Irritations <短編集>
へーるしゃむ
それ以上大きな声でしゃべらないで
アネモネ
◆
ためらうような溜め息をついてから、アネモネは困ったふうに笑った。
「つまらない話になるよ」と彼女は言う。
ぶかぶかにくたびれた白いシャツ一枚。
冷たいフローリングの床に裸足で座り込んだアネモネは、その一枚だけで体を隠している。
傷んだ栗色の髪は肩まで伸びながらところどころで跳ねていた。
わたしの瞳はグレーなんだよ、と彼女は自慢げに言っていたことがある。
このあいだ鏡を見ていたら気付いたの。瞳の色が青っぽい灰色なんだ。
彼女はうれしそうにそう報告してきたのだ。
夜なのに灯りもつけていない暗い部屋の中は、それでもほのかな月明かりに照らされていた。だから、わたしには、彼女の表情の微細な変化を、くっきりと読み取ることができる。きっと、いつも以上に。
水泳のやり過ぎで茶色くなった。傷んで言うことをきかなくて、いつもくしゃくしゃ。アネモネは自分の髪を、いつもそう言って卑下した。
たしかに髪の毛はくしゃくしゃだ。いっそみすぼらしいくらいに。
わたしは、綺麗な、まっすぐな髪に憧れていたのだ。だからだろうか? アネモネの髪を見ると、悲しくなる。それが自分の髪であるかのように。
「話して」とわたしは声を掛けた。アネモネは膝を抱えたまま、顔をあげようとはしない。
「きっと、面倒な話になる」と、彼女は俯いたまま呟いた。
「それでもかまわない」とわたしは彼女と向かい合って、言った。
「あなたの話が聞きたい」
黙り込んだ彼女に、わたしは言葉を続けた。
「わたしはきっと、あなたの話に耳を傾けるべきだった。本当なら、もっと早く」
◆
「こどもの頃は、幸せだったな」
アネモネの話は、そこから始まった。
「毎日が楽しかった。いつだって変なくらいに笑ってた。悲しいときや怖いときは思いっきり泣き叫べた。それに、どんなときだって彼が一緒だった。いつまでも一緒なんだって、ずっと無邪気に信じてた。わたしはきっと、そんな子供じみたことを、それでもついこの間まで、ずっと信じていたんだよ」
「……ねえ」
わたしが声を掛けると、彼女は戸惑ったような微笑みのまま、ゆるく首を傾げた。
「いつから、好きだったの?」
問いかけに、彼女は肩をすくめて首を横に振った。
「たぶんだけど、ずっと前から」
「全然気付かなかった」
「気付かないふりをしていたんでしょう?」
わたしはその言葉を聞かなかったことにして、彼女の言葉の続きを待った。
アネモネは、少しの間だけ途切れていた笑みを、取り繕おうとするみたいに、ふたたび顔に貼りつけた。そうすることで、何かのバランスを取ろうとしているみたいに。本当は怒りたいけれど、怒ってしまったら取り返しがつかなくなる、というふうに。
「どうして、好きになったの?」
「分からない」とアネモネは泣きそうな顔で笑い、両方の手のひらで自分の目を覆った。何も見たくないと言うみたいに。
どうしてなんだろう。どうして好きになっちゃったんだろう。
知っていたのに。分かってたのに。
気付かなかったんだよ、とアネモネは言った。
「それが“好き”って気持ちだって、気付かなかった。こういうものをそう呼ぶんだって、知らなかった」
「でも、気付いてしまった」とわたしは言った。
「……そうだよ」
それも、今になって。苦しげな呟きの後、彼女はわたしの瞳をじっと見つめてきた。わたしは視線を逸らしてから、言葉を返した。
「でも、実は勘違いなのかもしれない」わたしの声は他人事のようだった。
「そうかもしれない」
「錯覚かもしれない」
「本当に――」アネモネは笑った。
「――そうだったなら、よかったのに」
「後悔してるの?」
ためしに訊ねてみた。その質問は他人事めいていて、わたしはなんだか、自分がたまらなく卑怯な人間に思えた。
