12話、揺蕩うは、かつての無価値な伽藍堂①(過去)
お前は機械のようだと最初に言いだしたのは果たして誰だっただろうか。
常に感情を殺して生きていた自分は周りから見ればさぞつまらない人間だったのだろう。
どこまでも機械的な反応しか返さない面白みもない人間に一体誰が話しかけたいと思うだろうか。
次第に挨拶すらされなくなり、まるでそこに存在しないかのように扱われるようになったのは必然だった。
多感で感情豊かな年代である中学生たちにとって自分はきっと不気味で異端なことは理解していた。
思春期特有の感情も存在せず、異性に対する興味すら持てないが故に情緒や感性が健全に育つこともなかった。
だからこそ、彼女……因果彌は不思議な存在だった。
「おはよ」
すれ違い様に挨拶をして去っていく。
「今日もトレーニング?
がんばるねー」
帰り道のあの場所で。
「あ、ちょうどよかった。
数学の教科書貸してくれない?」
学校の廊下で。
あの日、偶然知り合った彼女だけはいつだって話しかけてくれた。
無気力で、無表情で、無反応な機械のような自分を知っても何も変わらなかった。
そんな日々が続いていたあるとき、毎日の些細な僅かばかりの会話を楽しみにしている自分に気づいてしまった。
彼女と会話ができない日を残念だと思う気持ちが芽生えていた。
それは雑音だった。
ただひたすらに与えられた役割をこなし、思考することを放棄したはずの頭の中にわずかに混じり始めた雑音のはずだった。
雑音は日増しに大きくなり、自分を苛む。
知らない。
こんなものは知らない。
誰からも与えてもらったことのなかった初めての感覚に苛まれ、苦悩を覚えた。
積み重なり続ける苦悩、初めて覚えたストレスは己と向き合うきっかけとなり、抑圧された自分の心に気づいたのはどれほど経った時だろうか。
気づいてしまえば簡単すぎるものだった。
ずっと己の中にありながらも目を逸らし続けてきたものの名は感情。
人が人である限り当たり前に備わっているものから必死に目を逸らしていただけだった。
感情がないという嘘。
嘘で固めて心を誤魔化し、不安という魔物に見つからないように体を丸めて身を守るように耐えていただけだった。
誰も見てくれないから諦めていた。
もっと幼い頃から誰にも与えてもらえなかったから諦めていた。
何も考えなければ辛くないと思い続けて耐えてきた閉じ込められた感情の発露。
僕を見て。
たった一つだけ。
たったそれだけのことを願い、努力して、求め続けても得られることがなく、いつしか諦観に沈んだまま動けなくなっていた。
俺は本当は誰かに自分を見てもらいたかったのだと、話しかけてほしかっただけだった。
親にも存在を求められず、それでも誰かにこの世界に居ていいのだと認めてもらいたかった。
認めてもらいたい。
ささやかな本当の願い、ただそれだけのことを心は最も欲していた。
気づけば涙が自然と溢れ出していた。
誰にも気づいてもらえないなんて嫌だ。
存在する意味がないなんて嫌だ。
そんな当たり前の感情にすら蓋をして気づかない振りをしていた。
これまで何も希望すらないのに死のうと思わなかったのは……死にたくなかったのはただ一つ、何も証を残せずに死ぬことが耐えられなかったからだ。
せめて何かを誰かの心に残したかった。
ただ死ぬのではなく、意味のある死が欲しい。
どこまでも利己的で、誰にも言えない醜い願いだからこそ、全てを忘れて心を閉じ込めていた。
どこまでもくだらない欲望を表に出したくなかったそれを、どうして今更思い出すことができたかなどは考えるまでもなかった。
彼女だけが自分を認知し、人と同じように扱ってくれたから願いを取り戻せた。
彼女ならばわずかばかりの何かを残せるかもしれないと、どこまでも利己的で自己中心的な希望が湧いたから。
彼女にとってはなんということはない些細な行動。
意識すらしないたったそれだけのことが俺にとって最も大切で、最も欲しかったものを思い出させてくれた。
この湧き上がる気持ちはなんだろうか。
彼女のことを考えると胸が苦しくなり、嬉しくなって、彼女のために何かをしたくなる。
彼女が困っているならば助けてあげたい。
そのためならばこの命すらかけてもいいほどに。
「そうか、この気持ちが……」
"感謝"なんだなと、言葉にできない曖昧で複雑な感情が形になった気がした。
この恩を返さなくてはいけない。
