第38話 偽造と筆跡
「それで、仮に、丸に十字の記号が署名だと認められたとしたら、次の争点は、手書きの遺言書が偽造かどうか、だったよね。」
さっきバッグから取り出した手書きの遺言書を改めて見てみる。
B5サイズの便箋に横書き。便箋には横線が入っていて、文字は線と線の間に並んでいる。文字が震えている上に小さいので少し読みづらいけれど、読めないほどではない。
文面は左詰めで、
「遺言書
全財産をたけおに」
というわずか十一文字。余白が広くて、なんだかもったいない感じだ。
そこから一行空けて日付。
「令和3年3月3日」
日付の下に例の丸に十字の手書きの記号があって、その右に難しい字体のやや大きい丸い印鑑が押されている。「十蔵」の二文字だと思う。いかにも実印っぽい感じ。
偽造なのか、偽造でないのか。うーん。
「ねえ、工藤君、偽造かどうかってどうやって判断するの?」
「色々あるんだろうけど、法律上のルールはないみたいだよ。だけど、弁護士さんたちの主張をみれば分かるんじゃないかな。まず、清志さんと武雄さんは、筆跡について主張しているよね。」
「あー、そういえば、筆跡についての鑑定書?が証拠の中にあったよね。」
私はバッグから鑑定書を取り出す。清志さん側が提出したものと武雄さん側が提出したもの。合わせて二通。どちらも結構な厚さだ。そのうちの一通を開いてみる。
最初に筆跡鑑定の方法の説明が書いてある。運筆、配置、文字形状、個人内変動、線画密度分布、識別率、字形部門別数値、特徴合致率……、専門用語が次々に出てくる文章は、読者を全力で拒んでいるようにしか見えない。
ページを繰っていくと、遺言書の文字と、十蔵さんが年賀状やらに書いた文字とを、一文字ずつ拡大コピーして比較していたりもする。難しい専門用語のほか、線の長さの関係がどうの、払いの方向がどうの、字の形の特殊さがどうの、といったことが細かい字でびっしりと書いてあり、謎の棒グラフが添えられている。
以前にも読もうとしたけれど、何が何やらよく分からなかった。改めて読んでもやっぱり分からない。途中の理屈は分からないが、本人の筆跡ではなく、似せて書いたもので偽造と考えられる、という結論らしい。
偽造という結論なのだから、こっちは清志さん側が提出した鑑定書だ。
「ねえ、工藤君、これ、分かる?」
「結論として偽造だと書いてあるのは分かるけど、その理由の部分は分からないね。」
「工藤君もかあ。」
ふむ、分からないのは私のせいではないらしい。
ついでにもう一通の鑑定書も開いてみる。同じような厚さの鑑定書で、やはり理由のところは複雑でよく分からないけれども、こちらの結論は、十蔵さんが書いたものだと考えられるということになっている。
どちらも筆跡鑑定の専門家が作成したもので、似たような鑑定書で、似たような議論がなされているのに、結論は違う。不思議だ。
「どっちの鑑定書の方が強いんだろう?工藤君、こういうときって、どうやって判定するの?」
「いや、多分、そういう判定とかはしないんじゃないかな?」
「え?じゃあ、この鑑定書の矛盾はどうするの?」
「おそらくは放置かな。前に民事訴訟実務の講義で聞いたけど、裁判所はあまり筆跡を重視しないらしいよ。手本があれば真似することや転写することもできるし、逆に本人が書いてもいつもと違う字になることもあるだろうし。何より、鑑定書の結論が正反対じゃ、裁判所も判断しようがないんじゃないかな。」
放置?重視しない?
私は筆跡の鑑定書に目を落とした。分厚く、なかなか立派なカラーの表紙には筆跡鑑定の専門機関であるらしい立派な名称が書かれている。鑑定した人も結構大変だっただろうに。なんだか申し訳ない気がしてきた。
「あはは、大崎さんの考えていること、なんとなく分かるよ。双方が鑑定書を出したからプラスマイナスゼロで落ち着いたって見方もできるかもしれないし、まるっきり無駄ってわけでもないんじゃないかな。」
私の表情を見かねたのか、工藤君が笑いながらフォローする。いや、フォローできてるのかな。
「でも、筆跡では分からないとしたら、どうやって偽造かどうか判断するの?」
「弁護士さんたちの議論を見てみると、次は、形式や内容に不審な点はないか、ってことになるんじゃないかな。」
「なるほど?」
「十蔵さん本人が書くはずのない内容や、形式の面で十蔵さん本人ならそうはならないだろう、ってところとかがないかってことだね。」
「そういうことかあ。そこで、十蔵さんの人となりが重要になってくるんだね。」
私の祖父にあたる十蔵さんはいったいどんな人だったのか。私がこの裁判でいちばん知りたいことはそこだ。
遺言書が偽造かどうか。この争点は私にとっても重要なものだってことになるわけだ。
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