第40話 認知症だったので
「まあ、それはそれでいいとしてさ、工藤君、3つ目の論点ってどう考えたらいいの?認知症だったから遺言書は書けない、っていっても、実際に遺言書はあるわけだよね?」
智子さんが主張する3つ目の論点は、十蔵さんが認知症だったからダメっていうものだ。ボケちゃってるから、遺言書なんか書けないよね、と言われると、そうかもしれないと思う。だけど、実際のところ、遺言書はあるわけで、書けちゃってるわけで、そうするとなんでダメなんだろう?
「認知症だったら無効、というわけでは必ずしもないんだけど、法律の世界では本人の意思が重視されていて、仮に遺言書を本人が書いたとしても、その内容を本人が理解できる能力がない状態だったら、その内容の意思があったとはいえない、だから無効だ、って考えることになっているね。」
「と、いうことは、認知症かどうか、ってだけじゃなくて、どれくらい進んでいたか、ってことも問題になるの?」
「まあ、そういうことになるね。」
ふむ、そうは言ってみたものの、母一人子一人で育ってきた私には、おじいちゃんやおばあちゃんは縁遠い存在なわけで、身の回りに認知症の人はいなかったわけで、あんまりイメージできない話だ。
「工藤君、そもそも、認知症かどうかって、どうやって判定するの?」
「うーん、正直なところ、僕もよく分からない。ただ、三条弁護士の準備書面によると、基本的には医師が判断するらしいけど、その方法としては、例えば『長谷川式認知症スケール』って方法があるんだってさ。30点満点で20点以下だと認知症の可能性が高い、ということらしい。十蔵さんは令和元年12月の時点で21点だったそうだよ。」
「ってことは、ギリセーフ?」
「いや、三条弁護士の主張だと、その後にさらに認知症が進んでいたから、少なくとも遺言書を書いた頃には分からなくなっていたのではないか、ということらしい。」
「あれ?遺言書っていつ書いたんだっけ?」
「時系列に沿って考えると、
・令和2年10月に公正証書の遺言書を作成、
・令和3年3月に自筆証書の遺言書を作成、
・令和3年5月に死亡、って流れだね。」
そうだった。遺言書の日付は令和3年3月3日。ゾロ目になってたんだった。
「長谷川式なんとかテストをしたのが令和元年12月で、公正証書の遺言書を作ったのが1年くらい後なのは分かったけど、1年経ったからボケたはずだっていえるものなの?」
「智子さん側が主張している、夏のさなかに突然クリスマスの飾りつけをしたり、ざるそばにソースをかけて食べたり、といった話は令和2年夏のことらしいんだ。智子さん側としたら、これらのエピソードが認知症が進行した証左だってことらしいよ。」
「ふむう、そういうことかあ。ってことは、やっぱり認知症だったから遺言書は無効ということになるのかな。」
「どうかな。まずは、智子さんの主張に対する認否、つまりはこういうエピソードが本当なのかそうでないのか、から議論することになるね。それに、逆に認知症ではなかったと思わせるような話もあるかもしれない。この辺りは清志さんと武雄さんがどういった主張をするかを見てみないと何ともいえないかな。」
「ふむふむ。」
実際のところどうなんだろうなあ。
ざるそばにソースをかけたらどんな味になるんだろう?合わないような気もするけれど、ソースって意外と何にでも合うんだよなあ。ソースをかけるのか、ソースにつけるのか、によっても変わるだろうか。あれ?ブルドッグの顔が目印の中濃ソースの前提でイメージしてたけど、よく考えてみると、そうは書いてなかったような。ウスターソースの可能性もあるんだろうか?
「それから、仮に認知症でも、だからといって必ずしも遺言書が無効になるとは限らないらしいんだよ。」
「あ、え、うん?そうなの?」
「認知症の程度などによっては、一時的に記憶力に問題があるだけで、遺言書の内容は理解できる、ということは考えられるから、その場合には遺言書は無効にならないんじゃないかな。」
「ふむ、そうなると、より具体的な十蔵さんボケてたエピソードが出てくるかが重要になってくるってこと?」
「そうなんだろうね。多分。」
工藤君の歯切れが悪い。らしい、や、多分、がいつもと違って多いような気がする。私の顔を見て、工藤君が申し訳無さそうに言う。
「大崎さん、ごめんね。正直に言って、裁判が進んできて、だんだん大学で学んだことのレベルを超えて、分からないことが多くなってきてるんだ。」
「いやいやいや、謝らないで、工藤君は弁護士さんじゃないし、分からないことがあって当然だよ。私のわがままで手伝ってもらってるわけだし。」
「大崎さんも今からでも弁護士に依頼した方がいいかもしれない。この訴訟は結果次第で何億円というお金が手に入るかもしれないわけだし、僕が間違えたせいでそれが手に入らないということもあるかもしれないよ。」
工藤君は真剣な表情だ。私を心配してくれている気持ちが伝わってくる。でも、この話は、私の中ではもう結論が出ている。
「もしそうなっても、問題ないよ。私は、お金が目的じゃなくて、十蔵さんがどんな人だったのかを知りたくて裁判に参加したわけで。元々、母さんは十蔵さんと喧嘩して家を出たわけだし、相続でお金をもらおうとは思ってなかったはずだよ。私だって、十蔵さんのことは知らなかったし、今でも、この件でお金を要求するのは変な話だと思ってる。」
「でも、」
「大丈夫。もしも、結果として1円ももらえなくなっても後悔しないし、工藤君のせいにしたりしないよ。それに、私、自分で裁判に参加ししたおかげで十蔵さんがどんな人だったか、少しずつわかってきてる気がするんだ。弁護士さんにお願いしちゃったら、きっとお任せにしちゃって、何がなんだか分からないまま終わっちゃうと思う。」
私はそこでいったん言葉を区切って、ぬるくなったカフェラテに口をつけた。ぬるくなっても優しい味だ。
「だから、工藤君には最後まで付き合ってほしいんだ。今みたいに、一緒に裁判を続けてくれる?法律の世界では本人の意思を重視するんでしょ?」
工藤君は少し驚いた顔をして、それから軽くうなずいた。
「分かったよ、大崎さん。至らないところもあると思うけど、よろしくお願いします。」
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