毛布をかけてやってくれ


 何もかもを波濤の中に招き寄せようとするかのような連日の大雨から一転、六月十四日の空は良く晴れていた。

 前日までの雨があまりにも劇的だったためか、その晴れ空にはどことなく他人事めいた印象すらある。

 部屋着のままサンダルをつっかけて庭に出ると、その印象はいっそう強まった。何も変なところなんてないただの空なのに、嘘みたいに見える。首をかしげたくなるくらいに。


 広いようで狭いようでやっぱり広いこのヘンテコな世界で暮らす人々の中、俺と俺の妹だけしか知らないことだけど、これはまちがいなく、俺たちが俺たちの手で勝ち取った晴天だった。

 リビングのテーブルの上には俺たちが夜を徹して作り上げた無数のてるてる坊主が積み上げられている。百を越えたあたりから数えるのをやめたから、正確な数は分からない。

 貯蔵していたボックスティッシュの八割は既に使い果たしてしまった。窓辺に吊るした分だけで、ゆうに二十を越えている。これだけやって晴れなかったら嘘だ。


 もう主のいない犬小屋のそばに立って、ぼんやりと高い空を見上げていると、どこに隠れていたんだと言いたくなるくらいの達成感が俺の胸の内側をいっぱいにした。

 それでも空はなんだかよそよそしくて、だから俺は、高揚感に突き動かされてはしゃぎそうなもうひとりの俺を、斜め後ろあたりから観察しているような錯覚に陥った。

 どことなく、嘘みたいな空の「嘘みたいさ」が増した気がした。ホントは全部うそなんじゃないの? 昨日の雨でみんな死んじゃったとかさ。そんなことを思うくらいに。


 不思議な話だけど、その空想は漠然とした心地よさと解放感を俺にもたらした。

 現実を思い出せばすぐに掻き消えてしまうような安っぽい代物だったけど、それでも俺はしばらくの間その感覚に酔っていることにした。


 少しして、うしろから摺るような足音が聞こえてくる。妹が起きたのだ。

 彼女は何も言わずに俺のそばにやってきて、俺と同じように首を曲げて空を仰いだ。たぶん雲を見ていたんだと思う。

 鈍足運行の入道雲は、蛇のように変幻自在だった昨日までの黒雲とは違う。まるで止まってるみたいに見えた。


「やったね」


 と妹は俺を見て笑った。俺は妹と目を合わせて頷いた。たぶん俺も笑っていた。

 庭の土はぬかるんでいた。地面の上にいつのまにか勢力を拡大していた雑草に露がのって、きらきら光っていた。

 鳥のはばたきが頭上から聞こえる。少しすると、一枚の羽根がひらひらと目の前に降ってきた。すぐに落ちてしまうと思ったのに、吹き込んだ風に乗って遠くへ飛んでいってしまった。

 草花が揺れる音を撒き散らかしながら、羽根だけをのせて、風はどこかに吹き抜けていった。しばらく目で追っていたけど、小さな白い羽根はすぐに見えなくなる。


「きれい」と妹は言う。たしかに、と俺は思う。


 それからしばらく、寝ぼけた頭のまま、太陽のあたたかな光を額のあたりで浴びたまま、俺たちは黙っていた。

 やがて妹が小さくあくびをした。とたんに俺も忘れていた眠気を思い出して、瞼が重くなるのを感じる。

 気だるさに任せて目を瞑ると、陽の光が瞼の内側に透き通って世界が肌色になった。こんな心地よさをひさしぶりに感じた気がした。


「晴れてよかった」と俺は言った。妹は黙ったまま頷いた。


「さて」


「なに?」


「ティッシュを買いにいかないと」


「……そうだね」


 そして俺たちは、並木道を連れ立って最寄りのコンビニまで歩いた。水滴の粒がきらきらしていた。

 黒く濡れたアスファルトに擬態した水溜りを、俺たちは何度も踏んでしまった。

 街路樹の葉の上で跳ねる水滴がきらきら光って綺麗だったから、俺たちは足元なんてろくに見ずに歩いていたのだ。


 でも、ジーンズの裾が濡れたってぜんぜん気にならなかった。普段だって気にしなかったかもしれないけど、そういうのとはまた違う。


 コンビニの駐車場はがらんとしていて、店内はもっとがらんとしていた。店員たちは来店者の少なさに退屈しているようにも見えたけど、表情はどことなく晴れ晴れとして見えた。

 雑貨コーナーの棚に並んだ何種類かのボックスティッシュの中から、俺たちは犬と猫の写真が載っていたやつを選んで買った。


 ビニール袋を提げて歩く街並みはやっぱり綺麗に見えた。


 家に帰ってから、テーブルの上に散らばったてるてる坊主を前にして、俺たちは途方に暮れる。

 片付けないとと思ったけど、どう片付けていいものか迷った。悩んでいるうちに妹が小さくあくびをした。つられて俺の口からもあくびが漏れた。


「眠い」


「徹夜したからな」


「もう、限界……」


 そう言って、妹はリビングを出ていった。階段をのぼる足音が聞こえる。たぶん、部屋に戻って眠るつもりなんだろう。

 俺もそうしようと思った。片付けるのは後でもできる。昨夜はどこかにいっていたはずの眠気がやってきてしまったせいで、体も瞼も重かった。

 

