの?」
「うまく言えないけど、僕はきみが喜ぶようなことを、なにひとつできていないような気がするんだ」
「はあ」
「普通の奴なら当たり前にきみにしてあげられるはずのことの、十分の一だって、僕はきみにしてあげられてないのかもしれないって、思ってた」
「そうなの?」
「うん」
「ずっと?」
「そう」
「ばかだねえ」、と言って、彼女はマグカップをテーブルの上に置くと、僕の頭をわしわしと撫でてきた。
「それでもできるかぎりのことをしようとは思ってたんだよ」
「うん。知ってる」
「できるかぎりのことをしても、結局、ようやく普通の奴に追いつけるくらいなのかもしれないけど、それでもできるかぎりのことはしようって。うまくいかなくてきみに見放されても、そのときはそのときだって」
「もっと、肩の力抜けばいいのにね」
「うん。自分でもそう思う」
「うん。あなたはそういう人ですね」
彼女はわざとらしくあきれた感じのため息をついて、それからくすくす笑った。なんだよ、って今度は僕が彼女の頭をわしわしと撫でた。髪型が崩れるからって、いつも嫌がっていたけど、こうやってじゃれているときは、いつだって、笑っていた。
映画のなかで、ふたりは仲直りをしていた。何かが新しくなって、何かが始まろうとしている。静かに、ゆるやかに、日々が動いていく。少しずつ、何もかもが良い方向に動き始める。
そのとき、部屋の温度が急に下がったような気がした。部屋の明かりが、少し暗くなったような気がした。部屋そのものが、他人事のような冷たさを帯び始めたような気がした。
不意に、肩に重みがかかる。視線を向けると、彼女は眠ってしまっていた。本当に、予兆もなにもない、唐突な眠りだった。突然ブレーカーが落ちたような、眠り。
胸が詰まる思いがした。
画面の中でふたりは、手をつないで、どこかに向かおうとしている。
おい、起きろよ、と僕は思う。これからがいいところなんだ。何もかもが良い方向に動き出してるんだ。事態は好転しだしてるんだよ。何もかも上手くいくかもしれないんだ。これからっていうところなんだよ。全部、全部、まだこれからなんだよ。まだ始まったばかりなんだよ。
慎重に、肩を揺さぶってみた。彼女の首は力なく動いた。頬を叩いても、手を握っても、声を掛けても反応がなかった。僕は画面に視線を戻した。男女は幸せそうに、日々を、生活を組み立てていく。これからってところだったんだ、と僕は思った。
映画の再生をとめて、ソファに体重をあずけきり、両方の手のひらで顔を覆った。気を抜くと何かがあふれだしそうだったから、僕はかわりに、ひとりごとを言って気をそらすことにした。
「少し肌寒いな」「もう冬なんだ」「そろそろ日付が変わる」「明日は何曜日だっけ?」「そういえば、イヤリングは見つかった?」「せっかく気に入ってたのにな」
僕はこれまでに、たくさんのものを彼女からもらった。彼女からたくさんのものを受け取ってきた。そして、もらっただけのものを、彼女にまだ返せていない。そう考えるだけで、胸が苦しくなった。僕が彼女にしてもらってばかりだった。僕を明るい場所に引っ張ってくれたのも、僕が少しずつでも変わってこれたのも、笑う回数が増えたのも、以前よりずっと自然にふるまえるようになれたのも、ぜんぶがぜんぶ、彼女のおかげだったのに、それに見合うだけのものを、僕は彼女になにひとつ返せていない。
気管を塞がれるような苦しさに、嗚咽がこぼれそうになる。
「泣いてるの?」
不意に聞こえた声に、少しだけ戸惑う。僕は顔を手のひらで覆ったままで答えた。部屋の温度は、少し冷えたままだ。
「きみの喜ぶことをしたかった」
「急に、なに?」
「急にじゃないよ。ずっと思ってた。きみの喜ぶことをしたい、きみが喜ぶ場所にいきたい、きみがもらってうれしいものをあげたいって、僕はそんなことばかり考えてたんだ」
「そうなの?」
「そうだよ」
「そうだったんだ」
「結局、なにひとつできなかった気がする」
そうつぶやいたとき、本当に涙が滲み出てきた。もう、体を起こすことさえ億劫だった。この気持ちをなんと呼ぶのか、何にたとえればいいのか、僕にはわからない。
