第7話


 夏休みを目前に控えた七月の半ば、ひなたくんが倒れた。

 放課後、一緒に帰っているときだった。歩いていたら突然、ひなたくんは地面に吸い込まれるように、静かに私の視界から消えた。

 私は倒れるひなたくんを前に、呆然と立ち尽くした。

 幸い人通りが多い駅前だったため、すぐに交番の警察官が駆けつけて、ひなたくんを救護してくれた。

 私はなにもできないまま、救急車で運ばれていくひなたくんを見送った。

 ひなたくんと過ごす中で、ひなたくんの病がどういうものなのかを、私はちゃんと理解していたはずなのに。

 いざそのときになったら、足がすくんでなにもできなかった。無能なじぶんに愕然としながら、私はひなたくんが運ばれた大学病院へ向かった。

「愛来ちゃん……? あなた、愛来ちゃんでしょう?」

 待合室の椅子に座っていると、見知らぬ女性に声をかけられた。少し恰幅のいい、優しげな雰囲気の中年女性だ。

「もしかして、ひなたくんの……」

 震える声で訊ねると、女性はくしゃっとした笑みを浮かべて、うんうんと頷いた。ひなたくんの面影が滲む優しげなその顔に、涙がじわりと滲む。

「あの……私」

「愛来ちゃん、ひなたといつも仲良くしてくれてありがとうね」

 ひなたくんのお母さんの優しい声に、涙腺がさらに緩む。

「私……なにもできなくて……すみません……」

 堰を切ったように泣きじゃくる私を、ひなたくんのお母さんは優しく抱き締めてくれる。

「大丈夫。大丈夫よ、泣かないで。こっちこそ、びっくりさせちゃってごめんね」

 しゃくりあげながら、私はぶんぶんと首を振る。

「……あのね、ひなた、今まだ眠ってるんだけど、もう容態は落ち着いたから、顔見ていってくれる?」

「……はい」

 ひなたくんのお母さんに誘われ、私は病室に入った。

「ひなたくん……」

 白い部屋のベッドで眠るひなたくんは、怖いくらいに青白い顔をしている。

 いつかこうなることは分かっていたはずなのに、ベッドの上にいるひなたくんを見ると、怖くて怖くて仕方がなくなる。

「あの……ひなたくんは……ちゃんと目を覚ましますか?」

 お母さんを振り返る。

「大丈夫よ、先生も、容態は安定してるって言ってたから。目が覚めたら、すぐに連絡させるからね。だからもう、心配しないでね」

「はい……」

 私はもう一度ひなたくんの寝顔を確認してから、大学病院を出た。


 それから二日後、昼休みに何気なくスマホをいじっていると、ひなたくんから連絡が入った。

「この前は突然倒れてごめんね」

 というメッセージに、

「会いに行ってもいい?」

 と送ると、ひなたくんから、

「会いたい」

 とすぐに返信が届いた。

 放課後、私はひなたくんに会いに行くことにした。

 病室に入ると、ひなたくんは起きていた。ベッドから起き上がって「やぁ」と私に手を振る。

 あまりにもいつも通りの笑顔に、私は思わず大きく息を吐いて安堵した。病室であることも忘れて、ひなたくんに駆け寄る。

「ひなたくん、大丈夫なの?」

「いやぁ、ごめんね。びっくりさせちゃったよねぇ」

「本当だよ! めちゃくちゃびっくりしたんだから」

「うん、ごめん」

「…………」

 言葉を探して、でも見つからなくて、黙り込んでいると、ひなたくんが言った。

「あのさ。俺、ずっと愛来に言いたかったことがあるんだ」

「……なに?」

「うん。あ、その前にまずここ座ってよ、ほら」

 ひなたくんに言われ、スツールに座る。改めてひなたくんを見ると、ひなたくんはしとしとと話し始めた。

「愛来はさ、ずっとじぶんの力を呪ってただろ? じぶんのせいで大切なひとが不幸になってるって……。でもそれ、たぶん違うと思うんだ。愛来は、だれかを不幸にしたりなんてしてないよ」

