第42話 ヴァルキリーの覚醒

「具合が悪いか? 申し訳ないが、そういう液体を投げさせてもらった」



 倒れた体のままアレンが言う。この臭いが彼にまで届いているようで、もうほとんど目が開いていなかった。アレンの悪あがき。それが、セレニア様にとって致命傷となり得た。



「くっそ……!」



 悪態をつきながら、セレニア様が窓に向かって短剣を投げる。短剣が直撃した窓はパリンと音をたてて割れた。換気をして液体の臭いを外に逃がすつもりだったのだろう。



 だが、あの臭いをもろに吸ってしまった今のセレニア様には意味がなかったようだ。新鮮な空気が窓から入ってくるが、セレニア様の力は戻らない。



「あれあれ。今のは悪手だったんじゃない?」



 しゃがんでいるセレニア様を見てヘンリーがあざ笑う。アレンの投げた液体の臭いが換気されたことでアレンの悪あがきは無効となった。



 だが、それはヘンリーにもあの液体の臭いが効かなくなったということだ。今、この場で自由に動けるのはヘンリーだけとなってしまった。



「終わりだよ、王女様。この国と共に死にやがれ」



 ヘンリーがセレニア様に切っ先を向ける。もうセレニア様には武器もないし、抗う余力もない。今度こそ絶体絶命だ。それなのに、セレニア様は諦めていなかった。



「死なねえよ……なんせこっちには、優秀な近衛騎士がいるんだからな」



「は?」



 ヘンリーがいぶかしい顔になる。この場にいる近衛騎士といえば、ヘンリーに易々と切られたこの私だ。それにヘンリーは、私のことを「騎士の穴」というくらい見下している。



 そんな私を、この期に及んでセレニア様は「優秀な近衛騎士」というのだ。ヘンリーにとって片腹痛い話だっただろう。けれどもセレニア様は信じている。私がまだ、戦えるということに。その思いに応えるよう、私は息を吐いて拳に力を入れた。



 剣を握れ。そして立ちあがれ。護るのだ。人を切れないと知りながらも、それでも私のことを信じてくれている彼のことを──心の底から「護りたい」と思った、彼のことを。



「……ん?」



 私の異変に気づいたヘンリーがこちらに顔を向ける。流れ出る肩の血を押さえながらふらふらで立ちあがる私の姿は無様だったに違いない。だが、その右手に握られていた剣の鞘は抜かれていた。



「まだ……勝負は終わってないぞ」



 銀色の刃がギラリと光る。その光る剣を構えながら、私はヘンリーをにらみつけた。



 そんな私の姿を見て、セレニア様がにやりと笑う。



「あいつのあだ名を知ってるか? ……『戦姫ヴァルキリー』だってよ」



 そう言った途端、ヘンリーの肩がぶるっと竦みあがった。彼は感じているのだろう。私から放たれている気迫……いや、殺気を。



「歯を食いしばれよ、ヘンリー!」



 声を荒らげながらヘンリーに突っ込む。その速さはヘンリーからすれば一瞬のことだっただろう。慌てて振り向いて剣を構えたが、もう遅い。私の「胴打ち」はとまらない。



「うぉぉぉぉ!」



 私の雄たけびと共に放たれた斬撃はヘンリーの脇腹上部へと直撃した。その勢いに吹っ飛ばされたヘンリーが床に転がり、壁へぶち当たる。



 私の斬撃はヘンリーに当たった。だが、彼は血を一滴も流していない。その代り、肋骨を押さえながら悶えている。今の一撃で肋骨が何本か逝ってしまったのだろう。この感覚は私も覚えている。なんせ、前にもこうして人の肋骨を折ったことがあるのだから。



 血は流れていない。それでもヘンリーは負傷している。この事態に頭が追いついていないのか、セレニア様が目を丸くしながらキョトンとしていた。彼は思っているのだろう。「あんな一撃を受けてどうしてヘンリーは死んでいないのか」と。



「ごめんなさい、セレニア様……やっぱり私には、彼を切れませんでした」



 白状しながら、わざとらしく手首をスナップさせる。



 私は彼に剣を振るった瞬間に手首を曲げて刃を逃したのだ。彼が当たったのは剣身。つまり、今の攻撃は斬撃でなくて打撃だった。それでも自分の力はよくわかっているつもりだから、この一撃でヘンリーが戦闘不能になることも予想できた。肋骨が折れたのだ。しばらくは動けないし、剣も握れないだろう。



「くっそ……ここに来て形勢逆転かよ……」



 ヘンリーがうずくまりながら、悔しそうに歯を食いしばる。立ちあがろうと踏ん張ってみるが、どうやら痛すぎて力が入らないらしい。当然だ。肋骨が折れているのだから、呼吸するのもつらいはず。



 確かに彼はチェックメイト寸前だった。彼の敗因はただひとつ。私のことを見くびっていただけ。私の実力を目で見て知っていたのは、他ならぬヘンリーだったというのに。



「よくやった、セナ……あとは、俺がやる」



 と、座り込んでいたセレニア様が落ちていたヘンリーの剣を拾って杖代わりにして立ちあがった。



 よろよろとしながらセレニア様がヘンリーの前に佇む。ヘンリーはなんとか体を起こしたが、立ちあがる力はないらしく、壁に背もたれまま座り込んだ。



 セレニア様が剣の切っ先をヘンリーに向ける。その手はアレンの劇薬の影響でガクガクと震えていたが、刃はしっかりとヘンリーに向けられていた。余力を使ってヘンリーにトドメを刺すつもりだろう。ヘンリーもそれをわかっているから、刃を見つめたまま力なく笑っていた。

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