第1章 ローレン・ウィリアム

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 ローレン・ウィリアムは自室でため息を吐きながら一冊の本を閉じた。

 その本はこの家にある、唯一の魔法について書かれた本だった。

 今日はローレンの十二回目の誕生日。彼は生まれた時の記憶を所持していた。忘れもしない、あれは確かにここでの十二年前の記憶だ。ローレンは回顧するように思い出す。十二年前の、自分がこの世界に生まれ出た瞬間のことを。喧しい産声が耳を劈き、うんざりするように目を開けると眼前には見知らぬ女の顔があった。その女の顔は端麗であり、悪意の欠片もない笑顔であったため気後れせずに済んだ。

 そして騒がしい声の源が自分であることを知って閉口し、瞳からは新たな産声を上げるように一筋の涙がこぼれた。

 頬の冷たさが、彼に生の実感を与えた。

 次第に状況が飲み込めると、ローレンは女神のことを頭に浮かべた。

 ”これからあなた方は転生します”

 その言葉に嘘偽りはなかったのだとようやく理解する。

 こうして赤木猛はローレン・ウィリアムとして新たに生きることとなった。

 

 異世界。女神のその言葉に誤謬はなく、この世界は以前の世界とはずいぶんと似て非なるものだった。なかでも魔法の存在は大きく、現実として魔法が存在するといった事実はローレンに大きな衝撃を与えた。

 まるでファンタジーの世界だな。そのように思いながらも魔法の存在を容認すると魔物や魔王の存在もすんなりと受け入れることが出来た。

 ローレンは年齢と共に、少しずつこの世界のことを学んだ。自分が今暮らしているエンスパイアという名のこの国は、カイヨバーグと呼ばれる隣国と長らく戦争し、土地を奪い合っていた。この戦争が休止したのは、外部的な影響によるものだった。

 魔王。

 そう呼ばれる存在が現れると両国にとっての脅威となり、戦争から意識を削ぐのには最も適していた。

 魔王は邪悪な存在であり数多の人間を死に至らすであろう。

 そうした意識は戦争に対する奴隷的な集団意識を剝ぐのにも適しており、兵士から商人に至るまであらゆる人間が死の輪郭を強制的に押し付けられたように魔王の存在を怖れた。

 国中から魔王をまず対処するべきだという声が上がると、休戦になるまでそれほど時間はかからなかった。両国は同盟を結び、魔王討伐のために手を組んだ。魔王を退治した後、長い年月が過ぎたが今でも両国は良好な関係を築いている。

 共有の敵を作ることによって矛先を相手から別の対象へ向ける。両国は力のバランスが均衡していたこともあり、魔王の存在がなければ戦争はずっと長引いていたであろう。そのような歴史を知るとローレンは、前の世界でも魔王のような存在があれば良かったのではないかと思ったほどだった。

 生家であるウィリアム家は貴族だ。貴族であったという方が表現として適切かもしれないなとローレンは暮らす上でそう思うに至った。立派な邸宅を構えるわけでもなく、平民と大して異なる生活をしているわけでもない。それでも微かに残った貴族としてのプライドが、ウィリアム家により切迫した家計を強要していた。

 平民よりはグレードの高い食事。そのために行商から質の良い肉や酒を買い、その際に父親が値切っている姿を目にしたことがあった。行商は終始父親の言葉に従い、去り際にローレンを一瞥した。その眼には憐憫がこもり、侮蔑は口元に宿っていた。ローレンが前世において何度も見たことがある顔だった。

 この貴族は既に没落している。ローレンにはその明確な理由は分からないが、分かりたいとも思わなかった。

 唯一思ったことは、俺はあの父親のようにはならない。この世界では本当の貴族になってやる。ただそれのみだった。


 ローレンは鏡の前に立ち、自分の姿を見やった。鮮やかな金髪に溌溂とした顔。艶やかな唇に大きな目は精巧なフランス人形のようでもあり、女の子に見間違えられることも多かった。

 自分がこのような美少年に生まれ変わったことへの歓喜は当初、非常に大きなものだった。だが次第にしぼみ、潜水後に呼吸を目一杯行いしばらくすると呼吸を意識しなくなるように、自分の恵まれた相貌への喜びは自然と忘れていた。