 顔を上げると、ひなたくんの優しい眼差しがあった。

「どういうこと……?」

「愛来はさ、ただ、ひとよりちょっとリアルな夢を見ちゃうだけだと思うんだ。愛来が予知夢を見たから、だれかに不幸が起こるわけじゃない。そうじゃなくて、もともと未来は決まってたんだ。起こるはずの不幸を、愛来はたまたま先に見てしまう、それだけだと思うんだよ。だってさ、未来のことなんてだれにも分からない。愛来がどうこうして、僕たちの未来が決まるわけないじゃない」

「…………」

「それと、もうひとつ。ずっと黙ってたんだけどさ、俺もあるんだ。ひとと違う力」

 そう言って、ひなたくんはしていた手袋を外した。

「俺ね、ものの記憶を読み取ることができるんだ。サイコメトリーとか、残留思念ざんりゅうしねん……っていうやつ?」

 何気なく打ち明けられた真実に、私は目を瞠ったままひなたくんの手を見つめた。

「残留思念……?」

 ハッとした。

「もしかして、いつもしてるその手袋って予防用……?」

「まぁね」

 頷くと、ひなたくんは手を伸ばしてベッド脇の棚からハンカチを取り出した。ひなたくんはハンカチを手のひらに置いて、中身を見せてくれた。中に入っていたものを見て、私は小さく声を上げる。

「それ、私のお守り……」

「うん」

「ひなたくんが拾ってくれてたんだ」

 ハンカチの中にあったのは、失くしたことすら忘れていたお守り。

「入学式のときに、たまたまね」

 ひなたくんは、私のお守りを大事そうに両手で包む。

「……これを拾ったとき、ぜんぶ見えたよ。愛来がこれまでに経験してきた辛いこと、ぜんぶ。俺、それまでずっと、じぶんのことを結構不幸な人間だなって思ってたんだけど、愛来のことを知ったら、感じたことないくらいの悲しみがぶわって胸に溢れてきたんだ」

「ぜんぶ、知ってたの? 私が、本当のことを打ち明けたときも……」

 ひなたくんは頷く。

「黙っててごめん。これも、早く返さなきゃと思ってたんだけど、なかなか言い出せなくて」

 ごめんね、と、ひなたくんはやっぱり困ったように笑った。

 そっか。ひなたくんは同情してくれていたんだ。

「なんだ、そっか……ま、まぁ、そりゃそうだよね」

 ひなたくんは優しいから、ひとりぼっちの私を放っておけなかった。ただ、それだけ。

 私はひなたくんにとって、特別でもなんでもない……。

 すると、ひなたくんは「違うよ」と言った。

「残像の中の愛来は、毎日能面のような顔で学校生活を送ってた。だから、この子の笑顔が見たいなって、そう思ったんだよ」

「笑顔……?」

「うん。二年になって、同じクラスでとなりの席になったときはもう、運命だと思ったよ。神様は、俺とこの子を巡り合わせるために三ヶ月の猶予をくれたんだってね」

「……っ……」

 心がどうしようもないくらいに震え出す。

 生まれて初めての感覚に、言葉が出なかった。

「愛来のお守りを拾ったとき、俺、愛来に救われたんだよ」

「救われた……?」

「そうだよ。残像の中の愛来は、まるで俺を見てるみたいだった。大人ぶって、人生も青春も、ぜんぶを諦めて。……俺さ、愛来と仲良くなってから、毎日がすごく楽しくなったんだよ。人生で初めて、生きてるって思えて……同時に、生きたいって強く思えた。最期まで、生きることに執着して足掻いてやろうって」

「ひなたくん……」

「最後の最後に、こんな青春ができるなんて思ってなかったよ」

 最後、という言葉にこめられたひなたくんの強い思いが眼差しからまっすぐ私に伝わってくる。

「……あの日、勇気を出して声をかけてよかった。あのね、俺が死ぬ前にやりたかったことは、本当はたったひとつだけだったんだよ」

「なに……?」

 訊くと、ひなたくんはにこっと笑う。

「愛来の笑顔を見ること」

 その瞬間、じぶんでも驚くほど、顔が熱くなった。

「そ、そんなの、いくらだって……」

「無理だよ。だって愛来、あの頃ぜんぜん笑わなかったもん! マジで能面だったからな」

「そんなこと……!」

「あるってば」

「……う」

 言葉に詰まると、ひなたくんはくすりと笑った。

「でも、話してたら、笑顔だけじゃダメだった。ぜんぜん足りなくなって、もっと愛来のこと知りたくて、もっと仲良くなりたくて……気付いたらめちゃくちゃ欲張りになってた。俺って案外肉食系だったんだなーって。今さらながら、じぶんにびっくりだよ」

