2話、あの日、光を見つけた

いつも平気なふりをして無表情で周りに合わせて辛いのに無理矢理取り繕っていたことを覚えている。


辛い。

家に帰りたくない。

学校に行きたくない。

泣いたらダメだ。

俺は強い。


必死に自分を思い込ませて何でもないふりをしている過去の自分がそこにいた。


嗚呼、これは夢だ。

目の前の懐かしい情景にすぐに夢だと気づいた。


明晰夢というものなのか、動くこともできない意識とは裏腹に次々と場面転換をしていく。

 

父親にはどうしてお前は出来が悪いのだと言われて殴られた。

母親は俺には興味がなかった。


中学のクラスメイトからはまるでいない人間かのように扱われる。

こいつは無視していい奴。

殴っても誰も気にしない奴。

 

いつしかそんな暗黙の了解があった気がする。

殴られるのは慣れてたから気にしなかった。


それに、毎日のように殴られてるわけでもなく、病院に行かなければいけないほど強く殴られるようなこともない。

イジメられていたとも言えるかもしれないけれど、ニュースにあるような酷いものじゃなく本当に些細でどうでもいいくらいの思春期の諍いくらいのものだからこそ、教師も周りも誰も気にしていなかった。


見えない人。

透明人間。

映画の通行人を深く気にする人がいないのと同じだ。

 

だから、どうでもよかった。

家でも学校でも俺はそういうモノだって思っていたから。

そうやって俺はいつかいないものとして扱われて流されて生きていくんだと思考を停止していた。


無気力に、空気のようにそこにいるのかも分からないまま生きて、死ぬのだとその時までは思っていた。


鮮明に映し出される過去の記憶。

それはきっと永遠に忘れることはない大切な記憶の断片。

 

「おーい、これ落としたよー」

声に思わず振り向くと、小走りに見覚えのない女子が手を振って追いかけてきた。

自分に話しかけたわけじゃないなと判断してすぐに前を向く。

そもそもこの学校で自分に話しかけるものは教師くらいしかいない。

 

「ちょっとちょっと、何その反応っ!」

ポンと肩を叩かれ、ようやく勘違いではなく自分に話しかけているのだと気づく。

 

「はい、落とし物」

手渡されるスマートフォン。

どうやら下駄箱で靴を履き替える時にポケットからこぼれ落ちていたようだ。

親から緊急連絡用として、ほとんど体裁のために持たされているだけの無用の長物。

数えるほどしか使ったこともない、親の連絡先しか入っていないものだったため、持ってきていたことすら忘れていた。


「ありがとうございます」

感情の籠らない声でお礼を言い、小さく頭を下げる。

この学校で声をかけられたのはいつぶりだろうと些細なことを思いながら再び歩き出す。


家に帰りたくない。

またどこかでギリギリまで時間を潰そう。

家は門限などあってないようなものではあるが、中学生である以上は補導されないように時間を潰す必要がある。

同じ場所にいつもいると通報されかねないため場所選びには注意していた。

 

部活動でも入ればもっと上手く時間を潰せるのかもしれないが、この学校ではいないものとして扱われている自分に部活動などできるはずもない。

 

何をして時間を潰すか。

今日も筋トレかなと、帰り道にある河川敷へと向かい、上着と鞄を置いた。


誰かの影響と言われると今はもう思い出せないが、以前何かで筋肉は全てを解決すると聞いてそれがとても印象に残っているからだろうか。

気づいたら体を動かすことが日常になった。


ネガティヴな気持ちを抱いたらひたすら走れ、体を鍛えろと言っていた言葉がいまだに脳内にこびりついている。


まともに運動すらしていなかった最初はきつかった。

筋肉痛の酷さに辞めようと思ったことは数えきれない。

だけど、体を鍛えている時、筋肉痛の苦痛に苦しんでいる時にいつものネガティヴな感情が薄れていることに気づいた時、ようやく彼らが言っていたことはこのことなのだと気づいた。

 

今となっては腕立て、腹筋、スクワットなど、基本的な筋トレは無趣味の自分にとっては良い暇つぶしだった。

読書も勉強も嫌いではないが、勉強などは父親の影響でやらされている感を覚えてしまい、どうしても家のことが頭から離れない時がある。

そういう時はいつも決まって無心にトレーニングをすることに決めていた。

 

部活もやっていない。

目標もない。

使う機会もない。


無意味だからこそ、トレーニングをしたくなる。

これこそが筋肉が全てを解決するという根源。


きっとこれが誰からも強制されずに自分の意思で決めた唯一のものだからなのかもしれない。

息を切らしながら、また無意味なことを考えていることに気づく。

どこか無心になり切れない。

 

疲れたな。

今日はもういいかもしれない。


終わらせたい。

帰りたい。

 

帰るってどこに?

