Irritations <短編集>

へーるしゃむ

それ以上大きな声でしゃべらないで

アネモネ



 ためらうような溜め息をついてから、アネモネは困ったふうに笑った。


「つまらない話になるよ」と彼女は言う。


 ぶかぶかにくたびれた白いシャツ一枚。

 冷たいフローリングの床に裸足で座り込んだアネモネは、その一枚だけで体を隠している。


 傷んだ栗色の髪は肩まで伸びながらところどころで跳ねていた。 


 わたしの瞳はグレーなんだよ、と彼女は自慢げに言っていたことがある。

 このあいだ鏡を見ていたら気付いたの。瞳の色が青っぽい灰色なんだ。

 

 彼女はうれしそうにそう報告してきたのだ。


 夜なのに灯りもつけていない暗い部屋の中は、それでもほのかな月明かりに照らされていた。だから、わたしには、彼女の表情の微細な変化を、くっきりと読み取ることができる。きっと、いつも以上に。



 水泳のやり過ぎで茶色くなった。傷んで言うことをきかなくて、いつもくしゃくしゃ。アネモネは自分の髪を、いつもそう言って卑下した。


 たしかに髪の毛はくしゃくしゃだ。いっそみすぼらしいくらいに。

 

 わたしは、綺麗な、まっすぐな髪に憧れていたのだ。だからだろうか? アネモネの髪を見ると、悲しくなる。それが自分の髪であるかのように。


「話して」とわたしは声を掛けた。アネモネは膝を抱えたまま、顔をあげようとはしない。


「きっと、面倒な話になる」と、彼女は俯いたまま呟いた。


「それでもかまわない」とわたしは彼女と向かい合って、言った。


「あなたの話が聞きたい」


 黙り込んだ彼女に、わたしは言葉を続けた。


「わたしはきっと、あなたの話に耳を傾けるべきだった。本当なら、もっと早く」





「こどもの頃は、幸せだったな」


 アネモネの話は、そこから始まった。

 

「毎日が楽しかった。いつだって変なくらいに笑ってた。悲しいときや怖いときは思いっきり泣き叫べた。それに、どんなときだって彼が一緒だった。いつまでも一緒なんだって、ずっと無邪気に信じてた。わたしはきっと、そんな子供じみたことを、それでもついこの間まで、ずっと信じていたんだよ」


「……ねえ」


 わたしが声を掛けると、彼女は戸惑ったような微笑みのまま、ゆるく首を傾げた。


「いつから、好きだったの?」


 問いかけに、彼女は肩をすくめて首を横に振った。


「たぶんだけど、ずっと前から」


「全然気付かなかった」


「気付かないふりをしていたんでしょう?」


 わたしはその言葉を聞かなかったことにして、彼女の言葉の続きを待った。


 アネモネは、少しの間だけ途切れていた笑みを、取り繕おうとするみたいに、ふたたび顔に貼りつけた。そうすることで、何かのバランスを取ろうとしているみたいに。本当は怒りたいけれど、怒ってしまったら取り返しがつかなくなる、というふうに。

 

「どうして、好きになったの?」


「分からない」とアネモネは泣きそうな顔で笑い、両方の手のひらで自分の目を覆った。何も見たくないと言うみたいに。


 どうしてなんだろう。どうして好きになっちゃったんだろう。

 知っていたのに。分かってたのに。


 気付かなかったんだよ、とアネモネは言った。


「それが“好き”って気持ちだって、気付かなかった。こういうものをそう呼ぶんだって、知らなかった」


「でも、気付いてしまった」とわたしは言った。


「……そうだよ」


 それも、今になって。苦しげな呟きの後、彼女はわたしの瞳をじっと見つめてきた。わたしは視線を逸らしてから、言葉を返した。


「でも、実は勘違いなのかもしれない」わたしの声は他人事のようだった。


「そうかもしれない」


「錯覚かもしれない」


「本当に――」アネモネは笑った。


「――そうだったなら、よかったのに」


「後悔してるの?」


 ためしに訊ねてみた。その質問は他人事めいていて、わたしはなんだか、自分がたまらなく卑怯な人間に思えた。


「後悔?」とアネモネは苛立たしげに繰り返した。すぐ後には、彼女は感情をあらわにしたことを恥じるように笑みを貼りつける。彼女もわたしも、それでごまかせるつもりでいるのだ、きっと。