 目をさましたとき、俺は自分の部屋のベッドでうつ伏せに寝そべっていた。

 体は重かったし、頭も痛かった。雨が屋根を打ち付ける音が聞こえた。


 きしむ関節をなだめながら、慎重に階段を降りてリビングを覗くと、妹が膝とクッションを抱えてソファに座り込んでいるのが見えた。

 窓の外では雨が降っていた。吊るされたてるてる坊主が物憂げに俯いている。


「雨」


「うん」


 短い会話の後、妹は跳ねるように立ち上がって、ことさら明るい調子で「片付けなきゃ」と言った。

 窓辺に吊るしたてるてる坊主をひとつひとつ外していく。妹はネームペンで書き込んだてるてる坊主の顔を見ながら、夜のうちに交わしたいくつかの会話のことをひとりごとのように話し続けた。


「どうしてこんなに作っちゃったんだろう」


「なんでだろうな」


「どうしてだっけ……」


 妹は黙りこんでしまった。

 さて、ゴミ袋にてるてる坊主を詰め込もうという段で、俺たちは肝心のゴミ袋のストックが尽きていることを知った。


「参ったな」


「困ったね」


「買ってくるよ」


「わたしも行く」


 そして俺たちは、また連れ立って並木道を歩くことになった。ふたつの傘を並んで差して、最寄りのコンビニまで。

 空は灰色にくすんでいた。雨の勢いはそう強くないけれど、雲のせいで実際の時刻よりもずっと遅い時間に出歩いているような気分になった。


「ああ、そうだ」


「なに?」


「思い出した」


 妹はまた、ひとりごとのように言う。


「雨の音が怖かったんだよ」


「ああ、そうなんだ」


「そうだったの」


 妹は勝手に呟いたあげく、勝手に納得してしまった。

 コンビニの前には、駐車場を埋め尽くさんばかりの車が停まっていた。店内はさっきよりずっと騒々しくて、レジもかなり混み合っている様子だった。

 俺たちは言葉もかわさずにゴミ袋だけを持ってレジに並んだ。支払いを済ませて外に出ると、傘立てにさしていた俺のビニール傘がなくなっていた。


 ひとつの傘に入り込んで、俺たちは歩調を合わせて歩く。


「結局、降っちゃったね」


 妹が、寂しそうに呟く。まるでこの雨で全部が台無しになったとでも言いたげに。いや、それは少し言い過ぎかもしれない。ちょっと寂しかっただけなのかもしれない。

 なんと言えばいいのかわからずに、俺は黙ったまま頷く。街は朝よりもずっと暗い。


 べつに嫌いじゃないはずの雨が、なんとなくうっとうしかった。


「でもさ」、と妹は言う。


「楽しかったよね?」


「なにが?」


「てるてる坊主、つくるの」


「うん。楽しかった」


 俺は本心から頷いた。


「楽しかったよ」


「それなら、よかったよね?」


「うん。よかったと思う」


「……うん」


 朝とはすっかり様子が変わってしまった道を歩きながら、どうしようもない寂しさがにじみ出てくるのを感じたけど、そんな気持ちさえ、今は不思議と悪くないと思った。


 傘に打ち付ける雨粒の音に耳を傾けていると、家への道のりはあっという間だった。

 

 眠気のせいで頭がぼんやりしたから、俺はコーヒーをいれることにした。


「飲む?」と訊ねると、妹は「うん」と返事をしてくれたけど、その返事はどことなく遠いような気がした。


 コーヒーメーカーのドリップ音に意識を寄せながら窓の外を眺める。雨は降っていたけれど、前日までのそれよりはずっと穏やかに思える。

 コーヒーが出来上がるまでの間、俺は買ってきたゴミ袋にてるてる坊主をすべて詰め込んでしまった。

 作るのに一晩かかったそれを片付けるのには、十分もかからなかった。


 出来上がったコーヒーをマグカップにそそぎながら、「砂糖は?」と訊ねたけど、妹からの返事はない。

 変に思ってソファに近付き、妹の顔を覗きこむ。彼女は眠ってしまっていた。

 俺は、急に寂しくなった。一足先に彼女は眠りの世界へ行ってしまった。俺はどうしたらいいのだろう。彼女のように眠ってしまえばいいのだろうか。そんなことを考えた。

 

 雨の音が静けさを引き立てて、妙な感傷を呼び覚ましそうになる。

 それでも、妹が寒そうに身じろぎをしたら、俺はたいして頭も働かさないまま、和室の押し入れから毛布を持ってきて、彼女に掛けてやっていた。

 少しでも彼女の眠りが穏やかであるように。


 毛布を掛けたとき、妹の口がかすかに動いた気がした。その動きは、今はいない犬の名前を呼んでいるように見えた。

 雨の音はまだ続いている。妹の寝顔はいつもと変わらないように見える。


 俺はひとり、眠る彼女の横に座り込んで、コーヒーに口をつけた。

 口の中に広がる苦味と熱に、寝ぼけたままの頭が少しだけ働く。 

 窓の外の雨も、いつかは止む。 それだけは間違いない。

 だからというわけでもない。それでも俺は、夜まで起きていようと思った。

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