家に?

帰りたくないんだろう?


トレーニングは楽だ。

帰りたくない家にも帰りたいと思わせてくれるから。

 

「ダメだな」

今日は雑念が多すぎた。

きっと、珍しいことがあったからだと落とし物を拾ってくれた女の子を思い出す。

無駄な思考だと頭を切り替えようとしたとき、ふと伸びた影に視線を向ければ図ったかのようなタイミングでそいつがいた。

 

「あ、気づいた」

何でここにいるんだという疑問を飲み込み、鞄と上着を持って立ち去ろうとするが、腕を掴んで止められてしまう。

 

「無視しないでよ」

「俺に話しかけていたと思わなかった」

スルリと意識せずに出た言葉がこれである。

コミュ障極まりないことは自覚はあった。

 

「いや、ここキミしかおらんやん」

こちらの切り返しを冗談だと思ったのか、笑いながら突っ込まれる。

 

「ここ私も帰り道でさ、前から何度もここで走り込みとか筋トレしてるの見かけてたんだけど、なんでそんなに鍛えてるの?」

 

「何も考えたくないから」

一言でいえばそれだけの理由である。

特に意味も何もない。

 

「えー……想定外の回答なんだけど、それでなんで筋トレなのか全然意味わからんわー」

 

「無心になれるならなんでも良いんだよ。

でも、どうせなら無駄にならないことをしておこうって思って筋トレしてただけだから」

きっとこれも久々の会話で興が乗っただけなんだろう。

いう必要もない、誰にも言ったことがなかった理由を思わず口にしていた。

 

今日はもう帰ろう。

結局は帰らなければいけないのだからと、自分に無理矢理言い聞かせて女子の横を通り過ぎる。

今日初めて会った知り合いですらない人間に挨拶は不要。

もう二度と関わることはないだろうと無言で歩き出す。

 

「あ、ねぇ、ちょっと!

帰るの?

ねぇってば!」

振り向かず、聞こえていないフリをして歩く。

本当に今日は珍しい日だ。

久しぶりに透明人間から人間に戻れた気がした。


「はぁ、まぁいっか。

またね。バイバイ」

 

とても懐かしい大切な記憶だった。

彼女と初めて関わった日。

これがきっかけ。

 

きっと、この日から俺の心は彼女に救われていたのかもしれない。

このときの俺はまだ誰かに自分という存在を見てもらえる喜びを理解できていなかった。


本当に懐かしい、いろいろなことを思い出させてくれる回想だった。

世界から彼女を守ると決めた。


意識が、夢から覚めかける感覚がする。

永遠に眠っていたいと思わせる深い微睡。

眠ってしまえばもう二度と戻ってこれないかもしれない。


もういいだろうと、己の裡なる本音が囁く。

彼女のために死にたかったんだろう?

目的は果たしたじゃないかと、死にたがっている心が深いところへと手招きしている。


どうせお前がいなくなっても誰も気にしねぇよ。

本音が湧き上がる。

きっとこのまま目覚めなければ楽なんだろうなと、そんなことを思う。


だからこそ、この夢はきっと守る意思を強く持つための、原点を思い出させる無意識の発露なのだろう。

いや、"あの声に"見せられているのかもしれない。


思いだせ。

思いだして起きろと、言われた気がしてならない。


だとしたら効果覿面すぎて殺したくなる。

わかっている。

今さら楽になんてならねぇよ。


俺は彼女に泣いて欲しくない。

この気持ちに嘘なんてない。

だから起きろ。

俺の……つかね収護しゅうごの命はそのためにあるのだから。


「そんな泣くなよ」

ゆっくりと目を開けるとそこには涙で化粧が崩れてグチャグチャな顔をして覗き込む彼女がいた。


「お前が無事ならそれでいいんだから」

呼吸器が邪魔で声が出しにくい。

でも、庇われたことで自分を責めて欲しくなかった。


彼女には笑顔が似合うから。

俺のことなんかで影を落として欲しくなんてない。

 

「ばがぁ!!!

私だけ無事でどうずんのよ!」

私の気持ちを考えてよぉ」

ボロボロととめどなく溢れ出す涙を見てその優しさが嬉しくなった。

自分のような者にもこんなにも泣いてくれることがたまらなく嬉しかった。

 

こんなにも優しい人を守ることが出来るができてよかった。

俺は心からそう思うことができた。

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