「どこに後悔の余地があるっていうの? 気付いたらこうだったの。どこに、選択の余地があったっていうのよ」


 押し殺したような声音が、彼女の感情の揺れを余計に感じさせた。

 

「本当に錯覚だったら、すぐに忘れられるよね」


 わたしは、そう言った。アネモネは頷いた。


「でも、忘れられていたら、こんな話はしてないよ」


 彼女は、寂しそうに笑った。





「頭を撫でられると嬉しかったんだよ」


 アネモネは言う。


「褒めてもらえるとね、すごくうれしくて、だから、褒めてほしくて、いつもがんばってた」


「……水泳も?」


「……そうなのかもしれない。そうじゃない部分も、あるかもしれないけど」


「でも、そうだった部分も、あるのかもしれない?」


「……うん」


 窓から差し込む月明かりが、不意に翳る。薄く細く伸びた雲が、月を隠してしまった。アネモネの表情が、わたしからは分からなくなってしまう。


「いつか、別の誰かが現れることなんて、分かってた」


「……そう、だね」


「それが誰かまでは、分からない。でも、わたしじゃない誰かが、隣を歩くことになるんだって、知ってた」


 だってそれが、あたりまえだから。彼女の声は寂しげだった。

 わたしは何も言わずに、彼女の言葉に耳を傾ける。


「でも、それが現実になった途端、怖くて、嫌で、たまらなくなった。だってそうなったら、もう一緒にはいられない。一緒にいない理由ができちゃうから。一緒にいられる理由なんて、もうほとんどないのに」


「……一緒に、いたかったの?」


「そうだよ」、と彼女は言った。


「あなたは知らなかっただろうけど。気付かなかったふりをしてただろうけど。わたしはずっと一緒にいたかったんだよ。子供じみてるって思う?」


 わたしは何も答えなかった。





「お願いがあるの」


 不意に雲が晴れて、月明かりがかすかに部屋の中を照らした。何もない部屋。わたしとアネモネ以外には、何もない……。


 わたしはその事実を見なかったふりをした。見なかったふりは得意だ。何かをなかったことにするのも。


 でも、それは結局ごまかしでしかなくて。きっと、何かの拍子に、思い出したように顔を出すのだろう。


 ちょうど今がそうであるように。


「わたしを、殺してくれない?」と、真剣な顔でアネモネは言った。


「……それでいいの?」


 わたしの質問は、どちらかというと自問の響きを帯びていた。


「そうする以外に、どんな方法があるのかな?」と彼女は言う。

 そうだ。たしかに、他に手段はない。


「諦めずに、抱え続ければいいの? それはきっと、とてもつらくて、得るもののないことだよ」


「そうなんだろうね」


「苦しいだけの気持ちなら、なかったことにしてしまえばいい」


 アネモネの言葉は、正しいのか、間違っているのか、分からない。でも、いちばん間違っているのは――間違っていると“されている”のは――アネモネの気持ちの方だ。


「きっと、ただの錯覚みたいなものなんだよ。だから、ちょっとすれば、忘れることができる。そうなれば、今みたいな混乱した状態じゃなくて、もっとまともな気持ちで、会うことができるようになる」