「肉食系って」

 ぷっと思わず笑うと、ひなたくんも嬉しそうに笑った。今までとは違う少し弱い笑い方に、病魔が彼を蝕んでいることを実感する。

「……ねぇ、愛来」

「……なに?」

 震えそうになる声をなんとか抑えて、私はひなたくんを見た。

「俺、愛来のことが好きだよ」

 息が詰まった。

 ひなたくんは、青白い顔で、少し、弱い口調で、でもしっかりと眼差しはこちらを向けて、言った。

「最初は、笑ってくれたらいいなって、本当にそれだけだったんだけど。でも、いつの間にか大好きになってた。愛来がほかのやつと仲良くなってくの見て、嬉しいけどちょっと寂しかった」

 心が決壊した。涙が次々にあふれて、私の頬を流れていく。

「……もう死ぬっていうのに、こんなこと言ってごめん。告白もそうだけどさ、俺、ずっと、愛来にありがとうって言いたかったんだ。絶望してた俺に、最後に青春をくれて、生きたいと思わせてくれて、ありがとう」

「大袈裟だよ……っ」

 涙で言葉が途切れ途切れになる私を、ひなたくんは、木漏れ日のような優しい眼差しで見つめる。

「大袈裟なんかじゃないよ。俺にとって、愛来はそれくらい大きな存在だったの」

「私だって……ひなたくんのおかげで毎日がまるきり変わった。私もふつうを楽しんでいいんだって、毎日を楽しいんでいいんだって、初めて思えた」

 きっと、ひなたくんと出会ってなかったら、私の毎日はあの頃のまま、すべてを遠ざけて、すべてを諦めたままだったと思う。

 足元を見る。

 私の足首には、ひなたくんが編んでくれたひだまり色のミサンガがある。

 見ただけで、心がぽかぽかしてくるのはなんでだろう。

 見ただけで、涙が出そうになるのはなんでだろう。

「……このミサンガ、連れてってもいいかな」

「え……?」

 顔を上げると、ひなたくんが言った。

「一緒に、天国に」

 もう声にならなかった。

 ほぼ嗚咽のような「うん」を返すと、ひなたくんは眉を下げて小さく笑った。

「……もう泣かないで」

 ひなたくんが私の頬に、そっと手のひらをつける。触れ合った皮膚から、あたたかさが染みてくるようだった。

「俺は、愛来の笑った顔が好きだよ」

「……無茶言わないでよ。私だって、泣きたくて泣いてるわけじゃないんだから」

「あれ、そうなの?」

 見ると、ひなたくんはにやっと笑った。その顔に、ん? となる。

「……ひなたくん、もしかして元気だね?」

「えへ。バレたか」

「もー!」

 ようやく笑えた。

「そだ。愛来に渡したいものがあったんだった」

「渡したいもの?」

「そこ、開けてくれない?」

「え、私が開けるの?」

「うん。お願い」

 ひなたくんに言われ、ベッド脇の棚の一番上を開ける。中には、小さな包みが入っていた。プレゼント用の袋で、赤いリボンまでつけてある。

「これ?」

「うん。それ、あげる」

「……開けていい?」

「うん」

 袋を開け、中身を取り出す。取り出して、首を傾げた。

「……? なに、これ」

 考えても分からず、ひなたくんを見る。すると、ひなたくんは「え」と少し不服そうな顔をして、言った。

「どこからどう見てもお守りじゃん!」

「……お守り……これが?」

 入っていたのは、ミサンガ用の糸で縫われた不格好な袋だった。

「……マジ?」

「大マジだよ!」

「ふっ……ははっ!」

「おい! 笑うなよ!」

「ごめん、だって……ふふっ」

 ひなたん曰く、これは一応お守りらしい。開け口辺りにあるぐちゃぐちゃっとしたやつは、おそらく水引きをイメージしたのだろう。とてもそうは見えないが。

「…………」

「むー。文句言うならあげないぞ」

 ひなたくんが手を伸ばしてくる。

「あっ、ダメ!!」

 私は慌ててお守りを握ったままくるりと回転し、ひなたくんに背中を向けた。

「まだなにも言ってないじゃん!」

