17-3話、異性間の友情が成立する確率を求めよ③
大人二人分のチケットを買い、水族館の中へと入っていく。
この歳になってまで水族館くらいで緊張するのは少々気恥ずかしいが、ずっと憧れていたのだ。
一人で行くものではないし、きっとこんな機会でもなければ永遠に行くことはなかったかもしれないと思うと果彌には感謝してもしきれない。
「これが水族館か」
薄暗く、仄かな明かりが水槽を照らし、トンネルのようになっている通路は一面ガラス張りでまるで海の中にいるかのようだった。
「なあ、これすごいぞ。
あれエイだよな、裏側あんななんだな」
思わず興奮してはしゃいでしまう。
「しゅうくん可愛い……」
ポツリと果彌が何事かを呟いているが、全く気にならない。
ずっと来てみたくて、ネット上で見た映像と想像でしか見れなかった光景が目の前に広がっている。
「すごいな」
語彙力を失うほどの一面の魚の群れ。
ガラス越しに見えるペンギンやアシカ。
手を伸ばせば届きそうなほどの距離で見るその姿は感動以外の何物でもなかった。
童心に戻ってしまうほどに言い表せないほどの感情が溢れている。
「ここ本当にすごいよね。
友ちゃんたちとも何度か来たことあるんだけど、しゅうくんにも見せてあげたかったんだ」
「有達がうらやましいよ」
自分の知らない果彌を知っていて、綺麗な光景や記憶を共有できていることをうらやましく思ってしまう。
「うらやましい?」
「あいつは果彌との思い出がたくさんあるからね」
中学時代に知り合う前からずっと友達だった有達と比べる時点でおかしな話ではあるが、少しばかりうらやましく思えてしまうのだ。
「にゅふふ、嫉妬かね?」
口元を掌で隠し、奇妙な笑い方で迫ってくる。
「さあな」
嫉妬という感情が分からないことを隠すために曖昧に笑って誤魔化す。
「誤魔化す気だな!
でもさ、これから友ちゃんにも負けないくらい一緒に思い出を作ればいいじゃん。
ね?」
「そうなるといいな」
許されるのであれば、本当にそれは素敵なことだ。
身に余る幸運を望んでもいいのかはわからない。
だけど、今だけはその優しさと好意に甘えたいと思った。
「一緒に思い出作っていこうね」
ぎゅっと握られた手のひらから伝わる熱はどこまでも優しかった。
***
沢山の人がいる順路からわずかに外れたクラゲが水中を漂う水槽のスペース。
周囲から人も減ったそこで水中を漂うクラゲたちをぼうっと眺め、目を奪われていると果彌は何の意図も含まない口調で問いかけてきた。
「どうして水族館だったの?」
その何気ない質問に答えるべきか。
濁すこともできた。
だが、気づけば口を開いていた。
「きっかけは何だったかなんてもう覚えてないけどさ、子供のころに何かで見て水族館に行きたいって初めてわがままを言ってみたことがあったんだよ」
これはきっと気の迷いなんだろう。
水槽の中を自由に泳ぐ魚たちを眺めながら、気づけば誰にも語ったことのなかった胸の内の一端を吐露していた。
「でもさ、お前には必要ないって一言で一蹴されたから、二度と同じことは言わなかったんだけど……水族館にだけは行ってみたいなって気持ちだけはずっと心の中に残っていたみたいだ」
心底どうでもいい話だ。
どうして果彌に聞かせようと思ったのかはわからない。
こんな話をしてどうしろというのだろう。
子供がわがままを言って、親がそれを受け入れてくれなかっただけのどこにでも転がっている話に過ぎない。
実にくだらない話だ。
「小さい頃からどこかに連れて行ってもらった記憶なんてないし、それが普通だから何とも思わなかったんだけど、水族館に行きたいってどうして思ったんだろうな……」
いや、どうしてなんて簡単か……。
口には出さず、心の中で呟くにとどめる。
きっと親子として一緒に行きたいってあの時は思ったのだろう。
水族館じゃなくてもよかった。
動物園だろうと、遊園地だろうと、映画だろうとなんだっていい。
家族として一度でも一緒に出かけたいと思っただけできっとそれはどこでもよかった。
水族館にこんなにも行きたかったのはあの時の、初めてのわがままが今でも忘れられないからだ。
もはや親の愛情なんてものも、絆も断絶し、お互いに望んでいない。
そもそもそんなものが最初から存在していたのかすら今となってはわからない。
それでもなお残っていた記憶の残滓。
たったそれだけでしかない。
女々しい感傷に果彌を付き合わせてしまったことに今更後悔しそうになる。
悠々と泳ぐ魚の群れを見ていると如何に己がどうでもいいことを気にしているのかがわかってしまう。
何も考えず、ただひたすら生きていられたらと思ってしまうのは間違えているのだろうか。
「ごめん、くだらない話だったな」
せっかくの楽しい時間に水を差してしまったことに気づいて向き直ると、今にも泣き出しそうな顔をした果彌がいた。
「話しにくいこと聞いちゃってごめん」
「いや、謝るのは俺の方だ。
せっかくのデートの時にする話じゃなかったな」
小さく首を振って自嘲する。
所詮は感傷。
こんなどうでもいい話をするべきではなかった。
「そんなことないよ。
しゅうくんは昔の話って全然しないから聞けたの私はうれしかったよ」
その言葉に嘘は感じられない。
そもそも彼女はこういう時に嘘は言わない。
「そうか......。
そう言ってもらえると助かるよ」
だけど、一つだけ今の自分でも分かることはある。
一人で水族館に来ていたとしてもきっと意味はなかった。
こんなにも心が動いてしまうのはきっと、果彌と一緒に来れたからだ。
「ありがとう」
「うん」
視線を合わせ、お互いに微笑み合う。
彼女といるとまるで自分が普通の人間のようになってしまう。
無機質で役立たずな自分でもいいんだと肯定されているようでどこまでも甘えて蕩けてしまうこのぬるま湯の関係に浸っていたい。
そんな戯言のような雑音があった。
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