合羽の少女

 梅雨の時期になると、俺は毎朝最寄り駅まで傘をさして歩く。駅に着いたら傘の水滴を払い、いつもの通勤電車に乗りこむのだ。自然のことだから仕方ないとはいえ、少し憂鬱な季節だ。


 会社で仕事をこなした後は、反対方向の電車に乗って帰宅する。幸いにして残業する機会は多くないので、たいてい十八時頃には最寄り駅に到着するのがほとんどだ。駅を出たら再び傘をさし、自宅へと帰る。これが俺のルーティーンだ。


 そんな生活を繰り返していた、梅雨のある日の帰り道。俺はいつものように最寄り駅で電車を降り、改札を出る。駅舎の外に出ようとしたその瞬間、後ろから呼び止められた。


「ねえ、パパ」

「へっ?」


 聞こえてきたのは、今にも消えてしまいそうなか弱い声。思わず振り向くと、そこにいたのは合羽を着た一人の少女だった。その子はフードを目いっぱい被っており、目元ははっきりと見えない。傘を二本持っているようだが、誰かを待っているのだろうか。


「パパ、早く帰ろうよ」

「誰かと間違えてるんじゃないかな、お嬢さん」

「間違えてないよお。パパのこと忘れるわけないじゃん」


 当然だが、俺に子どもはいない。こんな雨の日に子どもに迎えに来てもらえるなんて、世の中には羨ましい父親もいたもんだ。けど、この子はなんだか得体の知れない感じで気味が悪い。ここは適当にあしらうとするか。


「すまない、急ぐんだ。迷子なら駅員さんに言うんだよ」

「あっ、ちょっと」


 俺は素早く傘をさし、足早に駅を立ち去った。こんなこともあるもんなんだな、怖い怖い。とにかく早く帰って、このことは忘れることにしよう。


 それからしばらくの間、例の少女は現れなかった。あれはいったいなんだったんだろうなあ。父親の顔を間違えるなんてこと、そうそうあり得ないと思うのだが。まあ、梅雨という季節が生み出した妖怪とでも思うことにしよう。


 そして――それからしばらく経ったある日。間もなく梅雨も明けようかという頃だったが、その日はあいにく午後から雨になった。帰りの電車を降りた俺は改札を出て、鞄の中から折り畳み傘を取り出す。……その時、駅の出口に見覚えのある少女が立っていることに気がついた。相変わらず合羽のフードを深く被り、傘を二本持っている。俺はさりげなく通り過ぎようとしたのだが――再び声を掛けられた。


「ねえ、パパ」

「な、なんだい?」

「早く帰ろうよ」


 少女はか細い声を出しながら、俺のジャケットの裾を掴んでいた。何かを懇願するように、じっと俺の瞳を見つめている。……けど、この子は俺の子じゃない。


「お嬢さん、僕は君のパパじゃないってば」

「違うよ、パパだよお」

「誰かと間違えてるんだろう? お家の人は?」

「……だから、パパはパパだもん」


 なかなか収拾がつかなくなってきたな。駅の出口で押し問答しているもんだから、他の通行人からの視線が一気に集まっているのを感じる。


「とにかく、僕はパパじゃない。迷子なら駅員室に行こう」

「だからあ、早く帰ろうよパパ」

「あ~~も~~」


 どうしたもんかと頭を抱えていると――ホームに次の電車が入ってきたようだ。電車のドアが開き、どやどやと人の波が改札を通り過ぎていく。


「すまない、じゃあ!」

「あっ、待ってよパパ!!」


 駅構内が混雑してきたのを利用して、俺は一気に少女のもとを離れた。あんな気味が悪いのに構っていたら何が起こるか分かったもんじゃない。……けど、少し気がかりだな。俺は駅舎から数十メートル離れたあと、そっと後ろを振り向いてみた。


 そこにあったのは、例の少女から傘を受け取る男の姿だった。何やら会話を交わしているようだし、本当の父親らしいな。なあんだ、安心した。本当に俺のことを間違えていたみたいだな、良かった良かった。俺は再び前を向き、自宅の方へと歩を進めていった。


***


 それから数日後――アパートの隣人が逮捕された。容疑は児童虐待。まだ幼い娘にろくに食事も与えず、学校にも行かせていなかったらしい。俺はそもそも隣の住人が親子だとは知らなかったので、とても驚いた。


 ふと、ここ最近のことを思い出した。俺はどうしてでいられなかったんだろうか。あのまま傘を受け取っていれば、あんなことにはならなかったのにな。


 間もなく梅雨が明け、皮肉にも空は晴れ渡っていた。俺は二度と現れることのない合羽の少女に思いを馳せながら、傘を持たずに会社へと向かうのだった。

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次の日曜に会いましょう【ホラー短編集】 古野ジョン @johnfuruno

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