「後悔?」とアネモネは苛立たしげに繰り返した。すぐ後には、彼女は感情をあらわにしたことを恥じるように笑みを貼りつける。彼女もわたしも、それでごまかせるつもりでいるのだ、きっと。
「どこに後悔の余地があるっていうの? 気付いたらこうだったの。どこに、選択の余地があったっていうのよ」
押し殺したような声音が、彼女の感情の揺れを余計に感じさせた。
「本当に錯覚だったら、すぐに忘れられるよね」
わたしは、そう言った。アネモネは頷いた。
「でも、忘れられていたら、こんな話はしてないよ」
彼女は、寂しそうに笑った。
◆
「頭を撫でられると嬉しかったんだよ」
アネモネは言う。
「褒めてもらえるとね、すごくうれしくて、だから、褒めてほしくて、いつもがんばってた」
「……水泳も?」
「……そうなのかもしれない。そうじゃない部分も、あるかもしれないけど」
「でも、そうだった部分も、あるのかもしれない?」
「……うん」
窓から差し込む月明かりが、不意に翳る。薄く細く伸びた雲が、月を隠してしまった。アネモネの表情が、わたしからは分からなくなってしまう。
「いつか、別の誰かが現れることなんて、分かってた」
「……そう、だね」
「それが誰かまでは、分からない。でも、わたしじゃない誰かが、隣を歩くことになるんだって、知ってた」
だってそれが、あたりまえだから。彼女の声は寂しげだった。
わたしは何も言わずに、彼女の言葉に耳を傾ける。
「でも、それが現実になった途端、怖くて、嫌で、たまらなくなった。だってそうなったら、もう一緒にはいられない。一緒にいない理由ができちゃうから。一緒にいられる理由なんて、もうほとんどないのに」
「……一緒に、いたかったの?」
「そうだよ」、と彼女は言った。
「あなたは知らなかっただろうけど。気付かなかったふりをしてただろうけど。わたしはずっと一緒にいたかったんだよ。子供じみてるって思う?」
わたしは何も答えなかった。
◆
「お願いがあるの」
不意に雲が晴れて、月明かりがかすかに部屋の中を照らした。何もない部屋。わたしとアネモネ以外には、何もない……。
わたしはその事実を見なかったふりをした。見なかったふりは得意だ。何かをなかったことにするのも。
でも、それは結局ごまかしでしかなくて。きっと、何かの拍子に、思い出したように顔を出すのだろう。
ちょうど今がそうであるように。
「わたしを、殺してくれない?」と、真剣な顔でアネモネは言った。
「……それでいいの?」
わたしの質問は、どちらかというと自問の響きを帯びていた。
「そうする以外に、どんな方法があるのかな?」と彼女は言う。
そうだ。たしかに、他に手段はない。
「諦めずに、抱え続ければいいの? それはきっと、とてもつらくて、得るもののないことだよ」
「そうなんだろうね」
「苦しいだけの気持ちなら、なかったことにしてしまえばいい」
アネモネの言葉は、正しいのか、間違っているのか、分からない。でも、いちばん間違っているのは――間違っていると“されている”のは――アネモネの気持ちの方だ。
「きっと、ただの錯覚みたいなものなんだよ。だから、ちょっとすれば、忘れることができる。そうなれば、今みたいな混乱した状態じゃなくて、もっとまともな気持ちで、会うことができるようになる」
「……そうかもしれない」
「だから、殺して。それが、きっと一番なんだと思う」
彼女は笑っていた。でも、目の端から涙が伝っていた。
なぜかは分からない。でも、わたしもまた泣いていた。
彼女を殺すことは、わたしにとっても悲しいことだ。
あるいは、こう言い換えるべきかもしれない。
彼女が死んだとき、それを悲しむのは、わたしだけだ、と。
わたしたちはしばらく黙り込んだまま向かい合っていた。