 トントン、と部屋の扉がノックされると右手を櫛代わりに前髪を整え、「はい」と扉の前の人物へと声をかけた。

「お誕生日おめでとう、ローレン!」

 姿を見せたのは母親であるマリアだった。彼女はゆるりとした白のドレスを着ており、身体のラインが如実に浮き出てみえた。胸元は大きな曲線を描き、ローレンは母親の美貌を疎ましく感じることが多いのに気付くと当初は意外に思えたもののそれが独占欲に通じるものと分かって納得した。

 マリアは駆け寄り息子を抱きしめ、額にキスをする。

 しかし浮かない顔をしているローレンを目にすると首を傾げ、「もしかして、不安なの?」と尋ねた。

 ローレンは僅かに目を伏せる。笑みを辛うじて抑えつける。

 母親はその顔を覗き込もうとした。息子がぶつぶつと何かを呟き続けている。

「ローレン?」

 眉をひそめて息子を眺めた。ローレンは悪戯に表情を綻ばせて顔を上げる。明瞭な声で「炎よ灯れ」と口にし、ローレンの右手に炎が現れる。

「まぁ! すごい! ローレン、あなたはやっぱり天才だわ!」

「別に、そんなことはないよ」

 母親は事あるごとにローレンを褒める。それに対して息子の方が冷めた態度で戒めるのが常だった。

「ローレンなら魔法学校でもすぐに一番になれるわ」

「どうかな」

 褒められると、ローレンも満更ではない。実際、自分には魔法の才能がある。それは他の誰よりも自分が自負していることであった。おそらく女神のおかげだろうとローレンは考え、この新しい環境に満足していた。少なくとも、前世の人生よりは。

「でも、本当に必要なのかな」

「えっ?」

 母親の疑問に答えるように、ローレンは左手の中に炎を出す。

「ほら。詠唱しなくなって魔法はできるのに」

「ろ、ローレン!? そ、それはいつからできるの!?」

 母親は驚嘆したと言わんばかりに目を見開き、分かり易く声を上擦らせた。

 その反応は直接的な称賛だとローレンは思った。

 同時に思わず頬が緩み、無詠唱での魔法が類稀なることであることを再認識した。

「いつからって、ずっと前からできたよ」

 ローレンの期待に反し、マリアは眉をひそめる。その顔にいつもの笑顔はない。怪訝に思い、次の言葉を待った。

「……ローレン、それは駄目だわ」

「駄目?」

「詠唱をしない魔法なんて聞いたことがないわ。だからそれは……下品なことよ」

「下品……」

 その言葉を耳にしてローレンは驚いた。その驚きは失望に満ちたものではなく、ただ単に認めてもらえないことに対する驚きだった。

「ねぇ、ローレン。約束して。今のやり方は、今後は決して行わないと」

 マリアは息子の目を真っ直ぐに見つめて言う。ローレンは口をもぐもぐさせる。反論の言葉はいくつも頭に浮かぶが、どれを取り出そうか迷っているように。

「でも、無詠唱で出来た方がいいでしょ!? だってあんな長ったらしい詠唱を覚えて唱えなくても魔法が使えるんだよ!? だったらそっちの方が――」

「ローレン!!」

 聞きなれない母親の大声にローレンは体を硬直させる。

「……大きな声を出してごめんなさい。ごめんね、ローレン。でもお願い。詠唱をしないで魔法を使う? そんなことはどうか忘れて。そんなことをすればウィリアム家は無法者であると思われてしまうわ。だからどうかお願い。ね?」

 マリアは何度も無詠唱での魔法を咎めた。特に教師の前では決して使用しないこと。使用しようとさえ思わないようにと念を押し、愛らしい息子が俯きながらも「……分かった」という声を聞かせるとようやく気分を落ち着かせた。

 ベッドの上を見ると荷造り済みの鞄が目に入り、「もうすぐお父様も帰ってきますから、下で待っていましょう」と息子に声をかける。

「……うん。でも荷造りを仕上げたいから、先に行ってて」とローレンは答え、母親は息子の様子を気にしながらもその言葉に従った。

 部屋の扉が閉まるとローレンは大きなため息を吐き、天井を見た。右手を掲げ、手の甲と天井を交互に見やった。

 無駄に目立つことをしても仕方がないだろう。それにほら、能ある鷹は爪を隠すというじゃないか。だったら母親の言うことに従うのも悪くないだろう。

 ローレンは息を切るように肺の中の空気を出し切ると、ゆっくり深呼吸した。それから自らを鼓舞するように両手で頬を叩く。鏡の前に立つと目の前には美少年がいる。魔法の才能に恵まれた美少年がいる。ローレンはニッと笑う。そして改めて決心した。

 この世界ではもう、俺は失敗しない。


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