第24話 三度目の小田原へ
先週まではまるで夏のようだったけれど、10月に入るとさすがに涼しくなってきた。
私と工藤君は、東京駅の日本橋口から新幹線ひかりに乗り込む。他愛のない話をして、工藤君がブラックの缶コーヒーをゆっくりと飲み終わった頃には小田原駅のホームに到着している。
ここへ来るのも三度目なので、駅から裁判所までの道もすっかり慣れたもの。帰りはどこに立ち寄ろうかなあ、などとスマホを見ながら歩く余裕があるくらいだ。
「大崎さん、歩きスマホは危ないよ。」
工藤君が眉をへの字にして、本当に困ったような顔で心配そうに注意してくる。真面目だなあ。
「大丈夫、大丈夫、小田原は二宮金次郎さんの出身地、いわば、ながら歩きの本場だよ。」
「いやいや、二宮尊徳の時代にはスマホなんて存在してないし、ながら歩きを推奨してるわけじゃないからね。それに、今どきは、銅像も座って読書してるって話だよ。」
「えー、私の小学校では歩きながら読書してる定番のスタイルだったよ?」
かつては日本中の小学校に立っていた二宮金次郎さんこと二宮尊徳さんの銅像。今では座っているのか。コンプライアンスに負けるな、立て、立つんだ!立ち上がれ!尊徳!
……。はっ、二宮さんを一体何と戦わせようとしてるんだ、私。
っていうか、
「そもそも、二宮さんって何をした人なの?北条家の関係者?」
「いや、北条家は関係ないよ。二宮尊徳は江戸時代の終わり頃の人で、現代でいうところのターンアラウンドマネージャーっていうのかな、藩や村の財政再建で活躍した人だよ。」
「なるほど?」
「江戸時代の終わり頃って、借金とかで経済的に行き詰まった藩や村が数多くあって、苦しい生活をしている人がたくさんいたんだ。飢饉などがあれば死人も出てしまう。二宮尊徳はそういった藩や村の経済的な立て直しや農業の指導などで多くの人を救ったから、尊敬されて銅像になったんだろうね。」
そうだったのか。子供の頃の姿で銅像になってるから、そういう活躍は全く想像しなかったよ。学校の怪談とかで夜中に動くとか光るとか、ロボットみたいな設定を追加されてるけど、全然そんなキャラじゃなかったんだ。
「すごく真面目な人だったらしいから、現代に生きていたら、歩きスマホはやめなさい、とか叱られると思うよ。」
「そっか。じゃ、歩きスマホはやめるよ。」
工藤君が心配して言ってくれてるのも分かるし、ここは素直にしたがっておこう。
そんな話をしているうちに、お城のお堀端の道を通り、裁判所にたどり着く。徒歩十三分。散歩にちょうどいいくらいの距離だ。
裁判所にたどり着いた私たちは、さっそく二階に上がって第二号法廷へ。傍聴人入口から入ると、書記官の人が何かの作業をしている。
被告席に目を向けると、既に岩渕弁護士が座っていた。
「こんにちは、岩渕先生。今日もよろしくお願いします。」
「こんにちは、大崎さん、工藤さん。こちらこそよろしくお願いします。」
よく通る声で穏やかに挨拶を返してくれる。いい人なんだと思うんだけど、銀縁眼鏡の奥の鋭い目は油断なくこちらを値踏みしているようにも思える。
というのは考え過ぎなんだろうなあ。
なんて考えていると、セミロングの書記官さんがこちらに書類を持って近づいてくる。
「大崎さん、額神武雄さんから提出された追加の書証です。受領されたら、こちらにサインか押印をお願いします。」
陳述書、というタイトルの書類を受け取る。なんだか宅配の受取りみたいだけれど、書記官さんに言われるままにサインする。って、よく見ると、サインをした紙も同じ内容の陳述書だ。サイン付きの限定版の陳述書が出来ちゃったわけだけど、こんなんでいいんだろうか。
「大崎さん、準備がギリギリになってしまって申し訳ありません。ただ、重要な証拠なので早めに見てもらう方がいいと思って、今日の期日に持参した次第でしてね。」
岩渕弁護士が頭をかきながら謝ってくる。
重要な証拠?
「と、いいますと?」
「加保茶さんの陳述書なんです。これで、武雄さんの主張している十蔵さんの姿について納得してもらえると思いますよ。」
「あの加保茶さんですか?」
「ええ、あの加保茶さんです。」
加保茶さん。十蔵さんの人生の岐路に現れる不思議な人。そうか、実在するんだよなあ。って、そりゃそうか。
陳述書の一枚目には、只者ではないような達筆で「村田宗治」という署名があり、その横にはぐにゃぐにゃとした難しい字体の「村田」という押印がされている。ふむ、村田……。村田?
「あれ、頂いた陳述書、加保茶さんじゃなくて、村田さんになってますけど。」
「ああ、それですね。私も驚いたんですけど、加保茶さんって名前は通称で、本名は村田さんっていうらしいんです。私が連絡を取ってからも、ずっと加保茶さんって名乗っておられたんですけど、裁判所に出す書類なら、戸籍の名前じゃなきゃ問題が出るのではないかとおっしゃって、そこで初めて分かったんです。」
「通称、って、そんなことあるんですか?」
「まあ、世の中、代々の屋号やペンネームなど、通称で暮らしている人というのもそこまで珍しいわけではないんですが、学生運動の頃には既に加保茶さんと名乗っておられたようで、昔からのご友人も皆さん加保茶さんが本名だと思っていたみたいです。そういう意味においては、まれなケースだと思いますね。」
言われてみれば、加保茶なんて名字は聞いたことがない。って、それを言ったら、ぬこ神だってそうなんだけれども。
十蔵さんも加保茶さんと思っていたのだろうか。武雄さんの主張する十蔵さんのイメージからすると、戸籍の本名が何かなんて気にしないような気もするけれど。
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