どうするのが最善なのかは分かり切っていた。とっくの昔から。
生まれる前からそうだと決まっていた。
わたしは彼女を殺したくない。だからといって、彼女の気持ちを叶えるわけにはいかない。
◆
結局わたしはアネモネを殺すことにした。
殺すべきだった。殺す方が明らかに正しかった。
殺さないでいるのはつらかったし、そもそも、罪悪と呼ばれていた。
「大丈夫だよ」とアネモネは言った。
「つらいのはきっと最初だけだよ。後になってから思い返せば、ただ夢を見ていただけだって分かる。そうして当たり前みたいに、生きていける。何事もなかったみたいに」
そうかもしれない、とわたしは思ったけれど、そうなることもやはり、悲しいことのように思えた。
わたしは彼女の首に両手を伸ばして、ゆっくりと力を込めはじめた。
彼女の身体は静かだった。本当はそこに存在しないかのように、気配が希薄だった。
でも、彼女はたしかにそこにいた。いつだって。ずっと。気付かなかっただけで。
窓の外の空が白み始めている。急がなくては、とわたしは思った。
太陽がすべてをさらけ出してしまう前に、わたしは彼女を殺しきらなければならない。
早く――早く!
アネモネのからだは子供みたいに小さかった。小さくて、たぶん純粋だった。
彼女は、けれど死ななければいけない。純粋であればあるほど、なおさらに。
早く死んでもらわなきゃいけない。
彼女が生きていたら、わたしはこの先、上手く生きていくことができない。
何もかもが混乱してしまう。
彼女は居てはいけない存在なのだ。
……あってはいけない気持ちなのだ。
暗い部屋の中で、わたしはアネモネの首を絞めている。
力一杯に。
涙を流しながら。
わたしにとって、つらいことだ。アネモネにとっても、つらいことだ。
他の誰かにとっては、けれど、それはたいしたことじゃないのだろう。
きっと、誰も褒めてなんてくれない。感心なんてしてくれない。
それは当たり前のことだから。
それでもわたしは、彼女を殺さなければいけなかったのだ。
◇
ふと目を覚ますと、ベッドで横になっていた。
体を起こすと、薄いカーテン越しに太陽の光が感じられた。
朝が来てしまったのだ。
わたしはベッドを抜け出して、鏡台の前に立つ。
いつも通り、青みを帯びた灰色の瞳が、鏡の向こうからわたしを見つめている。
溜め息をついてから、わたしは目を瞑り、耳をすます。
声は聞こえるか? ……聞こえない。
けれど、まだ、残っている。まだ、殺し切れていない。
それも、そう長くは持たないだろう。
やがて忘れられるはずだ。何もかも。そうでなければ、困る。
わたしはしばらくの間、ベッドに腰掛けてぼんやりと過ごしていた。
ふと思いつき、携帯電話を開く。受信トレイには未読メールが一件。
兄からのメール。わたしは見なかったことにしてメールを削除した。
ついでに、携帯の中の兄にまつわる画像もすべて消してしまおうと思った。
そうした結果、わたしの携帯の中から、ほとんどすべての画像が消えてしまった。
わたしはもう一度溜め息をつき、瞼を閉じ、考える。
まだ、殺し切れていない。死の直前の一瞬だけが、途方もなく長く引き伸ばされているように。
本当に死んでくれるのだろうか、とわたしは不安になった。
あとどれくらいの時間が掛かるのだろう?
今の自分には判断もつかない。殺し切ったふりをして、自分を騙し切ることしかできそうにない。
そうすることがきっと、誰にとっても望ましいことなんだから。
誉めてくれる人が、誰ひとりいなくなってしまっても、わたしは泳ぎ続けなければならない。
また、耳をすませる。
断末魔の声は、まだ、聞こえない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます