14話、揺蕩うは、かつての無価値な伽藍堂②(過去)
勉強を教えてほしいと言われ、快諾したが俺は目の前の惨状に頭を抱えたくなっていた。
その選択に後悔はしていないが、あまりにも酷い現実を直視したくない気分である。
勉強を教える。
言葉にすれば簡単な一言。
たったこれだけのことが何よりも難しいことであることを初めて知った。
教師というのはこんなにも難しいことを大勢に施しているのだから、プロフェッショナルというのはすごいのだなと、初めて尊敬の念を覚える。
もしかしたら、自分のような対人経験が薄いものにとってコミュニケーションを必須とするこの行為そのものの難易度が高いだけなのかもしれない。
「せんせー、全くわかりません!」
現に俺は早速どうしたらいいのかわからなくなっている。
開始してまだ20分も経っていないのだが、どうするべきかを考えなくてはならない。
まずは得意科目を分析するために、主要5教科の次回テスト範囲の問題を簡単なところから順に少しずつレベルを上げて現在の学力がどの程度であるかを測ろうとした。
そう、測ろうとしたのだ。
自分の考えは決して間違っていなかったはずだ。
理解度を確認し、理解を深めていくやり方が間違えているとは思えない。
しかし、どうして全教科一問も解けていないのだろうか。
測定不能。
なぜかすごそうに聞こえるが、全然すごくないその現実。
正直に言えば、彼女のいう友人達がもう教えたくないとまで言っていたという言葉を舐めていた。
「ここまでとは……」
思わずこぼれ落ちる言葉。
「ごめん、ほんと勉強苦手でどうしたらいいかわかんないんだ」
しょんぼりと視線を落とす姿を見て、そんな顔をさせるために彼女の助けになろうとしたわけではないと己に言い聞かせる。
むしろ、ここで彼女の学力を向上させてこそ恩返しになるのだと前向きに考えるべきだろう。
「大丈夫。
少しずつでもいいからやろう。
俺が絶対なんとかさせるから」
心が折れないように半分自分に言い聞かせるように言う。
「ありがとー!!
束くん、マジ神様!そう言ってくれた人初めてだよー」
こちらの手を握り、拝むように笑顔を向けてくるのはいいが、妙に距離が近い。
ここまで異性に無防備だと少々心配になってしまう。
恋愛のことはよくわからないが、これが初恋キラーとか、初恋ハンターとか言われるやつなのかもしれない。
思春期の少年にとっては毒にも薬にもなりそうだなと聞き齧りの知識でしかない感想を抱く。
「中二の序盤の内容からこれってことは多分基礎ができてないんだと思う。
だから、しばらくは中一の範囲から少しずつ進めて基礎を固めていけば、次の期末くらいには結果が出てくると思う」
流石に次の中間までに一定ラインまで持ってくるのは無理だと判断し、中間を越えた後の期末にこそ勝負をかけよう。
短期での改善は早々に諦め、中長期計画を伝えられた彼女は大きく頷くのだった。
***
この日から彼女との勉強習慣は始まった。
彼女の偏差値向上プランは難解を極めたが、言い出したからには助けになれるように必死に努力した。
数学は基礎の計算問題を反復練習して計算そのもののを慣れさせ、苦手意識を払拭させる。
国語は致命的なまでの読解力のなさを改善させるために児童向けの本から少しずつ読ませ、文章そのものに慣れると同時に漢字を読むことから馴染ませる。
社会や理科のような暗記に比重を置く科目は学力に合わせて暗記用の資料を自作してやらせ、息抜きと称して有名どころの歴史は漫画で読ませた。
英語は文法そのものに対する国語力がないこともあり、苦肉の策としてとりあえず文法は無視し、力業だが英単語を覚えさせることに注力させる。
毎日ひたすら何時間もそれを繰り返し、繰り返し図書室で勉強を続ける。
勉強が苦手で、何をしたらいいかすらもわかっていなかった彼女にとっては苦痛の日々でしかなかっただろう。
何度も泣き言を言って今日はもうやめようと言ってはいても、明日からはもうやらないとは一度も言うことはなかった。
それを心からすごいと思い、勉強ができない自分を変えたいという意思は本物だった。
辛いのであればいつでも逃げられるにも関わらず、彼女は一度たりとも図書室での勉強から逃げたりはしなかったのは賞賛に値した。
「なんでそこまでしてくれるの?」
あるとき彼女は言った。
「何がだ?」
読んでいた本から顔を上げて問い返せば、そこには吸い込まれるような瞳でじっとこちらを見ている彼女がいた。
「本当に毎日勉強見てくれてるよね。
それこそ休みの日だって見てくれることあるけど、どうして私のためにこんなに優しくしてくれるの?」
「優しくしてるわけじゃない。
これはただの恩返しだから、キミは気にしなくていい」
以前にも告げた事実だけを口にし、再び手にした本の文字を追う。
「恩返しかぁ……私は束くんにここまでしてもらえるほどのことをしたのかな?」
「ああ、返しきれないほどの恩だ。
この程度で返し切れるとは思っていないから、気にしなくていい」
今度は視線すら向けず、文字を追ったまま答えた。
「でも……」
なおも言い募ろうとした彼女の言葉を遮るように小さく息を吐き、本を閉じる。
「俺のことが迷惑だと言うのであれば遠回しに言わずに、はっきりとそう言ってくれて構わない。
俺はキミの迷惑にはなりたくない」
なぜ彼女がここまで納得しようとしないのかが理解できなかった。
迷惑であればそれを言ってほしいというのも本当であり、遠回りな言葉で察せられるほど自分の察しが良くないことは理解している。
彼女自身が勉強を教えてほしいと言い、自分はそれに全力で応えて、その結果が表れてきている。
彼女は利用できるものを使って学力を上げ、俺は恩を返すことができる。
それだけのことに異論を挟む余地などないはずだと思っているが、違うのだろうか。
普通を理解するのにはまだまだ時間がかかるのかもしれない。
「違うよ!
そうじゃなくて!
こっちばかりいつも迷惑かけてばかりで気まずいというか、友ちゃんたちもそいつはお前に気があるんじゃないかとかごにょごにょ言ってたし……」
尻すぼみに言葉が小さくなっていくが、何となく彼女が言いたかったことが理解できた。
「何度も言うけれど、これは恩返しだと思っているので俺は迷惑に思ってはいない。
それと、キミの友達が言っている気があるというのが異性に対しての好意を示す言葉であるのだとすればその心配はないし、俺はキミに対して異性間における恋愛的な好意を持っていないから安心してほしい」
正しくは恋愛的な好意というものを理解できないと言った方がいいのだろうが、これはわざわざいう必要のないことだ。
考えてみれば異性と二人きりで図書室に通い詰めるというのは年頃としては配慮が足りなかったのかもしれない。
事ここに至るまで思いつけないとは、やはり自分は社会性というものが欠けているのかもしれない。
「がーん!めっちゃ直球に興味ないって言われた!?
別にいいんだけど、なんかすごい複雑っ!」
「その反応の意図はよくわからないけど、もし俺の言葉が信用ならないのであればここに誰か連れてきても構わない。
もちろん、勉強の邪魔にならない事は前提条件とさせてもらうが」
今に始まったことではないが、やはり彼女の反応はよくわからない。
結局のところ、何が言いたかったのか。
自分の考え方が常人とは少しズレていることは自覚している。
それゆえにこれ以上の発言は余計な火種を生み出しかねないとして口をつぐむ。
「違うのよー……。
そういうこと言いたかったんじゃないのよー……でも、なんかもう気にしたら負けな気がしてきた……」
「気にしないのであればそれでいい。
じゃあ、続きから再開してくれ」
泣きそうな声に聞こえなくもなかったが、表情は落ち込んでいる感じでもないので彼女の言う通りに気にしないことにする。
これも女心というものなのだろうか。
いつかそれも理解できるといいなと思った。
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