"俺"を、束収護という一人の人間であることを取り戻させてくれた恩を返していこう。
もらったものが大きすぎてもしかしたら返し切れないかもしれないけれど、今なら言える。
この恩を返すためならば命すら懸けよう。
どうせ彼女に出会っていなければどこか近い未来に擦り切れて死んでいた。
なればこそ、どうせ死んでいた命にもとより価値なぞ存在しない。
ゆえにこの命の使いどころは一つしかなく、自分なんぞを救ってくれた素晴らしい少女のために使おう。
そして、いつか彼女の心の中にわずかな思い出として残ることができることができたのならばそれ以上を望むことはない。
この日から何かが明確に変わったわけじゃない。
何かを大きく変えようとしたわけではないが、少しずつ周りに溶け込むことを意識できるようになった。
社交性のある人間の動き、思考をトレースして取り込んで自分を再構成する。
元々自己というものが希薄な自分にとって他者の動きや言動を取り込んで最適化するのは簡単なことだった。
違和感を持たれないように少しずつ会話を増やし、社交性を上げ、あたかも感情があるかのように見せる。
急変した態度に何があったのかと聞かれたら当たり障りのない理由をつけて、少しは変わろうと思ったなどと人間らしいことを言った。
彼女の近くにいることが普通であれるように。
誰よりも早く彼女を助けることができるように。
彼女のそばにいても違和感のない人間になるために。
「何か良いことでもあった?」
「いや、特には」
気の持ちようが変わっただけとはいえ、最初に気づいたのはやはり彼女だった。
「ただ、キミのおかげでずっと心に引っかかっていたことが解消できたからそのおかげかもしれない」
「私、何かしたっけ?」
首を傾げて心当たりがないという様子の彼女を見て、それはそうだろうと思うだけで言葉には出さない。
彼女が何かしたというよりも彼女の行動と言葉に勝手に救われて勝手に恩を感じ、勝手に報いたいと思ってるだけでしかない。
「キミにとっては些細なことだったのかもしれないけど、俺は確かに救われたんだ。
だから、いつかこの恩を返させてほしい」
「身に覚えのない恩返しっ!?」
オーバーリアクションの反応を見てやはり冗談だと思っているなと苦笑する。
そう思うのも無理はない。
友達ですらなく、たまに話すだけの存在に急にこんなこと言われても困惑してしまうのは当然である。
引かれなかっただけマシだ。
「まあ、恩返しというのは大げさかもしれないけど、もし困ったことがあれば言ってほしい。
できる限り力になるよ」
全く大げさなつもりはないが、命をかけてなどと言われても重いだけなので控えめな言い方にしておくくらいは空気の読み方を知っている。
「じゃあ、勉強教えて。
たしか成績よかったよね?」
いきなり言ったところで何もないだろうと思っていたが、驚くほど返答は早かった。
気を遣っているのかと思ったが、冗談を言う声ではなく、本気であることを察することができる。
「成績めちゃくちゃやばいんだけど、他のみんなに頼んでも私にはもう教えたくないって言われてどうしようかって思ってたんだよねー」
随分と軽い物言いではあるが、その実声はどこまでも真剣そのものである。
どれほど切実なのかはわからないが、すぐにでも叶えられる願いであることもわかって少し安心する。
誇る気も起きない事情ではあるが、普段から他にやることもないのと、親に何も言われないために成績は上位をキープしているので学校の勉強程度であれば問題はない。
「うん、いいよ」
まずは些細なことから信頼を積み上げていこう。
いつか彼女に心から頼ってもらえるようにここから始めていこうと、誓いを刻む。
「やったー!」
「じゃあ、図書室でいいか?」
「おっけ、おっけ」
この喜びようはなんだろうと思いながら早速勉強するために場所を移動し始めた俺はこのとき全く気付くことはなかった。
彼女の言った、もう誰も教えてくれなくなったという言葉の本当の意味を理解した。
そう、因果彌という少女はあまりにも勉強というものに向いていなかった。
割と致命的な基礎学力、とんでもなく集中力がなく、物覚えも悪かった。
そんな彼女に一度だけ勉強を教えて終わりにするわけにもいかず、その後毎日のように二人で図書室に通うのが日課となることになるとは、その時の自分には知る由もなかった。
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