彼女の声は、静かに、
「そんなことないよ」
と、そう言った。
「マグカップを、おそろいにしようって言ったのはあなただったよ」
「選んだのはきみだった」
「寒がりだからって、ブランケットを用意してくれた」
「僕じゃなくたって、誰だってそうする。誰だって思いつく」
「でも、あなたがしてくれた」と彼女は言った。
「あなたがしてくれて、わたしがうれしかったことだよ」
僕は黙ったまま、まだ手のひらで顔を覆ったままだった。彼女は不意に、僕の手の甲に自分の手のひらを重ねた。その感触は熱を伴って、じんわりと僕のなかにしみこんでいく。
「ありがとう」と彼女は言って、最後に僕の手を指先で静かに撫でた。
「イヤリング、やっぱり、見つからなかった。探しておいてね」
彼女の指が、僕の手から離れていく。
「もう、行かなきゃ。映画、最後まで一緒に観られなくて、ごめんね」
僕は答えない。答えなければ、彼女の言葉が嘘になるような気がした。
「続き、ちゃんと観てね」
「……もう、観たって意味がない」
「最後には、きっと大団円になるよ」
「そんなの、意味ないんだよ」
「ごめんね」
彼女が立ち上がったのがわかった。ブランケットが、僕の膝からすべりおちる。
「わたしの出番はこれでおしまい」
そう言って、彼女は笑った。
いやだ、と、みっともなくわめいてしまいたかったけど、声はうまく出てくれなかった。涙だけが、手のひらに滲んで広がっていく。
「ねえ、ひとつ訊いてもいい?」
僕は、黙ったまま頷いた。
「もし、あなたの人生が一本の映画だったとしたら、エンドロールに、わたしの名前はあると思う?」
僕は頷く。
「本当に? 誰でもいいような、いてもいなくてもいいような、そんな存在じゃない?」
僕は頷く。
「本当に?」
もう一度、僕は頷く。
「きみのことが好きだった」と僕は言った。
「ずっと一緒にいたいと思った。嘘じゃない。疑うなら何回だって言う」
「へえ、そうなんだ」と、彼女は彼女らしく、いつものように、照れたときほどおどけたふうに笑う。
ごめんね、とか、ありがとう、とか、がんばってね、とか、そういう言葉を彼女は何度か繰り返した。僕はそのたびに、頷いたり頷かなかったりしていた。やがて足音が離れていくのが聴こえた。気配がどんどんと遠ざかっていく。玄関の扉が開くのが音で分かった。僕はうなだれるのをやめて、ソファから飛び上がって、玄関へと駆け出す。
彼女はもうブーツを履いて、体を半分外に出していた。前を向いたまま、こちらを振り向いてはくれなかった。
外は、雪が降っていた。お気に入りのクリーム色のコートを羽織って、彼女はどこかに行こうとしている。ドアの隙間から覗く白さも、冷たさも、荒ぶ風のうつろな音も、すべてがすべて、おそろしく思えた。
待ってくれ、と、僕は最後にそう言った。彼女は何も言わなかったし、こちらを振り返りもしなかった。黙ったまま、表情一つさえ残さずに、去っていった。それが最後だった。
◇
ふと気付くと、僕はひとりでソファに座っていて、ブランケットは膝にかけられていて、映画は途中で止まっていた。何気なくテーブルの上を見ると、ふたつ並んだマグカップの隣に、彼女が気に入っていた、小さなイヤリングが、片方だけ残されていた。僕はそれを手に取って、少しのあいだ眺めたあと、そっと握ってみた。壊れないように、でもなくさないように。
それから、マグカップのなかですっかり冷えてしまっていたコーヒーを一気に飲み干したあと、静かに泣いた。そうしてしまうと少しだけ楽になった。でも、本当は僕は、楽になんてなりたくなかった。
静かに深呼吸をしてから、DVDプレイヤーのリモコンを手に取って、しばらく迷う。右手にはイヤリングを握り、左手にはリモコンを握る。ばかみたい、と彼女は笑うかもしれない、と、そんなことを考えた。
さて、と僕は思う。
続きを観なければならない。
エンドロールが流れるまでは、眠るわけにはいかない。
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