「……そうかもしれない」


「だから、殺して。それが、きっと一番なんだと思う」


 彼女は笑っていた。でも、目の端から涙が伝っていた。

 なぜかは分からない。でも、わたしもまた泣いていた。


 彼女を殺すことは、わたしにとっても悲しいことだ。

 あるいは、こう言い換えるべきかもしれない。


 彼女が死んだとき、それを悲しむのは、わたしだけだ、と。


 わたしたちはしばらく黙り込んだまま向かい合っていた。

 どうするのが最善なのかは分かり切っていた。とっくの昔から。

 生まれる前からそうだと決まっていた。


 わたしは彼女を殺したくない。だからといって、彼女の気持ちを叶えるわけにはいかない。





 結局わたしはアネモネを殺すことにした。


 殺すべきだった。殺す方が明らかに正しかった。

 殺さないでいるのはつらかったし、そもそも、罪悪と呼ばれていた。


「大丈夫だよ」とアネモネは言った。

  

「つらいのはきっと最初だけだよ。後になってから思い返せば、ただ夢を見ていただけだって分かる。そうして当たり前みたいに、生きていける。何事もなかったみたいに」


 そうかもしれない、とわたしは思ったけれど、そうなることもやはり、悲しいことのように思えた。


 わたしは彼女の首に両手を伸ばして、ゆっくりと力を込めはじめた。

 彼女の身体は静かだった。本当はそこに存在しないかのように、気配が希薄だった。

 でも、彼女はたしかにそこにいた。いつだって。ずっと。気付かなかっただけで。


 窓の外の空が白み始めている。急がなくては、とわたしは思った。

 太陽がすべてをさらけ出してしまう前に、わたしは彼女を殺しきらなければならない。


 早く――早く!


 アネモネのからだは子供みたいに小さかった。小さくて、たぶん純粋だった。

 彼女は、けれど死ななければいけない。純粋であればあるほど、なおさらに。


 早く死んでもらわなきゃいけない。

 彼女が生きていたら、わたしはこの先、上手く生きていくことができない。

 何もかもが混乱してしまう。


 彼女は居てはいけない存在なのだ。

 ……あってはいけない気持ちなのだ。


 暗い部屋の中で、わたしはアネモネの首を絞めている。

 力一杯に。

 

 涙を流しながら。


 わたしにとって、つらいことだ。アネモネにとっても、つらいことだ。

 他の誰かにとっては、けれど、それはたいしたことじゃないのだろう。


 きっと、誰も褒めてなんてくれない。感心なんてしてくれない。

 それは当たり前のことだから。


 それでもわたしは、彼女を殺さなければいけなかったのだ。



 ふと目を覚ますと、ベッドで横になっていた。

 体を起こすと、薄いカーテン越しに太陽の光が感じられた。


 朝が来てしまったのだ。

 

 わたしはベッドを抜け出して、鏡台の前に立つ。

 いつも通り、青みを帯びた灰色の瞳が、鏡の向こうからわたしを見つめている。


 溜め息をついてから、わたしは目を瞑り、耳をすます。

 声は聞こえるか? ……聞こえない。


 けれど、まだ、残っている。まだ、殺し切れていない。


 それも、そう長くは持たないだろう。

 やがて忘れられるはずだ。何もかも。そうでなければ、困る。


 わたしはしばらくの間、ベッドに腰掛けてぼんやりと過ごしていた。  

 ふと思いつき、携帯電話を開く。受信トレイには未読メールが一件。

 兄からのメール。わたしは見なかったことにしてメールを削除した。


 ついでに、携帯の中の兄にまつわる画像もすべて消してしまおうと思った。

 そうした結果、わたしの携帯の中から、ほとんどすべての画像が消えてしまった。


 わたしはもう一度溜め息をつき、瞼を閉じ、考える。

 

 まだ、殺し切れていない。死の直前の一瞬だけが、途方もなく長く引き伸ばされているように。

 本当に死んでくれるのだろうか、とわたしは不安になった。


 あとどれくらいの時間が掛かるのだろう?

 今の自分には判断もつかない。殺し切ったふりをして、自分を騙し切ることしかできそうにない。


 そうすることがきっと、誰にとっても望ましいことなんだから。


 誉めてくれる人が、誰ひとりいなくなってしまっても、わたしは泳ぎ続けなければならない。

 

 また、耳をすませる。

 断末魔の声は、まだ、聞こえない。

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