「まだってことは、やっぱり言う気だったんか」

「あっ」

 しまった。いけない、つい本音が。

「言わない言わない! 大切にするって!」

「……まぁ、見た目は悪いかもだけど、効能はきっと抜群だから」

「効能?」

「……うん。それは、持ってるだけで予知夢を見なくなるっていう、愛来専用のお守りだから」

 ハッとして顔を上げた。

「ひなたくん……もしかして、私のためにわざわざ?」

「うん。それを持ってれば、愛来は予知夢を絶対見なくなる! だからもうなにも怖がらずに、たくさんのひとと笑い合えるよ」

 やっと止まったと思った涙が、また溢れ出しそうになる。私は慌てて口を引き結んで、込み上げてくるものをこらえた。

 お守りを両手で握り締める。

「……一生大切にする」

 私の言葉に、ひなたくんは、

「一生はいいよ」と、照れくさそうに笑った。

「私、いつもひなたくんにもらってばっかりだね……」

「そんなことないよ。愛来は俺にとびきりの青春をくれたじゃん。これはそのお礼だよ」

「そんなの、あげたうちに入らないよ。私のほうが楽しんでたもん」

「そんなことないって。……本当に、それは違うよ」

 ひなたくんはそう言って、窓の外を見つめた。

 ひなたくんの視線を追いかけていると、街の中に私たちが通う学校が見えた。四階にあるこの病室は、眺めが抜群に良い。

「……俺ね、愛来に病気のこと打ち明けたとき、実は結構強がってたんだ。心の中ではなんで俺だけって腹立ってた。みんな、適当に生きて、適当に学校に行ってるのに。神様はなんで俺にだけ、こんな理不尽を……って。でも、愛来のことを知って、思ったんだ。もしかしてみんな、平気なフリをしてるだけで、本当は大変な思いをしてたのかなって。家族とか友達とか、勉強とか部活とか……人間関係だけじゃなくても、ほかにもじぶんの中の問題とか、いろいろ」

「……うん」

 そうかもしれないね、と小さく相槌を打つ。

「だとしたら俺は、だれよりも幸せだったよ」

「え……」

「家族にも友達にも不満なんてなかったし、それに、愛来と過ごしたこの三ヶ月半、本当に夢のような時間だったもん」

 ひなたくんが私を見る。

「ありがとね」

 そのありがとねはまるで、物語の終わりに着く句読点のようで。

 私たちの物語が終わることを示しているかのようで、とても、胸が騒いだ。

「なに最後みたいなこと言ってるの……早く学校来てよ」

 私はそう、苛立った口調でひなたくんに言う。

 本当は、分かっていた。

 ひなたくんと出会って、もうすぐ四ヶ月になる。彼の心臓は、たぶんもう限界を迎えている。

 その証拠に、ひなたくんは困ったような顔をしている。

「学校かぁ……そうだな、もう一回くらい、行けるように頑張ってみようか」

「……ぜったいだよ」

「はいはい」

 無茶を言っていることは分かっている。ひなたくんに対して、残酷なことを言っていることも。……でも、言わずにはいられなかった。

「私、待ってるから……そのとき、ひなたくんに告白の返事するから。だから、ぜったい来てよ」

「なにそれ。ぜったい行かなきゃじゃん」

「そうだよ、だから来て」

「はは、分かった。頑張る」

 困ったような笑い方をするひなたくんを見ながら、私はなにをこんな子どもじみたことを言っているんだろう、とじぶんに呆れた。

「あのさ、ひなたくん」

「ん?」

 ――死なないで。

 そう言いそうになって、咄嗟に唇を噛み締めた。頭の上に、ふわり、あたたかな手が乗った。顔を上げると、ひなたくんが微笑んでいる。

「じゃあ、そのときはまた、卵焼きと唐揚げ交換してくれる?」

 そう、ひなたくんは私に優しい嘘をついた。

「うん、約束ね」

「約束」

 そうして、私たちは「またね」と言って別れた。

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